■もくじ・第1章より


第2章 本件戒告処分の違法性

第1 原判決の重大な判断の脱漏
本件戒告処分に理由がないこと、憲法26条によって保障された教育の自由を侵害し旧教育基本法10条1項によって禁止された教育に対する不当支配にあたり違法であることは、控訴理由書及び控訴審におけるこれまでの準備書面で繰り返し主張したとおりである。本最終準備書面においては、これまでの主張を前提としたうえで、本件戒告処分が裁量権の濫用・逸脱にあたり違法であることを特に強調することとする。
原判決は、本件戒告処分が裁量権の濫用・逸脱にあたるという主張に対して、「本件戒告処分は、授業内容を対象としたものではなく、特定の者を誹謗する内容を含む本件資料の作成、配布行為を対象にしているのであるから、前提を誤った原告の上記主張を採用することはできない」(22頁)と説示するのみである。
しかし、控訴人は「前提を誤っ」てはいない。本件戒告処分の処分説明書(甲2号証の2)によれば、処分の理由は、「不適切な文言を記載した資料を作成、使用した。」こととされており、さらに、本件分限免職処分の処分説明書(甲1号証の2)でも、「不適切な教材を、・・・配布して授業を行ったこと」とされており、本件資料(紙上討論プリント)の作成・配布・授業での使用を一体のものととらえている。しかるに、原判決は上記のとおり資料作成・配布行為と授業での使用を機械的に切り離し、前者のみを問題として裁量権濫用・逸脱の主張は前提を欠くというのである。この原判決の立論が全く誤ったものであることは明白である。
また、百歩譲って資料の作成・配付行為を問題とした場合でも、資料作成・配布行為に対してなされた本件戒告処分が裁量権の濫用・逸脱にあたるか否かは、当然に司法審査の対象とされるべきである。すなわち、懲戒処分に当たっては、懲戒処分の要件に当たるか、についても、処分権者の裁量はある(要件裁量)。また、処分の要件に当たるとして、実際に処分をなすか、なすとして、いくつかある処分のうち、どれを選択するか、についても、処分権者の裁量はある(効果裁量)。しかし、要件裁量については、司法審査に適するものであり、厳格な検討が要請されるし、効果裁量についても、前述した比例原則が適用される他、「当然考慮されてしかるべき重要な要素が考慮されていたのかどうかあるいは考慮されてはならない要素が考慮されていなかったかどうか」などの判断過程についての審査がなされる、というのが判例の示すところである。
ゆえに、資料作成・配布行為に対する処分であるがゆえにそもそも裁量権の濫用・逸脱を論じる余地がないなどと原判決が判示しているならば、それは到底成り立たない主張なのである。
よって、原判決が「前提を欠く」などとして裁量権濫用・逸脱にあたるか否かの判断をしなかったことは重大な判断の脱漏にあたる。そこで、以下、最高裁判決における行政裁量の審査の到達点を論じて、本件戒告処分が裁量権の濫用・逸脱にあたり違法であることを明らかにする。

第2 公務員の懲戒処分に関する最高裁判例の趨勢
 1 最高裁判所判決における行政裁量の審査基準

 前述した、要考慮事項の考慮という審査基準は、すでに東京高判1973(昭和48)・7・13行集24巻6・7号533頁(日光太郎杉事件)において示されており、最高裁判所の判決でも用いられるようになった。たとえば、公務員の分限処分に関する【1】最二小判1973(昭和48)・9・14民集27巻8号925頁(長束小事件判決)においても判示されていることは、本書面冒頭に述べたとおりである。
 この判決は、「行政裁量の審査方法として判断過程統制手法(他事考慮・考慮不尽など)が用いられるという法理を確立したもの」と位置づけることもできよう。
 この判決は、分限処分の趣旨から上記判示を導いている。しかし、この判断過程統制手法は、分限処分のみならず懲戒処分においても適用されるべきものである。
 すなわち、【2】最三小判1977(昭和52)・12・20民集31巻7号1101頁(神戸税関事件最高裁判決)も、公務員の懲戒処分について、「当然考慮されてしかるべき重要な要素が考慮されていたのかどうかあるいは考慮されてはならない要素が考慮されていなかったかどうか、その考慮の有無の結果、処分が著しく妥当を欠く結果になっていないかどうか、というような裁量権行使の著しい不合理性を示す事情の有無を中心とし、裁量権の逸脱、濫用の有無を調べる観点から審査を行うべきもの」(同最判の調査官解説)という含意を有しているとされている。
 加えて、【2】判決が、処分の判断過程において「裁量権を付与した目的を逸脱し、これを濫用したと認められる場合」には当該裁量権の行使が違法となる旨を判示している点にも、相応の注意が払われなければならない。たとえば、特定の政党に属する議員の圧力によって懲戒権者が懲戒処分を行ったような場合には、この種の懲戒処分は「裁量権を付与した目的を逸脱」した不正な動機に基づく違法な処分として、【2】判決の基準を用いたとしても、取り消されるべきことになろう。

 2 行政裁量は本来例外的
 ただし、【2】判決は、行政は懲戒処分に当たり幅広い裁量を有するかのように述べる。
 しかし、そもそも、国や公共団体の機関には、それぞれの憲法上の役割に応じて、広範な裁量的判断の余地が認められている。国会には憲法を具体化する際の立法裁量や自律的国家機関としての裁量が認められるし、裁判所には、国民の「裁判を受ける権利」を支えるために憲法・法律および裁判官の良心を基礎とする裁量が認められる。立法権と司法権は、このような憲法上の位置づけに基づいて、広範な裁量権を有するのである。しかし、その裁量権の範囲には一定の限界がある。立法権が憲法上の権利を明白に侵害する立法を行った場合や憲法上の権利行使の機会を確保するために不可欠な立法措置を長期にわたって怠る場合は、違法だと評価されるし、民事訴訟法338条所定の再審事由は、司法権に委ねられた裁量権の範囲の限界を示すものといえよう。
 これに対して行政権は、「法律による行政の原理」(法治主義)という近代立憲主義の原則の下で、例外的に裁量の余地を認められる存在である。行政権の場合には、各々の行政組織は各々の行政目的を与えられているのであるから、裁量権の行使も当該目的に沿うものでなければならず、また、これに即した考慮要素をふまえたものでなければならない。最高裁判例も、こうした観点から、分限免職処分に限らず、裁量権行使を審査してきたのである。

 3 判断過程統制の内容
 判断過程統制とは、裁判所は、行政庁の裁量的判断を審査するためには、処分の判断時点だけではなく、一連の判断の形成と決定の過程に着目しなければならないということである。このことを展開したのが、【3】最一小判1992(平成4)・10・29民集46巻7号1174頁(伊方原発事件)である。
「原子炉施設の安全性に関する判断の適否が争われる原子炉設置許可処分の取消訴訟における裁判所の審理、判断は、原子力委員会若しくは原子炉安全専門審査会の専門技術的な調査審議及び判断を基にしてされた被告行政庁の判断に不合理な点があるか否かという観点から行われるべきであって、現在の科学技術水準に照らし、右調査審議において用いられた具体的審査基準に不合理な点があり、あるいは当該原子炉施設が右の具体的審査基準に適合するとした原子力委員会若しくは原子炉安全専門審査会の調査審議及び判断の過程に看過し難い過誤、欠落があり、被告行政庁の判断がこれに依拠してされたと認められる場合には、被告行政庁の右判断に不合理な点があるものとして、右判断に基づく原子炉設置許可処分は違法と解すべきである」。
「原子炉設置許可処分についての右取消訴訟においては、右処分が前記のような性質を有することにかんがみると、被告行政庁がした右判断に不合理な点があることの主張、立証責任は、本来、原告が負うべきものと解されるが、当該原子炉施設の安全審査に関する資料をすべて被告行政庁の側が保持していることなどの点を考慮すると、被告行政庁の側において、まず、その依拠した前記の具体的審査基準並びに調査審議及び判断の過程等、被告行政庁の判断に不合理な点のないことを相当の根拠、資料に基づき主張、立証する必要があり、被告行政庁が右主張、立証を尽くさない場合には、被告行政庁がした右判断に不合理な点があることが事実上推認されるものというべきである」。
 すなわち【3】判決によれば、裁量基準の設定、調査・審議の態様、判断の前提となる根拠・資料等の内容、行政庁の判断のあり方など、一連の判断の過程について、裁判所は合理性を審査すべきであり、そして、「資料をすべて被告行政庁の側が保持している」場合には、「被告行政庁の側において、まず、その依拠した前記の具体的審査基準並びに調査審議及び判断の過程等、被告行政庁の判断に不合理な点のないことを相当の根拠、資料に基づき主張、立証する必要があり、被告行政庁が右主張、立証を尽くさない場合には、被告行政庁がした右判断に不合理な点があることが事実上推認される」のである。このような“判断過程審査”の方法を本件にあてはめてみると、本件も「[処分の前提となる]資料をすべて被告行政庁の側が保持している」場合に該当するから、被告行政庁の側において、まず、懲戒処分基準の合理性を相当の根拠と資料に基づいて主張・立証する必要があり、被告行政庁がこの主張・立証を尽くさない場合には、被告行政庁がした懲戒処分の判断に不合理な点があることが事実上推認されることになる。このため、裁判実務においても、「訴訟指揮によって、被告[行政庁]側に、処分の根拠や考慮した事情等を積極的に主張することを促しているのが実情である」とされている。

 4 処分の判断過程の効果裁量に関する統制
上記の【1】長束小学校事件判決は、要件裁量の判断過程統制が中心であったが、【4】最二小判1996(平成8)・3・8民集50巻3号469頁(神戸高専剣道実技拒否退学処分事件)は、最高裁が処分の効果裁量の判断過程統制に本格的に取り組んだ例である。
「退学処分は学生の身分をはく奪する重大な措置であり、学校教育法施行規則一三条三項も四個の退学事由を限定的に定めていることからすると、当該学生を学外に排除することが教育上やむを得ないと認められる場合に限って退学処分を選択すべきであり、その要件の認定につき他の処分の選択に比較して特に慎重な配慮を要するものである(前掲昭和四九年七月一九日第三小法廷判決参照)。また、原級留置処分も、学生にその意に反して一年間にわたり既に履修した科目、種目を再履修することを余儀なくさせ、上級学年における授業を受ける時期を延期させ、卒業を遅らせる上、神戸高専においては、原級留置処分が二回連続してされることにより退学処分にもつながるものであるから、その学生に与える不利益の大きさに照らして、原級留置処分の決定に当たっても、同様に慎重な配慮が要求されるものというべきである。そして、前記事実関係の下においては、以下に説示するとおり、本件各処分は、社会観念上著しく妥当を欠き、裁量権の範囲を超えた違法なものといわざるを得ない」。「以上によれば、信仰上の理由による剣道実技の履修拒否を、正当な理由のない履修拒否と区別することなく、代替措置が不可能というわけでもないのに、代替措置について何ら検討することもなく、体育科目を不認定とした担当教員らの評価を受けて、原級留置処分をし、さらに、不認定の主たる理由及び全体成績について勘案することなく、二年続けて原級留置となったため進級等規程及び退学内規に従って学則にいう「学力劣等で成業の見込みがないと認められる者」に当たるとし、退学処分をしたという上告人の措置は、考慮すべき事項を考慮しておらず、又は考慮された事実に対する評価が明白に合理性を欠き、その結果、社会観念上著しく妥当を欠く処分をしたものと評するほかはなく、本件各処分は、裁量権の範囲を超える違法なものといわざるを得ない」。
この判決で、最高裁は、原告の退学処分の不利益性に照らして、被告が代替措置を検討せずに原告を退学処分としたことについて、要考慮事項の不考慮、考慮事実の不適正評価といった考え方に基づいて、懲戒権者が教育的な裁量権の範囲を超えたと認定し、懲戒処分を違法なものと判断した。
すなわち、処分の効果だけに着目した審査では、適切な司法審査の基準を抽出することができないため、処分時の客観的状況、処分庁の判断の合理性に着目することが必要になったのである。
かかる今日的な状況の下で、公務員の懲戒処分に関わる裁量権の司法審査について、効果裁量にも裁判所のコントロールを及ぼし、一定の厳格な審査を行わなければならなくなったのである。
このように効果裁量にも裁判所のコントロールを認めると「裁判所の審理判断の内容は、要件裁量の濫用審査に近似する」ことになり、「その意味では、効果裁量と要件裁量の区別は、現行法の下では相対化」することになる。

 5 判断過程統制の精密化
なお、最近の判例を通覧すると、このような“判断過程審査”にあたっては、裁判所は、他事考慮の禁止はもちろん、要考慮事項の考慮、要考慮事項の適正考慮、裁量的判断の合理性を裏づける具体的事実の確定といった観点からも審査を行うべきものとされている。本件との関連で参考となるのは、要考慮事項を考慮しなかった点で刑務所長の裁量的判断に違法があるとした次の最高裁判決である。
【5】最一小判2006(平成18)・3・23集民219号947頁、判時1929号37頁、判タ1208号72頁(熊本刑務所長信書発信不許可国賠事件)
「監獄法46条2項の解釈上、受刑者のその親族でない者との間の信書の発受は、その必要性が広く認められ、前記第1の要件及び範囲でのみその制限が許されると解されるところ、前記事実関係によれば、熊本刑務所長は、受刑者のその親族でない者との間の信書の発受は特に必要があると認められる場合に限って許されるべきものであると解した上で、本件信書の発信については、権利救済又は不服申立て等のためのものであるとは認められず、その必要性も認められないと判断して、これを不許可としたというのであるから、同刑務所長が、上告人の性向、行状、熊本刑務所内の管理、保安の状況、本件信書の内容その他の具体的事情の下で、上告人の本件信書の発信を許すことにより、同刑務所内の規律及び秩序の維持、上告人を含めた受刑者の身柄の確保、上告人を含めた受刑者の改善、更生の点において放置することのできない程度の障害が生ずる相当のがい然性があるかどうかについて考慮しないで、本件信書の発信を不許可としたことは明らかというべきである。しかも、前記事実関係によれば、本件信書は、国会議員に対して送付済みの本件請願書等の取材、調査及び報道を求める旨の内容を記載したC新聞社あてのものであったというのであるから、本件信書の発信を許すことによって熊本刑務所内に上記の障害が生ずる相当のがい然性があるということができないことも明らかというべきである。そうすると、熊本刑務所長の本件信書の発信の不許可は、裁量権の範囲を逸脱し、又は裁量権を濫用したものとして監獄法46条2項の規定の適用上違法であるのみならず、国家賠償法1条1項の規定の適用上も違法というべきである」。
すなわち、信書発信の許否を判断するにあたっては、刑務所内の規律・秩序の維持や受刑者の身柄確保・改善・更生について生じる障害の蓋然性を考慮しなければ、裁量権の範囲の逸脱または濫用となるのである。
このような【5】判決の判断に照らして本件を考えると、懲戒権者が裁量的判断を行うにあたっては、少なくとも、控訴人に対して戒告処分を行うことが教育公務員組織の規律・秩序の維持にとって必要なものであったのか、そしてまた、控訴人の本件資料の作成、配布、授業での使用が生徒らの社会科の授業にとって何らかの障害を生じさせるものであったのかを考慮に入れなければならない。

 6 教員の教育上の裁量の考慮
 【6】最一小判1990(平成2)・1・18民集44巻1号1頁(伝習館高校事件)は、公立学校教員の教育活動に対して行われる懲戒処分についても、この審査基準を用いたが、教員に広い教育上の裁量を認め、その逸脱の場合を限定することによって、処分の効果裁量の限定を試みた点が特徴である。
「本件における前記事実関係によれば、懲戒事由に該当する被上告人らの前記各行為は、高等学校における教育活動の中で枢要な部分を占める日常の教科の授業、考査ないし生徒の成績評価に関して行われたものであるところ、教育の具体的内容及び方法につき高等学校の教師に認められるべき裁量を前提としてもなお、明らかにその範囲を逸脱して、日常の教育のあり方を律する学校教育法の規定や学習指導要領の定め等に明白に違反するものである……」。「更に、当時の伝習館高校の内外における前記のような背景の下で、同校の校内秩序が極端に乱れた状態にあったことは明らかであり、そのような状況の下において被上告人らが行った前記のような特異な教育活動が、同校の混乱した状態を助長するおそれの強いものであり、また、生徒の父兄に強い不安と不満を抱かせ、ひいては地域社会に衝撃を与えるようなものであったことは否定できないところであって、この意味における被上告人らの責任を軽視することはできない……」。「以上によれば、上告人が、所管に属する福岡県下の県立高等学校等の教諭等職員の任免その他の人事に関する事務を管理執行する立場において、懲戒事由に該当する被上告人らの前記各行為の性質、態様、結果、影響等のほか、右各行為の前後における被上告人らの態度、懲戒処分歴等の諸事情を考慮のうえ決定した本件各懲戒免職処分を、社会観念上著しく妥当を欠くものとまではいい難く、その裁量権の範囲を逸脱したものと判断することはできない」。
 この伝習館高校事件判決は、「特異な教育活動」と並んでストライキ参加を理由とする処分歴等をも含んだ判断であるので、必ずしも生徒らに対する教育活動だけが問題とされたわけではない。とはいえ、最高裁は、この事件に直面して、「教育の具体的内容及び方法につき高等学校の教師に認められるべき裁量」を広範に認め、その逸脱の場合の基準として、重大な法令違反と法益侵害(校内の混乱状態を助長するおそれの強いもの、地域社会に衝撃を与えるようなもの)を示した点は重要である。この【6】判決から言いうることは、教員の教育活動に対する懲戒処分については、教育活動の広範な裁量に鑑み、一般の公務員に対する懲戒処分の場合とは異なり、その教育活動がいかなる教育上の法益をどのように侵害したのかを考慮しなければならないということである。そして、この点は効果裁量に対する比例原則による統制の内容ともなるのである。

 7 小括
最高裁の判例等に関する以上の概観からいいうることは、第一に、資料の作成・配付行為であっても裁量権濫用・逸脱についてはなお司法審査の対象となること、第二に、懲戒処分における裁量権行使の適法・違法を裁判所が審査するにあたっても、要件裁量、効果裁量のいずれについても近年の最高裁が示す判断過程統制の審査に沿うべきだということ、第三に、教育公務員の教育活動に対する懲戒処分の審査については、一般公務員に対する懲戒処分の審査の場合とは異なり、裁判所は、違反行為の教育上の支障という実質的な根拠事実をも検討した上で比例原則を適用し、裁量権行使の適否を判断すべきことである。

第3 本件戒告処分における裁量権濫用・逸脱
 1 教育行政における裁量権の範囲

以上の通り、教育公務員に対する懲戒処分であれば、懲戒権者は、懲戒の対象とされた教育活動による教育上の法益侵害の有無、当該教育活動の教育行政組織に対する影響、懲戒処分に付す必要性と懲戒の程度との均衡などの諸点を考慮しなければならない。
以下、本件戒告処分が懲戒権者の裁量権の範囲を超えまたはその濫用があった場合に該当するか否かを検討する。

 2 要考慮事項の不考慮=控訴人の記載内容について
 (1)古賀都議の発言を批判の対象として取り上げたことの正当性
控訴人は、本件資料において、2004年10月26日の都議会・文教委員会において古賀都議が行った「(わが国の)侵略戦争というのは、私まったく当たらないと思います。じゃ、日本はいったい、いつ、どこを侵略したのかということを具体的に一度聞いてみたい」という本件発言を行ったことを議事録から引用し批判した。都民を代表する立場にある都議会議員の公的発言であるためその影響も大きい上、それまでの控訴人の社会科の授業における姿勢と真っ向から対立する考えであり、身近にもこうした誤った考えが流布されていることの例示としてこれを取り上げたのである。同時に、扶桑社の「新しい歴史教科書をつくる会」の中学校歴史・公民教科書を「歴史偽造主義」と批判した(甲6号証)。生徒らにとっても都議の発言と教科書という身近な材料であり考える材料として適切なものであったといえる。
都教委及び原判決は、この点について十分な検討・考慮を行っていない。
 (2)控訴人の批判には客観性があること
 ア 本件戒告処分においては、控訴人が、前記古賀都議の発言や扶桑社の出版する「つくる会」の歴史教科書の出版社を「国際的には恥を晒すことでしかない歴史認識を得々として嬉々として披露している」、「侵略の正当化教科書として歴史偽造で有名な扶桑社の歴史教科書」「歴史偽造主義者達」と批判したことがその理由とされている。控訴人は、原審において、上記控訴人の批判が間違っている(根拠のない「誹謗」ないし「悪口」にあたる)というのであれば、被控訴人らはどこがどう間違っているのかを明らかにし、被控訴人らの歴史認識を提示すべきであると繰り返し主張した。しかし、被控訴人らは、「歴史認識を述べる立場にない」と逃げ、ついに被控訴人らの歴史認識を明らかにしなかった。
原判決も、それと全く同様に、控訴人の上記批判について「客観性なく決めつけ」と論難するだけで、客観性を欠くという根拠・理由について何ら述べようとしない。「客観性を欠く」というのであれば、当然、その「誹謗」と「批判」の判断基準・定義を客観的に示し理由・根拠を述べるべきである。
  イ 控訴人は、原審において古賀都議発言や扶桑社の歴史教科書に対する上記批判が決して控訴人の個人的主観的見解ではなく、客観性を有することについて、根拠を示して主張した(甲31ないし37、甲39ないし甲41、甲45ないし49、甲52ないし56、甲86号証等、原審準備書面(7))。以下にそのいくつかを再論しておく。
 古賀都議の本件発言を批判した控訴人の歴史認識とその実践は、日本政府がことあるごとに公に表明してきた立場に基づいており、十分に客観性を有する。
@ 近くは、2005年4月22日、折からの激しい対日批判が浴びせられる中、バンドンで開かれた「アジア・アフリカ首脳会議」における当時の小泉首相の演説である。
「・・・我が国は、かつて植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大な損害と苦痛を与えました。こうした歴史の事実を謙虚に受けとめ、痛切なる反省と心からのお詫びの気持ちを常に心に刻みつつ、我が国は第二次世界大戦後一貫して、経済大国になっても軍事大国にはならず、いかなる問題も、武力に依らず平和的に解決するとの立場を堅持しています。今後とも、世界の国々との信頼関係を大切にして、世界の平和と繁栄に員献していく決意であることを、改めて表明します。」
A そして、少し遡れば戦後50年にあたっての村山首相談話がある。
「いま、戦後50周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。敗戦の日から50周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。」
 国を代表する両首相の演説に表された歴史認識は、1995年=戦後50年と2005年=戦後60年に行われた次の国会決議に準拠していることがわかる。
B「・・・世界の近代史上における数々の植民地支配や侵略行為に思いをいたし、我が国が過去に行ったこうした行為や他国民特にアジアの諸国民に与えた苦痛を認識し、深い反省の念を表明する。我々は過去の戦争についての歴史観の相違を超え、歴史の教訓を謙虚に学び、平和な国際社会を築いていかなければならない。本院は、日本国憲法の掲げる恒久平和の理念の下、世界の国々と手を携えて、人類共生の未来を切り開く決意をここに表明する。」(戦後50年・歴史を教訓に平和への決意を新たにする国会決議)
C「・・・われわれは、ここに十年前の「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議」を想起し、我が国の一時期の行為がアジアをはじめとする他国民に与えた多大な苦難を深く反省し、改めて全ての犠牲者に追悼の誠を捧げるものである。政府は、日本国憲法の掲げる恒久平和の理念の下、唯一の被爆国として世界の全ての人々と手を携え、核兵器などの廃絶、あらゆる戦争の回避、世界連邦実現への道の探求など、持続可能な共生の未来を切り開くための最大限の努力をすべきである。」(戦後60年国会決議)
  ウ このように、日本政府のみならず国権の最高機関たる国会においても日本の植民地支配と侵略戦争について、それを事実として認定し、それに対する真摯な反省を表明している。控訴人の教育実践は、この日本政府(国)の公の見解と歴史認識をそのまま具現化したものであって、なんら非難されるべきところはない。
 逆に、この目本政府(国)の公式見解と歴史認識から大きく逸脱し、客観性を有しないのが、古賀都議の「(わが国の)侵略戦争というのは、私まったく当たらないと思います。じゃ、日本はいったい、いつ、どこを侵略したのかということを具体的に一度聞いてみたい」という前記の公的発言であり、「新しい歴史教科書をつくる会」著作の中学校歴史・公民教科書(扶桑社刊)である。
  エ 扶桑社とつくる会教科書への批判が客観性を有することについて
 被控訴人らは、控訴人が批判した扶桑社の中学校歴史教科書(以下「つくる会」教科書という)について、文部科学省の検定に合格したものである、と主張し、本件プリントが都議会議員と扶桑社を「誹謗」し、控訴人の歴史観を生徒に一方的に押し付けている点が問題である旨主張する。確かに「つくる会」教科書は検定に合格しているとはいえ、検定自体に問題がある(家永教科書裁判においては、最高裁によって「検定違法」が少なくとも4か所認定されている)うえ、検定によっても同教科書の根本的問題は何ら改善されていない。
 現に、「つくる会」にとって2回目の採択にあたる2005年には、各教育委員会のみならず首長や地方議会にまで採択するよう働きかけたにもかかわらず、歴史教科書は0.43%、公民教科書は0.21%の採択率にとどまった。「つくる会」の関係者は、「シェア10%を目指した2005年の教科書採択で惨敗。戦犯探しが始まり、つくる会はガタガタになった」と述べた。さらに、ほかならぬ扶桑社自身が、2007年5月、「各地の教育委員会の評価は低く、内容が右寄り過ぎて採択が取れない」と認め、既にこの教科書をもう発行しないと決定したことを社会的に公表していることからも明らかである(甲47:AERA「新しい教科書」最終章)。
 オ さらに、原審において提出した多くの前記書証を検討すれば、扶桑社の歴史教科書が客観的にみて誤りが多く大きく偏向していることは明らかである。
 原判決の、控訴人の上記批判が「客観性を欠く」という非難は失当であり、上記批判が客観性を有することについて十分な検討・考慮を欠いている。
 (3)誹謗と批判の区別の不明確性、恣意性
  ア 大江近の尋問の結果
原審における証人尋問において、「批判」と「誹謗」の判断基準について述べた者は、都教委の下で戒告処分に関わった者としては、大江近がいる。
同人は、控訴人の戒告処分当時、都教委義務教育心身障害教育指導課長であり、2005年当時、古賀都議から呼び出された者であり、同年8月30日の戒告処分をするために千代田区教委の酒井と連絡を取り合っていた。同人は、「批判」と「誹謗」の判断基準は「常識」「社会常識」であると証言した。しかし、それが本当に「常識」であるという客観的事実を挙げての証明はなされていない。
その調書によれば、以下の通りである。
「今、あなたが読み上げた部分全体についてそれは悪口であると、こういうことで問題にされたのですか。
はい。そのとおりでございます」
ところで、教師が授業で使う教材について、たとえばそれが悪口に当たるかどうか、問題があるかどうか、そういう判断をするにあたっての何か客観的なガイドラインとか、あるいは基準を示すような文書、通達等は都とか区にはあるのですか
ございません」(大江21頁)

「私は悪口に当たるかどうかの判断が、客観的な基準がないと、恣意的な判断に流れる恐れがあるんじゃないかと聞いているんです。
そうは思いません。常識です。」(大江22頁)

「どういう違いを込めて、あなたは誹謗するとか悪口言うというふうにおっしゃってるの」
主観ではございますが、誹謗はやはり悪口でございまして、批判というのは意見が違うということだと思います」(大江25頁)

この大江の定義にしたがえば、控訴人の二つの文言は「意見が違うこと」であるから「批判」であり、悪口である「誹謗などではない」と言える。大江は、ここで「『正当な批判』と『許されざる誹謗』について、何ら客観的基準は無く「恣意的な判断に流れる」ということを自白しているのと同然である。
そのため、大江は、ついに「『正当な批判』という意味が理解できない」と以下のように自白する。しかし『正当な批判という意味が分からない』者のいう「誹謗」というのは一方的な見解に過ぎず、およそ客観的な根拠による判断とは認められない。
「理由や根拠に基づいた正当な批判であればいいんでしょう。理由のない悪口、誹謗だから駄目なんでしょう。
  正当な批判という、意味が分からないです。」
理由や根拠に基づいた正当な批判。
  正当な批判と正当じゃない批判というのはちょっと意味が分かりませんが。」(大江35頁)
  
イ 樋川宣登志の尋問の結果
樋川宣登志は、当時は都教委人事部職員課務担当係長であり、控訴人の戒告処分を起案した。その尋問の結果は、同人の調書よれば、以下の通りであり、批判と誹謗の違いをおよそ理解していない。
「そうすると、とくに個人名を挙げたこと自体が問題なわけではないということですか。
批判の対象に上げられたのが個人の名前だった、個人の名前を批判しているというのが驚いたということです。
そうすると、原告が特定個人や特定の編集者などの法人を批判していることに驚いたと、そういうことですか。
批判…激しい言葉で表現していることに驚きました。」
(樋川14頁)

「先程、批判という言葉を使われたのですが、批判ではないというお考えですか。それとも批判であり誹謗でもあるということですか。
こうやって話している中ではどっちの言葉が出てしまうか自信がないんですけれども、批判というのが、例えば対等な関係で前向きになされるものに対して、誹謗の方は無意味に傷つけたりとか、そういったことがあると思います。今回のこれについては私は批判というよりは誹謗かと思います。
つまり原告の行為は無意味に人傷つけるという認識ですか。
まあ、必要なく、というんでしょうか。はい。」
(樋川22頁)
 この樋川の定義にしたがえば、控訴人の二つの文言は「対等な関係(そのために一方が他方から不利益処分を受けるという恐れのない関係)で前向きになされ」たものであり、古賀や扶桑社を「無意味に」「必要なく」傷つけるものであるという客観的な根拠は何ら示されていないから「誹謗などではない」と言える。
 (4)控訴人の批判は「稚拙な表現で揶揄」にはあたらない
  ア 原判決は、古賀都議発言と扶桑社に対する控訴人の上記批判を「揶揄」であるという。「揶揄」とは国語辞典によれば「からかう」という意味である。しかし、控訴人は、古賀都議発言と扶桑社をからかったのでは断じてない。真正面から批判したのである。そもそも「揶揄」などという言葉は被控訴人らすら使用していない。被控訴人らは「誹謗」ないし「悪口」という言葉を使用してきたのである。そして、控訴人が、原審において、「誹謗」「悪口」には当たらないこと、「誹謗」「悪口」とする判断基準が曖昧であることを繰り返し主張したことから、原判決は「揶揄」と言い換えたものと思われる。
  イ しかし、「誹謗」「悪口」という言葉を「揶揄」に言い換えるという原判決の児戯に等しい小手先細工は全く正当性を有しない。
 本件プリントにおける古賀都議と扶桑社に対する批判は、今日の歴史学の多数意見と政府の公式見解にのっとったものであり十分な根拠を有する。また、「歴史偽造」という表現も、歴史学における論争で使用されることは珍しいことではない。
 たとえば、奈良女子大学名誉教授中塚明氏は、「歴史の偽造をただす」(甲86)の244頁において、「日本では、最近、藤岡信勝東京大学教授(「つくる会」の代表である)らが旗ふりをして、歴史の事実を逆さまに書く動きを強めているが、歴史の偽造は日本が帝国主義国家として登場するきっかけになった日清戦争のときからそうであったことを、この『日清戦史』草案の記述はわれわれに改めて教えた。」と批判している。
 また、同時代社から出版されつつある徹底検証「新しい教科書」シリーズ(全5巻の予定で現在第3巻まで刊行されている)は、扶桑社の「つくる会」教科書を徹底的に批判しようとする試みであるが、その第1巻古代編(甲52)のあとがきにつぎのような記載がある。

「また一つ疑問なのは、なぜ「つくる会」教科書の全面的な批判が、研究者の総力をあげてなされないのかということである。「つくる会」教科書の記述は論ずるほどの価値もないほど、むちゃくちゃなものだというのだろうか。たしかにこの教科書の記述はひどい。雑と言っても良い。だがこの教科書がなした意図的な歴史改変を多くの人が受け入れてしまう危険が、今の日本には存在する。一つには、グローバリゼーションの進展の中で閉塞してしまった日本の状況。ここからの出口を求めて、日本ナショナリズムに走ろうという傾向が強く存在する。そしてこれは日本の歴史を美化しようという衝動を伴う。そしてもう一つは、日本における歴史教育の貧困により、「つくる会」のような意図的な歴史改変を見抜けない、国民レベルでの歴史の知識不足。このような状況を背景にして「つくる会」教科書市販本がかなり売れ、この教科書が実際に教育現場で使用されていく。
 この状況を座視するわけには行かないと思う。間違ったものはきちんと科学的に批判されるべきである。」

 この著者の指摘はまさに正鵠を得ている。上記の記述にある「意図的な歴史改変」という表現と控訴人の「歴史偽造」という表現は同趣旨である。
 上記著作のほかにも「つくる会」教科書を批判するものは、「歴史家が読む「つくる会」教科書」(甲53)、「こんな教科書子どもにわたせますか」(甲54)、「あぶない教科書」(甲55)、「ここが問題「つくる会」教科書」(甲56)など多数ある。これらを通読すれば、控訴人が扶桑社や「つくる会」を歴史偽造主義として批判的に取り上げたことは、歴史認識をめぐる論争として正当、かつ、必要なことであってなんら「揶揄」「誹謗」「悪口」にはあたらない。
 また、本件プリントにおける古賀都議と扶桑社に対する「歴史偽造主義」という控訴人の批判と控訴人が本件プリントにおいて引用した野中官房長官が小泉首相を「歴史から疎んじられる」という表現とを比較した場合、前者は「揶揄」「悪口」「誹謗」にあたり後者はそれにあたらないなどと截然と区別できるのであろうか。また、控訴人の「国際的には恥を晒すことでしかない歴史認識」という批判は「揶揄」「悪口」「誹謗」にあたり、古賀都議らの「こんな偏向教師を許せるか」(甲40)という表現は「揶揄」「悪口」「誹謗」にあたらないというのが「常識」といえるであろうか。
  ウ 以上の通り、原判決は、正しい批判と、「誹謗」「悪口」「揶揄」との違いについて十分な検討・考慮を欠いている。
 (5)本件資料の作成・配付・授業での使用が、教育活動になんら支障を来していないこと
 本件資料の作成・配付・授業での使用は、具体的に社会科の授業の進行に支障を来したという事実は一切認められない。教育活動上の法益侵害があったわけでもないし、教育組織上の支障が生じたわけでもない。この点については被控訴人らも証人尋問において認めている上に、何よりも控訴人の上司である九段中の根深校長(当時)も、陳述書及び証言で認めている。
 そのことを考慮していないことは、戒告処分理由書の起案をした樋川も以下の通り証言している。
「先程、乙ロ第36号証、乙ロ第37号証を示したときに、根深校長からの東京都教育委員会の事情聴取は御覧になってないとおっしゃいませんでしたか。
  はい。
これは御覧にならずに処分をお決めになったのですか。
  はい。」(樋川30頁)

「本件について当該中学校の生徒への影響というようなことを乙ロ第24号証で書かれているのですが、これは悪影響を与ええたというふうにおっしゃりたいんだと思うんですが、具体的に九段中学校の生徒はその当時何名いて、何名の生徒が悪影響を与えられたというふうにお考えになったのでしょうか。
  その辺の人数等は把握していません。
具体的にはどういう悪影響だとお考えですか。
教師が子どもたちの前で授業という上で人を名指しして歴史偽造主義者だと、恥をさらすことでしかないものを嬉々として披露しているという言葉を、教師がそうやって子供に出すということは、人のことはそうやって言ってもいいんだということになると思うんですね。私は教師のすることというのは子供たちはすると思うんですね。教師というのはやっぱり子供たちの、古いかもしれませんが、教師は子供たちの模範でなければいけないと思っていますので、それがいいんだというふうに子供たちが思うことは悪い影響だと思います。
具体的に本件について生徒の方から苦情なりあるいは傷ついたとかそういうようなお話を、証人はお聞きなっておられますか。
  直接は聞いていません。」(樋川24頁)

「九段中の生徒たちの原告に対する手紙というものが甲第20号証から甲第25号証まであって、この中にも紙上討論は非常に有意義だったという感謝の言葉が述べられたりしているんですが、そういったことについては特にリサーチはなさってないんですか。
  はい。
そうすると、九段中学校の生徒がどういう影響を受けたかについて、とくに具体的な調査をなさったわけではないのですね。
  具体的な調査はしていません。
これは原告が研修処分を受けている最中に卒業式があって、保護者から原告に対して紙上討論で学んだことを子供たちは決して忘れることはないでしょう、本当にありがとうございましたというようなことが卒業生保護者一同という名前で出されているんですが、保護者の中でもこういう形で原告の行為を評価し感謝する声があるというようなことについては御存知でしたか。
  いえ、存じ上げません。」(樋川26,27頁)。

 さらに、都教委は、控訴審準備書面(2)において、控訴人の求釈明申立に対して、都教委が問題であるとした記載のある本件教材プリントの回収の指示をしていないと回答した。しかし、「公務員の職全体の不名誉」となり、「不適切」と被控訴人が主張する本件教材プリントの記載が本当に「誹謗」にあたり生徒に悪影響があると考えるならば、本件教材プリントを直ちに回収しなければならないはずだが、それを行っていないこと、回収など考慮にさえ入れていなかったことも、本件教材プリントには実際には生徒に悪影響を及ぼす問題はなかったことが強く推認される。
また、本件資料(紙上討論プリント)における生徒の意見を丹念に読めば明らかであるが、生徒らは、控訴人の問題提起を受けて様々な観点から自己の意見を述べ、討論を深めている。社会科教育として極めて有意義な実践であって、教育活動上の法益侵害があったと認めるに足りる事実はなんら存在しない。
このような教育上の諸要素を考慮せず制裁を加えることは、「考慮すべき事項を考慮せず、考慮すべきでない事項を考慮して判断する」場合(前掲【1】判決、【2】判決参照)に該当するといえよう。本件にみられるこのような歪みは、その結果であるといえよう。
裁量的判断が適法だというためには、最低限、その判断の合理性を裏づける事実がなければならない。前掲【5】判決に関連して述べたように、懲戒処分の根拠資料をすべて懲戒権者(被告、被控訴人)が保持している本件においては、懲戒権者の側において、まず、本件資料の作成・配付・授業での使用によりいかなる教育活動上の法益が侵害されたのかを相当の根拠と資料に基づいて主張・立証する必要がある。あわせて、懲戒権者は、本件資料作成・配布・授業による使用が信用失墜行為に該当する旨の主張を裏づける事実を示さなければならない。被控訴人がこの主張・立証を尽くさない場合には、懲戒権者がした懲戒処分の判断に不合理な点があることが事実上推認されることになる。学説においても「取消訴訟においては、行政庁の当該関係人に対する調査義務の範囲で、処分を適法ならしめる事実が合理的に認定可能であることが説明されなければならず、この説明がないかまたは不十分であるときは、その処分は適法とされてはならない」という理解が大方の支持を得ている。
これらの点を本件についてみると、懲戒権者側は過去の違反事実を羅列するだけで、懲戒処分における裁量の合理性を裏づける事実となるべき本件資料作成・配布・授業による使用と教育上・教育組織上の支障との関係について、まったく検討しておらず、そのために必要な事実を提示してもいない。このような事情の下では、「その処分は適法とされてはならない」と考えざるをえない。

 3 他事考慮・動機の不正
本件戒告処分がなされた背景に、日本国憲法や政府見解に反する歴史認識・思想を有する古賀都議や産経新聞などの政治的圧力があったことは、控訴理由書99頁以下に述べたとおりである。そうすると、本件戒告処分は、他事考慮・動機の不正の疑いの強い裁量的判断によって行われたものと推認される。

 4 比例原則違反
前述の通り、比例原則とは、規制の程度が規制目的と均衡を保つことを要請する憲法の人権保障(13条)に由来する原則であるとともに、条理ないし判例法として理解されている。本件に即していえば、懲戒処分の程度が、被侵害法益の程度に比して均衡を失して重い場合には、違法と解される。
これまで繰り返し述べてきたように、本件資料の作成・配付・授業での使用によって教育活動に支障が生じた事実は認められない。また控訴人の教育活動を直接知る立場にあった根深校長が、千代田区教委から強制されて書かされた「事故報告書」においても(甲9の1)、教育活動に支障が生じたという事実は挙げられていない。本件懲戒処分の処分説明書に記載されている「非違行為」とされるものが具体的にどのような教育上の支障をもたらしたのかも明らかではない。教育組織に混乱をもたらした事実も認められない。「この程度の被侵害法益に対して戒告処分を科すのは重すぎる」と感じるのが“社会通念”であろう。
そうすると、本件懲戒処分は、いずれも合理的理由のない過剰な処分であるという理由で、裁量権を濫用した違法なものであるということになろう。

第4 結論
 以上のとおり、控訴人に対する本件戒告処分は、これまで繰り返し述べてきたとおり憲法26条、旧教育基本法10条に違反して違法であるとともに、任命権者に委ねられた裁量権の範囲を超えまたはその濫用があった場合に該当し違法であるので、裁判所はこれを取り消すべきである。

第3章 本件各研修命令について

第1 原判決の研修命令無効確認の適法性に関する判断について
原判決は、控訴人の訴えをほぼ全面的に退けつつ、唯一、控訴人の「本件各研修命令に続く処分により損害を受けるおそれがあるとする無効確認請求訴訟を許容する余地は否定し難」いとして、控訴人の「本件各研修命令処分無効確認請求の訴えの利益」を認め、被控訴人千代田区教委の主張を退けている。
この点においてのみ、原判決の判断は適法且つ相当であることは、従前指摘したとおりである。

第2 本件各研修命令の違法性の有無について
 1 行政の裁量権と裁量権逸脱・濫用の違法性

原判決及び被控訴人らは、都教委の控訴人に対する任命権(地教行法37条)及び地方公務員法39条2項に基づき、また、被控訴人千代田区教委の控訴人に対する服務監督者の地位(地教行法43条)、同法45条に基づき、控訴人に対する研修命令発令権限を認め、本件各研修命令を適法と認定若しくは主張している。
 また、原判決及び被控訴人らは、地方公務員法39条2項及び地教行法45条は、「研修の方法、内容、態様等について制限していないから、研修の必要性、具体的内容、期間等の判断は、都教委、区教委の合理的な裁量に委ねられており、裁量権の逸脱、濫用がない限り、違法の問題は生じない」旨認定若しくは主張している。
 しかし、地教行法37条、地方公務員法39条2項、地教行法43条、同法45条に基づき、一般論として被控訴人らの研修命令発令権限を認めたとしても、その権限は、あくまでも地方公務員法39条1項の定める「職務能率の発揮及び増進」の目的で「被控訴人らの合理的裁量権の範囲内」で認められるものであり、「裁量権の逸脱、濫用があれば違法」となる理である。
 以下、阿部教授の意見書14頁以下の論証にもとづき、詳論する。

 2 原判決及び被控訴人ら認定の研修命令発令理由と
本件各研修の位置づけの不合理・不明確性

この点について検討すると、まず、本件各研修は、被控訴人らによれば、「その他の研修」に位置づけられるものであり(甲27)、「指導力ステップアップ研修及び服務事故再発防止研修」のいずれにも該当しない。
 しかしながら、原判決によれば、本件各研修命令は、控訴人が、「特定個人を誹謗する資料を配布する等の行為により2度の懲戒処分を受け、長期の研修を受けたにもかかわらず、特定個人及び法人を誹謗する内容を含む資料を作成、配布して3度目の懲戒処分である本件戒告処分を受けたのであるから、原告(控訴人)には、公教育の公正、中立性の維持の観点から、指導方法の改善、教育公務員としての資質向上を図る必要性が認められた」ことを理由に発令されたとの認定である(原判決23頁)。
 要するに、「2回の懲戒処分と過去の長期研修命令処分の後で更に本件戒告処分を受けたので、指導方法の改善・資質向上のための研修が必要」というのが原判決の認定した本件各研修命令処分の理由である。
 この処分理由によれば、本件各研修として「指導力ステップアップ研修」または「服務事故再発防止研修」を選択すべきようにも解されるが、本件各研修命令処分は、何故か「その他の研修」という、非常に曖昧且つ不明確な種類・内容の研修である。
 本来、教職員に命じられる「研修」とは、地方公務員法39条1項の定める「職務能率の発揮及び増進」すなわち「教師としての指導力や資質・スキル・適格性の向上のための研鑽」を目的として発せられるべきものであり、研修内容も、例えば、「より高度の指導力・資質・スキル・適格性を有する教育に関する有資格者による指導や講義の受講」等、当然、かかる研修目的に即したものであるべきである。
 しかし、本件研修は、控訴人に対して反省を求めるという、内心に立ち入った目的・内容を有するものであった。
 この点について、守屋一幸研修センター研修部企画課長は、原審の尋問で以下の通り認めている。
「じゃあ、あなたの陳述書の10ページ上から6行目ですが、『特定の出版社名を挙げて、教材の中で誹謗したことに対して、自らの正当性を主張し反省の記述は一切ありませんでした』ということだけれども、これは反省の記述をしてほしいという観点で出した課題ですか。
端的に言えば、そういうことになります。
(裁判長)こういう特定の都議なり出版社を非難することは悪いことだということを気がついてほしいと、そういう趣旨はあったんですか。
はい。ありました。
悪いと気がついた上で、反省をしてもらうということまで、研修の目的に含まれていたんですか。
反省したうえで改善していただくということが全体の考え方です。」(守屋40頁)

 ところが、控訴人に命じられた本件各「研修」の実態は、連日、日がな1日研修報告書の作成に従事せよというものであり(丙9乃至26、乙口39乃至42)、控訴人単独で文献資料や教材キッド等を閲読・分析し、研修報告書の作成を行うだけで、何ら研修・研鑽に資する内容ではなかった。
 この事実からしても、本件研修は、控訴人の「教育現場外し」「教壇からの追放」こそが目的であって、「指導方法の改善、教育公務員としての資質向上」など目的としていないことは明らかである。
 原判決は「研修内容及び方法は、この目的に即し、学習指導の改善、教育公務員としての資質向上及び生徒、保護者の個人情報保護に係る配慮事項の3つを課題として設定し、これらに関する具体的課題を出題し、解答論文を作成させ、指導、助言するというものである。」(原判決23頁)とするが、これは外形にすぎないものを事実と誤認したものであり、実態に反する。
 そして、研修命令処分は、原判決及び被控訴人ら判示のように研修期間中「学校教諭としての身分及び給与に変動はない」(原判決12頁)としても、教育公務員にとって「教育現場外し」「教壇からの追放」「内心への介入」という実態がある以上、「不利益処分」であることは明らかである。
とすれば「不利益処分」を課すには、法律上の根拠が必要であるが、控訴人に対する処分は、地方公務員法39条1項、2項に基づくものとは言えず、根拠も研修の種類・内容も不明確である。よって、本件各研修命令が、憲法がその趣旨とする「法律に基づく行政の原則」に反する違憲・違法なものであり、被控訴人らの裁量権の逸脱、濫用は明らかと言うべきである。

 3 都教委の不当な意図による本件研修命令と産経新聞への漏洩
そもそも、被控訴人千代田区教委が独自の判断で本件第1次研修命令を発し、それに基づく「研修が十分な成果を上げられず、区教委では長期研修の実施に限界があると判断し、更に根本的、専門的な研修が必要であるとして、都教委に対し、研修の実施を依頼」されたことから、被控訴人千代田区教委の依頼を受けて初めて都教委が検討の上第2次研修の実施を決定し発令された(原判決8、9頁)ものではない。
本件第1次研修命令自体が、都教委の判断でなされたものであり、それは控訴人自身も根深校長も知らされていなかった同年8月31日の早朝時点で既に都教委の「既定方針」として決定され、その情報が、幾多のメディアの内でも、特別に「元々分社化前の扶桑社を出版部として有していたサンケイグループ傘下の産経新聞」にのみ情報漏洩されていた。
 この事実につき、原判決は事実を誤認し、被控訴人らは事実を否定している。
 しかし、かかる事実が存在したことは、これまで控訴人が縷々主張・立証してきたとおりである。たとえば、控訴人に対する戒告処分について報じた新聞各紙のうち、産経新聞8月31日朝刊記事にだけ(甲15)には、「都教委では、『指導に問題がある』として、この女性教師に研修を命ずる方針」と記載されている。
 そのことからも、この都教委の「研修を命ずる方針」に、サンケイグループ等の影響、政治的圧力等は容易に推察できるであろう。
 そして、この事実を一見しても、そもそも、被控訴人らによる本件研修命令処分発令の「裁量の不合理性、裁量権逸脱・濫用性」が透けて見えるというものである。

 4 研修命令の必要性への疑問
控訴人は、前述Bの戒告処分を受け、その直後の平成18年9月1日付で千代田区教委から、同月16日付で都教委から各々研修命令の発令を受け、教育現場を離れ、研修を受講している(原判決7頁)。
 原判決23頁は、「控訴人は、公立中学校の教師の立場において、特定個人を誹誇する資料を配布する等の行為により2度の懲戒処分を受け、長期の研修を受けたにもかかわらず特定個人及び法人を誹謗する内容を含む資料を作成、配布して3度目の懲戒処分である本件戒告処分を受けた」ため、研修が必要となったとする。
 さらに、原判決23頁は続いて、「本件各研修命令は、期間がそれぞれ16日間、6か月余であり、この間、千代田区立九段中学校教諭としての控訴人の身分や給与等に変動はなく、研修場所は千代田区教職負が研修を受ける際に―般的に使用している東京都目黒区所在の研修センタ―であった。上記の各事情からすると、本件各研修命令の必要性の判断、研修内容及びその実施方法等について、裁量権の逸脱、濫用があったと認める余地は存しない。」と述べる。
 しかし、前記のように、3度の懲戒処分には種々疑問があり、控訴人の行動については、単に表現が行きすぎたという程度のものである。それを改善させるには、この研修は、大げさで、長期的すぎるというべきである。原判決及び被控訴人らは、先の処分が完全に適法であることを前提とするが、失当である。

 5 教育内容に立ち入った本件各研修内容の不合理性
また、被控訴人らは、「本件各研修は教育内容に立ち入らず、単に、学習指導の改善、教育公務員としての資質向上及び生徒、保護者の個人情報保護に係る配慮事項等の課題として設定した」かの如く主張する。
 しかし、現実に行われた研修とは整合しない。現実に行われた研修は、原判決7頁以下に記載されているが、毎日2題出題された課題に対し、控訴人が解答論文を作成するというもので、課題として 「社会規範を身につけ、社会に貢献しようとする人間を育成するためにどのような教育をいままでしてきたかまとめなさい」「豊かな心を備え、国際社会で活躍できる人間を育成するために、どのような教育をしてきたかを論述しなさい」等というものであったというのである。これはまさに教育内容への立ち入りそのもので「誹謗」「揶揄」の是正とは関係がない。
 また、被控訴人らは、「これらに対する控訴人の解答の大半は、従前行った紙上討論授業の資料をそのまま転記したものであった。」点を不当なものである如く主張するが、控訴人は「紙上討論授業」を「社会規範を身につけ、社会に貢献しようとする人間を育成する」上で重要且つ有意義な授業方針と位置づけてきたのであるから、「これまでの教育をまとめなさい」という課題に対する解答として、十分に適切であろう。
 しかも、原判決及び被控訴人らは、「紙上討論授業自体を批判・否定するのではない」というのだから、なおさら、控訴人の解答で問題ないはずである。
 また、原判決は7頁で「転記された紙上討論授業の資料中に、原告が―人又は数人の生徒に対して「君の厚顔無恥な言動」「自己の狭い利益しか考えられない人物である」「他人の揚げ足取り能力には非常に恵まれている」等と記載していたことを認定している。
 この点については、「平成17年9月8日、研修担当者は、上記解答を踏まえ、控訴人に対し、紙上討論で生徒を厳しく指導して傷つく生徒はいないのか、その後の指導はどのようにしたのかと質問した。原告は、傷つくようなことはない、継続指導により生徒は分かっている、そのための紙上討論である旨答えた。」ということである。
 確かに、これらの記載文言の字面だけを見れば、一見表現は不適切であるとも見られる。
 しかし、単に正解を覚えるような授業とは異なり、討論して意見を戦わせる授業では、一面的な主張も出てくるから、それに対する寸評として、上記のようなコメントも、的を射ている面はあるはずである。 
 そもそも、「社会規範を身につけ、社会に貢献しようとする人間を育成するための教育」、「豊かな心を備え、国際社会で活躍できる人間を育成するための教育」であるならば、単に理解して記憶する授業よりも、控訴人の紙上討論という手法はむしろ賞賛されるべきである。そのような積極面を無視して、若干の表現上の不備だけを取り上げるのは、控訴人の授業に対する適切な指摘ではない。

 6 研修の続行の必要性はなかったこと
原判決の認定及び被控訴人らの主張の中では、「千代田区の教員として、教科で取り組んできたことをまとめ、取組からの発見した課題をあげ、その謀題解決の方策を論じなさい」との課題に対する控訴人の解答中には、「非常に成果の上がっている紙上討論授業をつぶそうと公然と干渉してくる某右翼都議、右翼新聞がある」等の記載があった点が問題視されている(原判決8頁)。 また、原判決は「授業で使用する教材、自作の教材について、どのような視点が大切となるか、留意点は何か、引用・著作権・個人情報の保護についてもふれて記述しなさい」との課題に対する解答には、「教材等について、大江課長は、何とか学習指導要領違反にしたいものと、熱望されて努力を傾注されたようだが、どうあがいてもその努力は報いられなかったようである、日本国家代表が内外に表明している歴史認識を否定する驚くべき妄言は、公人の、公の場においてなされ、公の記録に記載されている、というものは、必ず出典を明示する必要がある」等と記載されていた点をも問題としている(原判決8頁)。
 その他、同様に、「特定の個人名、団体名を記述したり、それらについて教師の私見を加えた資料を授業で活用することについて、どのように考えているか記述しなさい」との課題に対し、「日本国家代表が内外に表明している歴史認識を真っ向、否定する驚くべき妄言は、都議会議員の発言であるというふうに、公人である個人名及び出典を必ず明示する必要がある、侵略正当化・歴史偽造教科書として、東アジア全体で問題にされ、生徒たちにも知られている公の出版社名は正確に記述しなければ不適切の謗りを免れない」等と記載されていた点も問題としている(原判決8頁)。
 要するに、原判決及び被控訴人らは、これらの控訴人の解答の記載内容・事実から、本件各研修命令を適法と判断若しくは主張するもののようである。しかし、一体、この控訴人の言動の何処に問題があるのであろうか。
 紙上討論授業は、生徒に考えさせる、成果の上がる授業であり、これを外部から一方的な見解で攻撃してくる「公人たる議員」や「公教育の場で用いられる教科書」に言及して、なぜ問題があるのか。
 およそ、政府の歴史認識にも反する特定の団体の名称やその文献及び公人名を匿名ではなく公にするのは、前述したような判断能力を有する中学校3年生の教育上、何ら問題はない。 
 原判決は、「区教委は、平成17年9月13日、本件研修命令@による研修の経緯によれば、十分な成果を上げられず、区教委では長期研修の実施に限界があると判断しさらに根本的、専門的な研修が必要であるとして、都教委に対じ、研修の実施を依頼した。」と認定した(原判決8頁)。
 しかし、先に述べたように、被控訴人千代田区教委による2005年9月1日開始の第1次研修における控訴人の「解答」には、大きな問題などなく、むしろ、特定の議員や新聞に同調するかに見える被控訴人らの方にこそ問題があるのであるから、研修の続行の必要性はなかったことは明らかである。
 (なお、控訴人の研修課題に対する解答内容、及び、その回答内容に何ら不当な点のない事実について控訴人準備書面(3)4〜11頁参照)

 7 研修の人権侵害の実態
控訴人に対する本件各研修中の処遇が如何に非人道的・人権侵害的であったかについては、これまで縷々詳述したとおりである。
 控訴人は、薄汚い部屋の薄汚い机と椅子に壁と正対して座らされ、両側を衝立で仕切られた狭い空間で無言の座行を強いられ、トイレに行く程度の2、3分の短時間の離席についても行く先を告げるよう強いられ、その離席時間まで細かく監視・記録されていた。
 この点につき、原判決は「研修担当職員が控訴人(控訴人)の離席状況を把握するために、離席の際、行き先を告げるように求めたことは認められるが、この事実から直ちに人権侵害があったと評価することは困難である。」と認定・判示する(原判決25頁)。
 この事実認定自体が証拠の評価および合理的推論を誤った不十分なものである。
付言すれば、1998年9月から2000年3月までの2年7カ月にわたる「過去の長期研修」においては、控訴人に対して、汚い部屋の薄汚い机と椅子に壁と正対して座らされ、両側を衝立で仕切られた狭い空間で無言の座行を強いられ、トイレに行く程度の2、3分の短時間の離席についても行く先を告げるよう強いられ、その離席時間まで細かく監視・記録される、というような事態はなかったのである。「過去の長期研修」と同内容の本件研修において、このような処遇が、なぜ、「研修」の名の故に正当化されるのであろうか。
 課題に対して解答文を書くなどという研修がまともであれば、疲れたからラジオ体操をする、トイレに行くといったことについていちいち許可が要るはずはない。
 控訴人に対する「いじめ」でなく、まともに資質向上を図るためであれば、この程度の自由は認めるべきことは当然である。
 センター長である近藤であれ監督をしている指導主事職員であれ、執務時間中誰にも断ることなく多少は離席することがあるはずである。
 よって、「人権侵害があったと評価することは困難」と評する原判決及び被控訴人らの事実評価は誤りであり、むしろ原審裁判所の「人権擁護意識の低さ」「人権侵害被害者の心身の苦痛に対する無理解」を証するものに他ならない。
 本件各研修命令処分における控訴人に対する処遇は、控訴人に対する身体的・精神的な拷問であり、研修に名を借りた違憲、違法かつ不当な人権侵害ある。
 その点を理解しようとしない原判決及び被控訴人らの不当性は論を待たない。

 8 本件各研修命令処分における思想改造強制
 
原判決は「本件各研修の内容は、学習指導の改善、教育公務員としての資質向上及び生徒、保護者の個人情報保護に係る配慮事項の3つを課題とするもので、出題された具体的課題の内容は、上記目的に沿ったものであり、控訴人の内心の世界観、歴史認識を問題にして、それらを改めるように要求するものでもない」と認定している(原判決25頁)。
 しかし、この点も、明らかな事実誤認若しくは不当主張と言わざるを得ない。
原判決11頁で認定したように、都教委は、平成18年2月、本件資料の作成、配布に関連して、「『あなたの主張を書いた資料を生徒に配布したが、今後もこのような認識のもと授業中に同様の資料を配布するつもりか』との課題」を出し、控訴人に対して歴史認識の変更を求めているのである。
 このような「課題」こそ、「単なる表現の問題」ではなく、「控訴人の歴史認識を変えさせようとする『研修』の証左」であり、そもそも、本件各研修が、思想改造工場であり、人権侵害であり、教育内容への「不当な支配」であることを如実に示すものである。ここで、都教委は馬脚を現したと言うべきである。
 しかも、控訴人の思想・歴史認識の方が政府見解にも憲法にも多くの歴史学者の見解にも合致している事はこれまでに詳述したとおりである。
 したがって、控訴人が、教育委員会からの激しい圧力にも拘わらず、信念を曲げずに耐え抜いたことは称賛に値することであって、非難される道理はない。
そもそも、乙口39乃至42によれば、本件各研修期間中の「研修」の内容自体、何らの資格・学識・知見も持たない種村明頼らを筆頭とする「指導担当主事」らが、控訴人の思想・信条に基づく授業内容や研修態度に対し、「研修課題」「指導」或いは「助言」と称して、控訴人にその教諭・教育公務員としての信念を曲げることを強要し続けるというものであって、その「指導内容」は、正に「転向強要と思想統制」、「思想・信条・良心に対する侵害」以外の何ものでもなかったことは明らかである。
 本件各研修命令処分が原判決及び被控訴人らの言う「学習指導の改善、教育公務員としての資質向上及び生徒、保護者の個人情報保護に係る配慮」等を目的とするのであれば、まず、被控訴人らは、本件各研修において、控訴人に対し、「古賀都議が『公人ではない特定個人である』」とか「古賀都議の発言は『正しい歴史認識に立つものであり、歴史の真実や日本政府見解にも合致するものであるから"歴史偽造"と評することは、"批判"ではなく"誹謗中傷"である』」という点について、文献等を呈示し学術的に論証するなどして控訴人を説得・指導すべきであろう。
 しかしながら、被控訴人らは、そのような説得・指導を一切行うことなく、「研修課題」と称して「個人的見解で特定個人や団体等を誹謗中傷した箇所がある資料」という被控訴人らの「独自見解」を控訴人に押し付け、控訴人の反省・転向・屈服を迫ったものである。
 そもそも、控訴人は、生徒らに対し、公務員の憲法遵守義務に従い、「日本による侵略」という国際的に認められた世界史上の真実・日本国政府の公式見解でもある事実を正しく教えるために、この「真実」に反し歴史を歪曲しようとする「公人たる古賀都議」らについて、歴史学者も「正当な批判表現・文言として用いている『歴史偽造』という文言」が端的且つ適切で分かり易いことから、これらの表現・文言を用いたものであり、「誹謗中傷」ではない。本件資料の生徒への配布や授業における使用について、控訴人は正当な教育・授業を行ったと確信してきた。
 そうした控訴人に対するかかる「研修」を、控訴人の「内心の世界観、歴史認識を問題にして、それらを改めるように要求するもの」と呼ばずして、何と呼ぶのであろうか。
 このような実情の本件各長期「研修」は、「研修」とは名ばかりの、思想、信条、内心の自由に対する干渉、控訴人の憲法尊重教育、平和擁護教育、内心の世界観、歴史認識に対する弾圧であり、その点を故意に看過せんとする原判決及び被控訴人らの判断は、失当である。

第3 結論
  以上の理由により、控訴人に対する本件各研修命令処分は、被控訴人らの裁量権を逸脱・濫用する違法な処分であり、その無効が確認されるべきである。  
<おわりに>
  以上のとおり、本件各処分はいずれも違法ないしは無効のものであって、これを適法・有効とした原判決の取消は免れない。
 とりわけ、本件各研修処分、本件分限免職処分により、突然、教壇を奪われた控訴人の無念は計り知れない。原審における最終準備書面の末尾にも述べたとおり、控訴人は、在日の生徒の叫びを基に、生徒たちと共に、日本と在日の問題を考えようとして、紙上討論の教材プリントまで準備していたのであり(甲29)、このような授業を受ける機会を奪われた生徒たちの思いも考えれば、本件各処分、とりわけ本件分限免職処分がいかに反教育的なものかを如実に示している。
 貴裁判所におかれては、本件の本質を十分に検討され、正義と公平に満ちた判決を下されることを心から望むものである。

以上 



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