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「ノ・ムヒョン大統領への手紙(「3・1演説」を読んで)」
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「紙上討論」について

旧2年C組(つづき)
<沖縄タイムス> 2004年5月14日
「靖国参拝訴訟こんなに判断が違っては」

 「同じ憲法の下でなぜ、これほど違う判断が出るのか、理解できない」原告のもらした言葉は、揺れる司法の姿を言い当てたものといえる。
 小泉純一郎首相の靖国神社参拝を問う訴訟で、大阪地裁(吉川慎一裁判長)は、参拝を首相の私的行為と初の判断を示し、憲法判断には踏み込まず原告の損害賠償請求を棄却した。同様の訴訟は六地裁で七件あるが、今回の大阪地裁を含め言い渡された四判決の違いはあまりに大きい。四件とも原告の請求を退けたことでは一致する。だが憲法判断や公的か私的かの「事実認定」で異なっている。
 憲法判断に踏み込んだのは四月の福岡地裁のみで、参拝を首相の職務執行と認め「政教分離の原則に反する」と違憲判決を出した。二月の大阪地裁、三月の松山地裁はともに憲法判断はせず、参拝について前者は「首相の資格」と“公的”、後者は公私の区別を示さなかった。
 公的判断には首相の公用車利用などが根拠とされたが、今回の判決は「国の関与は公用車利用と秘書官の同行にとどまる」と逆の解釈を引き出した。さらに参拝は個人の宗教的動機によってなされ、首相の地位にあることのみから職務行為とみなすことはできない、と「私的」判断を示した。
 しかし福岡判決のように、一般人の評価や社会的影響から「公的」と見ることが、社会常識に照らしても妥当ではないのか。今回の訴訟には初めて台湾の先住民族百二十四人が原告団に加わった。戦時中、「高砂義勇隊」として従軍し、靖国神社に合祀されている。判決は、原告らが神社側に求めた合祀取り消しが拒否されたことを認めた。だが首相参拝で原告らが戦没者を祭ることを圧迫したことは認められないとし、靖国神社によって「原告の法的利益は侵害されていない」とした。
 原告団は控訴する方針だ。植民地時代の「負の歴史」を問う原告らの声に裁判所は積極的にこたえ、憲法の番人として判断を明確に出すべきだ。

<神戸新聞>
首相の靖国参拝 兵庫県内でも評価二分  2002/04/22

 戦争による死者を、どう悼むか―。小泉首相の靖国神社参拝は再び、重い問いを投げ掛けた。首相の決断に対し、兵庫県内の関係者の間でも、受け止めは分かれた。
 「有事関連法が取りざたされている中での参拝。戦争への道を再び歩むのではないかと、内外から疑われかねない」 こう反発するのは、首相の靖国公式参拝を違憲として国に損害賠償を求めた「播磨靖国訴訟」(一九九三年に敗訴)原告の一人だった、姫路和光教会牧師の渡辺建治さん(61)=姫路市飾磨区。「信教の自由は保障されるべきだが、首相の場合、影響力の大きさから、私的な立場での参拝はあり得ない」とし、「八月を避けても、問題の本質は全く変わらない」と批判した。
 九月には、日中国交正常化三十周年を迎える。日本中国友好協会で五十年にわたって活動してきた兵庫県連の宗田弘会長(72)は「空襲などで亡くなった一般市民を悼むことにはならない。兵士と同じように前線で命を失った従軍看護婦も奉(まつ)られていない靖国への参拝は、どんな理由を付けても許せない」と憤る。
 一方、県内に約二万人の会員を持つ兵庫県遺族会の徳土喜一会長(74)=神戸市須磨区=は、今年の参拝が終戦記念日を避け、春か秋の例大祭になるのでは、という話を耳にしていたという。「われわれが望んできた八月十五日ではなくても、総理大臣として参拝したことには意義がある」と歓迎。「英霊と遺族に示された思いを受け止めたい」と話していた。 父親や叔父が靖国神社に奉られている西宮市議会議長の蜂谷倫基市議(71)=西宮市大谷町=も肯定的な受け止め。「A級戦犯も奉られてはいるが、ほとんどは純粋に国や家族を思い、無念にも命を落とした人々。国の代表が、その先人に礼を尽くすのは当然だ」と評価した。

ノ・ムヒョン大統領演説を読んで。韓国の方々は、昔、日本の支配下に置かれ辛い思いをしたというのに、決して誇りを捨てず、今でも日本との関係をしっかり修繕しようとしています。これは、とてもすばらしいことだと思います。これに比べ、日本には、いまだに政府に右翼的で軍国主義に近いものを掲げ、「日本は良い戦争をした」と事実を隠し、間違ったことを僕たち子どもに教えようとしている人がいる、と先生に教わりました。これは、韓国の方々が、大統領をはじめ、必死に日本との関係を直そうとしているのに、とても失礼なことだと思いました。
 今、日本では「韓流ブーム」と言って、韓国のドラマが人気を集め、莫大な経済効果 を与えていると聞きます。こういうことから広げていって、韓国と日本が仲良くなり、 いつまでも親友でいられるようになればいいな、と思います。
ノ・ムヒョン大統領へ。まず、初めに謝らなければならないことがあります。僕は小さい頃、たとえ近隣であろうとも、絶対に日本人以外の外国の人と話したくありませんでした。でも、歴史を勉強して、僕の心は大きく変わりました。「戦争」「侵略」「虐殺」などを知り、これからは日本以外の人や国と協力をしていかなければいけない、と思うようになりました。僕の学校の近くには、いろいろな国の人がいて、その中には僕が友達になった人もいます。僕が戦争の話をすると「昔に起ってしまったことは、もう、しかたがない。それよりも、これから戦争をなくすために、世界中が力を合わせるべきなんだ。昔のことをいつまでも根に持ってないで仲良くなれればね・・・」と言われました。僕は「僕と君は、こんなに仲がいいじゃないか。それに僕も戦争のことについては、そう思ってるよ。これからは世界中が協力をするべきだよね」と言いました。
 最後に一つ言わせてください。たとえ住んでる国が違っていても、地位が違っていて も、現代は「戦争をしてはいけない」という人が多数を示すでしょう。このような世界 に生まれた僕ですから、少しでも、世界のためになれるように頑張ります。
前回の紙上討論の旧2年C組Jの人へ。サッカー・アジア杯の中国の日本ティームに対 するブーイングのことで「スポーツに政治的なことを持ち込むなんて・・・」と言って いましたが、中国では「スポーツは政治の延長」と考えていると聞きました。なので、 サッカーなどでも、政治的なブーイングをするのも普通なんだと思います。
ノ・ムヒョン大統領演説を読んで。私は、あまりニュースや歴史には興味がなく、歴史についての知識は教科書に載っている程度の知識しかありませんでした。しかし、ノ・ムヒョン大統領の演説を読んだり、増田先生の、教科書の内容にない授業の話などを聞いて、確かに、教科書は日本がしたことを、あいまいに書き過ぎだと思いました。しかも日本は、しっかりとした謝罪・補償(賠償)をしないでいることに、そんなにしてまでも、「自国の名誉」を守りたいのかと、少し、悲しくなりました。日本は、ドイツのように積極的に自分たちが起こした問題の後始末をしなければいけないし、しっかり、後の世代の人たちに伝えていくべきだと思います。
ノ・ムヒョン大統領へ。日本人の全員が悪いんじゃないんです。問題なのは政治家なの です。僕は日本人の一人として大統領の意見に賛成で、おっしゃるようにすべきだと思 います。
10増田先生へ。先生は授業態度が悪い人も、良い人も、同じ評価をするのは不公平だと思 います。


先生から
 正直に言えば「授業中グータラ寝ている(授業態度が悪い)ことが、たいへん多かった、お前が言うかーーー?」(キミは「5割ぐらい寝てた」と言っていますが、私から見たら「8割」は寝てましたね。寝てない時は、うるさくおしゃべり)・・・ですが、きちんと説明しましょう。キミが書いていることによって、私は『増田先生の公平さ』が、誰にでも理解できるのではないかと思いますよ。社会科の評価は4つの観点によって決まることは説明していますね。「1、社会的事象への意欲・関心・態度」「2、社会的な思考・判断」「3、資料活用の技能・表現」「4、社会的事象についての知識・理解」です。『社会的事象』というのは、たとえば『第二次世界大戦』の単元であれば、「第二次世界大戦に関する事象」ということになります。したがって、第二次世界大戦に関して、どれくらいの「意欲・関心・態度」を示したか、「社会的な思考・判断」ができたか、「資料活用の技能・表現」ができたか、「知識・理解」があるか、が評価の対象ということになり、小テスト、定期テスト、ファイル点検、スタディナビ点検という、視力が正常であれば誰にでも具体的に目に見える数値によって、評価を決定することになります。
 だから、キミが、もし、授業中グータラ寝ていて授業態度が悪かったたとしても、小テスト、定期テスト、ファイル点検、スタディナビ点検で、8割以上を獲得していたら「A」,6割以上を獲得していたら「B」,それ以下だと「C」の評価を与えます。キミと違い、授業中、真面目な態度を取っていても、キミのようにグータラ寝ていても、6割を獲得していなければ同じ「C」の評価を与えます。なぜなら、『社会科の評価』は「増田先生の授業」に対する「意欲・関心・態度」「思考・判断」に対して評価をするものではないからです。私は、実は、感情としては、これは非常に悔しいのです。私は、授業中グータラ寝ている生徒(真面目な態度を取らない生徒)には文句なく「C」評価を、授業中真面目な態度を取っている人には「A」評価を与えたくてたまらないのですが(と言って、グータラ寝ていて「B」評価を与えられた生徒は、キミも含めて、通常はありませんけど)、「公平・公正」を重んじる私は、私の感情は殺して、客観的な事実を示す「数値」で評価しています。
 もし、『道徳』=『人間(市民)としての正しいあり方』から評価すれば、授業中グータラ寝ていることも含めて真面目な態度を取れない生徒には文句なく「C」評価を、授業中真面目な態度を取っている生徒には文句なく「A」評価を与えることになりますが、しかし、そもそもが道徳=『人間としての正しいあり方』に「評価」はなじむものではありません。
 また「授業」というのは、日本国憲法下の基本的人権として保障された『教育を受ける権利』に基づくものです。「権利」は「義務」と違い、それを行使するのも放棄するのも、その権利主体の自由意思による自己決定権の問題です。自ら「権利」を放棄することは、分かりやすく言えば、お金をドブに捨てるに等しいことです。そのお金(権利)は、キミが汗水垂らして稼いで得たものではなく、キミの先輩たちが命を懸けて得たものなのですが。『基本的人権』を確立するまでに、どれだけ多くの国の多くの人(日本も例外ではありません)が自分の命を懸けたかを思う時、授業中、おしゃべりをして他の人の授業を受ける権利を侵害することは論外のこと、グータラ寝て、お金をドブに捨てるに等しいことをするとは「本当にオバカ」というしかないのですが、「権利の行使」は「自由」ですので、私は起してあげるために授業を中断して他の人の授業を受ける権利を侵害することはしないことにしています。しかし、もちろん、推奨しているわけではありませんから、間違えないでくださいね。キミ(だけではありませんが)には、多くの国の多くの人が命を懸けて、やっと得られた権利をしっかり行使し、「特別レポート」によってではなく、真面目に授業に取り組んで、実力によって最低評価を免れることを望みます。そして、この国の賢い主権者として成長していってくれることを望みます。