平成22年(行コ)第241号 分限免職処分取消等請求控訴事件
原 告 増田都子
被 告 東京都 外1名
東京高等裁判所第2民事部AB係 御 中
控訴人訴訟代理人
弁護士 和久田 修
同 萱野一樹
同 萩尾健太
同 寒竹里江
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<はじめに> 4
第1章 分限免職処分及び戒告処分の違憲違法性について 6
第1 分限免職処分の違法性について―長束小事件判決から 6
1 分限処分のリーディングケースとしての長束小事件判決 6
2 控訴人に関する「職の適格性」について 10
3 不正目的・動機と他事考慮−古賀都議らの政治的圧力の存在 45
4 本件分限免職処分における比例原則違反 48
5 手続的違法性について 55
6 小括 55
第2 教育の公正中立性について 56
1 原判決の判示 55
2 浪本意見書が示す公教育の「公正、中立」 58
3 教育における「公正、中立」と「不当な支配」との関係 61
4 森正孝意見書が示す平和教育の必要性と生徒の認識力 63
5 小括 67
第2章 本件戒告処分の違法性 67
第1 原判決の重大な判断の脱漏 67
第2 公務員の懲戒処分に関する最高裁判例の趨勢 69
1 最高裁判所判決における行政裁量の審査基準 69
2 行政裁量は本来例外的 70
3 判断過程統制の内容 71
4 処分の判断過程の効果裁量に関する統制 72
5 判断過程統制の精密化 74
6 教員の教育上の裁量の考慮 75
7 小括 77
第3 本件戒告処分における裁量権濫用・逸脱 77
1 教育行政における裁量権の範囲 77
2 要考慮事項の不考慮=控訴人の記載内容について 77
3 他事考慮・動機の不正 90
4 比例原則違反 91
第4 結論 91
第3章 本件各研修命令について 92
第1 原判決の研修命令無効確認の適法性に関する判断について 92
第2 本件各研修命令の違法性の有無について 92
1 行政の裁量権と裁量権逸脱・濫用の違法性 92
2 原判決及び被控訴人ら認定の研修命令発令理由と
本件各研修の位置づけの不合理・不明確性 93
3 都教委の不当な意図に基づく本件研修命令と産経新聞への漏洩 95
4 研修命令の必要性への疑問 96
5 教育内容に立ち入った本件各研修内容の不合理性 97
6 研修の続行の必要性はなかったこと 98
7 研修の人権侵害の実態 100
8 本件各研修命令処分における思想改造強制 101
第3 結論 103
<おわりに> 104
記
<はじめに>
まず、本日提出した甲第119号証の漫画(「美味しんぼ」原作:雁屋哲)を 読んで頂きたい。
これは、主人公たちが韓国に旅行した際に出会った韓国の老人との会話の場面を中心に描かれている部分である。
老人が、「学校では、韓国語を禁じられ、日本語を強制的に勉強させられたんだから。」と言い、また、「強制連行で日本の高知県に連れて行かれて働かされていた私が、・・・」と話しており、これに対して、主人公に同行した若い女性A(新聞記者)が、「強制連行ってなんですか?」と思わず尋ねたところ、老人は驚いた顔をして、「強制連行を知らないのかい?」とため息をもらしている。
そして、老人宅を辞した主人公たちの会話の中で、前出の女性Aが「私、恥ずかしいわ・・」「新聞記者のくせに強制連行を知らなかったなんて・・・」と漏らし、主人公の男性Bが「きみだけじゃないよ。今の日本の若い人のほとんどがそうさ。」と言い、もう一人の女性Cが「だって、学校では教わらなかったもの、強制連行なんて・・・」と話している。これに対して、韓国人の案内役の若者Dが、「韓国では誰でも知っていることです。」と言ったのに対して、上述の女性二人が絶句しているところが描かれている。
さらに、男性Bは、「強制連行よりもっとひどいことを日本は、朝鮮、韓国に対してたくさんしているよ。」と話し、Aは、「どうして学校で教えないの?」「自分たちの過去の過ちを子供に教えることの出来ない大人って最低の卑怯者じゃないの。」、Bは、「日本人が過去に犯した過ちを知らないのは、世界中で日本人だけだなんて・・・」という会話がなされている。これに対して、若者Dは、「過去を忘れる訳にはいきません。」「だが人間は、現在と未来に生きるのです。」と言い、Bは、「そうだ。日本と韓国とが、互いに尊敬し合える関係をつくらなきゃな・・・」と話すのである。
この漫画の会話の中に、控訴人が学校で教えてきたことの意味、そして本件各処分の原因となった古賀俊昭都議の発言や扶桑社の教科書の問題性がまさに象徴的に示されていることは言うまでもない。
前出の女性(A、C)は、学校で過去の歴史の真実を教えられなかったために、まさに「国際的に恥を晒してしまった」のであり、「自分たちの過去の過ちを子供に教えることの出来ない大人って最低の卑怯者じゃないの。」「日本人が過去に犯した過ちを知らないのは、世界中で日本人だけだなんて・・・」と嘆くしかないのである。
これに対して、韓国の若者Dは、「過去を忘れる訳にはいきません。」「だが人間は、現在と未来に生きるのです。」と言い、Bは、「そうだ。日本と韓国とが、互いに尊敬し合える関係をつくらなきゃな・・・」と話すのである。過去の歴史と率直かつ真摯に向き合い、それを乗り越えて、現在と未来に向かって、互いに尊敬し合える関係を作り出すことこそが「真の国際性」であり、控訴人は生徒たちにこのような認識を持ってもらいたいが為に、30年余にわたって、一人の社会科教師として、教育に心血を注いできたのである。その成果は、紙上討論プリント等に記載された生徒たちの意見を読めば一目瞭然である。
翻って、古賀都議の「侵略戦争云々というのは、私は、全く当たらないと思います。じゃ、日本は一体どこを、いつ侵略したのか、どこを、いつ、どの国を侵略したかということを具体的に聞いてみたいというふうに思います。」という言葉を、前出の韓国の老人に対して、誰が投げつけることができるのであろうか。まさに、この韓国の老人を前にしては、「国際的には恥を晒すことでしかない歴史認識」としか言いようがないことは誰の目にも明らかである。そして、扶桑社の歴史教科書が、過去における日本の侵略の歴史を「美化」するものであれば、それは「歴史の偽造」でしかなく、前出の若い女性A、Cを再生産していく役割しか持たないのである。
上記のような誤った歴史認識しか持たない古賀都議に同調し、扶桑社の歴史教科書の採択を推進してきた都教委が、生徒たちに「真の国際性」を教えてきた控訴人を教壇から追放したこと−本件各処分の本質はまさにこの一点にある。
以下、本書面においては、当審において提出した証拠を中心にして、本件各処分の違憲違法性を明らかにすることとする。
第1章 分限免職処分及び戒告処分の違憲違法性について
第1 分限免職処分の違法性についてー長束小事件判決から
1 分限処分のリーディングケースとしての長束小事件判決
(1)分限処分についてリーディングケースとなっているのは,長束小学校校長降任事件最判(昭和48・9・14民集27巻8号925頁−以下,「長束小事件判決」という。)である。同判決は、以下のとおり,分限処分における任命権者の裁量権の範囲と基準を示している。
@ 「不正目的・動機」による処分の禁止と考慮事項の適正な考慮
「地方公務員法28条所定の分限制度は,公務の能率の維持及びその適正な運営の確保の目的から同条に定めるような処分権限を任免権者に認めるとともに,他方,公務員の身分保障の見地からその処分権限を発動しうる場合を限定したものである。分限制度の上記のような趣旨・目的に照らし,かつ,同条に掲げる処分事由が原告の行動,態度,性格,状態等に関する一定の評価を内容として定められていることを考慮するときは,同条に基づく分限処分については,任命権者にある程度の裁量権は認められるけれども,もとよりその純然たる自由裁量に委ねられているものではなく,分限制度の上記目的と関係のない目的や動機に基づいて分限処分をすることが許されないのはもちろん,処分事由の有無の判断についても恣意にわたることを許されず,考慮すべき事項を考慮せず,考慮すべきでない事項を考慮して判断するとか,また,その判断が合理性をもつ判断として許容される限度を超えた不当なものであるときは,裁量権の行使を誤った違法のものであることを免れないというべきである。」
ここに、特に「不正目的・動機」による処分の禁止と、「処分事由の有無の判断」=要件裁量の審査に際しても「考慮事項」という判断過程統制の視点があることに注意すべきである。
A 適格性
また,同判決は,地方公務員法28条1項3号にいう「その職に必要な適格性を欠く場合」とは,「当該職員の簡単に矯正することのできない持続性を有する素質,能力,性格等に起因してその職務の円滑な遂行に支障があり,または支障を生ずる高度の蓋然性が認められる場合をいうものと解されるが,この意味における適格性の有無は,当該職員の外部にあらわれた行動,態度に徴してこれを判断するほかない。その場合,個々の行為,態度につき,その性質,態様,背景,状況等の諸般の事情に照らして評価すべきことはもちろん,それら一連の行動,態度については相互に有機的に関連づけてこれを評価すべく,更に当該職員の経歴や性格,社会環境等の一般的要素をも考慮する必要があり,これら諸般の要素を総合的に検討したうえ,当該職に要求される一般的な適格性の要件との関連においてこれを判断しなければならないのである。」として「適格性判断の基準・判断要素」を示している。これが、上記の「要考慮事項」の内容をなしている。
B 比例原則
さらに,同判決は,分限処分が「降任」と「免職」のいずれかであるか、という効果裁量についても,自由裁量ではなく、その判断基準に差異を設け,「等しく適格性の有無の判断であっても,分限処分が降任である場合と免職である場合とでは,前者がその職員が現に就いている特定の職についての適格性であるのに対し,後者の場合は,現に就いている職に限らず,転職の可能な他の職をも含めてこれら全ての職についての適格性である点において適格性の内容要素に相違があるのみならず,その結果においても,降任の場合は単に下位の職に降るにとどまるのに対し,免職の場合には公務員としての地位を失うという重大な結果になる点において大きな差異があることを考えれば,免職の場合における適格性の有無の判断については,特に厳密,慎重であることが要求される」として,「免職処分の場合における適格性の判断を特に厳密,慎重にすべき」との判断過程統制の基準を示している。
このように,この長束小学校校長事件判決は,分限免職において考慮すべき事項,「その職に必要な適格性を欠く場合」の意味,比例原則について,先例となる重要な判断を示しており、公務員の分限免職についても,考慮事項の審査,比例原則の適用があると考えるべきである(以上、阿部意見書:甲116)。
(2)これに対して、原判決は、上記の長束小事件判決の引用中、ゴシック体の
部分を欠落させた基準を示している。
すなわち、原判決においては、地方公務員法上の分限制度の趣旨について、長束小事件判決が判示する「公務員の身分保障の見地からその処分権限を発動しうる場合を限定」するという趣旨を無視した上、任命権者の裁量権の範囲について、「任命権者にある程度の裁量権は認められるけれども,もとよりその純然たる自由裁量に委ねられているものではなく,分限制度の上記目的と関係のない目的や動機に基づいて分限処分をすることが許されないのはもちろん,処分事由の有無の判断についても恣意にわたることを許され」ないという任命権者の裁量権に対する限定を外しているのである。
さらに、原判決は、「職の適格性」の判断基準についても、長束小事件判決の判示部分から、「これら諸般の要素を総合的に検討した上,当該職に要求される一般的な適格性の要件との関連においてこれを判断しなければならないのである」との部分をもあえて欠落させ、「当該職に要求される一般的な適格性の要件との関連」という重要な要素を無視した上、上記の比例原則については、全く触れていない。
この点は、控訴理由書53乃至58頁に詳述しているが、原判決は、あえて、長束小事件判決に示された分限免職処分に関する「厳格な判断基準」を採用せず、極めて「緩やかな判断基準」を採用しているのであって、重大な判例違背が認められるのである。
原判決は、かかる重大な判例違背を犯して、司法審査における判断基準を緩やかにすることによって、本件分限免職処分を恣意的に(やっとのことで)適法としたのであって、かかる手法は決して認められるものではない。
(3)以下、長束小事件判決の判断基準にしたがって、まず、控訴人に関する「職の適格性」に関して、考慮すべきでない事項を考慮し、考慮すべき事項を考慮していないとの観点からの検討を行い、次いで、本件分限免職処分が不正目的・動機によることの検討を行った上で、原判決が採用しなかった「比例原則」(公正原則)違反という違法性を有することを明らかにする。
なお、原判決が、控訴人について「教員としての職の適格性」を欠く唯一最大の理由とした「中立、公正に教育を行うべき教育公務員としての自覚と責任感を欠く」という点については極めて重要な点であるので、主として、「第2」として検討することとする。
2 控訴人に関する「職の適格性」について
(1)原判決の判断概要
原判決は、控訴人の「教員としての職の適格性」について、上記のとおり、長束小事件判決が示した判断要素から「当該職に要求される一般的な適格性の要件との関連」という重要な基準を無視した上で、過去の第1、2次懲戒処分と本件戒告処分の内容、本件各研修処分中における控訴人の言動のみから、「原告について、その職に必要な適格性を欠く場合に該当する」と判断しているものであって、極めて杜撰かつ不当なものである。そのことは、控訴理由書62乃至86頁、阿部教授意見書(甲116)28乃至35頁に詳細に述べているところである。
そのために、原判決は、控訴人が有する「教員としての極めて高い適格性」を基礎付ける事実を無視したのである。
(2)広島高裁岡山支部平成21年12月24日判決の場合
ア 上記高裁判決(甲113)は、指導力不足等教員とされた安東啓治氏に対してなされた分限免職処分に関する処分取消請求事件に関するものであるが、同判決は、長束小事件判決の判決を正確に引用して、「職の適格性」の判断についても、「当該職に要求される一般的な適格性の要件との関連」も挙げた上で、「教員としての適格性については、その職務の性質上、学習指導、生徒指導の能力の有無程度を相当程度考慮して判断すべきことになる」との判断要素を示しているのである。
その上で、同判決は、具体的な検討事項として、「教職に対する情熱」「教育者としての力量(具体的項目として、「学習指導の力」、「授業における生徒指導の力」「そのほかの生徒指導」、「学級経営」が挙げられている)」「総合的な人間力(具体的項目として、「同僚職員、その他の者との協働、コミュニケーション」「広く豊かな教養と常識の不足」が挙げられている)」を提示して、そのそれぞれについて、詳細な検討を加えた上で、安東氏について、「教職に必要な適格性を欠くとはいえない」との判断を導いているのである。
なお、阿部教授の意見書(甲116)5頁においても、「分限処分事由である『勤務実績が良くない場合』『その(官)職に必要な適格性を欠く場合』(国家公務員法78条、地方公務員法28条)等は、裁判所が全面審査する法的な概念である」とされており、上記広島高裁判決が、「職(本件においては教職)の適格性」について詳細な検討を行った上で、「職の適格性を欠くとはいえない」という判断を下していることは極めて正当である。
この点について、都教委は準備書面(2)17頁で、阿部教授が「あたかも『その(官)職に必要な適格性を欠く場合』に該当するか否かの点について、行政庁の裁量の余地がないかの如き主張をなしているが、控訴人の上記主張は間違っている」とするが、的外れである。
同教授は、処分権者が「職の適格性」判断を行うにあたり、一定の裁量が認められることまで否定するものではなく(長束小事件判決参照)、その当否について、全面的な司法審査が可能な事柄であることを強調しているに過ぎない。
イ さらに、都教委は、上記広島高裁判決の事案は「指導が不適切な教員に対して、地教行法47条の2が適用された事案であって、本件とは全く事案を異にするものである」(都教委準備書面(2)12頁)と主張しているが、全く失当である。
本件と広島高裁判決の事案は、ともに、教員が分限免職処分とされ、その取消を求めた事案であって、その共通性は明らかである。そうであれば、その分限免職処分の当否に関する審査基準として、リーディングケースである長束小事件判決の判示を用いるべきことは全く同様であることもまた言うまでもない。そして、地公法28条1項3号所定の「職の適格性を欠く場合」の解釈・判断基準についても長束小事件判決が判示する基準を用いるべきことも当然のことである。すなわち、「職の適格性を欠く場合」の解釈・判断基準について、本件と広島高裁判決の事案とにおいて、異なる判断基準を用いるというようなことはあり得ず、「判断基準」という意味においては、両者の共通性が認められることは当然である。
長束小事件判決において、「職の適格性」の判断について、「当該職に要求される一般的な適格性の要件との関連」という要素を挙げている以上、当該事案において、このことを考慮しなければならない。そして、本件及び広島高裁判決の事案が、「教育」に携わる「教員」に関するものであり、「教育は教師と子どもとの間の直接の人格的接触を通じ、その個性に応じて行わ」れることが「教育の本質的要請」である以上(旭川学テ判決)、上記広島高裁判決が言うように、「教員としての適格性については、その職務の性質上、学習指導、生徒指導の能力の有無程度を相当程度考慮して判断すべき」ことになるのは論理上必然的なことであり、分限免職処分にされた理由が異なるからといって、上記の点を考慮したり、考慮しなかったりすることは許されないことは当然のことである。しかるに、都教委の主張は、「指導力不足等教員」に認定された教員の場合は、「学習指導、生徒指導の能力の有無程度」を考慮してよいが、控訴人のように公人である都議会議員の公的発言や公的刊行物である特定の歴史教科書の記載内容を批判(都教委に言わせれば「誹謗」)した教員の場合は、「学習指導、生徒指導の能力の有無程度」は無視(ないしは軽視)してよいとしているものにほかならず、失当たることは誰の目にも明らかである。
ウ 以上のとおり、控訴人の「教員としての適格性」判断に際して、「学習指導、生徒指導の能力の有無程度」を考慮しなければならないことは明らかであるから、次に、この点を検討することとする。
(3)控訴人の「教員としての適格性」(=「学習指導、生徒指導の能力の有無程度」について)
控訴人が、「学習指導、生徒指導の能力」が極めて高く、「教員としての適格性」を十分に有していることは、控訴理由書の「第4、2(3)」(同71乃至86頁において詳細に述べているとおりであり、これを援用することとする。その際、ここでは、上記広島高裁判決が検討している具体的事項に従って、改めて敷衍して整理することとする。
ア 教職に対する情熱
控訴人の教職に対する情熱については、紙上討論授業におけるプリント(甲6、甲29<これは、控訴人が第1次研修処分を受けなければ2学期に配布する予定だった紙上討論プリントである>、甲51)の量だけを見ても、授業等の通常の業務をこなしながら、これだけの量のプリントをまとめるのは、教職に対する情熱がなくてはできないことであることは明白である。
この点、控訴人が足立12中に在籍していた当時の教え子である河野陽子氏は、「当時の先生の、本気で、本音でぶつかってくるというエネルギーというのはすごいと思うんです。みんな、そういう先生の姿を見て、ちょっとずつそういう姿を感じていたと思うんです。なので続けられたことだと思うので、・・・だんだんと(生徒の)意見が濃くなってきたりして、3年生なんかのときはみんなしっかりした意見を書いていると思うので、そういうのは、先生がエネルギーとか情熱を持って続けてくれないとできなかったことだと思うので、今、社会人になってから、改めて先生の授業を受けたいなと思うことも一杯ありますし、先生は教壇にいるべき人なんだなということを強く思います。」(原審における河野陽子証言9頁)、「先生が空き時間や休憩時間などの学年相談室などで、紙上討論のプリントを作っておられるところをよく見かけました。それも、片手でワープロをものすごい早さで打っていた姿がとても印象に残っています。当時、先生は確か3人の子供さんがおられたと記憶しているのですが、子育てをしながら、あの紙上討論を継続してやられた先生の情熱がすごいものだった、と今さらながらに思います。私自身、社会人になって、仕事を持ってみて、改めて先生のご苦労や大変さを実感しています。」(甲67・3頁)「・・・通勤時間なんかも長かったと思うんでけれども、あんまり時間がない中で、そういう普通じゃない情熱というのは、今、自分の時間しか使うことしかしないので、そういう生徒のためにという情熱がすばらしいと思います。」(河野7頁)と述べている。
また、足立16中時代の生徒は、「・・・私は『正しい事は正しい、間違っている事は間違っている』と堂々と生徒に教えることの出来る増田先生の意志は素晴らしいものだと思う。」(甲51・87枚目)などと控訴人の生徒たちへの情熱を感じ取っている。
さらに、控訴人が最後に勤務していた九段中の生徒は、「増田先生は時にはきびしい先生でしたが、生徒思いの優しい先生だったです。約A年間(ママ)お世話になりました。そして、これからも生徒思いの優しい先生でいてください。」(甲101)、「社会の苦手な私にも、再テストや補修の時間を設けてくれ、増田先生には感謝しています。・・・約1年半でしたが、増田先生に出会えて本当に良かったと思います。」(甲102)、「・・・あまり好きではなかったけど回数を重ねるうちに紙上討論のすごさを知りました。先生が最後まで3Cの担任でいられなかったことがとても残念です。でも増田先生には底知れぬすごさがあって私はそれを尊敬しています。」(甲103)などの手紙を寄せている。
このように、控訴人は30数年の教員生活の中で、一貫して、生徒たちに情熱(本気と本音)と優しさをもって接し、それが生徒を成長させてきたのであって、教職に対する情熱は一般的な教師よりはるかに強いものがあることは優に認められる。
なお、このことに対して、被控訴人は都教委も千代田区教委も一切反論反証をしていない。
イ 教育者としての力量
(ア)学習指導の力、授業における生徒指導の力
a 通常の学習指導について
控訴人は、月に1度程度の紙上討論授業の時間を除いては、教科書を使用した通常の形態の授業を行っていたが、それも創意工夫をこらしており、控訴人の授業を参観した根深校長は、「・・・1つは、盆地の説明をするので、お盆を用意して授業に役立てるというような工夫をされたところがありました。もう1つ記憶にあるのは、お米のことを社会科の授業で、東南アジア、アジアの授業を米のことでやって、かなり詳しく、産地の違いであるとか、そういうことを含めて、授業を進められてました。」「・・・基本的には、子供たちが意見を述べて考えたものを自分たちがまとめていくというような形の授業であったと思います。」(根深尋問調書1,2頁)と証言しており、全く問題がなかった旨を証言している。
また、根深校長の証言によれば、被控訴人千代田区教委の酒井指導課長も、控訴人の授業を見て、「その授業の様子から、増田さんの授業については素晴らしいという話」をしていた(根深9頁−但し、酒井本人は証言においては否定しているが、処分者側である酒井課長の立場を考えれば、根深校長の証言の方が信用できる。)。
少なくとも、管理職の目から見ても、控訴人の通常の授業においても、全く問題はなく、むしろ通常の授業においても工夫をこらした授業を行っていたことが優に認められる。
学力保障の面についても、河野陽子氏は、控訴人の担当した社会の成績が落ちたということは全くなかった旨を証言している(河野尋問調書5頁)。
また、九段中の生徒は、紙上討論をきっかけとして、社会科に興味を持つようになり、テストで満点を取ったり、評価も「5」を取れるようになった(甲21)。この生徒は、「先生のおかげで自分には公民が合っている、自分は公民にすごく興味があって、公民を勉強したいんだ、ということが分かったので、(高校に)入学してからも公民を選択しようと思っています。」(甲21)とまで言っており、自分の進むべき道まで発見することができたのである。また、他の九段中の生徒は、「・・・私は社会はとてつもなく苦手でした。だからいつもテストの点数で平均点以下や平均点ぐらいしか採って(ママ)いませんでした。だけど私の生きたかった高校(都立)の入試ではとても良い点数を採りうれしかったです。」(甲104)とも述べている。
この点については、分限免職処分の原案を作成した都教委の橋爪証人も「学力(をつける)という意味では、私は、そういう資料もありませんので、(問題は)ないと思います。」と認めている(橋爪尋問調書30頁)。
b 紙上討論授業について
(ウ)紙上討論授業の教育的意義
紙上討論授業の教育的意義について、浪本勝年教授は、次のようにまとめておられる(甲69・11頁)。
「『紙上討論授業』の第一の意義は、生徒が自分で学習したことについて、一定の文章に書くことにある。『書く』ということは、とりもなおさず、『考える』ということである。暗記中心ではなく自分の頭で考えるということが、どんなに大切なことであるかということは、今日の学校教育の中で、いくら強調しても強調しすぎることはない。
『紙上討論授業』の第二の意義は、生徒自らが紙上に自分の意見を発表することを通じて、授業への参加意識、学校における自己の存在感を持つことである。子どもの権利条約はその第12条で意見表明権を保障している。また、「。」で眺めたように文部省も現在の学習指導要領及び指導書で盛んに『生徒の主体的な学習』を強調している。『紙上討論』は、まさにその延長線上にある創意工夫をこらした優れた実践の一例といえよう。
『紙上討論授業』の第三の意義は、生徒達は、大勢の友人の意見や先生のコメントに文字を通して十分に耳を傾けることができる、ということである。このようなプリント教材を作成している原告の労力たるや大変なものであり、また適切なコメントを付けることも周囲の読者が考えるほど容易なことではない。ベテラン教師であるがゆえに可能な方法であると言えよう。」
また、森正孝氏(「侵略−語られなかった戦争」の制作者であり、意見書作成当時、静岡大学非常勤講師)は、その意見書(甲68)14頁において、紙上討論授業の教育的意義を平和教育との関連で述べておられる。
このように、控訴人の紙上討論授業は、各方面の専門家からも極めて高い評価を受けており、その教育的意義の高さは明らかである(この紙上討論授業は、前述した控訴人の教職に対する強く深い情熱によって実現されていることは言うまでもない。)。
(エ)紙上討論授業の教育的効果
この点については、控訴理由書73乃至80頁に、生徒たちの感想を引用する形で詳細に述べており、甲5,29、51の紙上討論プリントに記載された生徒たちの意見を見ることで、十分にその教育的効果の高さを知ることができる。
ここでは、その一部を控訴理由書を敷衍する形で概観することとする。
控訴人と生徒たちは、上記のような教育的意義を有する紙上討論授業を、一年間にわたって複数回にわたり行ってきたが、その結果、生徒たちは、教科書だけでは知らなかった事実を知り、主体的に自分の意見を表明することや相手の意見に耳を傾けること、議論し合うことの重要性を身につけていったのである。
その教育的効果は、生徒たちの次のような感想に如実に現れている。
@ 足立12中時代(「侵略パート1」を見た生徒の感想)
「何が人間をこうまでさせたのか?と思った。増田先生が『見る義務と権利がある』と言っていたけど、本当にその通りだと思う、人体実験などの恐ろしいことを日本人が行っていたかと思うと、何も言う言葉が見つからない。そのころの兵士などの言葉を聞くと同じ日本人として、とても身近に思えてきた。・・・私たちが同じことを繰り返さないためにも日本人はみんなこのビデオを見た方がいいと思う。」
(甲68・15頁)
「・・・人間らしい感情を全部奪ってしまうのが戦争だと思う。中国人が日本人を今も『日本人鬼子(リーベンクイズ)』と呼んでいるっていうのを何かで読んで、その時はもう戦争が終わって何十年も経つのに、とか思っていたけど、あのビデオを見たら許せなくて当然だと思う。もし、日本が逆の立場だったら絶対に許してないと思う。たぶん、中国の人たちにとってはにほんとの戦争はまだ終わっていないんだろう。その人たちにとっての平和が早く来るようにしたい。」
(甲 68・15頁)
紙上討論授業が高い教育効果を上げたことの証左として、足立12中時代には、卒業生の答辞の中で、「・・・特に私達にとって大きなプラスとなったのは二年生から社会でやり始めた紙上討論です。そこで他人の意見と自分の意見を照らし合わせ深く考えさせられました。自分の愚かな行動や考え方に気付いた人もいます。また自分の行動や考え方に自信をもてるようになった人もいます。私達はまっとうな判断力を身につけ、社会に適応できるようになってきています。勉強とはそうするためにするものだと思います。」と原告の紙上討論に対して謝辞が述べられたのである(甲5)。
A 足立16中時代(1年間紙上討論を行った感想)
「私は一年間、紙上討論授業をして良かったと思う。一番、最初は『何?あれ?早くやめてほしいよ。』って思ってたけど、この紙上討論授業を通して、今まで、私が知らなかった、考えたこともなかった歴史上の問題や、現在の日本に起こっている問題を知ることができたし、学年のいろんな人達が、どんな風に考えているか、ということが、良く理解する事ができた。紙上討論をやらず、教科書そのままの知識を知っただけでいたら、本当のことを考えないままに、社会科を学んでいたと思う。今まで紙上討論に対する反対意見もあったけど、(私も一時、そうだった)、やっぱし紙上討論して、良かったと思う。それから、やっぱりこういうこと・・・・日本が中国、朝鮮やアジアにたいしてしたヒドいことは、子供達に教えるべきだと思う。別に、それで日本を誇りに思おうと思うまいと、その人の勝手だし、その人自身が考えること。でも過去に日本はヒドい事をしたのは事実なんだから。日本のいいところばかりを見て、誇りに思うより、どんなにいい所も、どんなに悪い所も、ちゃんと知った上で、誇りに思った方がいい。・・・」
(甲51・86枚目)
「私は日本がアジアを侵略した事については。真実をちゃんと教えた方がいいと思う。もしかしたら、今の子供達が日本のしたことを知らずに大人になったら、また戦争をしてしまうかもしれないから。日本が、どんなにひどいことをしたのか教えれば、戦争したいと言われても、大多数の人が反対すると思う。『日本を誇りに思えない』なら、これから先、いいことをいっぱいして、未来の日本を誇りに思えるようにすればいいと思う。」
(甲51・89枚目)
「私達は、この一年間に、たくさんの紙上討論をやってきた。そして、この紙上討論を通じて米軍基地のことや、日本のつらくて悲しい過去を知るなど、いろいろな事実を知ることができた。みんなの意見や、事実の知識を知った上で、自分が、また意見や考えを出す。それのくり返しをしてきた。いろいろな意見と同時に、紙上討論や増田先生に不満を持ったり、反対する人が出てきた。本当にいろいろな事があった。それでも増田先生は、私達が考えなければいけない事実を教えるため、紙上討論を続けてくれた。私は紙上討論を通じて、いろいろな意見を出せたり、社会に対する関心を高める事ができた。自分でも驚くくらい、たくさん考え、たくさん意見を出す事ができた。一番言いたいのは、紙上討論を通して『自分の意見をきちんと持ち、考えあうこと』の大切さが分かった、ということ。これは社会の授業だけでなく、大切な事だと思う。もちろん、そんなことは当たり前かもしれないけど、私は改めて分かった。一年間の紙上討論は、私にとってプラスだったし、きっと、みんなにとってもそうだと思う。」
(甲51・92枚目)
ここに見られるのは、「紙上討論にも反対の意見がいくつも出ていたし、私の反対意見も載った。でも紙上討論を繰り返しているうちに私の意見が変わった。それは、増田先生は紙上討論を通じて、私達に一つの事(テーマ)について、『いろいろな意見を出し合い、考えあうこと』を教えてくれているんだと気付いたから。」「私は紙上討論を通じて、いろいろな意見を出せたり、社会に対する関心を高める事ができた。自分でも驚くくらい、たくさん考え、たくさん意見を出す事ができた。」「学年のいろんな人達が、どんな風に考えているか、ということが、良く理解する事ができた。」という、他の人の意見をよく理解し、自らの力で考えていこう、という思考態度と過去の日本が犯した戦争の真実を知った上で未来に向けて誇りに思える日本を作っていこうという子ども達の将来への明るい希望である。
この年に、いわゆる「16中事件」が起きたことを考えると、原告が行った紙上討論授業の教育的効果がいかに高いものであるか、ということが優に窺えるのである。
B 九段中時代(控訴人が教壇を奪われた年の生徒たちの感想)
「・・・この前の休み明けテストも100点でした。これは本当に増田先生のおかげです。私は、社会があまり好きではなくて、歴史も興味を持てなかったのですが、増田先生の紙上討論をしている内に、みんなの意見をきいて自分もしっかりした意見が持ちたいと思うようになり、積極的に勉強するようになりました。・・・こうして考えて見ると増田先生の授業や紙上討論が、私のこれからの人生に大きな光を作り出してくれたのかも知れません。先生が九段中からいなくなってしまってから、ずっとずっと、いつ帰ってこられるのかなと、いつも待っていました。でも、結局最後まで先生のあの笑顔を見ることができないと知り、とても悲しくなりました。・・・」(甲21)
「・・・紙上討論は、文章が苦手な私にとって、とても辛いものでした。戦争や原爆のビデオを見たりして、涙した事もありました。でも、その時は大変でも、今振り返ってみると。紙上討論のお陰で、自分の意見が言えるようになり、友達の考えを知る事ができました。あれらのビデオを見たお陰で、教科書では学ぶことのできない真実を知る事ができました。先生の授業で無駄になった事は一つもありません。一年半という短い期間しか授業を受けられな(か)ったのはとても残念ですが、この貴重な体験を大切にし、将来、自分の子供にも真実を教えられる先生のような人間になりたいと思います。」(甲23)
「しかし、先生の紙上討論が一番なつかしいです。最初は全然意味が分からなくて、なんでこんなことをしなきゃならないんだ!!って感じだったんですが、時がたつにつれて、だんだんおもしろくなってきて、紙上討論の時間がとても楽しみになってきていました。意見を率直に書けるのがとても気楽でよかったです。」(甲24)
「・・・社会の授業で行った紙上討論も、自分のためになったと思います。自分の名前を公表しないので、意見が書きやすかったです。私は、紙上討論を通して、一つのものに対し、さまざまな意見があるということがわかり、その一つのことから、さらに考えをふくらますことができたと思います。」(甲102)
また、控訴人が、研修処分を受けなければ、2005年度の9月から行う予定であった平等権をテーマにした紙上討論の教材プリント(甲29)の中には、「・・・私は現在14歳なので、20〜22歳までの間に国籍を選ばなければならないので、今、正直に言うと、心が苦しいのです。私が韓国人になれば『日本人ならできるいろいろなことが、できなくなってしまうので、やめなさい』と周りの人々に言われます。もし、私が「在日」になってしまったならば、選挙権が得られないと言われました。これは明らかに民族差別になると、私は思います。日本国憲法の前文も英文だと「We,the
Japanese people=われわれ、日本の人々は」となっています。ということは、私たち在日の人間にも選挙権があっていいはずなのに・・・と思うことがあります。ですが、日本文だと「日本国民は」となってしまいます。これは明らかに、おかしいと思います。いつか日本政府が、この間違いに気付いて、差別のない日本を作ってくれると信じたい、と思っている私はバカでしょうか?・・・」(甲29・6枚目)と自らの出自と日本の外国人差別に悩んでいる生徒の正直な意見が書かれている。このような生徒個人のアイデンティティーに関わる重要な問題を正直に紙上討論で開陳することができること自体、生徒と控訴人との間の信頼関係の強固さと控訴人の学習指導の力量、授業における生徒指導の力量の高さを見ることができるのである。
以上のような事実を見るとき、このような生徒たちの成長を促すことのできた原告の紙上討論授業の教育的効果は極めて大きいことは余りにも明らかである。
c その他、授業における生徒指導についても、控訴人は何ら問題はなく、例えば、授業中に私語をするなど他の生徒に迷惑をかけるような態度を取る生徒に対しては、2回までは注意をして、3回目には1点減点するという方法をとるなどしていたが、その注意が公平であったため、生徒たちから不満がでたことはなく、このような点でも全く問題はなかったことが認められる(河野3頁)。
そして、この点についても、被控訴人、とりわけ都教委は何ら反論反証をしていない。
d 以上のとおり、控訴人の学習指導の力、授業における生徒指導の力については、極めて高いものがあることが優に認められる。
(イ)そのほかの生徒指導、学級経営
a 特別活動について
控訴人は、通常の授業以外にも、九段中学の生徒達に対して人権に関する作文や税に関する作文の指導を積極的に行い、その指導の下で、生徒達がいくつもの作文コンクールに入賞している(甲94、95、控訴人本人8頁)。
また、控訴人は、同中学校において、悪質なキャッチセールスから中学生を守るという企画を出し、区役所の消費生活担当職員と共同して、これを成功させたこともあった(甲96、控訴人本人8頁))。
さらに、部活動においても、社会科研究部の顧問教師を務めていた(甲95・控訴人本人9頁)。
また、生活面における生徒指導についても、控訴人は生活指導部ではなかったため、直接の指導の場面は少なかったものの、担当の同僚教師の相談に必ず乗ったりという形で積極的に協力していたことが認められる(根深2頁)。
b 以上のように、控訴人は、学習指導、授業における生徒指導という面だけでなく、その他の生徒指導の面でも、作文指導など多くの実績を残していたことが優に認められる。
また、学級経営という面においては、九段中時代に副担任という立場であったため、具体的な証拠はないが、過去においても、学級経営という面で控訴人が問題になったことがないことは弁論の全趣旨から優に認められる。
ウ 総合的な人間力
(ア)同僚職員、その他の者との協働、コミュニケーション
a 同僚職員との協働関係等
控訴人が九段中に勤務していた当時の同校の校長であった根深得英氏は、九段中における控訴人と同僚の教師達との関係についても、「同僚と話しをしてるときに、自分の意見を最後まで押し通すというような形ではなくて、よく意見を聞いて、妥協点ということで、うまく人間関係を作りながら進めてるというふうに感じられました。」(根深2頁)と証言しているところであり、きわめて良好であったことが認められる。
また、控訴人が第1次研修処分を受けたとき、その取消を求める大多数の同僚教師の署名が集まった事実も、控訴人が同僚との人間関係を協力的なものとして作り上げていたことを裏付けるものである(甲18の1乃至7)。
さらに、学校行事についても、控訴人は、修学旅行の際には、睡眠時間を削ってパトロールを行うなど極めて協力的な態度であったことが認められる(根深3頁)。
加えて、控訴人は九段中において、千代田区の中学校の教育研究会の学校側の窓口や学年便りを発行する校務を担当していたが、これもきちんと行っていた(根深2頁、甲97の1乃至14参照)。
b 生徒・保護者との信頼関係の存在について
控訴人と生徒との信頼関係についても、前述したように、生徒たちは控訴人を強く信頼していることが優に認められる(甲5,21乃至24、51、101乃至104等)。また、河野氏も、控訴人が生徒たちとの間に強い信頼関係があったこと、控訴人の夫が亡くなったときもすでに卒業していたにかかわらず自然発生的に教え子らが告別式に自主的に出席したことなどを証言しており、控訴人の教師として信頼される人柄が窺えるのである(河野2,7頁、甲67)。
また、保護者との間においても、九段中においては、控訴人が研修処分を受けて授業ができなくなったことを伝えられたときにある保護者から「増田先生の授業は非常にいい授業なのにどうして」(根深23頁)という声が上がったり、保護者一同が卒業式に出席できなかった原告に対して「1年半という短い期間ではございましたが先生が教えて下さった紙上討論で学んだ事を子供たちは決して忘れる事はないでしょう。本当にありがとうございました。」(甲25)との手紙を送るなど、古賀都議と友人関係にある中藤氏を除いては、極めて良好であったことが認められる。
c 以上のように、控訴人について同僚職員、生徒・保護者との間における協働関係、コミュニケーションについても何ら問題がないことが優に認められる。
(イ)広く豊かな教養
甲第6,29,51号証の紙上討論プリントには、控訴人の助言や注釈的なアドバイスも多く記載されているが、これには、多くの歴史資料や文献からの引用があり、控訴人の広く豊かな教養(常に怠ることのない教育活動に向けた研鑽)が認められる。
エ 小括
以上のとおり、控訴人は、「教員としての適格性」として一般的に要求される要件である「教職に対する情熱」、「教育者としての力量」、「総合的な人間力」(甲113参照)のいずれにおいても、欠けるところはなく、むしろ教員として極めて高い力量を有していることは明白であって、「教職に必要な適格性」を十分に有していることは明らかであって、これを否定した原判決の誤りは明白である。
(4)都教委は本件分限免職処分について「教職に必要な適格性」の要件を全く考慮していないこと
都教委は、本件分限処分を行うにあたり、これまで述べてきたような控訴人に関する「教職に必要な適格性」について、全く考慮していないことが原審における審理で明らかになっている。
ア 勝部純明の証言
すなわち、本件分限免職処分の際に、主任管理主事として直接の責任者であった勝部純明は、以下のように証言している。
「(根深校長の控訴人に対する評価が記載されている事情聴取記録−乙ロ36−について)・・・要するに、原告の日ごろの学校での勤務態度や授業の様子が評価されてるわけじゃないですか。そのことを、戒告処分のときだけじゃなくて、分限処分の時も参考にしましたかと聞いているんですよ
このことは参考にしていません。」(勝部尋問調書42頁)
「紅床副校長の(中略)事情聴取の記録ですね。間違いないですか
はい。
その2ページ目ですが、増田都子教諭について話してくださいと、そこで勤務時間は厳守し、提出物の期限もしっかりやっていると、職場の人間関係に特段の問題はない、評判についても特に何も聞いていません等々、日ごろの勤務態度について、身近にいる紅床副校長がそのような評価をしていると、この点は、分限処分の是非、当否を考える際に考慮しましたか特にこれを考慮はしていません。」(勝部43頁)
イ 橋爪昭男の証言
また、直接、本件分限免職処分案を起案した当時の管理主事であった橋爪昭男は、同処分とすることにした際、参考にした資料は、本件戒告処分時に出された千代田区教委の事故報告書、本件研修処分時の出された同区教委の事故報告書、本件第2次研修処分の都教委の研修の記録、第1,2次懲戒処分時に問題となった紙上討論プリント及び足立十六中の保護者に送付した印刷物だけであることを認めた上で(橋爪尋問調書19頁)で、以下のように証言している。
「足立十六中時代の事件については、特定の保護者を、あなたの言葉で言えば、
誹謗中傷した事件があったと、2回懲戒処分を受けておりますけど(中略)それ以前に、増田さんがそういう問題を起こしたという記録はどこかにありましたか。
私は見ておりません」(橋爪22,23頁)
「乙ロ第3号証の九段中の直接戒告処分になったあのプリント、歴史偽造の問題のプリントを出したことによって、生徒さんに具体的な悪影響があったということを、あなたは調査しましたか。あったか、なかったかということを調査しましたか調べておりません。」
「そうしますと、14年からそこまでは、全く授業に支障があると、そういうことはなかったわけですね。それは調べなくていいんですか、授業に支障があったか、なかったかとか。
それまでの間にですか。
いや、分限免職の原案を作成するにあたってですよ。
調べることは考えませんでした。」(同24,25頁)
「分限に当たって、増田さんが職務適格性があるか、ないか、直接の管理職の評価を聞くということは、全く考えなかったですか」
はい。もう千代田区から事故報告書が上がってますから。」
(同26頁)
「平成18年3月の時点で、あなたは、保護者からの聴き取り(乙ロ59の中藤PTA副会長からの聴取書:代理人註)・・・ほかの保護者、九段中の増田さんの授業を受けていた当時の3年生の保護者からの聞き取りとか、そういうようなものも一切やってないですよね。
はい。
で、こういうのは全く考慮しなかったんだ。これはこれでいいですね。
はい。」(同27頁)
「・・・教員としての職に必要な適格性の中に子供にきちんとした学力をつける事、こういうことはあるんじゃないですか。
はい、あると思います。」29
その点について、あなたは、増田さんはその能力について適格性があるとお考えですか、ないとお考えですか。
それは分かりません。
分からないのに分限免職にしたということにしかならないじゃないの」
いや、ですから。
・・・あなたは、増田さんの生徒の学力が、増田さんが三十数年間社会科を教えてきて、増田さんの教えてきた生徒が特段に学力が低かったとか、社会科の成績が悪かったとか、そういったことはあるという認識はないでしょう。
ないですよ。
そういう資料も一切上がってないでしょう。
はい。」(同29頁)
「たとえば、職として必要な適格性について、日常業務に支障をきたさない、校務分掌をきちんとやる、そういったことも職に必要な適格性として必要なことなんじゃないですか。
はい、そうですね。
そういうことを増田さんはやっていたか、やっていなかったか、あなたは把握してますか。
話には聞いたことがありますけれども、きちんとやっていたんじゃないですか。
そういう面でも、必要な適格性、教員として欠けるところはないですよね、
その面においても。それはそういう認識だったんですね。
(うなづく)」(同30頁)
「(甲5の答辞を引用した上で)こういうふうに生徒たちから評価される授業ということは、基本的にはプラスな非常にいい授業ということになりませんか。だから、100時間いい授業をやっても1時間あの教材を使った授業をしたら、やっぱり教員としては不適格だと私は考えてるんです。」
(同32頁)
ウ まとめ
このように、都教委は、「教職として必要な適格性」について全く考慮せず、ないしは完全に無視をして、「100時間いい授業をしても1時間駄目な授業をしたら」「教員として不適格」だという、長束小事件判決の判示に照らせば、極めて偏頗かつ不当な判断の下に、本件分限免職処分を下したことが明確となっているのである。
以上のとおり、本件分限免職処分を下した都教委の「教職としての適格性」に関する判断には、「考慮すべき事項を考慮しない」という重大な違法があることは明白であり、これを追認した原判決の違法もまた重大である。
(5)原判決の控訴人の「教職としての適格性」判断の誤り
ア 原判決の見解
原判決は、1998(平成10)、1999(平成11)年になされた第1,2次懲戒処分の内容とこの後になされた2年7ヶ月にわたってなされた長期研修の後、約4年3ヶ月後になされた甲第6号証の紙上討論の教材プリントの配布及び本件戒告処分の後になされた本件各研修期間中の態度、行動に「反省」の態度が見られなかったことを前提に、控訴人については、「自己が正しいと信じる見解と相容れない見解を一方的に誹謗する資料配布等を行うという強い意思を有していると評価することが可能」であって、「これは、簡単に矯正することのできない原告の素質、性格に起因」しており、「中立、公正に教育を行うという教育公務員としての職務の円滑な遂行に支障が生じている」から、「その職に必要な適格性を欠く」とするのである(原判決26,27頁)。
イ 原判決の誤り(総論)
原判決の上記部分に関する誤りについては、控訴理由書62乃至71頁において述べているところであるが、これを敷衍しつつ、改めて検討することとする。
まず、「中立、公正に教育を行う」ことが「教育公務員の職務」であるとする点であるが、「教育の中立、公正」性の問題については、第2において後述するとおりであり、原判決のいう「教育の中立、公正」性の内容は、本来の意味における「教育の中立、公正」性とは全く異なるものであって、誤っているという点である。
一点だけ補充するならば、冒頭の<はじめに>において述べた漫画の場面が象徴的に示すように、日本の過去における侵略の事実を否定する古賀都議の都議会における発言や侵略の事実を「美化」する扶桑社の歴史教科書の記載が、「国際的には恥を晒す」ものであり、かつ「歴史の偽造」であることは、まさしく「真実」なのであり、これを「批判」することは、本来の意味における教育の「中立、公正」性からしても、極めて正当なことである。控訴人が、紙上討論の教材プリント(甲6)の中で、上記のような指摘を行ったことは、子ども達が、国際化する社会の中で、将来、「恥を晒さない」ようにするためにも必要なことであったというべきなのである。したがって、控訴人が紙上討論授業の教材プリントにおいて古賀都議の発言や扶桑社の歴史教科書の記載内容を批判としたとしても、原判決が、そのことをもって「中立、公正に教育を行うという教育公務員としての職務の円滑な遂行に支障が生じている」と判断することは明らかな間違いである。
次に指摘すべきは、原判決は、@第1,2次懲戒処分の原因となった控訴人の行為とA本件戒告処分の原因となった行為及びこれに続くB本件各研修における控訴人の言動を根拠として、控訴人について、「自己が正しいと信じる見解と相容れない見解を一方的に誹謗する資料配布等を行うという強い意思を有している」のは、「簡単に矯正することのできない原告の素質、性格に起因」するものとしていることの誤りである。
上記@とAは、全く事案が異なり、質の異なるものであることは従前から述べているとおりであり、ここでも後述する。
上記Bの点については、まずもって、研修中の控訴人の言動は、教員である控訴人の中核的職務である生徒に対する教育の現場でのことではないこと、すなわち子どもとの直接的な人格的接触に関するものではないことに留意するべきである。このような控訴人の本来の職務外での言動を、控訴人の素質、性格の「外部的徴表」であるというなら、教員の中核的職務である授業を中心とした控訴人と生徒たちの直接的な触れあい、関わりの場面における学習指導、生徒指導の能力・実績こそ、控訴人の教職たるべき素質、性格に関するより重要な「外部的徴表」として評価、検討されるべきことは当然のことである。前述したように、控訴人が行ってきた紙上討論が生徒たちに与えた教育的影響は素晴らしいものがあり、生徒の誰一人として、「(控訴人が)自己が正しいと信じる見解と相容れない見解を一方的に誹謗する」(原判決)とか、都教委が主張するような「自己の見解を他人に押し付け、自己の見解と異なる者に対し誹謗を行う」性格、性状の持ち主である(都教委準備書面(2)7頁等参照)などという評価はしていないのである。
また、上記Bの点に関する本件各研修中の控訴人の言動が、「自己が正しいと信じる見解と相容れない見解を一方的に誹謗する資料配布等を行う」性格、性状の「外部的徴表」ということができないことについては後述する。
ウ 第1,2次懲戒処分の原因となった控訴人の行為と本件戒告処分の原因となった行為とは全く異なるものであること
原判決は、上述したように、第1次、第2次懲戒処分と本件戒告処分とを同種の非違行為である」としているが、これは全くの誤りである。
第1、2次懲戒処分の原因となったのは、控訴人が、足立十六中に在籍していた当時、紙上討論の授業の中で、特定の保護者を批判(原判決の言葉で言えば、「誹謗」−以下、同じ)したことが原因となっている。上記授業の際に配布されたプリントには、その保護者の名前は特定されていない上、複雑な背景事情があったことは留意される必要があるが、そのことはいったん措くとしても、控訴人は、この処分以後、教壇に復帰してから、授業において配布した教材プリントなどの資料の中で一私人である「特定の保護者」を批判したことはただの一度たりともないことは争いのない事実である。
これに対して、本件戒告処分において問題とされたのは、都議会議員という「公人」である古賀都議が「公」の場である都議会の場で発言した内容と扶桑社という教科書出版会社が出版した歴史教科書という「公」の刊行物の記載内容に関して、授業の際に使用された教材プリント(甲6)の中で批判したことについてである。
すなわち、前者は、生徒の保護者という個人の権利が重視されるべき「私人の発言」を対象としたものであるのに対し、後者は、公開が前提とされ批判に晒されることが予定されている都議及び教科書という「公人の発言」ないし「公的な刊行物の記載内容」を対象とした点において、全く異なっている。
また、前者は、「アサハカ」「チクリ」など生徒の目線での言葉とはいえ、やや行き過ぎた感のある表現が用いられているのに対し、後者に対する控訴人の上記批判は、国際的には常識の部類に入る歴史認識及び日本国政府の公式見解が取る立場(先の戦争が侵略戦争であったという立場)に基づくものであったことは、これまでも再三主張してきたとおりである。
したがって、第1、2次懲戒処分において問題とされた控訴人の行為と本件戒告処分において問題とされた控訴人との行為とでは、その対象は「私人」であるか「公人」ないしは「公的な刊行物」という点において、また、その質(個人の権利が重視されるのか公開原則の下で批判に晒されることが予定されているのか)において、決定的に異なっているのであって、これらを「同種の非違行為」と断じた原判決は完全に誤っていると言わざるを得ない。そして、第1,2次懲戒処分において問題とされたような行為については、「矯正」されていることが認められるのである。
さらに、とりわけ後者の控訴人の上記批判は、前述のとおり、まさに正当な「批判」(物事の可否に検討を加え評価・判定すること−甲88、悪いところを根本的に批判すること−甲89)なのであり、原判決が言うような「誹謗」(他人の悪口をいうこと,同義語として「中傷」=根拠のない悪口を言い他人の名誉を傷つけること−甲88)「揶揄」(からかう)といった低レベルの問題ではないこともまた、従前から述べているとおりである。
この点につき、原判決は、控訴人が「自己が正しいと信じる見解と相容れない見解を一方的に誹謗する資料配布等を行」ったことを問題とし、本件分限免職処分説明書(甲1の2)でも、控訴人による「誹謗」との指摘が繰り返されている。
しかし、原判決には、この表現が「誹謗するものであることは明らか」であることの『客観性』ある理由、「批判」と「誹謗」の判断基準は、どこにも書かれていない。原判決の論理上は「都教委が『誹謗』と判断して処分し、原告も処分された事実を認めているから、『誹謗するものであることは明らかである』」というだけである。付言すれば「稚拙な表現」などとは、被控訴人も主張していなかった。
貴裁判所におかれては、「批判」と「誹謗」の定義・基準を明らかにしてから、事実認定をされたい。
さらに補足するならば、日本国憲法が、先の戦争がアジアの人々及び日本国民に計り知れない甚大な被害を与えたことの深刻な反省から(侵略のための)戦争放棄という平和主義を根本原則としたことからすれば、日本国憲法の存立基盤を否定するような公的発言及び教科書の記載内容を批判的に生徒たちに教えることは、むしろ憲法遵守義務を課せられた(教育)公務員にとって必要とされることなのである(詳細は、第2において述べる。)。
以上からすれば、原判決が、上記2つの控訴人の行為を「同種」とし、「(控訴人が)特定個人又は法人を誹謗する内容を含む資料を配布して授業を行うことを継続する強い意思がある」とし、かかる性格は、「簡単に矯正することのできない素質、性格に起因」していると評価したことは、この一点をもってしても、明らかな誤りであることが認められる。
エ 控訴人の教え子は誰一人として、控訴人を「自己が正しいと信じる見解と相容れない見解を一方的に誹謗する」ような性格とは見ていないこと
都教委は準備書面(2)7頁で、控訴人の「先生から生徒たちへ」と題するプリントについての尋問を根拠に、控訴人は「自己の意見を他人に押し付け」る性格を有しているとする。しかし、控訴人は尋問では「正当なプリントです」と答えただけであり、それが「自己の意見を他人に押し付け」る性格を示しているというのは、あまりに飛躍がありすぎる。
むしろ、上述したように、控訴人から授業を受けた生徒の誰一人として、「(控訴人が)自己が正しいと信じる見解と相容れない見解を一方的に誹謗する」(原判決)とか「自己の見解を他人に押し付け、自己の見解と異なる者に対し誹謗を行う性格、性状の持ち主である」(都教委)などという評価はしていない。そのことは、次のような生徒の意見からも明らかである。
「・・・それから私は、紙上討論をするのが、初めはイヤだった。同じことを何度も繰り返しているように思えたし、他人の意見に口出しされたりするから。紙上討論にも反対の意見がいくつも出ていたし、私の反対意見も載った。でも紙上討論を繰り返しているうちに私の意見が変わった。それは、増田先生は紙上討論を通じて、私達に一つの事(テーマ)について、『いろいろな意見を出し合い、考えあうこと』を教えてくれているんだと気付いたから。」(甲51・87枚目)
「私達は、この一年間に、たくさんの紙上討論をやってきた。そして、この紙上討論を通じて米軍基地のことや、日本のつらくて悲しい過去を知るなど、いろいろな事実を知ることができた。みんなの意見や、事実の知識を知った上で、自分が、また意見や考えを出す。それのくり返しをしてきた。いろいろな意見と同時に、紙上討論や増田先生に不満を持ったり、反対する人が出てきた。本当にいろいろな事があった。それでも増田先生は、私達が考えなければいけない事実を教えるため、紙上討論を続けてくれた。私は紙上討論を通じて、いろいろな意見を出せたり、社会に対する関心を高める事ができた。自分でも驚くくらい、たくさん考え、たくさん意見を出す事ができた。一番言いたいのは、紙上討論を通して『自分の意見をきちんと持ち、考えあうこと』の大切さが分かった、ということ。これは社会の授業だけでなく、大切な事だと思う。もちろん、そんなことは当たり前かもしれないけど、私は改めて分かった。一年間の紙上討論は、私にとってプラスだったし、きっと、みんなにとってもそうだと思う。」(甲51・92枚目)
「・・・増田先生の紙上討論をしている内に、みんなの意見をきいて自分もしっかりした意見が持ちたいと思うようになり、積極的に勉強するようになりました。・・・こうして考えて見ると増田先生の授業や紙上討論が、私のこれからの人生に大きな光を作り出してくれたのかも知れません。」(甲21ー本件処分当時の九段中の卒業生の手紙)
「・・・戦争や原爆のビデオを見たりして、涙した事もありました。でも、その時は大変でも、今振り返ってみると。紙上討論のお陰で、自分の意見が言えるようになり、友達の考えを知る事ができました。あれらのビデオを見たお陰で、教科書では学ぶことのできない真実を知る事ができました。先生の授業で無駄になった事は一つもありません。一年半という短い期間しか授業を受けられな(か)ったのはとても残念ですが、この貴重な体験を大切にし、将来、自分の子供にも真実を教えられる先生のような人間になりたいと思います。」(甲23−前同)
「実際、紙上討論の時には、私も含めて、生徒たちはみんな、自分の意見を自由に書いていましたし、正解があるわけではありませんでしたので、本当に自由にやらせてもらっている、と感じていましたから、先生の意見を押し付けられているなどという印象は全くありません。また、先生が意見を言うこともありましたが、生徒達がそれに流されるというようなことはなく、それぞれが自分の意見をきちんと持っていました。ですから、教育委員会が言っているようなことは当たっていないことは自信を持って言うことができます。」(甲67・3頁)
このような生徒たちの意見は、本件において提出している証拠からも枚挙にいとまがないが、生徒達が、紙上討論を通じて、「他人の意見を聞き、自ら考え、自分の意見を持つこと」の大切さを控訴人から教えられたことを感謝しこそすれ、控訴人が、「自己が正しいと信じる見解と相容れない見解を一方的に誹謗する」とか「自己の見解を他人に押し付け、自己の見解と異なる者に対し誹謗を行う性格、性状の持ち主である」などとは考えていないのであって、原判決や都教委の控訴人に対する評価が完全に誤っていることはもはや明白である。付言すれば、前述したように、九段中根深校長は「同僚と話しをしてるときに、自分の意見を最後まで押し通すというような形ではなくて、よく意見を聞いて、妥協点ということで、うまく人間関係を作りながら進めてるというふうに感じられました。」(根深2頁)と証言しており、控訴人が、もし本当に「自己が正しいと信じる見解と相容れない見解を一方的に誹謗する」とか「自己の見解を他人に押し付け、自己の見解と異なる者に対し誹謗を行う性格、性状の持ち主である」ならば、学校では日常的に校長・副校長や同僚・保護者・生徒とのトラブルが起こることは必至であるが、そのようなことが存在しなかったことは明白であり、この点の事実も故意にか認定しなかった原判決の誤りは明らかである。
オ 控訴人の本件第2次研修中の言動について
控訴人が、本件各研修中に抗議行動等を取ったことは、以下に述べるように、やむにやまれぬ理由があったのであり、「自己の見解と異なる見解を一方的に誹謗する」素質、性格の「外部的徴表」などでは決してない。
以下、具体的に検討する。
(ア)研修中における都教委の全体的な評価
近藤精一研修センター長は、平成18年3月17日付けの都教委教育長
にあてた研修実施状況報告書の中で、控訴人の平成17年9月20日〜平成18年2月28日の間の研修の総合的所見として、「控訴人は、研修課題に対する論文の中で、自己と異なる主張に対しては極めて攻撃的な言葉で反論したり、課題に正対していない内容を記述する等、自己の基本的な主張を変えることはなかった」とした。
しかし、控訴人に対して「自己と異なる主張に対して極めて攻撃的な言葉で反論した」と評価すること自体が不当である。
控訴人が強い表現や言葉で反論したのは、「日本は侵略戦争をしていない」などと、一般的な歴史観や政府の公式見解においても認められていない一部の見解や個人情報漏えいの違法行為を働きながら何らの謝罪も反省もない被控訴人らに対してであり、「自己と異なる主張」に対して、何にでも攻撃反論している訳ではない。
むしろ、紙上討論授業の中では、生徒達の多様な意見、例えば、「いつまでも戦争責任、責任って、韓国もしつこい」的な意見も、取り上げて紹介し、各々の個人の意見の個性や多様性を尊重してきたのである。
にもかかわらず、都教委が、「控訴人は自己の基本的な主張を変えなかった」と評価しているのは、研修と称して、控訴人の思想・信条を改造しようとしていることを露呈したものと言わざるを得ない。また、このことは、「都議会議員という公人の公の場における『過去の戦争は侵略戦争ではない』」という発言やそのような趣旨で歴史を『美化』しようとする歴史教科書の記載を名指しで批判(都教委の言葉で言えば「誹謗」)してはならない」という都教委の主張と「異なる主張」(しかも、それは日本国憲法の立場からするものである)を行う者に対して、一方的にこれを非難し、都教委の主張を押し付けようとするものであって、都教委が控訴人に対して行ってきた「誹謗」は、全て都教委の言動にあてはまることを示している。
そして、そのような都教委の行為こそ、憲法13条、19条に照らして許されないのであって、このような人権侵害研修を行った都教委が、その他いやがらせ・パワハラとしか言えない録音や離席の点についても、後述のように控訴人を非難し、本件分限免職処分の理由とするなど、裁量権の逸脱も甚だしい。
むしろ、このような本来の「研修」の実態を持たない「研修」を行った都教委こそが非難されるべきである。(甲116・27,28頁参照)
また、「(控訴人が)課題に正対していない内容を記述」した、との点についても、控訴人が、出された課題に対して、自己の意見、見解を述べていることは、当審における控訴人準備書面(3)において、詳細に述べているところである。都教委の上記評価もまた、都教委が自己の見解を一方的に控訴人に押し付けていることを示すものであると言わざるを得ないのである。
したがって、都教委の控訴人の研修に対する上記評価は失当であり、これを追認して、控訴人の「教職としての適格性」を否定した原判決の誤りも明らかである。
(イ)都教委による第2次研修における控訴人に対する処遇
被控訴人らは、第2次研修初日である平成17年9月20日、控訴人が「研修の実施について」と題する書面の配布を受け、それには、研修期間、研修場所等の他、遵守事項として、「研修受講にあたっては研修に専念する、研修担当職員の指示に従う、録音、録画を行わない」等と記載されていたにもかかわらず、控訴人が、持参した抗議文を読み、録音行為を行った点が問題であると主張する。
しかしながら、以下のとおり、被控訴人らの主張は失当である。
a 所長の違法行為
確かに、控訴人は、同日、まず、持参した抗議文を約2分問読み続けた。
同抗議文は、「近藤精一、東京都教職員研修センター所長に告ぐ」と題し、「あなたは私の個人情報を都議に漏洩するという非違行為を犯しました、もし、あなたが真に公務員たるの資質を持つものであれば、懲罰を本質とする本研修の強制は、まさしく日勤教育に等しいもので、許されざる人権侵害であることが理解できるはずです、この人権侵害懲罰研修については、教育基本法10条が巌禁する教育に対する不当な支配干渉に当たるものとして、市民、保護者、生徒、マスコミはもとより、真っ当な都議会議員や国会議員も重大な関心を持っていることを付言しておきます」等と記載されていた。
しかしながら、この控訴人の抗議が問題視されるいわれはない。
控訴人の個人情報を控訴人を攻撃している当該都議に漏洩し、その違法性が裁判で確定した張本人が、控訴人に対して「研修指導」をするということは、あまりにも理不尽としか言いようがない。
控訴人の行為には何らの違法性はないにもかかわらず、控訴人を指導する都教委の側は、違法行為を犯し、「その違法行為の張本人」が「研修センター所長近藤精一」だったのである。近藤には控訴人を指導する資質はなく、控訴人はその指導に服することができないと考えるのも無理もない。控訴人の抗議はやむを得ないものであり、都教委は、この抗議を受けて、直ちにこの研修をやめ、近藤に対してこそ研修させるべきであったろう。(甲116・23頁)
b 録音禁止(阿部意見書35頁)
さらに、原判決11頁及び被控訴人らの主張において、控訴人は、研修担当者から止めるよう再三、指示されたが、裁判資料にするとして12回にわたり録音行為を行ったことが指摘されている。
しかし、録音は、研修自体を妨げるものではないので、なぜ許されないのか理解に苦しむ。そのようなものを禁止するには、きちんとした理由を付けて説得すべきであって、それをせずに、録音禁止に従わなかったことを処分理由とすることは許されない。裁判資料にされると困ることをしているとすれば、それは教育委員会の方に非があるのであり、困らないのであればなおさら、録音を認めるべきである。このように、録音禁止自体が、本件第2次研修が違法な研修であることを都教委自身が自認していると言うべきである(甲116・35頁)。
付言すれば、1998年9月から2000年3月までの2年7カ月にわたる「過去の長期研修」においても控訴人は「録音行為」を行い続けたが、「教育公務員適格」を認められ、2000年4月千代田区立九段中学校に現場復帰しているのである。よって、「録音禁止に従わなかった」ことを本件分限免職処分の理由とすることは矛盾そのものであり、処分するためのこじつけでしかないことはあまりにも明らかである。この点を故意にか事実認定から欠落させた原判決の誤りも、また、余りにも明らかである。
c 同年9月20日以降の控訴人の言動
かかる本件研修中の人権侵害的処遇に対し、控訴人は、同月22日、研修センターにおいて、同センター所長あての抗議文を作成し、担当者に手渡した。同抗議文には、「研修センターにおける人権侵害の実態」として、指導主事から、部屋を出るときは行き先を告げてくださいと言われたこと等が人権侵害に当たる等と記載され、「これでは人権侵害常習センターであり、あまりに気持ち悪くて研修に専念できない」等と記載されていた。
また、控訴人は、同月27日、上記指導主事らの対応が人権侵害行為に当たるとして、同主事らに対し、控訴人に謝罪させるよう要求する旨の近藤所長にあてた抗議文を研修担当者に手渡した。
さらに、控訴人は、同年10月3日、上記指導主事らの対応が人権侵害に当たるとして、控訴人に謝罪させるよう要求する旨、統括指導主事から指示された週1回の研修センター立川分室での研修を拒否する旨が記載された近藤所長あての抗議文を研修担当者に手渡した。
同日、控訴人は、同年11月7日、別の指導主事から、部屋を出るときは必ず行き先を告げることになっていると言われたことが人権侵害に当たるとし、「もともとが都教委による嫌がらせ人権侵害研修として強制されている本研修」と記載した抗議文を作成し、研修担当者に手渡した。
しかしながら、控訴人に対する人権侵害処遇に対する控訴人の抗議文にどんな問題があるのであろうか。この研修が正当なものであれば、本来、(課題に対する解答の作成の合間に)疲れたからラジオ体操をする、トイレに行くといったことについていちいち許可を要する必要性はどこにもないはずであって、本件研修の実態が、不当かつ不要なものであって、単なる「嫌がらせ」にすぎないからこそ、このような細かい拘束をかけたものとしかいいようがないのである。(甲116・24,25頁)
なお、あえて補足すれば、人権は侵害された者が声を上げて守らなければ、なし崩しにされるものであることは歴史上経験されてきた事実である。憲法もそのことを踏まえて、詳細な人権保障規定を定めているのであって、「人権を侵害された」と認識した時に、それに対して抗議の声を上げることは、憲法上、むしろ推奨されるべき行動であって、これを「職の適格性を欠く」ことの根拠とすること自体、不当であり、失当であることは明らかである。
(ウ)研修担当者に対する控訴人の発言の評価
原判決11頁の認定及び被控訴人らの主張の中では、「控訴人は、研修中に、研修運営担当者に対し、厚顔無恥、木っ端役人等と発言したり、この研修は犯罪行為です、人権侵害です、都教委は犯罪者集団、人権侵害集団、人権侵害だから証拠を取る、強権を持って私を洗脳しようとしている等と発言したりした」旨の記載がある。
確かに、控訴人の発言だけをとらえればいささか不適当に見えるが、これらの発言は、もちろん、生徒に対するものではなく、控訴人を排斥しようとする都議会議員らの意向を受けて、控訴人に対し「(日本国憲法の趣旨を無視した)偏向した教育・授業を強制」するために、強硬な「指導」を行ってきた都教委に対する言葉である。よって、控訴人の立場に立つならば、「この程度のことは言わせて頂きたい」のは当然であり、控訴人だけを非難することは、極めて一方的と言わざるを得ない。
たとえば、令状なく逮捕されたり、逮捕の際に暴行を受けた者が、「権力の犬、暴力警官」と言ったとして、その発言だけを問題とするのは大間違いである。違法行為をした警察官の方から先に取り締まるべきことは当然である。
本件の研修も、前述の通り思想改造を狙って、閉鎖的な空間で毎日思想を変えさせようとするもの(もし、控訴人が、控訴人を「誹謗・中傷し、排斥しようとする特定都議会議員」や被控訴人らの思想に迎合すれば、直ちに研修の成果が上がったとして、現場復帰できたのであろうが)である。よって、この程度の発言をしたところで、許容されるべきであるし(甲116・27頁参照)、かかる生徒に対するものでない控訴人の言動を捉えて「教職に必要とされる適格性を欠く」と認定することは許されないと言うべきである。
(エ)支援者集会での生徒の保護者名記載の資料配付
原判決10頁下の段落及び被控訴人らは、「控訴人は、豊島区立勤労福祉会館で開催された集会において、千代田立九段中学校長から区教委にあてた服務事故報告書を控訴人が執行委員長を勤める団体が発行したビラと併せて配布した。上記服務事故報告書には、本件資料の作成;配布行為に関して、同中学校の生徒の特定の保護者について、姓及び肩書きが付された上で、この保護者が本件資料を問題視して控訴人と面談したこと等が記載されている。また、上記ビラは、本件戒告処分の不当性を訴える内容のものであり、その中に、『授業で公人や出版社の誤りを批判することが、なぜ悪いのか』『特異な史観を持つ保護者に悪のり』『たまたま保護者の―人に、戦時中の神がかり皇国史観の教祖である平泉澄の信奉者がいて、息子から紙上討論プリントを出させ、都の教育委員会に送付した。それを利用しての処分なのである』と記載されていた」事実を問題としている。
しかしながら、当該集会は、学校外の支援者が集まった集会であり、そこで処分を受けた控訴人の立場を説明しているものであり、控訴人とすれば、当然の権利の行使である。
あえて挙げれば、問題は特定の保護者の姓と肩書きが記載されていることであろうが、生徒に渡したのではないので、教育上の問題があるわけではない。
よって、教育公務員としての適格性を失わせる程度のものではないことは、これまでと同様である(甲116・25頁参照)
(オ)特定個人を批判した資料の配付と教育公務員の資質
原判決11頁2段目は、「控訴人は、同年12月7日、本件資料の作成、配布に関連して、『個人的見解で特定個人や団体等を誹謗中傷した箇所がある資料を生徒に配布して授業を行った理由及び教育公務員としてのあなたの考えを述べよ』との課題に対し、ごく当然の批判であって誹謗中傷では全くない、これを誹謗中傷と判断したのは、教育公務員として侵略戦争の反省の上に立ってつくられた日本国憲法の理念を身につけていないことを意味している、このような判断力を持つものは教育公務員としての資質があまりにも不十分である等と記載した解答を提出した。」として、「公務員の適格性欠如」の理由として挙げている。
確かに、控訴人の解答における文言は些か攻撃的のきらいはあるかも知れない。
しかしながら、内容的には、控訴人の見解の方が一般的であり、公人たる都議会議員という特定個人や団体の見解の方が憲法にふさわしくなく、一方的なものであって、授業でこれを指摘することは、むしろまっとうであることは、これまで再三にわたり述べてきたところである。控訴人の解答は、多少表現が攻撃的でも、内容的には十分に首肯できるものであり、その見解を変えさせようとする都教委の「指導」の方にこそ問題があることもまた、前述したとおりである(甲116・25,26頁参照)。
カ 以上のとおり、控訴人について「自己が正しいと信じる見解と相容れない
見解を一方的に誹謗する資料配布等を行うという強い意思を有していると評価することが可能」であって、「これは、簡単に矯正することのできない原告の素質、性格に起因」しており、「中立、公正に教育を行うという教育公務員としての職務の円滑な遂行に支障が生じている」から、「その職に必要な適格性を欠く」とした原判決の判断には、考慮すべき事項を考慮せず、考慮すべきでない事項を過大に評価するという違法が認められ、その取消は免れない。
(6)小括
以上、長束小事件判決の「地方公務員法28条1項3号にいう『その職に必要な適格性を欠く場合』」についての判断基準に照らして、控訴人が優に「教職として必要とされる適格性」を有していることは明らかである。
原判決は、長束小事件判決の判断基準を正確に引用しない判例違背、及び「職の適格性」認定において考慮すべき事項を考慮せず、考慮すべきでない事項を考慮するという違法があり、その取消は免れない。
3 不正目的・動機と他事考慮−古賀都議らの政治的圧力の存在
本件戒告処分から分限免職処分に至った紙上討論の教材プリント(甲6)の存在が発覚した経緯及び本件戒告処分が発令されるに至った経緯については、控訴理由書13乃至18頁に詳細に述べているが、これらの経緯には、古賀都議や産経新聞の関与があったこと自体は、原判決も「・・・・原告が主張する都議会議員との間で訴訟事件等の確執が存在し,本件戒告処分の理由となった本件資料の都教委への発覚の経緯に都議会議員が関与していたという事実から,本件分限免職処分の違法性を根拠付けることはできない」として、一応認めた上で、本件分限免職処分の違法性を根拠付けることはできないと判示している。
しかしながら、本件分限処分に至る本件各処分の発端は、本件戒告処分以前から「控訴人に対する名誉毀損の不法行為に基づく損害賠償請求事件」等の訴訟事件の被告であり、「都民の血税で運営される公器である東京都議会」において控訴人を誹謗中傷する演説(原判決は、何らの証拠を摘示することなく「原告批判の演説」と認定しているが)を行っていた古賀俊昭都議会議員が、「友人である中藤健三PTA副会長」から本件資料を入手し(古賀都議は、それ以前から、情報公開請求などをして資料収集を行っていた)、自らの権力を濫用し、都教委義務教育心身障害教育指導課長大江近を呼びつけ、「調査命令」を発令したこと、及び「中藤健三PTA副会長」の都教委等に対する手紙にあることは、原判決も事実上認めているところである。
しかるに、被控訴人らは、(そして、原審裁判所までもが)、本件資料「3学年、紙上討論1」中の前記「クラーク・ラムゼー元司法長官主催の国際行動センターIACによるブッシュ大統領痛烈批判」や「野中広務元官房長官による小泉純一郎元総理靖国参拝痛烈批判」といった「団体・個人による特定個人(公人)批判」(原判決及び被控訴人らの論理では『誹謗』にあたる)には一顧だに目もくれもしない。ただ「古賀都議会議員が『侵略戦争云々というのは、私は、全く当たらないと思います・・・』などと国際的に恥を晒すことでしかない歴史認識を得々として喜々として披露している・・・歴史偽造主義者達」「侵略の正当化教科書として歴史偽造で有名な扶桑社」という部分にのみ「一極集中」し、「不適切な文言を記載した資料を作成し、使用し・・・全体の奉仕者にふさわしくない行為であって、教育公務員としての職の信用を傷つけるとともに、職全体の不名誉となる」云々として本件戒告処分を発令したことから、本件分限免職処分まで行っている。
被控訴人らは、「中藤PTA副会長」という古賀都議の親しい友人であり「(増田を)刺す」とまで言った(根深7頁)「特定の保護者」、あるいは、「古賀俊昭都議」「土屋敬之都議」といった常にその言動が批判の対象となって当然の公人である特定の政治家、「扶桑社・産経新聞」といった特定出版社・メディアに対しては、異常なまでに気を遣い、その意見を尊重し(乙59、甲15の4)、あまつさえ、彼らの指示に従って違法に控訴人のプライバシー情報を漏洩していることが認められる(甲72、27、41の判決書)。
かかる事実からすれば、本件各処分が古賀都議等の意向を受けた都教委が、本件分限免職処分を強行したことは優に推認されるところである。旧教基法10条1項の「不当な支配」の禁止の趣旨は、政治的圧力から教育の自由を守る趣旨であることからしても、任命権者が教員を処分する際に、かかる政治的圧力の下になすことは、旧教基法10条1項の「不当な支配の禁止」の趣旨からしても、絶対に許されることではない。不正目的・動機による処分として違法であるとともに、「考慮すべきでない事項を考慮した」ものとして裁量権の逸脱濫用が認められることは明らかである。
この点、阿部教授も、意見書の中で、「原告を処分するには,原告の言動だけを取り上げるべきではなく,原告がそのような言動に至った背景事情を考慮すべきであり,『都議会議員との間で訴訟事件等の確執が存在し,本件戒告処分の理由となった本件資料の都教委への発覚の経緯に都議会議員が関与していたという事実』を無視することはできない。それを無視した原判決はそれだけで考慮すべき事項を考慮していないというべきであろう」(甲116・34頁)としており、本件分限免職処分を追認した違法性を論じている。
以上から、本件分限免職処分が、長束小事件判決が指摘する「分限制度の目的と関係ない目的や動機に基づ」き、かつ「考慮すべきでない事項を考慮した」ものであって、「裁量権の行使を誤った違法」が存することは、この点からも明白であって、これを追認した原判決の取消は免れない。
4 本件分限免職処分における比例原則違反
(1)比例原則の意義
阿部教授の意見書5頁には「分限処分事由である『勤務実績が良くない場合』『その(官)職に必要な適格性を欠く場合』(国家公務員法78条、地方公務員法28条)等は、裁判所が全面審査する法的な概念である。裁量は,この要件を満たした場合に処分をするかどうかにある。処分をするとして,どの処分(懲戒処分なら,免職、停職、減給、戒告、分限処分なら免職、降任)をするかについては、比例原則の問題がある。」と記載されている。
すなわち、「勤務実績が良くない場合」「その(官)職に必要な適格性を欠く場合」についても、行政機関は直ちに公務員を処分しなければならないわけではなく、処分をするか否かにも裁量がある。また、処分をするとして、どの処分を行うか、については、比例原則によって行政機関の裁量は制約されるのである。
この点につき、いかなる処分を選択するかについても、教員に対する分限処分について、「『比例原則』など問題とする余地のないものである」とする都教委の準備書面(2)18頁の主張はあまりに失当である。
確かに、教諭の場合には降任という措置は取り得ないが、その場合のためにも、都には「職員の分限に関する条例」3条3項があり、転任という措置が執られることとされているし、分限処分ではないものの、研修という措置も考えられるのである。
この比例原則の憲法上の意義につき、阿部教授は以下の通り述べていることも、留意されなければならない。
「そして、比例原則は、国家権力が過大であってはならないとの一般的な憲法原理に基づき、広く妥当している。これはもともとドイツの警察法から出発したが、今は、行政法上の法の一般原則となっている。」(甲116・5頁)。
(2)長束小事件最高裁判決における比例原則の分限処分への適用
前述の長束小学校事件最高裁判決が、比例原則の適用の考え方として、「免職処分の場合における適格性の判断を特に厳密、慎重にすべき」との基準を示したことは重要である。
そのことを踏まえて、阿部教授は、意見書11頁で、以下の通り述べる。
「教育公務員の場合、免職処分を受ければ、教師としての人生を否定され、生活を破壊される重大なものであるから、処分庁の裁量に任せず、特に慎重・厳密に判断すべきである。このことも前記の長塚小学校長事件最判が明言するところである。」
(3)最高裁判判例、比例原則に反する原判決
そして、阿部教授は、意見書29頁で以下の通り述べて原判決を批判する。
「しかし、最高裁判所は長束小事件判決において、『免職処分の場合における適格性の判断を特に厳密、慎重にすべき』とした基準(比例原則)を示しているのに、原判決はこれを採用していない。原判決は、最高裁判所の判例を理由なく無視しているというべきである。」
それに対して、都教委は、準備書面(2)12頁で「分限処分に関する地公法28条1項3号が規定する『その職に必要な適格性を欠く場合』とは、評価概念であり、行政法学で言われる『要件裁量』の問題なのであり、懲戒処分で問題となる非違行為と処分量定という意味での比例原則が適用される余地のないものである」などとするが、これが、最高裁判例の理解を誤ったものであることは言うまでもない。これに関する都教委の準備書面(2)13頁の主張は意味不明である。控訴人は、前述の通り「その職に必要な適格性を欠く場合」に当たるとしても、処分すべきかどうか、あるいは、研修処分とすべきか、転任とすべきかの判断に際して比例原則を適用すべきと主張するものである。
他方、原判決29頁は、「原告は,本件分限免職処分は,他の事例と比較して不当に重く,比例原則に違反すると主張するが,上記判断のとおり,本件分限免職処分が不当に重く,裁量権の逸脱,濫用があると評価する余地はない。
以上より,原告に対し,分限免職事由該当性を認めて本件分限免職処分をしたことに,裁量権の逸脱,濫用は認められない。」とする。
これに対し、阿部教授は、以下の通り、比例原則に基づいて具体的に考察している。
「そして、教員の分限免職の例として、普通には、失踪、欠勤、職務命令違背、矯正困難な指導力不足等がある。
他方で、同僚や生徒等に対するセクシャル・ハラスメントや性的行為が免職ではなく停職処分で済ませられたり、体罰やいじめについても、程度によっては、免職処分ではなく、停職若しくは減給処分で済ませられている事案も多々存在する。
翻って、本件における原告の言動を見た場合、原告は、これら分限免職に値する矯正不可能な能力の欠如があるのであろうか。
本件においては、問題とされた言動を除けば、勤務態度、授業その他校務分掌等の職務遂行能力や態度に問題があるとの指摘は都教委からもなされておらず、原判決も認定していない。
そうすると、本件で問題とされた原告の言動だけをもって、本件分限免職処分とすることは、他の分限処分事案との均衡を著しく欠くものであり、本件分限免職処分は、比例原則に反し、重きに失するというべきである。」
これが、「免職処分の場合における適格性の判断を特に厳密、慎重にすべき」とした長束小事件最高裁判決の比例原則に関する基準に則った評価である。
実際、ある小学校副校長の場合は「一般教員時代の2002年6月頃から2003年10月頃までの間、繰り返し女子児童の身体を自己の身体に引き寄せるというセクハラ行為を行っていた上、副校長になった2007年6月から同年9月までの間、複数の女子児童に対して腰付近をさわるという行為を繰り返し行っていた。」にもかかわらず、都教委は停職6ヶ月にしかせず「公務員不適格」とは判断していない。これは、「免職処分の場合における適格性の判断を特に厳密、慎重に」した結果であると考えられる。
これに対して、本件の場合、控訴人の教育公務員としての仕事ぶりを実際に見ていた根深校長(当時)は、控訴人について「教育公務員として問題ない」と証言しているにもかかわらず、原判決は、この事実を故意にか、事実認定から欠落させている。
この点、都教委も、準備書面(2)6頁で「当該教師の問題行動が表面化することは通常はない」として、控訴人の仕事ぶりに問題行動がなかったことを事実上認めている。
それにもかかわらず、原判決はこれも無視する判断をした。それのみならず、原判決は「適格性の判断を特に厳密、慎重に」との文言を一言も用いていないのであり、長束小学校事件最高裁判決に反し、違法として取消を免れない。
(4)「比例原則」を体現した都条例3条3項
東京都の職員の分限に関する条例3条3項は、「法28条1項3号により職員を降任もしくは免職することのできる場合は、当該職員をその現に有する適格性を必要とする他の職に転任させることができない場合に限るものとする」と規定されている。これは、上記の「免職処分の場合における適格性の判断を特に厳密、慎重にすべき」とした長束小事件最高裁判決の比例原則に関する基準に合致し、それを体現した条例であるといえる。
しかし、控訴人は、都教委から、転任の打診すらも受けていない。
ところが、原判決は「公正、中立に教育を行う教育公務員としての自覚と責任感が欠如した原告には、およそ教育公務員としての適格性がないとして、分限免職処分を決めた都教委の判断に、上記条例違反の問題は生じない」とした(原判決30頁)。
原判決は「教育公務員としての適格性」しか判断しておらず(それも前述したように、被控訴人による、控訴人の個人情報漏えいの違法行為・非違行為などの、被控訴人に不利な事実は事実認定から欠落させ、控訴人の指導力等の控訴人に有利な事実は事実認定から欠落させた上での偏頗な判断である)、処分理由にも記載されている「公務員としての適格性」については何ら判断していないから、すでに述べてきたところからすれば、長束小事件判決の比例原則およびその趣旨に沿う都条例に違反することは明らかである。
(5)地方教育行政法47条の2と比例原則の関係
上記の都条例3条3項と同趣旨と解釈される法令として、2001年に改正された地方教育行政法47条の2がある。この点に関する近時の判決として、前掲した分限免職事件についての岡山地裁2009年1月27日判決がある(甲108)。
控訴理由書で詳論したように、同判決は、以下の通り、地方教育行政法47条の2と、長束小事件判決が示した比例原則の基準との関係について判示した。
「市町村立学校の県費負担教職員は、教員たる地位と地方公務員たる地位とを併有しており、地方教育行政法47条の2第1項各号に該当する場合には、教員たる地位にふさわしくない者として、教員としての適格性を欠くこととなり、同条同項に基づく『免職』、『採用』、即ち、上記趣旨での実質上の転任をすることが許容されるが、地方公務員法28条1項3号の『その職に必要な適格性を欠く場合』に該当するとして免職することは、『公務員たる地位を失うというという重大な結果』をもたらすものであるから、教員としての適格性を欠くというだけでは足りず、教員以外の『転職可能な他の職をも含めてこれら全ての職についての適格性』を欠いているときに限ってこれを行うことが出来、その判断に当たっても、『特に厳密、慎重であることが要求される』ものと解するのが相当である。」
上記裁判例は、この地方教育行政法47条の2を、分限免職を回避するために、まず転任を考慮すべきことを定めたもの、と解釈したのであり、地方公務員の身分保障という点で、極めて妥当である。なお、同判決は、2009年12月24日、広島高裁岡山支部の判決で維持された。同判決は、長束小学校事件判決を参照としてあげて以下の通り述べる。
「分限処分が、免職の場合には公務員としての地位を失うという重大な結果になることを考えれば、適格性の有無の判断については、特に厳密、慎重であることが要求されるものと解するのが相当である。」そして、「地方教育行政法47条の2第1項の存在に鑑みると、地方公務員である教員について、地方公務員法28条1項3号にいうその職に必要な適格性を欠くかどうかについては、仮に、教員として不適格であるとしても、当然上記に該当するとはいえず、転任ないし免職・採用が可能な、教員以外の地方公務員の職も含めてその該当性を判断すべきである。」と判示している。
(都教委は、準備書面(2)11頁で「地教行法47条の2は『分限免職などに至るほどではない』教員に適用されるもの」であるとしているが、上記の通り、広島高裁岡山支部判決は、地教行法47条の2の存在を指摘しつつも、地方公務員法28条1項3号の解釈・適用として判示していることに留意すべきである。よって、地方教育行政法47条の2第1項と同趣旨の都条例があるもとでは、同様に解釈・適用されるべきである。その点で、「広島高裁の事案は、あくまでも地教行法47条の2が適用された事案である」とする都教委準備書面(2)12頁の主張は失当である。)。
そして、判決は「教員ないし地方公務員の職に必要な適格性の有無について検討する」として、詳細な検討をしている。
その結果、「被控訴人が教職に必要な適格性を欠くとはいえない。」とし、「仮に、被控訴人が教員としての適格性を欠く場合であっても、地方公務員としての適格性、すなわち転職の可能な他の職をも含めてこれら全ての職についての適格性を直ちに欠いているとはいえず、判断する際には『特に厳密、慎重であることが要求される』ものと解するのが相当である」と強調して、「被控訴人は、研修を受けた結果、パソコンで書類を作成することは可能となっており、文書の提出期限も従前からおおむね守っているのであって、同僚教員や生徒とのコミュニケーションも不十分とはいえ、相当行ってきて、信頼する同僚教員、生徒もいたのであるから、生徒指導の能力が必要とされず、それほど高度の対外的な交渉が必要とされない職種、すなわち一般事務職等であれば、被控訴人は、十分新しい環境に適応して業務をこなすことが可能であると認められる。」と認定している(この点について、本件控訴人は、パソコンで書類を作成することは得意であり、研修の際にも文書の提出期限もおおむね守っており、証言から明らかなように、校長からも生徒からも信頼されていた。他方、都教委は準備書面(2)20頁で控訴人が「研修担当者に対し『厚顔無恥』『木っ端役人』等の発言をなしている」と指摘している。しかし、控訴人は、戒告処分と本件研修命令は古賀都議の不当な圧力によるものだと認識しており、研修センター所長近藤精一が控訴人の個人情報を違法に都議に提供していたという事情を考慮すべきであることは前述したとおりである。しかし、この事実を原判決は故意にか、事実認定から欠落させている。)。
さらに、岡山県は最高裁判所へ上告受理申立てをなしたが、2010年9月21日、不受理とされ、分限免職の無効が確定した(甲118)。
上記裁判例からすれば、地方教育行政法47条の2の対象となる指導力不足教員の場合ですら、同条項によりまず転任が検討されなければならないのだから、控訴人に対しては、なおさら、都条例3条3項の転任の措置が取りうるだけである。それをせずに控訴人を分限免職とした都教委の処分は、比例原則違反として裁量権の濫用が認められ、その違法性は明らかである。これに反する原判決の誤りはあまりにも明白である。
なお、都教委は、準備書面(2)10頁で、控訴人は「『指導が不適切な教員』について、いかなる事由があろうとも分限免職処分ができない」ものとして同判決を理解していると論難するが、控訴人はそのような趣旨の主張をしたことはなく、明らかに失当である。
(6)小括
以上のとおり、原判決には、「免職の場合における適格性の有無の判断については、特に厳密、慎重であることが要求される」とした長束小事件判決の基準を無視した著しい違法が認められる。すなわち、万歩譲って、控訴人の「教育公務員としての適格性」に関する原判決の判断に一応の合理性が認められるとしても、上記長束小事件判決に見られる「特に厳密、慎重」な判断(=比例原則の適用)が求められることからすれば、控訴人の「他の職の適格性」の有無ないし研修処分等を検討しなければならなかったのであり、これを行えば、分限免職処分という結論が導かれることはなかったのである。このことは控訴理由書等で詳細に述べた他事例との比較からしても首肯できる。
したがって、本件分限免職処分には、比例原則違反という明らかな裁量権を逸脱、濫用した違法が認められ、これを適法とした原判決の取消は免れない。
5 手続的違法性について
この点については、控訴理由書第4,8(11おりであるので、これを援用する。
6 小括
以上のとおり、本件分限免職処分は、控訴人に関する「教職として必要な適格性」判断について、考慮すべき事項を考慮せず、考慮すべきでない事項を考慮した違法があり、その目的動機においても不正かつ不当なものであって、かつ比例原則に違反している以上、任命権者である都教委の判断は、「合理性を持つ判断として許容される限度を超えた不当なものであ」ることは明らかであるから、「裁量権の行使を誤った違法のものであることを免れない」。
したがって、これを適法と判断した原判決も違法であり、取消を免れない。
第2 教育の公正中立性について
1 原判決の判示
(1)戒告処分について
原判決は、本件戒告処分に関して以下のとおり判断した。
(1)本件紙上討論プリントの表現は、@ことさらに特定の個人及び法人を取り上げて、A客観性なく決めつけて、B稚拙な表現で揶揄するものであり、C特定の者を誹謗するものである。
(2)そのような資料を作成、配布することは、公正、中立に行われるべき公教育への信頼を直接損なうものであり、教育公務員としての職の信用を傷つけるとともに、その職全体の不名誉になる行為に当たるし、全体の奉仕者たるにふさわしくない非行である。
よって、本件資料の作成、配布行為は地方公務員法33条に違反し、同法28条1項1号及び3号に該当し、懲戒事由該当性が認められる。
(2)研修処分について
原判決は、本件各研修命令は、控訴人が「特定個人を誹謗する資料を配布する等の行為により2度の懲戒処分を受け、長期の研修を受けたにもかかわらず、特定個人及び法人を誹謗する内容を含む資料を作成、配布して3度目の懲戒処分である本件戒告処分を受けたのであるから、原告(控訴人)には、公教育の公正、中立性の維持の観点から、指導方法の改善、教育公務員としての資質向上を図る必要性が認められた」ことを理由に発令されたと認定している(原判決23頁)。
(3)分限免職処分について
原判決は、本件戒告処分の後になされた本件各研修期間中の態度、行動からして、反省の態度が見られなかったことを前提に、「原告は、研修による指導を受け入れて、教育公務員としての自覚と責任感の下で、公正、中立に教育を行うという考えがなく、今後も、自己が正しいと信じる見解と相容れない見解を一方的に誹謗する資料配布等を行うという強い意思を有していると評価することが可能である」とした上で、結論として、「そうすると、原告には、中立、公正に教育を行う教育公務員としての自覚と責任感が欠如しており、・・・これを改善しようとする意思が全く認められないのであるから、教育公務員としての職務の円滑な遂行に支障が生じているし、今後も支障を生じる高度の蓋然性が認められる。そして、上述したところからすると、このような職務遂行上の支障は、簡単に矯正することのできない原告の素質、性格に起因するものというほかない。そうである以上、原告について、その職に必要な適格性を欠く場合に該当する」とした。
(4)公教育の「公正、中立」についての原判決の誤り
このように、原判決は公教育の「公正、中立」をキーワードとし、控訴人がそれに反する教育を行い、研修を経てもそれを改めようとしなかったとして、各処分を正当と評価する理由としている。
しかし、原判決は公教育の「公正、中立」についての理解を誤ったものであることは、控訴理由書67乃至70頁において述べているが、以下に、公教育の「公正、中立」とは何かについて、浪本教授の意見書(甲69)を踏まえて論じることとする。
2 浪本意見書が示す公教育の「公正、中立」
(1)旧教育基本法の要請する政治教育
この点に関して、浪本教授は、その意見書(甲69)6頁で、以下の通り旧教育基本法(以下、単に「教育基本法」ないし「教基法」という。)について説明している。
「教育基本法は、その第1条で、教育の目的について、次のようにいう。
『教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に満ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。』
これを受けて、第2条(教育の方針)は言う。
『・・・この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と努力によって、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない。』
学校教育、なかんずく社会科教育においてこの教育目的達成のための努力が特に要請されることは、論を待たないであろう。
さらに、教育基本法第8条は、『政治教育』との見出しのもとに、次のように規定している。
『良識ある公民たるに必要な政治的教養は、教育上これを尊重しなければならない。
法律に定めたる学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治活動をしてはならない。』
この規定は、学校教育において政治教育の尊重を眼目としたものである。ただし、その際の留意事項として、『特定政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育』を禁止しているのである。その逆ではない。この条文の第2項のみを強調し、第1項をないがしろにする傾向が見られるが、本末転倒だと言わねばならない。そうでなければ、先に見た中学校教育の目標である『国家及び社会の形成者として必要な資質を養うこと』『公正な判断力を養うこと』(本件当時の学校教育法36条)は到底不可能となるであろう。」
なお「特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育」が禁止される主体は「学校」であり、個々の教師ではない。
以上の教育基本法と学校教育法の理解を前提として、浪本教授は、9頁で以下の通り述べる。
「すでに触れたとおり、教育基本法第8条は、『良識ある公民たるに必要な政治的教養は、教育上これを尊重しなければならない』と規定し、学校教育法は『国家および社会の形成者として必要な資質を養う』『公正な判断力を養う』ことを中学校に求めている。こうした期待に応えるためには、日本の現実の政治上の重要問題を、中学校社会科の授業の際に積極的に取り上げることが必要となる。国民の間で論争となり意見の分かれている問題は、多くの場合、重要な問題である。従って、『政治的教養』を身につける上でも、『公正な判断力を養う』上でも、さらに子どもの学習権保障(日本国憲法26条)の観点から言っても、教師、とりわけ社会科担当の教師は、こうした問題を避けて通ることなく積極的に取り上げることこそが、本来の職責遂行のために必要なはずである。」
(2)教師の見解の表明は許容される
そして、教師の見解の表明について、浪本教授は、自衛隊や安保条約に関してであるが、意見書10頁で以下の通り述べている。
「教師が憲法学界の憲法第9条解釈を参考にしながら、これらを憲法違反と考えるならば、教師の見解として生徒に伝えることも大切なことである。情報のあふれる中で生活している現代の中学生が、教師の見解が唯一の『正解』であると考えるほど単純ではない。
この点に関連して、アメリカ自由人権協会(ACLU=American Civil Liberties Union)がすでに半世紀以上前の1956年、次のような見解を表明していることにも注目したい。
『"客観的"学問態度のためと称して教師の傾向が隠されようとする場合よりも、教師の判断が明瞭に述べられる場合のほうが、生徒たちは、自分に提供される他の材料やいろいろな意見に基づいて、よりよく教師の判断を評価することができ、またそれと異なった判断を下すことができやすいだろう。』('Academic
freedom and academic responsibility')」
これに対して、都教委は準備書面(1)で、「『ある政治家が別のある政治家を批判している。』と生徒に教えることと、私(先生)は『この人を批判する。』と生徒に教えることでは、生徒に対する影響は全く異なる」などとするが、そのようにして、教師の意見表明を問題視する都教委の誤りは、上記見解からも明白である。また、上記見解からしても、公人である『ある政治家』の名前を挙げることに問題はなく、都教委が準備書面(2)5頁で「本件教材プリントの使用が普通教育において『異常』なものであった」としていることの誤りも明白である。
(3)「公正、中立」とは何か
そして、浪本教授は公教育の「公正、中立」について、以下の通り結論している。
「日本の公教育は、そして中学校における社会科教育は、日本国憲法及び教育基本法並びに児童の権利に関する条約(子どもの権利条約、1989.11.20国連総会採択、1994.4.22日本国批准、1994.5.16 条約2)の精神に著しく反することのない範囲で行われることが必要である。それこそが、教育に要請される『政治的中立』の範囲であると考えられるのである。
その判断に当たって考慮しなければならないことは、日本国憲法、教育基本法及び子どもの権利条約の解釈については、さまざまなものがあり、幅広い解釈が行われている、ということである。しかし、それぞれの精神に著しく反する教育は、許されないというべきであるが、原告の授業が、この範囲に収まっていることは、教育についての専門的判断を待つまでもなく認められることである。」
「もちろん一人の教師の教育活動や授業についての評価に当たっては、一つの特定の印刷教材のみから『反米的』だとか『一方的』であると短略的に決めつけるのは適切ではなく、長期的な観点から判断していくことが必要である。」
このように、教育における「公正、中立」とは、日本国憲法及び教育基本法並びに児童の権利に関する条約の精神に著しく反しないことを言うのである。
さらに、公務員である以上、歴史認識の問題については、政府の公式な見解に沿う必要もある。そして、2010年8月10日の菅首相談話にも見られるように、日本政府は「日本の植民地支配と侵略」を国の内外に謝罪している。また、1995年の戦後50年に当たっての村山談話でも、日本の植民地支配と侵略について「疑うべくもないこの歴史の事実」として、同様の認識を表明している。これが歴史認識に関する政府の見解である。
都教委は、準備書面(2)8頁において「客観的に正しい歴史認識など存在しない」とまで主張したが、それが上記政府見解に照らして誤りであることはあまりに明らかである。
日本国憲法の精神と歴史認識に関する政府見解に反し、真実を偽った政治家や教科書を批判したことが「公正、中立」に反するとする原判決は明らかに失当であり、「客観的に正しい歴史認識など存在しない」との観点から控訴人に対してなされた処分が違法であることもまた明らかである。
3 教育における「公正、中立」と「不当な支配」との関係
そもそも、教育における「公正、中立」は、従来は教育基本法第10条の「不当な支配」との関係で、教師の自主性を尊重し、教育行政の側を律すべき原理として論じられてきたものである。
すなわち、公明党議員が社会科教員の授業に干渉した事件である「東京深川商高事件」東京高裁昭和50年12月23日判決は、以下の通り判示した。
「そもそも教育は・・・『不当な支配』に服すべからざるものであり、教育行政は、右の自覚のもとに行われなければならないことは、教育基本法第10条の明言するところである。その趣旨は、教育は、これを掌る教師が党派的偏見にとらわれず、公正・中立な立場に立って自主性を失うことなくこれに従事すべきであって、そのためには政党その他の政治団体、労働組合、宗教団体等あらゆる外部勢力からの不当な支配に影響されてはならず、また法律上教育に対し公権力を行使する国または地方公共団体の行政機関といえども、行政権の名のもとに教育に不当な支配を及ぼしてはならないことを明確にしたものである。」
「しかし、教育に対する『不当な支配』とは、教育の中立性、自主性を阻害するような一党一派に偏した教育への介入・干渉を指し、それが一時的であるか継続的であるかを問わないと解すべきところ、前記公明党議員等が、都教育庁総務部長室において同庁幹部等の列席のもとに控訴人のした授業内容について直接控訴人を非難叱責した行為は・・・政党の立場から特定の教員に対して加えられた党派的圧力であり、教育の中立性、自主性を阻害する一党一派に偏した教育への干渉として、教育に対する『不当な支配』に当たるものといわなければならない。・・・都は教員に対し・・・教員の生命および健康を危険から保護するよう配慮する義務はもとより、前記教育基本法の目的・趣旨に従い、教育の公正、中立性、自主性を確保するために、教育に携わる教員を『不当な支配』から保護するよう配慮すべき義務を負っているものと解すべきである。」
「そして・・・都教育委員会およびその補助機関として設置されている事務局(都の場合は教育庁)の職員は、それぞれの職務を遂行するに当たって、都の前記配慮義務を全うすべき職務上の義務を有するものというべきであって、佐藤総務部長が控訴人と公明党議員等とを対面させ、同議員等に控訴人を非難、叱責する機会を提供したことは、教育に対する『不当な支配』から教員を保護するよう配慮すべき前記職務上の義務に違反する違法行為といわなければならない」
この裁判例からすれば、都教委が、控訴人についての情報を古賀都議に違法に提供し、その違法行為を教唆した古賀都議の要請に応じて控訴人を戒告処分とし、その後の研修処分、分限免職処分に至る一連の処分を行ったことこそが、「教育の公正、中立性、自主性」を害するものといえるのである。
4 森正孝意見書が示す平和教育の必要性と生徒の認識力
(1)日本における平和教育の必要性
控訴人が、古賀都議や扶桑社の教科書を批判する意見を表明したことが、単に「公正、中立」に反しないのみならず、教育基本法が要請する平和教育においてむしろ積極的に必要であったことについて、森正孝氏の意見書(甲68)は、中国と日本の大学生に対するアンケートにより、日本の戦争加害の歴史について、圧倒的多数の日本の大学生がこれを知らず、大多数の中国の大学生がこれを知っている、という結果を示した上で、次のように述べている。
「加害の歴史を知らない日本の若者とそれを知っているアジアの若者たち・・・ここには、歴史事実についての明らかな認識ギャップが存在する。昨今、為政者や教員たちも叫び中学校社会科学習指導要領にも掲げられている『国際交流』『国際理解』や『善隣友好』そして『国際人の育成』というテーマが果たして、こうした歴史認識ギャップを放置して実現するのであろうか。否である。況んや、加害の史実を隠ぺいしたり歪曲したりすること(『自存自衛の戦争である』『アジア解放の戦争であった』とする扶桑社版『新しい歴史教科書』や古賀都議らの侵略戦争否定発言など)は、ますますこのギャップを大きくし、『国際交流』『国際理解』を阻害し、『国際人の育成』とは対極にあることは明らかである。むしろ、アジアに背を向けた独善的・排外主義的な(まさに戦前と同じ)偏狭なナショナリストを育成することにつながることは明らかだ。
・・・一つの事件でも、一つの史実でも教材化され教えられたことで、日本の侵略戦争の実態を知り、受害したアジアの人々の苦しみや悲しみに触れることができれば、アジアとの認識ギャップは確実に埋めることができるであろう。そうした歴史認識への努力の姿勢が、『国際交流』『国際理解』や『善隣友好』の基礎を形成することになるであろうし、まさにそれが平和教育の出発点とも言うべきである。その基礎認識(感性の領域を含めて)の上にたって、なぜそのような事実が発生するに至ったのか、戦争とそこへ至るメカニズムは何だったのか、2度とそのような過ちをおかさないようにするにはどうしたらよいのかについて論理的思考(生徒たちの相互討論と教師の援助指導によって)を巡らすことこそが、平和教育の到達点と言わねばならない。増田教諭の実践−教材提示・紙上討論・教師との意見交換−は、まさにこうした平和教育の真髄に迫るものであった。」
(2)控訴人の平和教育に対する生徒の認識力
原判決は、生徒の認識や判断の能力について、以下の通り述べる。
「原告が教育する対象である中学校の生徒らは、未発達の段階にあり、批判能力を十分備えていないため、教師の影響力が大きいことを考慮すれば、公正な判断力を養うという上記目標のためには、授業が公正、中立に行われることが強く要請される。」
後段の「公正、中立」についての原判決の誤りは前述してあるので、ここでは前段の「中学校の生徒らは未発達の段階にあり」について、詳述する。
これは教育学の見地から外れた俗論に過ぎない。
映画(ビデオ)「侵略パート1」の制作者であり、中学校の社会科教師を経て現在静岡大学の非常勤講師を務めておられる森正孝氏の意見書は、児童生徒の社会認識の発展を判断する基準(ものさし)が「発展段階によって次のように進展してくることが、今日までの教育現場の実践によって明らかにされている。」と述べている(12頁)。
すなわち「小学校中学年までは一つ(一次元)でしかなく、高学年から中学生にかけては二つの"ものさし"(二次元)が設定でき、二つの事柄の相対的位置関係(座標)で認識できるようになり、さらに中学校後半から高校にかけては三つ(三次元)又はそれ以上の"ものさし"による自称の把握が可能になる、つまり社会を立体的・構造的に把握し、その中にここの事柄を位置づけて認識できるようになる、というのである。
この論拠に則してみると、たとえば、戦争というテーマについて言えば、中学校から高校にかけては、戦争の悲惨さという事実から、さらに戦争の背景、社会の仕組み、人々の生活などの分析に多くの関心・興味が寄せられることになる。事実、先に見た生徒たちの感想文にはそれが表れている。日本軍の残虐さだけにとらわれてはいない。そこから、戦争下における人間の問題、被害者の立場から見た日本、被害者の痛みへのイマジネーション、差別的民族間など、多くの広がりをもって事象をとらえることができるようになっていることがわかる。
増田教諭の実践は、戦争教材=平和教育教材をさらに多角的な方面に求めている。・・・こうした多様な教材を駆使することで、戦争を被害・加害の視点を基軸にして、世界的視野、アジア的視野から捉えようとする努力がされており、そのつど生徒たちにも紙上討論などによって『同心円的』な枠をはるかに超えた戦争についての立体的・構造的把握がなされており、大きな教育成果が得られている。」
控訴人の教え子であった生徒たちは上記のような発展段階にあり、浪本教授も指摘したように、控訴人の古賀都議や扶桑社の教科書への批判も一つの見解として受け止め、討論を通じて認識を発展させていったのである。
控訴人はこの点を示す証拠を原審で多く提出したが、以下に控訴人が教壇を奪われた年の生徒たちの感想から一つだけ引用する。
「・・・紙上討論は、文章が苦手な私にとって、とても辛いものでした。
戦争や原爆のビデオを見たりして、涙した事もありました。でも、その時は大変でも、今振り返ってみると。紙上討論のお陰で、自分の意見が言えるようになり、友達の考えを知る事ができました。あれらのビデオを見たお陰で、教科書では学ぶことのできない真実を知る事ができました。先生の授業で無駄になった事は一つもありません。一年半という短い期間しか授業を受けられな(か)ったのはとても残念ですが、この貴重な体験を大切にし、将来、自分の子供にも真実を教えられる先生のような人間になりたいと思います。」(甲23)
上記の森正孝氏は、このような生徒達の感想について「これらの感想に総じて言えることは、まず誰もが初めて知る日本人の残虐行為に衝撃を受けている、しかし、生徒たちは、その衝撃だけに止まってはいない。事態を懸命に客観的に見つめようとしている姿がそこにはある。『何とも言えない気持ちになった』衝撃から、それを事実と受け止め、状況次第では人間も残虐になりうるのだ、戦争の怖ろしさはそうした人間を非人間化してしまうことだ、そして、被害を与えた中国人の立場に立って、その苦痛、悲しみ、怒りに思いを馳せるという、大人にもできない情緒の健全さと判断力を持っていることが分かる。」と述べておられるが、まさにそのとおりである。
このように生徒たちには、「衝撃的事実について、事実を事実としてうけとめながら、それを乗り越えようとするだけの理性と判断力は十分に育成されている」(甲68・17頁)のであって、かかる事実だけを見ても、都教委らの「中学生に見せるには残虐すぎる」という批判は、全く失当であることは余りにも明らかである。
この点につき、都教委は準備書面(2)5頁において、最高裁昭和51年5月21日大法廷判決(旭川学テ事件)の「児童生徒の批判能力」についての記載を引用して論難する。しかし、同判決の言い渡された時期からの教育学の発展を踏まえて上記森正孝意見書が書かれており、また、森正孝意見書は平和教育について個別具体的に論じたものであり、30年以上前の一般論に過ぎない旭川学テ事件の上記判示部分は本件には当てはまらない。
5 小括
以上の通り、教育における「公正、中立」とは、日本国憲法及び教育基本法並びに児童の権利に関する条約の精神に反さず、権力の「不当な支配」に服さないことである。そして、控訴人が、古賀都議や扶桑社の教科書を批判する意見を表明したことは、単に「公正、中立」に反しないのみならず、教育基本法が要請する平和教育においてむしろ積極的に必要であり、それは生徒の認識力にも適した内容であった。
処分に際しての控訴人の評価については、浪本教授の指摘のように、本来、森正孝意見書が詳細に分析した上記のような平和教育全体による教育成果との関連で、控訴人の紙上討論プリントへの記載を評価すべきであり、二つの文言それのみを切り離して取り上げるべきではないのである。
そのことからすれば、原判決の誤り及び本件各処分、とりわけ本件分限免職処分の違法性はいっそう明らかである。
■第2章に続く
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