■もくじ・第1章・第2章より

第3章 本件分限免職処分の違憲・違法性

第1 本件分限免職処分が地方公務員法28条第1項第3号に該当しない違法なものであること
   この点については、原告準備書面(9)第1において、詳細に論じているが、証拠調の結果も含めて改めて検討することとする。
 1 地方公務員法28条1項3号の該当性に関する判断基準
 (1)最高裁昭和48年9月14日判決(民集27・8・925)は、地方公務員法(以下、「地公法」という。)第28条1項3号の「その職に必要な適格性を欠く場合」とは、「当該職員の簡単に矯正することのできない持続性を有する素質、能力、性格等に基因してその職務の円滑な遂行に支障があり、又は支障を生ずる高度の蓋然性が認められる場合をいう」として、これに該当するか否かは、「当該職に要求される一般的な適格性の要件との関連において判断されなければならない」としている。
 そして、上記最判は、地公法第28条所定の分限制度は、「公務員の身分保障の見地からその処分権限を発動し得る場合を限定したもの」であり、なかんずく「処分が免職処分である場合には特別に厳密、慎重な考慮が払われなければならない」と判示している。
 これを整理するならば、@「当該職に要求される一般的な適格性の要件との関連において」判断することを前提に、A「その職務の円滑な遂行に支障があり、又は支障を生ずる高度の蓋然性が認められる場合」で、Bそのような支障ないし支障を生じる高度の蓋然性が「当該職員の簡単に矯正することのできない持続性を有する素質、能力、性格等に基因」するものであると認められれば、「その職に必要な適格性を欠く場合」に該当し、さらに、処分が免職処分である場合には、Cこれらの判断に際して「特別に厳密、慎重な考慮」がなされることが必要となるということになる。
 (2)これを原告のような「教育」を職務とする教育公務員にあてはめるならば、
まず、教師としての一般的な要件を具体的に検討し、それらの要件について「職務(教育)の円滑な遂行に支障が生じているか、ないしは支障が生ずる高度の蓋然性があるか、を検討し、それらが認められた場合に、その原因が、簡単に矯正することのできない持続性を有する素質、能力、性格等に基因するものかどうかを検討することとなる。さらに、免職処分の場合には、さらに、これらの判断において、「特別に厳密、慎重な考慮」がなされたか、どうかを検討することになる。
 教師としての適格性に関する一般的な要件としては、当該職員の教育実践が効果をあげているか、生徒・保護者と信頼関係が築けているか、学力保障ができているか、校務分掌をきちんと行っているか等に加えて出勤状態、同僚との人間関係、規律の遵守状況等が挙げられる。このような要件については、原告に対して分限免職処分の原案を作成した橋爪昭男証人(以下、「橋爪」という。)も認めているところである(橋爪28乃至30頁参照)。
 そこで、まず、原告について、上記のような教師としての適格性に関する一般的な要件を満たしているかどうかを検討することとする。
 2 原告の教師としての適格性について
 (1)原告の教育実践ー紙上討論について
    原告が行ってきた紙上討論授業の意義やその教育的効果の高さについては、これまでも詳細に論じてきたところである(原告準備書面(6)及び(9)等参照)。
  ア 紙上討論授業の教育的意義について
    紙上討論授業の教育的意義について、浪本勝年教授は、次のようにまとめておられる。
 「『紙上討論授業』の第一の意義は、生徒が自分で学習したことについて、一定の文章に書くことにある。『書く』ということは、とりもなおさず、『考える』ということである。暗記中心ではなく自分の頭で考えるということが、どんなに大切なことであるかということは、今日の学校教育の中で、いくら強調しても強調しすぎることはない。
 『紙上討論授業』の第二の意義は、生徒自らが紙上に自分の意見を発表することを通じて、授業への参加意識、学校における自己の存在感を持つことである。子どもの権利条約はその第12条で意見表明権を保障している。また、「。」で眺めたように文部省も現在の学習指導要領及び指導書で盛んに『生徒の主体的な学習』を強調している。『紙上討論』は、まさにその延長線上にある創意工夫をこらした優れた実践の一例といえよう。
 『紙上討論授業』の第三の意義は、生徒達は、大勢の友人の意見や先生のコメントに文字を通して十分に耳を傾けることができる、ということである。このようなプリント教材を作成している原告の労力たるや大変なものであり、また適切なコメントを付けることも周囲の読者が考えるほど容易なことではない。ベテラン教師であるがゆえに可能な方法であると言えよう。」
 かかる紙上討論授業を長年継続してきた原告の実績だけを見ても、教育実践という教師の最も重要な適格性の要件を有していることは明らかである。
  イ 紙上討論授業の教育的効果
    原告は、上記のような教育的意義を有する紙上討論授業を、歴史的分野における近現代史や公民的分野における自由権、平等権に関する発展的学習として位置づけ、沖縄の米軍基地の現実、戦争の実態、差別の問題を具体的に取り上げて、これらに関するテレビ番組のビデオや「語られなかった戦争ー侵略パート1」、「予言」などを生徒たちに見せて、これらの問題を考えさせてきた。
 その結果、生徒たちは、教科書だけでは知らなかった事実を知り、主体的に自分の意見を表明することや相手の意見に耳を傾けること、議論し合うことの重要性を身につけていったのである。
 その教育的効果は、生徒たちの次のような感想に如実に現れている。
   @ 足立12中時代(「侵略パート1」を見た生徒の感想)
     「何が人間をこうまでさせたのか?と思った。増田先生が『見る義務と権利がある』と言っていたけど、本当にその通りだと思う、人体実験などの恐ろしいことを日本人が行っていたかと思うと、何も言う言葉が見つからない。そのころの兵士などの言葉を聞くと同じ日本人として、とても身近に思えてきた。・・・私たちが同じことを繰り返さないためにも日本人はみんなこのビデオを見た方がいいと思う。」
(甲68・15頁)
     「・・・人間らしい感情を全部奪ってしまうのが戦争だと思う。中国人が日本人を今も『日本人鬼子(リーベンクイズ)』と呼んでいるっていうのを何かで読んで、その時はもう戦争が終わって何十年も経つのに、とか思っていたけど、あのビデオを見たら許せなくて当然だと思う。もし、日本が逆の立場だったら絶対に許してないと思う。たぶん、中国の人たちにとってはにほんとの戦争はまだ終わっていないんだろう。その人たちにとっての平和が早く来るようにしたい。」
(甲 68・15頁)
     「たぶん、私もあの時代に生まれた兵士だったら、同じことをしていたかも知れない。命令されて反対できなくて人を殺し、殺すことに慣れ、快感を覚え、あの理解できない行動をとっていく。本当に人間は何にでも慣れ、たとえそれが正常な精神でいられない状況だとしても、それはそれで暮らしてしまう、怖い生き物だと思った。」
(甲68・15,16頁)
     上記「侵略パート1」の制作者であり、中学校の社会科教師を経て現在静岡大学の非常勤講師を務めておられる森正孝氏は、このような生徒達の感想について、「これらの感想に総じて言えることは、まず誰もが初めて知る日本人の残虐行為に衝撃を受けている、しかし、生徒たちは、その衝撃だけに止まってはいない。事態を懸命に客観的に見つめようとしている姿がそこにはある。『何とも言えない気持ちになった』衝撃から、それを事実と受け止め、状況次第では人間も残虐になりうるのだ、戦争の怖ろしさはそうした人間を非人間化してしまうことだ、そして、被害を与えた中国人の立場に立って、その苦痛、悲しみ、怒りに思いを馳せるという、大人にもできない情緒の健全さと判断力を持っていることが分かる。」と述べておられるが、まさにそのとおりである。
 このように生徒たちには、「衝撃的事実について、事実を事実としてうけとめながら、それを乗り越えようとするだけの理性と判断力は十分に育成されている」(甲68・17頁)のであって、かかる事実だけを見ても、被告都教委らの「中学生に見せるには残虐すぎる」という批判は、全く失当であることは余りにも明らかである。そして、このことは、「侵略パート1」を教材として使用したことを「反省」させようとした本件各研修の無意味さをも浮き彫りにしていることを付言する。
 かかる高い教育効果を上げたことの証左として、足立12中時代には、卒業生の答辞の中で、「・・・特に私達にとっておおきなプラスとなったのは二年生から社会でやり始めた紙上討論です。そこで他人の意見と自分の意見を照らし合わせ深く考えさせられました。自分の愚かな行動や考え方に気付いた人もいます。また自分の行動や考え方に自信をもてるようになった人もいます。私達はまっとうな判断力を身につけ、社会に適応できるようになってきています。勉強とはそうするためにするものだと思います。」と原告の紙上討論に対して謝辞が述べられたのである(甲5)。
  A 足立16中時代(1年間紙上討論を行った感想)
「私は一年間、紙上討論授業をして良かったと思う。一番、最初は『何?あれ?早くやめてほしいよ。』って思ってたけど、この紙上討論授業を通して、今まで、私が知らなかった、考えたこともなかった歴史上の問題や、現在の日本に起こっている問題を知ることができたし、学年のいろんな人達が、どんな風に考えているか、ということが、良く理解する事ができた。紙上討論をやらず、教科書そのままの知識を知っただけでいたら、本当のことを考えないままに、社会科を学んでいたと思う。今まで紙上討論に対する反対意見もあったけど、(私も一時、そうだった)、やっぱし紙上討論して、良かったと思う。それから、やっぱりこういうこと・・・・日本が中国、朝鮮やアジアにたいしてしたヒドいことは、子供達に教えるべきだと思う。別に、それで日本を誇りに思おうと思うまいと、その人の勝手だし、その人自身が考えること。でも過去に日本はヒドい事をしたのは事実なんだから。日本のいいところばかりを見て、誇りに思うより、どんなにいい所も、どんなに悪い所も、ちゃんと知った上で、誇りに思った方がいい。・・・」
(甲51・86枚目)
「・・・それから私は、紙上討論をするのが、初めはイヤだった。同じことを何度も繰り返しているように思えたし、他人の意見に口出しされたりするから。紙上討論にも反対の意見がいくつも出ていたし、私の反対意見も載った。でも紙上討論を繰り返しているうちに私の意見が変わった。それは、増田先生は紙上討論を通じて、私達に一つの事(テーマ)について、『いろいろな意見を出し合い、考えあうこと』を教えてくれているんだと気付いたから。私は『正しい事は正しい、間違っている事は間違っている』と堂々と生徒に教える事のできる増田先生の意志は素晴らしいものだと思う。・・・この紙上討論は、決して無駄ではなかったと私は言い切れる。」
(甲51・87枚目)
「私は日本がアジアを侵略した事については。真実をちゃんと教えた方がいいと思う。もしかしたら、今の子供達が日本のしたことを知らずに大人になったら、また戦争をしてしまうかもしれないから。日本が、どんなにひどいことをしたのか教えれば、戦争したいと言われても、大多数の人が反対すると思う。『日本を誇りに思えない』なら、これから先、いいことをいっぱいして、未来の日本を誇りに思えるようにすればいいと思う。」
(甲51・89枚目)
「私達は、この一年間に、たくさんの紙上討論をやってきた。そして、この紙上討論を通じて米軍基地のことや、日本のつらくて悲しい過去を知るなど、いろいろな事実を知ることができた。みんなの意見や、事実の知識を知った上で、自分が、また意見や考えを出す。それのくり返しをしてきた。いろいろな意見と同時に、紙上討論や増田先生に不満を持ったり、反対する人が出てきた。本当にいろいろな事があった。それでも増田先生は、私達が考えなければいけない事実を教えるため、紙上討論を続けてくれた。私は紙上討論を通じて、いろいろな意見を出せたり、社会に対する関心を高める事ができた。自分でも驚くくらい、たくさん考え、たくさん意見を出す事ができた。一番言いたいのは、紙上討論を通して『自分の意見をきちんと持ち、考えあうこと』の大切さが分かった、ということ。これは社会の授業だけでなく、大切な事だと思う。もちろん、そんなことは当たり前かもしれないけど、私は改めて分かった。一年間の紙上討論は、私にとってプラスだったし、きっと、みんなにとってもそうだと思う。」
(甲51・92枚目
     ここに見られるのは、「紙上討論にも反対の意見がいくつも出ていたし、私の反対意見も載った。でも紙上討論を繰り返しているうちに私の意見が変わった。それは、増田先生は紙上討論を通じて、私達に一つの事(テーマ)について、『いろいろな意見を出し合い、考えあうこと』を教えてくれているんだと気付いたから。」「私は紙上討論を通じて、いろいろな意見を出せたり、社会に対する関心を高める事ができた。自分でも驚くくらい、たくさん考え、たくさん意見を出す事ができた。」「学年のいろんな人達が、どんな風に考えているか、ということが、良く理解する事ができた。」という、他の人の意見をよく理解し、自らの力で考えていこう、という思考態度と過去の日本が犯した戦争の真実を知った上で未来に向けて誇りに思える日本を作っていこうという子ども達の将来への明るい希望である。
 この年に、いわゆる「16中事件」が起きたことを考えると、原告が行った紙上討論授業の教育的効果がいかに高いものであるか、ということが優に窺えるのである。
   B 九段中時代(原告が教壇を奪われた年の生徒たちの感想)
     「・・・この前の休み明けテストも100点でした。これは本当に増田先生のおかげです。私は、社会があまり好きではなくて、歴史も興味を持てなかったのですが、増田先生の紙上討論をしている内に、みんなの意見をきいて自分もしっかりした意見が持ちたいと思うようになり、積極的に勉強するようになりました。・・・こうして考えて見ると増田先生の授業や紙上討論が、私のこれからの人生に大きな光を作り出してくれたのかも知れません。先生が九段中からいなくなってしまってから、ずっとずっと、いつ帰ってこられるのかなと、いつも待っていました。でも、結局最後まで先生のあの笑顔を見ることができないと知り、とても悲しくなりました。・・・」(甲21)
    「・・・紙上討論は、文章が苦手な私にとって、とても辛いものでした。戦争や原爆のビデオを見たりして、涙した事もありました。でも、その時は大変でも、今振り返ってみると。紙上討論のお陰で、自分の意見が言えるようになり、友達の考えを知る事ができました。あれらのビデオを見たお陰で、教科書では学ぶことのできない真実を知る事ができました。先生の授業で無駄になった事は一つもありません。一年半という短い期間しか授業を受けられな(か)ったのはとても残念ですが、この貴重な体験を大切にし、将来、自分の子供にも真実を教えられる先生のような人間になりたいと思います。」(甲23)
    「しかし、先生の紙上討論が一番なつかしいです。最初は全然意味が分からなくて、なんでこんなことをしなきゃならないんだ!!って感じだったんですが、時がたつにつれて、だんだんおもしろくなってきて、紙上討論の時間がとても楽しみになってきていました。意見を率直に書けるのがとても気楽でよかったです。」(甲24)
     また、原告が、研修処分を受けなければ、2005年度の9月から行う予定であった平等権をテーマにした紙上討論の教材プリント(甲29)の中には、「・・・私は現在14歳なので、20〜22歳までの間に国籍を選ばなければならないので、今、正直に言うと、心が苦しいのです。私が韓国人になれば『日本人ならできるいろいろなことが、できなくなってしまうので、やめなさい』と周りの人々に言われます。もし、私が「在日」になってしまったならば、選挙権が得られないと言われました。これは明らかに民族差別になると、私は思います。日本国憲法の前文も英文だと「We,the Japanese people=われわれ、日本の人々は」となっています。ということは、私たち在日の人間にも選挙権があっていいはずなのに・・・と思うことがあります。ですが、日本文だと「日本国民は」となってしまいます。これは明らかに、おかしいと思います。いつか日本政府が、この間違いに気付いて、差別のない日本を作ってくれると信じたい、と思っている私はバカでしょうか?・・・」(甲29・6枚目)と自らの出自と日本の外国人差別に悩んでいる生徒の正直な意見が書かれている。このような個人のアイデンティティーに関わる重要な問題を正直に紙上討論で開陳することができること自体、生徒と原告との間の信頼関係の強固さを見ることができるのである。
    以上のような事実を見るとき、このような生徒たちの成長を促すことのできた原告の紙上討論授業の教育的効果は極めて大きく、また、それはとりもなおさず、原告の教師としての適格性を雄弁に物語っているのである。
  ウ 被告都教委の紙上討論に対する評価について
    被告都教委の研修担当者である種村、守屋証人、本件分限免職処分発令の担当者であった勝部、橋爪証人は、その証言において、判で押したように、原告の紙上討論の教材プリントの量の多さを問題にし、また、「侵略パート1」や被爆映画「予言」等の内容の残酷さは中学生の発達段階からすれば疑問である、とする。
 しかしながら、上述した生徒たちの意見を見れば、プリントの量が多いことに不平を述べる生徒は全くいないことが分かるし、このことは、甲第6号証、甲第29号証、甲第51号証等の紙上討論のプリント全体を見渡しても、そのような不平は生徒からは全く出ていない。
 この点について、原告の教え子であった○○証人は、「量が多くて理解できないという部分がちょっと理解できないんですけれども、いろんな意見がどんどん出てくるので、量が増えるのは当たり前だと思うので、量が多くて理解できないということはちょっとよく分からないです。」(○○7頁)と述べているところである。
 また、「侵略パート1」や「予言」等について、残酷すぎるという都教委の見解についても、前述した森正孝氏の「生徒たちは、その衝撃だけに止まってはいない。事態を懸命に客観的に見つめようとしている姿がそこにはある。『何とも言えない気持ちになった』衝撃から、それを事実と受け止め、状況次第では人間も残虐になりうるのだ、戦争の怖ろしさはそうした人間を非人間化してしまうことだ、そして、被害を与えた中国人の立場に立って、その苦痛、悲しみ、怒りに思いを馳せるという、大人にもできない情緒の健全さと判断力を持っていることが分かる。」という言葉に全てが集約されている。中学生は、呈示された現実を受け止め、それを正面から受け止め自らの糧とする情緒の健全さと判断力を十分に持っているのであって、これを残酷だからという理由だけで、生徒たちに見せたことについて原告に「反省」を強要する(そして、原告が反省しないとみるや、矯正不可能な「独善的態度」と決めつける)都教委の態度は、自らの中学生の理解力と判断力に対する理解の浅薄さと自らの「独善性」を示すだけのものであって、何らの説得力を有しないことは余りにも明らかである(同旨原告本人9頁)。
 (2)原告の教育実践ー通常の授業・学力保障、特別活動について
  ア 通常の授業及び学力保障について
   @ 原告は、月に1度程度の紙上討論授業の時間を除いては、教科書を使用した通常の形態の授業を行っていたが、それも創意工夫をこらしており、原告の授業を参観した○○校長は、「・・・1つは、盆地の説明をするので、お盆を用意して授業に役立てるというような工夫をされたところがありました。もう1つ記憶にあるのは、お米のことを社会科の授業で、東南アジア、アジアの授業を米のことでやって、かなり詳しく、産地の違いであるとか、そういうことを含めて、授業を進められてました。」「・・・基本的には、子供たちが意見を述べて考えたものを自分たちがまとめていくというような形の授業であったと思います。」(○○1,2頁)と証言しており、全く問題がなかった旨を証言している。
 また、○○校長の証言によれば、被告千代田教委の酒井指導課長も、原告の授業を見て、「その授業の様子から、増田さんの授業については素晴らしいという話」をしていた(○○9頁ー但し、酒井本人は証言においては否定しているが、処分者側である酒井課長の立場を考えれば、○○校長の証言の方が信用できる。)。
 少なくとも、管理職の目から見ても、原告の通常の授業においても、全く問題はなく、むしろ通常の授業においても工夫をこらした授業を行っていたことが優に認められる。
   A 学力保障の面についても、○○証人は、原告の担当した社会の成績が落ちたということは全くなかった旨を証言している(○○5頁)。
 また、九段中の生徒は、紙上討論をきっかけとして、社会科に興味を持つようになり、テストで満点を取ったり、評価も「5」を取れるようになった(甲21)。
 この点については、分限免職処分の原案を作成した橋爪証人も認めている(橋爪30頁)。
  イ 特別活動について
    原告は、通常の授業以外にも、九段中学の生徒達に対して人権に関する作文や税に関する作文の指導を積極的に行い、その指導の下で、生徒達がいくつもの作文コンクールに入賞している(甲94、95、原告本人8頁)。
 また、同中学校において、悪質なキャッチセールスから中学生を守るという企画を出し、区役所の消費生活担当職員と共同して、これを成功させたこともあった(甲96、原告本人8頁))。
 さらに、部活動においても、社会科研究部の顧問教師を務めていた(甲95・原告本人9頁)。
 修学旅行等の行事についても、原告は、修学旅行の際には、睡眠時間を削ってパトロールを行うなど極めて協力的な態度であった(○○3頁)。
  ウ 以上のように、原告は、紙上討論という教育実践に止まらず、通常の授業においても生徒たちの学力をきちんとつけ、さらには、作文指導などの特別活動においても、多くの実績を残していたことが優に認められる。
 (3)生徒・保護者との信頼関係の存在について
    原告と生徒との信頼関係についても、紙上討論の項で詳述したように、生徒たちは原告を強く信頼していることが優に認められる(甲5,21乃至24、51、101乃至104等)。また、○○証人も、原告が生徒たちとの間に強い信頼関係があったこと、原告の夫が亡くなったときもすでに卒業していたにかかわらず自然発生的に教え子らが告別式に自主的に出席したことなどを証言しており、原告の教師として信頼される人柄が窺えるのである(○○2,7頁、甲67)。
 また、保護者との間においても、九段中においては、原告が研修処分を受けて授業ができなくなったことを伝えられたときにある保護者から「増田先生の授業は非常にいい授業なのにどうして」(○○23頁)という声が上がったり、保護者一同が卒業式に出席できなかった原告に対して「1年半という短い期間ではございましたが先生が教えて下さった紙上討論で学んだ事を子供たちは決して忘れる事はないでしょう。本当にありがとうございました。」(甲25)との手紙を送るなど、古賀都議と友人関係にある○○氏を除いては、極めて良好であったことが認められる。
 (4)原告の勤務状況等
  ア 校務分掌
    原告は九段中において、千代田区の中学校の教育研究会の学校側の窓口や学年便りを発行する校務を担当していたが、これもきちんと行っていた(○○2頁、甲97の1乃至14参照)。
 また、生徒指導の面においても、原告は生活指導部ではなかったため、直接の指導の場面は少なかったものの、担当の同僚教師の相談に必ず乗ったりという形で積極的に協力していたことが認められる(○○2頁)。
  イ 出勤状況及び年間指導計画の作成状況等
    これらの点についても、○○校長は、「最初、特に問題がないというか、支障がないような話をしたんですが、出勤簿のと理扱いであるとか、それから、休暇証明処理簿の処理の関係については、職員の中で一番きちんとしてるというふうに言えると思います。」と証言しており、職員の中でも優秀であったことを明確に認めている(○○3頁)。
 また、現在では、教師に作成が義務づけられている年間指導計画についても、原告は、極めて詳細な計画を作成しており、教員としての義務を十分に果たしていることが認められる(甲85参照)。
  ウ 同僚との人間関係
    ○○校長は、九段中における原告と同僚の教師達との関係についても、「同僚と話しをしてるときに、自分の意見を最後まで押し通すというような形ではなくて、よく意見を聞いて、妥協点ということで、うまく人間関係を作りながら進めてるというふうに感じられました。」(○○2頁)と証言しているところであり、きわめて良好であったことが認められる。
 また、原告が第1次研修処分を受けたとき、その取消を求める大多数の同僚教師の署名が集まった事実も、原告が同僚との人間関係を協力的なものとして作り上げていたことを裏付けるものである(甲18の1乃至7)。
  エ まとめー何ら問題がないこと
    以上のように、九段中における原告の勤務状況(校務分掌、出勤状況、同僚との人間関係等)の面においても、原告に教師としての適格性を疑わせるような事情は皆無であり、むしろ良好かつ優秀な勤務状況であったことが認められるのである。
 (5)教師としての適格性
    以上の検討からすれば、原告には、教師という職に要求される一般的な適格性の要件(前記(1)乃至(4)の要件)との関連において、何ら問題とされるべきことはなく、教師としての適格性が優に認められることは明らかである。したがって、その余の要件を判断するまでもなく、原告が「その職に必要な適格性を欠く」などということはできるはずがない。
 また、後述する他の分限免職事例(本章「第4 比例原則違反」参照)と比較しても、原告以外の事例が、いずれも指導力不足で教育実践という基本的な要件を欠いたり、頻繁な無断欠席や職務命令違反などで学校運営に現実に支障をきたしている場合であって、「教職に要求される一般的な適格性の要件」を欠く場合であることからすれば、原告がそもそも分限免職の対象となること自体、失当であることは明らかである。
 しかしながら、被告らの原告に対する主張の関係もあるので、本項においても、一応、他の要件も検討することとする。
 3 職務の円滑な遂行の支障ないしはその高度の蓋然性及び性格基因性について
 (1)前述したように、九段中においては、原告を原因とする職務の円滑な遂行に支障が生じたという事実は全くない。したがって、次の要件である「(職務の遂行の支障ないしはその高度の蓋然性が)矯正不可能な性格に基因するものか否か」という要件を検討する余地は全くない。
 (2)この点、被告都教委は、原告の「自己の見解が絶対に正しく、自己の見解と異なる見解を有する者に対しては、時間、場所等をわきまえずに不適切な文言を用いてこれを攻撃する」という「独善的な性格」が、原告の素質、性格に根ざしたものであって、「簡単に矯正することのできない持続性を有する素質、能力、性質等に基因してその職務の円滑な遂行に支障があり、または支障を生ずる高度の蓋然性が認められる場合」に該当するから、本件分限処分は適法であると主張している。
 これに対する詳細な反論は、本章の「第3 被告が主張する原告の不適格性に対する反論」の項で行うこととするが、ここでは、被告らが主張する「原告の独善的な性格」という規定自体がそもそも誤りであることはこれまで検討してきたことから明らかであること、及び原告の言動により、いかなる「職務」の「円滑な遂行」にいかなる「支障があり、または支障を生ずる高度の蓋然性が認められる」か、一切具体的に明らかにしていないことを強調しておく。
 加えて、少なくとも、古賀都議の都議会における発言と扶桑社の歴史教科書を批判した内容を含む教材プリント(甲6)を配布したことが問題とされたのは、古賀都議と友人関係にあった○○氏が古賀都議に通報し、これを受けた古賀都議が都教委の圧力をかけたことから無理矢理に問題とされたのであって、必然的に何らかの問題が生じたのではなく、古賀都議及び都教委の主導により意図的に生じさせられたものであることに留意すべきである。
 また、仮に万歩譲って、研修における原告の言動により「研修」に何らかの「支障」が生じたとしても、第1章において述べたように、そもそも原告の古賀都議の発言と扶桑社の歴史教科書に対する内容は正当なものであって、研修自体違法なものであったことや研修のあまりの非人道性に抗議してなされていることを忘れてはならない。
 さらに、原告は、前述したように、九段中においては、その教育実践の面においても、勤務状況の面においても、きわめて優秀な教員として勤務していたのであり、学校における職務の円滑な遂行に資することこそあれ、「支障」になることなど一切なかったのである。被告都教委の主張は、この点を意図的に無視しているとしかいいようがない。
 結局、被告都教委の主張は、原告の社会科教師としての教育的信念を単に性格、素質の問題にすり替え、原告の教師としての能力の高さを完全に無視している点及び原告の言動が「その職務の円滑な遂行に支障があり、または支障を生ずる高度の蓋然性が認められる」としている点において、二重の誤りを犯しており、失当である。
 5 特別に厳密・慎重な判断という要請について
   本件分限免職処分案を作成した直接の担当者である橋爪証人は、同処分案を作成するに当たって、これまで問題とされた乙ロ第3,6,8号証などの教材プリントの一部やビラ及び事故報告書、研修の記録程度しか調査していないことを認めている(橋爪19乃至22頁)。
 橋爪は、原告の普段の勤務状況、教育実践の内容、とりわけ紙上討論の全体像(例えば甲第51号証にあるような1年間を通した紙上討論の内容など)、古賀都議らを批判した九段中における教材プリントが現実に及ぼした影響の有無などは全く調査していないか、考慮すらしなかったことを明確に認めている(橋爪23,25,27乃至30頁等)。これらの事情は、教職に要求される一般的な適格性の要件として必要不可欠なものばかりであり、これらの事情に対する考慮及び調査を一切行わなかったことは、「分限免職の場合には特別に厳密・慎重な判断が要請される」とする前掲最判が呈示した基準に著しく反するものであることは明らかである。
 6 小括
   以上のとおり、原告は教職に要求される一般的な適格性の要件を完全に満たしており、分限免職の対象となることは一切なく、現実にも、九段中における「職務」を円滑に遂行もしていたことが優に認められ、原告が地公法第28条1項3号の「職に必要な適格性を欠く」場合に該当しないことは明らかである。
 したがって、本件分限免職処分は違法であり、その取消は免れない。
 本件分限免職処分を担当した勝部・橋爪証人らは、「まず免職ありき」との判断から、最判が要求する「特別に厳密・慎重な判断」はおろか、最低限必要な調査すら行わないまま、本件免職処分を強行したものであって、その違法性は顕著であると言わざるを得ない。

第2 被告が主張する原告の不適格性に対する反論
 1 被告都教委の主張
   前述したように、被告都教委は、原告の「自己の見解が絶対に正しく、自己の見解と異なる見解を有する者に対しては、時間、場所等をわきまえずに不適切な文言を用いてこれを攻撃する」という「独善的な性格」が、原告の素質、性格に根ざしたものであって、「簡単に矯正することのできない持続性を有する素質、能力、性質等に基因してその職務の円滑な遂行に支障があり、または支障を生ずる高度の蓋然性が認められる場合」(最高裁昭48・9・14民集27・8・925)に該当するから、本件分限処分は適法であると主張している。
 そして、その具体的根拠として、1997年度(平成9年度)の足立十六中において保護者を批判した内容のプリントを授業中に配布したこと(以下、便宜上、これを「十六中事件」ということもある。)、2005年度(平成17年度)、九段中において古賀俊昭都議会議員(以下、「古賀議員」という。)の都議会における発言及び扶桑社の歴史教科書を批判した内容が含まれているプリントを授業中に配布したこと(以下、便宜上、これを「九段中事件」という。)及びこれに続く本件第1次研修、第2次研修期間における原告の言動を挙げている。
 しかしながら、被告都教委の上記主張は、原告が従前から主張しているように、原告の社会科教師としての教育的信念を単に性格、素質の問題にすり替え、原告の教師としての能力の高さを完全に無視している点及び原告の言動が「その職務の円滑な遂行に支障があり、または支障を生ずる高度の蓋然性が認められる」としている点において、二重の誤りを犯していることは前項第2,4において述べたとおりである。
 以下、検討する。
 2 被告が主張するところの原告の「独善的性格」と原告の教育的信念について
 (1)被告都教委の主張
    被告都教委は、「授業時間中に他者(「自己の見解と異なる見解を有する者」を指すと思われるー代理人註)を誹謗する教員などあってはなら」ない、「原告は、自己の言動が児童生徒及び保護者に対し、いかなる影響を与えるか、保護者がいかなる思いを持つのかということについて認識を欠いているのであり、教員としての自覚を欠如した独善的な性格を持つものであり、まさに普通教育における教員として不適格といわざるを得ないのである」と断じている。その上で、「普通教育において、教員がたまたま授業時間中に他者を誹謗したという出来事があったとしても、当該教員の行為が偶発的出来事であれば、当該教員の上記行為は、非違行為として懲戒処分の対象とはなり得ても、分限処分の徴表事実とはなり得ないものである。」としている。そして、「原告の場合、・・・足立区立第十六中学校における行為について、・・・・自己の行為が教員として許されざる行為、すなわち『非行』に該当することを認めず、千代田区立九段中学校においては、誹謗の対象が、保護者であるか、都議会議員や出版社であるかの違いはあるものの、授業時間中に他者を誹謗するという同種の行為をくり返しているのであり、原告の他者を誹謗するという行為は、偶発的出来事と判断することは不可能であり、原告の素質、性格に根ざしたものであり、分限事由に該当すると判断せざるを得ないのである。」としている。
 (2)被告都教委の本質的誤り
    被告都教委は、ここでも、結局、8年もの時を隔てた十六中事件と九段中事件という2件のみをもって、「原告の素質、性格に根ざしたものであ」ると断定する誤りを犯していることは明白である。
 また、十六中事件は、保護者という一私人との問題であったのに対して、九段中事件の場合は、古賀都議という公人の都議会という公的な場所における公式発言と教科書の出版会社という公共性の高い法人に関する問題なのであり、プライバシー一つをとっても本質的な相違があること(公人などの公的な言動に対する論争は基本的に自由であること等)は明らかであり、この両者を同一視して、「原告の素質、性格に根ざしたものである」とする誤りもまた明白である。
 (3)十六中事件について
    また、十六中事件において保護者を批判するプリントを授業中に配布したのは、それまでの保護者やPTAの動きを校長ら管理職が原告に隠蔽するという通常ではあり得ない「偶発的」とさえ評価できない事情が介在していたこと、その目的も保護者を批判することそのものにあったのではなく「事実を知ること」の重要性を生徒達に伝えることにあったこと、上記のような事情がなければその保護者が特定できないように配慮したものとなっていたであろうことは、従前から主張しているとおりである。
 かかる事実を無視して、「原告は、自己の言動が児童生徒及び保護者に対し、いかなる影響を与えるか、保護者がいかなる思いを持つのかということについて認識を欠いている」と軽々に断定すること自体、「厳密、慎重」さを欠くものであることは論を待たない。
 (4)九段中事件について
    一方、九段中事件については、古賀議員という「公人」が「都議会」というまさしく「公」の場で「(我が国のー原告註)侵略戦争云々というのは、私は、全く当たらないと思います。じゃ、日本は一体どこを、いつ侵略したのかという、どこを、いつ、どの国を侵略したかということを具体的に一度聞いてみたいというふうに思います。」という客観的な歴史的事実にも政府見解にも真っ向から反する歴史認識を述べたことに対する正当な批判、論評として「国際的には恥を晒すことでしかない」と述べているに過ぎない。また、扶桑社の歴史教科書について、横山教育長(当時)が、「生徒たちに我が国に対する愛国心を持たせる一番良い教科書」と答弁したことは紛れもない事実であり、そのことに対する警鐘として、扶桑社の歴史教科書が我が国がアジア諸国を「侵略」したという歴史的事実を隠蔽しかつ正当化するものであること(この点については、原告が従前詳細に主張立証しているところである。)について、批判、論評したものであって、そもそもこれを「誹謗」と評価すること自体きわめて不当と言わねばならない。
 原告は、自らの教育的信念として、中学生が将来の主権者たるために、他人の意見をよく理解し、自ら主体的に考えていくこと、日本の歴史的事実、現在ある事実を正面から見据え、誇りを持てる日本にしていこうという志向を生徒達が身につけることを常に意識し、そして、試行錯誤の末に、紙上討論授業という授業方法を作り出したのである。
 自民党所属の古賀議員の都議会における上記発言やそれに呼応する横山教育長(当時)の上記発言は、まさしく、「歴史的事実」を歪曲し、歪曲した歴史的事実をあたかも真実であるかのように教え込もうとするものであった。前述のような教育的信念に基づいて教育を行ってきた原告にとって、そのような都教委の「現在ある事実(姿)」は、生徒達に正面から伝えねばならない事実であったのであって、何ら非難されることではないことは明らかである。
 このようなきわめて正当な原告の教育的信念に出た行為を「あってはならない」とし、「原告の独善的性格から出た」とすり替える被告都教委こそ、「独善的」であることは余りにも明らかである。
 なお、被告都教委がさかんに引用する旭川学テ判決においても、「憲法上、・・・教師は高等学校以下の普通教育の場においても、授業等の具体的内容及び方法についても、ある程度の裁量が認められるという意味において、一定の範囲における教育の自由が認められる」と判示しているのであり、紙上討論授業においてA4版22枚にも及ぶ(提出してある書証は半分に縮小したものである。)プリントの中で、その大半が生徒達の意見が掲載されている中での、最後の部分に、原告から「ノ・ムヒョン大統領への手紙」という原告の意見を記載した文章のわずか数行の表現(甲6参照)が、教師の「一定の範囲における教育の自由」の「裁量」の範囲内であることは言うまでもないところであることは明らかである。
 被告都教委は、このような批判さえも許さない、というのである上、本件各研修においては、原告が授業において生徒達に、「侵略」「予言」という日本が過去に行った「侵略」という歴史的事実や原爆被害に関する真実を記録した映画を見せたことについても反省修正を迫っているのであって、これらの都教委の行為は、学テ判決の示した基準からしても、「授業の具体的内容」に対する「不当な支配」=「教化強制」にあたる上、原告の正当な教育的信念の変更を迫るものであり憲法19,23,26条に反することは明白である。
 (5)以上のように、位相の全く異なる2つの事件を無理矢理に結びつけ、「原告の素質、性格等に根ざしたものであ」るとして、本件分限処分を正当化しようとする被告都教委の主張は失当であり、同処分の違法性は明白である。
 3 原告の紙上討論授業が「独善的」なものではないことについて
 (1)被告都教委は、自己の見解と異なる見解を有する者に対しては、例え、それが生徒であれ、保護者であれ、都議会議員等であれ、・・・・原告の他者に対する誹謗行為は、授業時間中にさえ行われている」と繰り返し主張している。
 しかしながら、原告の紙上討論授業を詳細に分析すれば、そのようなことは全くないことは、これまでも主張立証してきたところであるが、改めて、紙上討論授業における原告の生徒達に対する対応、これに関する生徒達の反応等を概観し、被告都教委の主張が全く的外れなものであることを再度確認する。
 (2)まず、別件の名誉毀損に基づく損害賠償請求訴訟において、東京地裁は、「紙上討論授業で使用したプリントに掲載された生徒の感想文は、賛否が分かれており、両論を載せた原告の意図は、自由に議論させることにあると認められ、中学生は一定程度の批判力を身につけていることを合わせ考えると、原告において、生徒らが思想統一されるような授業を行っているとは認めることはでき」ない、としているのであって(甲17.30頁)、「独善的」などでないことを明確に認めているのである。
 (3)以下、原告が勤務していた足立十六中における1997年度の紙上討論授業(いわゆる十六中事件の年である。)の内容に沿って検討することとする。
   @ 紙上討論の2回目(9枚目以降)では、それまでの生徒間の議論を踏まえ、在日米軍基地について生徒達の意見は賛否分かれていることが認められるが、米軍基地賛成の意見について、原告は特にコメントは付していない。
 唯一、「僕はずっと思っていたけれど、日本はアメリカとの戦争で負けたのだから、いまさら沖縄を返せだとか、米軍基地をなくせなど言える立場ではないと思う。戦争に負けた国が勝った国に返してだとかゆうのは間違っていると思う。それに『米軍基地をなくせ』とか下手に逆らえば、また戦争になって必ずと言っていいほど負けると思うので、アメリカのゆうことを聞いた方がいいと思う。」という意見について、原告は、ハーグ陸戦法規以来の戦争に関する国際法に触れた上で、「戦争に勝った国は何をしてもよく、負けた国は何をされても抗議できないという君の考えは完璧に間違いです。・・・独立国として言うべきことは、どこの国に言ってもいいわけなのです。事実フィリピンは国会は多数決で米軍基地をなくすことに決定したので、米軍は引き上げましたが、戦争にはならず、今もアメリカ、フィリピンは友好国です。」とコメントしている(11枚目)。上記の生徒の意見(戦争に負けた国が勝った国に対して返してだとかゆうのは間違っている)は、確かに間違っており、「良識ある公民」とは言えないものであることに異論はないと思われ、それを正面から指摘した原告のコメントは、教育的であるとはいうことはできても、「一方的かつ反論を許さない」との評価が当たっているとは言えないことは明らかである。
   A さらに、第3回目(15枚目以降)では、1回目のときに、「米軍全滅作戦」の意見を書いた生徒(4枚目参照)が、他の生徒からの批判を受けて、「僕は、『平和的に解決する方法』はない、と思ったから考えてみただけだ。日本は自由な国なんだし・・想像すること、考えることは自由だろ?」との意見を述べたことに対し、原告は、「そのとおりです。民主主義社会においては、どんな意見も大切です。なぜなら、それは他の人達に考えるためのヒント、刺激を与えてくれるからです。現に渡辺君の意見に対して、たくさんの人が『頭脳』を刺激されて『考え』ました。『学ぶ』ということは単に『知識』を頭につめこむことではない。『知識』を使って、『考える』ことだ、というのが私の持論です。渡辺君の意見は、討論に活気を与え、多くの人達の『考え』を深めることに貢献をしました。」とのコメントを付して(15,16枚目)、○○君の気持ちをフォローし、さらに、少数意見の大切さ、議論することの大切さ、『考える』ことの重要性といった民主主義社会における「良識ある公民」のあるべき姿に触れているのである。
 また、この回では、「・・・・確かに米軍基地があって、いやなこともあるかもしれないけど、一つくらいはいいことがあるかもしれないのに、どうして日本人はすべて悪いほうに持っていくの?それに、この勉強をいやがっている子がいるのに、どうしてこんなことを知らなくてはいけないの?別に私達に直接関係ないんだから、こんなこと知らなくてもよかった。」との意見に対し、原告は、「どんなに『いや』でも、向き合わなければならない事実があること、逃げてはならない事実があること、ごまかしてはならない事実があること、を子供達に教えるのは、大人の大切な義務だと私は考えます。確かに『事実』を知ることは、楽しいことばかりではありません。むしろ、つらい気持ちになることが多いでしょう。『知る』ことが、問題の解決につながらず、自分の無力さを思い知らされることのほうが多いですから。では、知らないままで、いいですか?今の自分の生活さえ平穏無事ならいいですか?・・・・」というコメントを付している(17枚目)。原告のこのコメントは、確かに厳しいものではあるが、教育者として必要な姿勢を貫いているものであることは明らかであり、政治的立場が分かれている問題について「一方的かつ反論を許さない」などというものでは全くない。ここには、生徒達が「良識ある公民」として生きていくために必要な姿勢そのものを諭している教育者としての情熱が感じられるだけである。
 さらに、「○○君の意見O・K最高!増田先生はひつこい。僕達じゃ何もできないんだから教科書の勉強したほうがいい。増田先生はなぜそんなに米軍基地にこだわるの?だったらアメリカとタイマンしたら?」との意見に対して、原告は、「米軍基地の問題は、52年間に及ぶ占領状態の継続の問題であり、当然、日本という国家の独立と主権の問題であり、日本国の最高法規である日本国憲法の『戦争放棄』の問題であり、憲法に明記された基本的人権の侵害の問題であり、日本の民主主義の問題(略)として、日本に生きるものすべてに関連する問題であり、アジア太平洋、ひいては世界の平和と安全の問題として、今、自分の生活には被害がないとしても、客観的にはすべての日本に生きる人の問題なのです。・・・」(20枚目)とやはり、米軍基地の問題を考える意義についてのコメントを付している。
   B このような原告と生徒達とのやりとりは枚挙にいとまがないが、そこに一貫しているのは、今ある社会が内包する様々な事象や問題に対して、その事実に正面から向き合い問題意識を持つということ自体を放棄するかのような姿勢を見せている生徒の意見に対して、原告が厳しくかつ愛情を込めてコメントを付しているという点である。原告は、生徒達に対して、ある問題について、原告と同様の立場に立つことを求めているのではなく、その問題について正面から向き合い考え続ける姿勢を涵養しようと努めていることが優に認められる。これは、教師として、極めて重要なことであって、被告都教委がいうところの「理解と寛容の精神」も認められるところであり、何ら非難されるべき筋合いのものではないことは明らかである。
   C 一年間にわたる紙上討論の中で、生徒達は、このような原告の真摯な姿勢を正しく理解し、紙上討論の最終回では、「私は一年間、紙上討論授業をして良かったと思う。一番、最初は『何?あれ?早くやめてほしいよ。』って思ってたけど、この紙上討論授業を通して、今まで、私が知らなかった、考えたこともなかった歴史上の問題や、現在の日本に起こっている問題を知ることができたし、学年のいろんな人達が、どんな風に考えているか、ということが、良く理解する事ができた。紙上討論をやらず、教科書そのままの知識を知っただけでいたら、本当のことを考えないままに、社会科を学んでいたと思う。今まで紙上討論に対する反対意見もあったけど、(私も一時、そうだった)、やっぱし紙上討論して、良かったと思う。それから、やっぱりこういうこと・・・・日本が中国、朝鮮やアジアにたいしてしたヒドいことは、子供達に教えるべきだと思う。別に、それで日本を誇りに思おうと思うまいと、その人の勝手だし、その人自身が考えること。でも過去に日本はヒドい事をしたのは事実なんだから。日本のいいところばかりを見て、誇りに思うより、どんなにいい所も、どんなに悪い所も、ちゃんと知った上で、誇りに思った方がいい。・・・」(86枚目)、「・・・それから私は、紙上討論をするのが、初めはイヤだった。同じことを何度も繰り返しているように思えたし、他人の意見に口出しされたりするから。紙上討論にも反対の意見がいくつも出ていたし、私の反対意見も載った。でも紙上討論を繰り返しているうちに私の意見が変わった。それは、紙上討論を通じて増田先生、私達に一つの事(テーマ)について、『いろいろな意見を出し合い、考えあうこと』を教えてくれているんだと気付いたから。私は『正しい事は正しい、間違っている事は間違っている』と堂々と生徒に教える事のできる増田先生の意志は素晴らしいものだと思う。・・・この紙上討論は、決して無駄ではなかったと私は言い切れる。」(87枚目)、「私は日本がアジアを侵略した事については。真実をちゃんと教えた方がいいと思う。もしかしたら、今の子供達が日本のしたことを知らずに大人になったら、また戦争をしてしまうかもしれないから。日本が、どんなにひどいことをしたのか教えれば、戦争したいと言われても、大多数の人が反対すると思う。『日本を誇りに思えない』なら、これから先、いいことをいっぱいして、未来の日本を誇りに思えるようにすればいいと思う。」(89枚目)、「私達は、この一年間に、たくさんの紙上討論をやってきた。そして、この紙上討論を通じて米軍基地のことや、日本のつらくて悲しい過去を知るなど、いろいろな事実を知ることができた。みんなの意見や、事実の知識を知った上で、自分が、また意見や考えを出す。それのくり返しをしてきた。いろいろな意見と同時に、紙上討論や増田先生に不満を持ったり、反対する人が出てきた。本当にいろいろな事があった。それでも増田先生は、私達が考えなければいけない事実を教えるため、紙上討論を続けてくれた。私は紙上討論を通じて、いろいろな意見を出せたり、社会に対する関心を高める事ができた。自分でも驚くくらい、たくさん考え、たくさん意見を出す事ができた。一番言いたいのは、紙上討論を通して『自分の意見をきちんと持ち、考えあうこと』の大切さが分かった、ということ。これは社会の授業だけでなく、大切な事だと思う。もちろん、そんなことは当たり前かもしれないけど、私は改めて分かった。一年間の紙上討論は、私にとってプラスだったし、きっと、みんなにとってもそうだと思う。」(92枚目)というような意見が出されるようになったのである。
 ここに見られるのは、原告の「独善的」な態度などでは決してなく、「紙上討論にも反対の意見がいくつも出ていたし、私の反対意見も載った。でも紙上討論を繰り返しているうちに私の意見が変わった。それは、増田先生は紙上討論を通じて、私達に一つの事(テーマ)について、『いろいろな意見を出し合い、考えあうこと』を教えてくれているんだと気付いたから。」「私は紙上討論を通じて、いろいろな意見を出せたり、社会に対する関心を高める事ができた。自分でも驚くくらい、たくさん考え、たくさん意見を出す事ができた。」「学年のいろんな人達が、どんな風に考えているか、ということが、良く理解する事ができた。」という、他の人の意見をよく理解し、自らの力で考えていこう、という思考態度そのものであり、生徒達は、紙上討論に対する原告の意図を正しく理解しているのである(同旨○○証言)。
    被告都教委は、上記のような生徒の意見に接してもなお、原告の教育態度を「独善的」と断ずるのであろうか。
 他人の意見をよく理解し、自ら主体的に考えていくこと、日本の歴史的事実、現在ある事実を正面から見据え、誇りを持てる日本にしていこうという志向を生徒達に身につけさせていくことを「独善的」と言うのであれば、そもそも「教育」などは成り立たないことは火を見るより明らかである。
 原告は、1997年度(平成9年度)の紙上討論授業の最終回において、生徒達にこう呼びかけている(95枚目)。
「あなた達に与えたテーマは現代日本に生きるすべての人が、考えなければならないものであり、一年間の数回の討論で、『すべてが分かる』はずのものではありません。教師の仕事は『事実についての正確な知識』を提供し、『考え合わせ、自分で考え続けていくための関心と問題意識を高めること』だと私は思います。私は責任は果たしたつもりです。後はあなた達が自分の力で、より良い解答を探し出して下さい!」と。
 このような原告の思いに対して、生徒達は、先に触れたものの外にも、「・・・一年間、紙上討論をして、みんなの考え方が分かったのがよい。ビデオでは、残酷すぎるものがあったけれど、人々の苦しみを、未来のために知っておかなければいけないと思う。未来を創るには未知の過去があってはいけない、過去を良く知っておかなければならない。増田先生は、みんながそういうことが分かると思って、紙上討論をしていたのだろう。」(80枚目)、「『侵略』という事実を子供に教えると子供が母国に誇りを持てなくなるという意見があるようだが、『偽りを事実と思い、偽りの国で生きる』・・・こういう事こそ、もっとも母国にたいして誇りを失うと思う、ショックを受けると思う。50年前もそうしたことがあったから、罪のない国民が悲惨な戦争に巻き込まれていったのだと思う。(米軍基地の問題について)やはり実際に被害を受けなければ他人ごとと考える人が多い。私自身もそうかもしれない。何しろ、一日中、昼も夜も戦闘機の爆音に耳を塞ぐという生活をしたことがないのだから。しかし少しでも多くの人が、その事実を知ることができたなら、政府を動かす力が生まれるのではないか?すべて政府が悪いと書いている人が多いけれど、それで済まされたら、米軍基地のそばに住んでいる人達を見放したも同然だと思う。せっかく事実を知ることができたのなら、みんなで、そのことを訴えなければ政府は動かせない。なぜなら、この問題は日本国民の問題なのだから。一年間、紙上討論をして、今までしたことのなかった経験ができた。他の人の考え方もわかったし、現実の問題や、過去の問題を深く考えることができたのは良かった。深く物事を考えることの大切さと必要さを忘れないようにしようと思う。」(80、81枚目)と書いている。
 このような生徒達の「思い」を見るとき、被告都教委の原告に対する「原告の他者に対する誹謗行為は、授業時間中にさえ行われていることからすれば、・・・・原告の素質、性格等に根ざしたもの」であり、「原告の上記素質、性格等は・・・『簡単に矯正することのできない持続性を有する』ものと判断せざるを得なかった」とする判断の空虚さは余りにも明らかである。
 (4)以上のとおり、原告を「矯正しがたい独善的性格」と断ずる被告の主張の誤りは明らかである。
  違憲違法な本件各研修における原告の言動を免職理由とすることの違法性
 (1)本件各「研修成果が上がらなかった」との評価の不当性 
    本件「処分説明書」(甲1の2)記載の「処分の理由」によれば、原告は、1999年9月1日から2002年3月31日まで「約2年7ヶ月間にわたる研修を受講したにもかかわらず」、また、本件第1次研修命令を受けて2005年9月1日から同月16日まで研修を受けたが、「上記処分(本件戒告処分)を受けたことの反省が見られない等、十分研修の成果が上がらなかった。」上に、原告が、本件第2次研修命令を受けて2005年9月17日から翌2006年3月31日まで東京都教職員研修センターにおいて研修を受けた際、「同日(ママ)午前9時頃、同センターにおいて、研修ガイダンスを受けた際、持参した抗議文を読み始め、同センター企画課長から延べ3回にわたり止めるよう指示されたにもかかわらず、約2分間同文書を読むという抗議を行い、また、同日(ママ)から12月9日までの間、研修内容の説明及び講義の際、裁判の資料にするなどといって録音行為を始めたため、研修担当者から止めるよう再三指示されたにも拘わらず、延べ12回にわたり録音行為を行い、さらに、平成17年9月22日午前9時30分頃から同日午前11時50分頃まで、同センターにおいて、研修期間中であるにもかかわらず、同センター所長宛の抗議文を作成するなど、不適切な抗議を繰り返した。」として、原告が、本件各研修命令に基づく研修の受講によって「十分研修の成果が上がらなかった」のみならず、本件第2次研修命令に基づく研修期間中に、違法な研修命令や研修中の処遇に対する抗議、あるいは、違法な研修であることの証拠保全行為を行ったこと、更には、本件第2次研修命令に基づく「研修」中の2005年9月20日から2006年3月31日までの「研修」の間、原告は「上記処分を受けたことに対し、自己の正当性を主張するのみで反省等が見られず、研修講師等に対して不適切な言動を繰り返す等、研修の成果は上がらなかった。」などとして、本件各研修による「成果」や研修中の原告の言動等を本件分限免職処分の理由として挙げている。
 しかしながら、前述のとおり、本件各研修命令に基づく研修は、その内容が「研修・研鑽」の名に値しない「転向強要・思想統制」と原告に対する辞職強要、原告を免職にするための材料探しのための監視と嫌がらせの繰り返しであり、かかる研修内容によって「研修の成果が上がらない」のは当然である。
 しかも、そもそも、基礎となる本件各研修命令と研修内容が違憲違法であって、かかる無効な各研修の受講、及び、各研修内容や研修中の処遇への抗議・証拠保全行為を免職の理由として挙げることが、違法不当であることは論を待たない。
 (2)過去の長期研修命令と研修結果等との比較
    この点、甲1の2においては、原告が1999年9月1日から2002年3月31日まで「約2年7ヶ月間にわたる研修を受講したにもかかわらず」として原告の以前の長期研修に関しても処分理由として挙げている。
 しかし、この「1999年9月1日から2002年3月31日まで約2年7ヶ月間にわたる研修を受講した」際の研修命令も、そもそもは、原告が保護者の一人について意見を記載した教材を使用した事実、及び、原告の裁判の報告等を保護者に送った事実につき、減給処分の懲戒処分を受けた件と同じ基礎事実に基づく研修命令処分という「不利益処分」であった点において、本件と同じく二重処分等の違法性を有するものであった。
 しかも、原告に対する過去の「減給処分」は、本件「戒告処分」より重い懲戒処分であるのみならず、「減給処分」「約2年7ヶ月の長期研修命令処分」の理由となった事実については、原告としても、「私人である一保護者」に関する件でもあり(原告はその氏名を特定して教材に記載した訳ではないが)、結果的に、「この保護者の子どもである一人の生徒」が巻き込まれてしまったことについて、遺憾な思いもあった。
 そして、その本件戒告処分より重い減給処分理由と同じ基礎事実に基づく「約2年7ヶ月の長期研修命令処分」を受け、原告は、この長期研修を懈怠なく受講し、2002年4月1日には、被告東京都教育委員会から、「研修成果が上がった」、「課題は残るものの問題は見られなかった。」、「一定の成果があった」(守屋証言6頁)と認められ、「原告の教育公務員としての適格性」が認められた結果、原告は学校現場へ、教壇へ復帰することとなったものである。
 なお、当該「約2年7ヶ月の長期研修命令処分」の期間中は、原告は、本件第2次研修中のように、「狭く仕切られ壁に向かって置かれた薄汚い机と椅子」(甲91、92)で「無言の行」を強いられたり、トイレ等の短時間の離席について行き先の報告を義務づけられたり、3分足らずの離席等をいちいち監視・観察・記録されるなどの人権侵害研修は受けていない。
 他方で、本件各研修命令処分は、繰り返しになるが、原告が、紙上討論授業の教材として作成した「ノ・ムヒョン大統領への手紙」において、「日本の侵略を否定する古賀俊昭都議」という「公人」の「都議会という公的な場所における発言」や「日本の侵略の事実を隠蔽する」教科書を発行する公知の出版社である扶桑社について、「歴史偽造主義者達」等の批判を行ったものである。原告の行為が、「批判」、即ち、単なる「誹謗」ではないことは、被告都教委の本件第2次研修時の研修センター統括指導主事であった種村証人も、原告の行為は「批判」であると認める証言を行っている(種村7頁)。
そして、この「原告による批判」は、日本国憲法及び「日本の侵略を認め謝罪する」旨の政府見解にも合致するものである。 のみならず、扶桑社の教科書に表される「つくる会」等の「日本による侵略の正当化」、古賀・土屋都議ら右翼都議らに表される政治家による「日本による侵略事実の否定」発言等に対しては、中国、韓国等でも国中で反発と抗議の声が上がっている。国際的にも、米国下院外交員会において、従軍慰安婦問題等の日本の侵略行為を否定しようとする「新しい教科書」に対する危惧が表明され、日本政府は従軍慰安婦等の戦時中の犯罪行為につき「歴史的責任を負わなければならない。」、「残酷な犯罪について教育を行わなければならない。」(甲48)旨の決議が挙げられており、日本国内でも、鳩山由紀夫ら政治家も「侵略戦争を美化している・・・歴史的な事実とも相違するわけで認めることはできない。」と批判し(甲45)、また、本邦の多くの良識ある歴史学者が、「真実の歴史と異なる」「日本の侵略を正当化・美化するものである」「歴史を偽造するものである」旨の論文・意見を出してうる(甲52乃至56、甲86)。このように、日本史の世界では、「原告の見解」こそが正当であり、国際的にも認められた見解である。
 要するに、過去の原告に対する「減給処分」及び「約2年7ヶ月の長期研修」の理由となる基礎事実は、「私人である保護者」に関することであったり、「この保護者の子どもである生徒が巻き込まれてしまった」という点で、原告としても遺憾な部分があったものであるが、本件「戒告処分」、本件各「研修命令処分」の理由となる基礎事実については、原告は微塵も「反省」を迫られる謂われはない。
 にも拘わらず、被告都教委は、「国際的に恥を晒す」ような歴史認識しか有しない右翼政治家、右翼メディアらの圧力に屈し、原告に対し、本件戒告処分を科したのみならず、自らの「教育者」としての思想・信念・良心を持って、これらの圧力に抗しようとする本件各研修命令書文中の原告の言動を、「反省していない」「研修の成果が見られない」「教育公務員としての適格性を欠く」などとして、僅か約7ヶ月の研修期間をもって、本件分限免職処分により「打ち止め」とした。このことは、前述の1999年以降の「約2年7ヶ月の長期研修」の理由、研修中の原告の言動(当該研修中も原告は訴訟活動、報告集会、支援者らに配布するビラ等で、自らの正当性、及び、当該減給処分や研修命令の不当性を主張していた。)を考慮しつつも、当該長期研修の「成果」及び「原告の教育公務員としての適格性」を認め、原告を教育現場・教壇へ復帰させた被告都教委の当時の判断とも大きく矛盾する。
 (3)「研修の成果」や研修内容や処遇に対する抗議・証拠保全を免職理由とすることの違法性
    この点、原告が教育公務員の地位にある以上、違法無効な本件各研修命令に対しても、服務義務が認められると仮定したとしても、本件研修期間中の原告の抗議や証拠保全行為を免職理由とすることは違法不当である。
 仮に、原告が本件各違法無効な研修命令を不服として、本件各研修命令に基づく研修への出席・参加を拒否し、研修場所への出頭を行わなかったというのであれば、原告には、公務員としての服務義務違反が認められる余地はあると思われる。
 しかしながら、原告は、本件各研修命令が違法無効であるにもかかわらず、公務員としての義務に従い、有給休暇の取得等を除けば、本件各研修命令に基づく研修に欠かさず出席し、各「研修」において与えられた明らかに不当な「課題」に対しても、真摯に文献を調査し、レポートや報告書を作成してきたものであり、原告は、本件違法無効な各研修命令に対しても、公務員として服務義務を全うした事実が認められる(甲83、丙9乃至26、乙ロ39乃至42)。
 そして、被告都教委としても、本件第2次研修命令期間中の、原告による「学習指導要領のまとめ」、「年間指導計画」、「ワークシート」等は、「大変詳しく且つ詳細にレポートされており」、「この部分では、外見的な成果はあります」(乙ロ41、守屋22頁)と認めざるを得ないものである。
 また、被告等教委は、原告が、立川分室での研修を指示された際に、「立川分室までは自宅から往復で5時間もかかること」を理由に、これを拒否した事実についても、あたかも、原告が「職務命令に違反した」かの如く論うものであるが、他方では、立川分室から取り寄せられた「教材キッド」を基に作成された原告の課題のまとめ・レポートについては、原告の報告に「不十分なものというのは指摘されておりません」(守屋38頁)として、被告都教委としても、「原告の研修成果」を認めざるを得ない結論となっている。
 よって、原告が、服務義務に従い、各研修において与えられた課題につき求められた論文・レポートや報告書を作成し、各「研修」を全て受講した以上、「十分に研修の成果が上がらなかった」とすれば、それは、本件各「研修」の内容とカリキュラムの問題性に基づくものであって、被告らの責任に他ならず、原告の責任ではあり得ない。
 また、原告が、各「研修」期間中に、服務義務に従いながらも、本件各研修命令や、研修中の処遇に抗議し、あるいは、違法な研修や処遇に関する証拠保全を行うことは、憲法第18条、第19条、第21条、第31条等によって保障された原告の正当な権利であって、原告が、「研修」中にかかる憲法等によって保障された権利を行使し、抗議や証拠保全行為を行った事実をもって、本件分限免職という著しい不利益処分の理由とすることは憲法等に反し、違法不当であり、到底許されることではない。
 なお、前述の過去の原告の「約2年7ヶ月の長期研修期間」中も、原告は、自らの研修内容・状況を記録し、研修中の自らの処遇等についても記録するため、録音を行っていたが、原告の録音行為について、「服務事故」扱いされたり「研修成果が上がらない」「教育公務員の適格性に欠ける」などという評価を与えられた事実は存在しない。
 今回の研修にのみ、このような評価がことさらに加えられているのは「免職」理由の薄弱さを補うためとしか考えられず、本件分限免職処分の違法不当性を表すものでしかない。
 4 研修外の原告の集会参加等の言動を免職理由とすることの違法性
   また、本件「処分説明書」記載の「処分の理由」によれば、原告が、本件第2研修命令に基づく「研修」期間中の2005年11月7日、研修時間外の夕方から夜にかけて開催された豊島区勤労福祉会館における集会に参加した際、「千代田区立九段中学校長から千代田区教育委員会に宛てた文書が、同校生徒の保護者にかかる情報が記載された文書であるにもかかわらず、文書に記載された同保護者の了解を事前に得ることなく同文書を配布し、また、同集会において、上記の者が執行委員長の地位にある団体が発行し、同保護者を誹謗した内容が記載されているビラを、同集会において上記文書と併せて配布するなど、同保護者を誹謗するという不適切な行為を繰り返し行った。」などとして、原告の勤務時間外、研修時間外の集会参加や集会における言動等を本件分限免職処分の理由として挙げている(甲1の2)。
 しかしながら、本件分限免職処分理由に挙げられた「生徒の保護者にかかる情報が記載された文書」とは、原告に関し、千代田区教育委員会から「教員服務事故報告書」の作成を強要された千代田区立九段中学校の○○校長が、「本件については全て同区教育委員会の指示を受けながら、対応を行っている」と苦衷の心中を吐露しつつ作成した「本校教員の服務事故」と題する報告書(甲9の1)である。そもそも、同文書は、原告を処分するために千代田区教育委員会が○○校長に作成を強要し、数回も訂正を加えて完成させた報告書であり(甲66の6頁、○○19乃至21頁)、原告の不利益処分等原告の身上に深い関わりを有する文書である。そのような文書として、原告の支援者らを集めた内輪の集会で配布した原告の行為は処分に値するものではない。
 そして、この「服務事故報告書」は、「服務事故」の経緯として「同校の生徒の保護者」である○○PTA副会長の氏名と、同人の原告への面会の申し入れ、校長室における原告との質疑応答の事実が記載されたものにすぎない。原告が、自らの正当性を主張するに際し、内輪の集会参加者に経緯を説明し、理解を求めるために、この文書を配布したとしても、被告らの主張する「生徒の保護者に対するプライバシー侵害や秘密漏洩」などに該当するはずもない。
 さらに、集会で配布されたビラについては(乙ロ5)、原告が執行委員長の地位にある団体が発行したものではあるが、原告が執筆したビラではないし、その保護者を批判しようと考えてビラを発行したのではないことも認められる(原告本人64頁)。
 また、このビラの中では保護者名を特定・明示していないし、前述のとおり「平泉澄の学習会を月1で行っている」○○PTA副会長を、「平泉澄の信奉者」と記載することは、真実にもとづく評価の記載であるから、処分理由にあるような「誹謗」ではない。
 したがって、この点も何ら分限免職の理由とはならない。

第3 「比例原則違反」についてー裁量権濫用を基礎付ける事実
 1 被告都教委主張の誤り
被告都教委は、本件分限免職は「決して原告の行為や言動に対する制裁としてなされたものではないのであり、『明らかに著しく重きに失し』との原告の主張は失当」であると主張する。
しかし、なぜ、「制裁としてなされたものではない」ならば『重きに失し』との主張が失当となるのか、意味不明である。
免職は、任命権者と当該公務員との任用関係を失わせる処分であるから、もっとも重い処分であることはいうまでもない。
 2 分限免職処分における比較 
 (1)伊沢けい子都議の調査
    伊沢けい子都議の調査によって東京都教育庁より提出された分限免職データ(甲57)によれば、平成9年4月から平成19年9月末まで約10年間の小学校・中学校・高等学校の分限免職者は21名、処分理由の内訳は以下の通りである。
失踪               2
勤務実績不良 2
欠勤及び度重なる不適切な言動 4
病気休職3年満了 3
私事欠勤 3
無届欠勤 4
指導力不足による教員不適格 4
体罰・暴行 1
職務命令違反     2
不適切な会計処理 1
 このように、分限免職の処分理由は、体罰・暴行や無断欠勤、私事欠勤のように免職者に大きな問題がある場合がほとんどである。
 平成17年の欄の1名が原告である。原告だけが「度重なる不適切な言動」のみで処分されており、他の「度重なる不適切な言動」を処分理由として挙げられている3名は、3名とも「欠勤及び」というのが付いている。
 (2)都における過去の分限免職処分等の事例について
    このうち、地方公務員法第28条1項3号「前二号に規定する場合の外、その職に必要な適格性を欠く場合」(不適格)だけを理由として分限免職処分を受けたのは、原告を含め6件(2003年度3件、2004年度2件、2005年度1件)である。
 そのうち3件は、指導力不足教員として認定された者である。これは、教師の職責の中核である「授業」そのものに問題があり、数年(通常3年)の長期研修をもってしても、「指導力」が向上しなかった、と判定されているものであって、「指導力」については何ら問題視されていない原告とは全くレベルが異なると言わざるを得ず、原告の場合をこれと同視することはできない。
 また、他の1件は、体罰・暴行、職務命令違反を繰り返したと認められる者である。墨塗りの処分説明書から推測されるところだけでも、少なくとも15回にわたって職務命令違反を繰り返し、その内の1部は、無届けの自動車通勤を長期にわたって繰り返していたことが認められる。さらに、これに加えて、厳に禁じられている体罰・暴行事件が加わっているのであって、教員として不適格であることが明白な事例である。
 さらに、他の1件は、学校事務員が不適切な会計処理を行ったというものであって、教員の場合と比較できるものではないが、横領的な行為が推測される事例であって、これまた職の不適格性が明白なものであることに変わりはない。
 これらの他の5件に比較して、原告の場合、教師の職責の中核である「授業」そのものについては何らの問題もなく、むしろ学力保障という面でも優秀であり、「紙上討論授業」についても多くの生徒や保護者から高い評価を受けていることはこれまで述べてきたとおりである。さらに、「度重なる不適切な言動」なるものも、問題とされているのは、結局の所、1997年度(平成9年度)の足立十六中時代の事件とそれから8年もの時を隔てた2005年度(平成17年度)の九段中における古賀都議及び扶桑社に対する批判を行ったことだけである(処分説明書に記載されている事項は、上記2つの事件に派生したものである。)。
 つまり、他の5件は、明らかにほとんどの保護者や生徒との間において教師としての信頼関係を長期間にわたって喪失していたり、刑法上の問題ともなりかねない事例であることが容易に推認される。それに対して、原告の場合は、被告都教委という公権力にとって都合の悪い「日本国憲法の侵略戦争否定の事実や侵略と植民地支配への反省を国の内外に表明した日本政府の見解に立つ歴史認識に基づいて、教科書発行会社や政治家を批判した授業を行った。」などという言動を以て分限免職処分としたものである。そのことからも、原告に対する処分が特異な例であり、明らかに著しく重きに失し「比例原則違反」であり、被告都教委の裁量権の逸脱濫用の程度は著しく、不当かつ違法な処分であることは、余りにも明白である。
  懲戒処分との比較
本件分限免職処分は、懲戒免職処分に匹敵する不利益処分であることは、既に述べたとおりである。そこで、以下に、懲戒処分、とりわけ、停職以上の処分例について論じることとする。なお、これ以下の処分事例の証拠は、甲第105乃至107号証による。
 (1)体罰・いじめの場合
    まず、教職員による児童・生徒への人権侵害の最たるものである体罰、生徒へのいじめ、不適切指導に係る懲戒処分例について、その「非違行為の態様と被害の大きさ」と処分程度の対応関係を概観する。
  ア 体罰、いじめについての標準的処分量定
    まず、「処分量定標準」では、どのように定められているかを見ておこう。
    2005年「処分量定標準」では、体罰は、「常習性、複数の児童・生徒に対する重傷事故等、特に悪質な場合」は、停職、免職とされ、それ以外の場合は、減給、戒告とされている。
 対して、「職務命令違反」は、「勤務態度不良」として「職場離脱」と一括して、戒告・減給とされている。
 2006年「処分量定標準」では、体罰は、「悪質、危険な暴力行為、傷害の程度が重い場合、隠蔽性や常習性がある場合」は、免職・停職、「暴力行為で傷害があり、事故処理が不適切である場合」は、減給・戒告とされている。
 10月改訂で付加された「いじめ」についは、「児童・生徒へのいじめ、児童・生徒間のいじめへの加担・助長」は、減給・戒告、「内容が悪質な場合、欠席・不登校など苦痛の程度が重い場合、隠蔽・常習性がある場合」などは、免職・停職とされている。
 対して、職務命令違反は、「職務専念義務違反」「職場離脱」とともに「勤務態度不良」と一括され、戒告・減給とされている。
  イ 体罰に係わる停職処分等について
    体罰に係わる処分には、停職以上の処分例も、ごく少数であるが存在する。 以下に見るように、きわめて悪質重大な事案である。
1 停職1月(平成20.1.31)
  小学校教員が、児童にはさみを投げ付け、残飯をかけるなど、恐怖心を与える言動を繰り返した。
2 停職1月(平成17.1.18)
  高校教員が、生徒の前髪をつかんで頭を後ろにそらせ、アルミの灰皿で頭頂部を叩き「お前は人間とは思えない」というなどの不適切な 言動を行った。
3 停職3月(平成16.11.30)
  中学校教員が、女子生徒6名に対し平手や拳で額や臀部を叩き、うち1名が体罰をきっかけに神経性食欲不振症等を発症し入院させた。
4 停職1月(平成16.2.25)
  中学校教員が、心身障害学級生徒の両手に手錠をかけるなどの不適切行為を繰り返し行った。
5 停職6月(平成15.10.9)
  盲・ろう・養護学校教員が、調理実習中、調味料として準備してあったワインを飲み、注入式で食事を摂取する必要がある生徒の唇にワ インを塗り、顔を赤くさせた。
  自立活動の授業中、別の生徒にクリスマスプレゼントと称して黒い 縁の写真立てを送り、家族に恐怖心を抱かせた。
  半年間にわたって、生徒の保護者や女性教諭に不快な思いをさせる 言動を繰り返した。
6 諭旨免職(平成15.6.20)
  高校教員が、ピアスをしていた生徒の耳をつかんではずさせ、髪を わしづかみにして足を払って床に倒し拳で殴打し、さらにトイレの個 室に連れ込んで拳で殴打し、頸部を圧迫して気絶させた。
7 諭旨免職(平成15.5.8)
  小学校教員が、移動教室、臨海学校で就寝中の女子児童にセクハラ 行為を繰り返した。約1年間にわたって。頭部を拳で叩く、箒の柄で 叩く、肘打ち、飛び蹴りなど11回以上の体罰を行った。
  ウ 体罰、いじめ、不適切指導に係る懲戒処分の量定上の特徴
   @ 処分程度は、大半が戒告であり、停職・免職は、停職が5年間で5件、諭旨免職が2件(うち1件は、児童への性的行為との複合例である)あるのみである。「処分量定標準」では、「悪質若しくは危険な暴力行為」「傷害の程度が重い場合」は、免職、停職とされているが、全治1週間〜2週間の傷害を与えていても戒告とされている。
  A 本件では、原告が誹謗を繰り返したとして、分限免職とされている。他方、複数回の体罰行為で量定が加重されている例も見受けられるが、3〜4件併せて戒告という例もある(平成17.3.22付処分説明書、平成15.12.5付処分説明書、平成15.6.20付処分説明書)。複数の体罰や不適切な言動があわせて1件とカウントされている例も多い。
 体罰事案では、1人対する往復ビンタ1回で戒告、3人殴れば減給といった規準で量定が決定されている訳ではない。10発殴っても(平成16.3.9付処分説明書)、5〜6回蹴っても(平成16.3.9付処分説明書)、計21人に体罰を加えても(平成17.5.27付処分説明書)戒告である。
   B 過去に体罰で二度の減給処分歴があり、同種の非違行為を繰り返しているのに戒告という例もある(平成20.2.21付処分説明書)。
 要するに、体罰に関しては、同種の非違行為の反復による累積加重が厳格に運用されておらず、過去の処分歴を勘案した量定加重も適用されていないケースがある。
 (2)性的行為の場合
  ア 児童・生徒への性的行為についての標準的処分量定戒告・減給処分
2005年処分量定標準では、「児童・生徒に対するわいせつ行為」は免職、それ以外の「不適切行為」は、戒告、減給、停職、免職とされている。2006年の処分量定標準では、児童・生徒に対する性的行為は、「性行為、陰部への接触、キス、のぞき・盗撮」は、免職、「性的不快感を与える言動」は、減給・戒告とされている。
 イ 児童・生徒に対する性的行為に係わる停職処分例 
1 停職6月(平成20.4.30)
  小学校の副校長が、一般教員時代の2002年6月頃から2003年10月頃までの間、繰り返し女子児童の身体を自己の身体に引き寄せるというセクハラ行為を行っていた上、副校長になった2007年6月から同年9月までの間、複数の女子児童に対して腰付近をさわるという行為を繰り返し行っていた。
 女子児童(ら)の精神的被害を考えた場合、かかる行為を何度も繰り返し行っていた副校長に停職6ヶ月という処分をし「公務員不適格」と判断していないこととも比較しても、原告の分限免職処分がいかに重きに失した「比例原則違反」であるかは、優に認められるところである。
2 停職6月(平成19.11.2)
  高校教員が、2年間にわたって、複数の女子生徒に対して、髪に触れる、肩に手を置くなどの行為を繰り返し行った。5カ月にわたって、同校女子生徒と自宅で二人で過ごす、プレゼントを交換する、二人でドライブに行く等の行為を行った。さらに2名の女子生徒に対し、寂しい、返事が来ない等のメールを合計24回送信し不快感を与えた。
3 停職3月(平成19.8.3)
  中学校教員が、男子生徒の脇腹、大腿分を手のひらでさわり、指で着衣の上から陰部に触れた。
4 停職6月(平成18.3.28)
  盲・ろう・養護学校教員が、教室で女子生徒にキスをし、写真を撮影した。
5 停職3月(平成17.12.20) 
  高校教員が、担任の男子生徒との面談の際、同生徒と女子生徒の交際にかかわって不適切な発言を行い、校長の再三の事実確認に対して 事実を認めず、解決を遅らせた。
6 停職3月(平成16.3.25)
  中学校教員が、@女子生徒の両肩をもむ、A引き寄せ、抱き締める、B腰に手を回して抱き締めるという行為をした。
7 停職3月(平成15.7.8)
  高校教員が、体育館で心臓が痛いと休んでいた女子生徒に対し、ブラジャーのホックを外すよう指示し、ブラジャーの中央部分を摘んで ひっばり、手の平を左脇から入れて体温を調べた際、乳房に触れた。
 (3)欠勤、遅参、早退の場合
    次に、分限処分にされることもある欠勤(無断欠勤)、遅参、早退の処分例を検討することとする。
 2005年「処分量定標準」では、欠勤は、戒告〜免職とされ、引き続き3週間以上の欠勤は分限免職とするとされていた。2006年「処分量定標準」では、3週間以上の無届け欠勤の継続は免職、無届け欠勤5日又は私事欠勤15日以上は停職、無届け欠勤3日又は私事欠勤9日以上は減給、無届け欠勤1日又は私事欠勤5日以上は戒告とされている。
 プレス発表資料をみても、無届け欠勤、私事欠勤については、おおむねこの量定どおりに運用されているようである。
 (4)その他の停職処分の事例
    ここでは、職場のセクハラなど、先に見た体罰・いじめ、生徒・児童に対する性的行為、無届け欠勤等に係わるもの以外の、この5年間のその他の停職処分をすべて列挙しておく。
1 停職3月(平成20.2.29)
  特別支援学校教員が、カラオケ店で酒に酔って勤務校の女性教員にキスをし、タクシー内でセクハラ行為を行い、反応性うつ病による病気休暇を取らざるを得なくなる事態を招いた。
2 停職6月(平成19.12.4)
  中学校主幹が、主幹の立場を利用して勤務校の女性教員に対し、出
退勤時に執拗につきまとい、高価なプレゼントを受け取らせたりホテルのレストランで食事をしたり、手首をつかんだりして、3ヵ月間の病気休暇を取らざるを得なくなる事態を招いた。
3 停職1月(平成19.9.27)
  高等学校経営指導室長が、5年半にわたって、勤務した3校の学校の事務室で、勤務時間中にアダルトサイトに接続し、わいせつ画像を視聴したり、わいせつ動画をダウンロードして持ち帰ったりした。
4 停職5日(平成19.3.26)
  高等学校教員が、16年間にわたり、校長の承認を受けずに、2つの大学で英語の講師として645回従事して2001万円の報酬を受け、うち353回は、承認研修、職務専念義務免除を受けた時間、又は勤務時間中であった。
5 停職1月(平成19.3.19)
  中学校教員による自家用車の酒気帯運転。
6 停職1月(平成.19.3.5)
  小学校教員が、通勤届に反して原付で帰宅し酒気帯運転した。
7 停職1月(平成.19.3.5)
  中学校教員が酒気帯び運転でカードレールに衝突し、破損させた。
8 停職3月(平成19.2.14)
  中学校教員が、路上で通りすがりの女性の右腕をつかみホテルに行こうなどと性的発言を行った。また、2日間の無届け欠勤をした。
9 停職6月(平成18.12.22)
 中学校副校長が、勤務校の講座にボランティアとして参加していた女子大生を講座に関する打ち合わせを理由に食事やドライブに誘い、ホテルに誘った。また9ヵ月間にわたって、交際を断られたにもかかわらず、メールを送り写真を無断で撮るなどのストーカー行為を行った。
10 停職3月(平成18.12.22)
  小学校教員の原付の酒気帯運転による自動車との衝突事故。
11 停職1月(平成18.12.22)
  小学校教員の原付の酒気帯運転とヘルメットを着用しない荷台同乗。
12 停職6月(平成18.11.27)
  中学校教員の許可を受けた海外旅行期間に反する海外旅行。27日 間の無断欠勤。
13 停職1月(平成18.10.18)
  小学校教員が他人の自転車を自宅に持ち帰り、カギを付け替え、半年間近く自宅に保有し使用した。
14 停職1月(平成18.3.28)
  中学校教員が、打ち上げ会で女性講師の胸を着衣の上からさわり、別日にも2回にわたり同様の行為をした。
15 停職1月(平成18.3.28)
  中学校教員が、2度にわたって虚偽の私事旅行届による海外旅行を行い、発覚後の事情聴取の際、虚偽の報告をし、友人に虚偽の証言を 依頼した。
16 停職6月(平成18.2.2)
  中学校主幹が自家用車を酒気帯運転し、自動車に追突して2人に全治1週間の傷害を負わせた。
17 停職3月(平成17.10.21)
  小学校教員がスーパーマーケットで食品840円相当を万引きした。
18 停職15日(平成17.10.3)
  小学校校長による自家用車の無灯火・酒気帯運転。
19 停職1月(平成17.8.5)
  中学校副校長が、校長の自宅で行われたスクールカウンセラーの歓迎会で、同カウンセラーに抱き付き、他の職員に引き離されたにもかかわらず再び抱き付き、その後も手を引っ張り、腕を組むなど不快感を与える行為をした。
20 停職3月(平成17.3.31)
 中学校教員が保健体育授業の際、女子生徒に対して学習指導要領を逸脱した不適切な内容のアンケートを実施し、期末考査において、男子生徒に対して、学習指導要領を逸脱した不適切な内容の試験問題を出題した。
21 停職3月(平成17.2.28)
  小学校主幹が、所属校で女性教諭に抱き付いてキスをし、好意を持っている旨のメモやメールを送るセクハラ行為を行った。
22 停職3月(平成17.2.28)
  小学校主幹が、居酒屋の個室に所属校の女性教員を誘って飲食した際、肩や腰を触る等のセクハラ行為を行い、靴箱に酒席に誘うメモを 入れ、著しい不快感を与えた。
23 停職3月(平成16.6.25)
  高等学校教員が、書店において英会話本5冊を万引きした。
24 停職3月(平成16.7.15) あわせて教諭への分限降任
  小学校教頭が、所属校職員が31日1時間の私事欠勤をしたにもかかわらず、虚偽の勤怠調書を作成して56万4千円を不正受給させ、同職員に出勤簿に不正押印させ、それを隠蔽するたるめに印影を消した。
25 停職10日(平成16.6.15)
  盲・ろう・養護学校教員が、20年間にわたって、報酬を受けて結婚披露宴の司会の仕事に従事していた。
26 停職15日(平成16.6.1)
  小学校教員が、路上に横臥していた男性に気付かず原付で轢き、心臓破裂の傷害を負わせ死亡させた。
27 停職3月(平成16.4.18)
  中学校教頭が、親睦旅行の宿泊先で女性教諭にキスをした。
28 停職1月(平成16.2.25)
  高等学校教員が、3年度にわたり、部活アドバイザー報償費を指導実態より350時間分多く請求し、その一部を正式登録されていない指導員への支払いに充てた。
29 停職1月(平成16.2.6)
  高等学校教員が、所属校生徒4名とカラオケボックスに行った際、ウイスキーを飲ませ、タバコを吸わせた。
30 停職3月(平成15.10.16) あわせて教諭への分限降任
  小学校教頭が、校長選考試験において、事前に作成した論文を縮小して作ったメモ用紙を再三取り出し、答案を書き進めた。
31 停職1月(平成15.7.29)
  中学校教員が、年次有給休暇が認められず、服務規律違反の警告を受けながら、年度始めの時期に7日間にわたって無許可で海外旅行を 行った。
32 停職1月(平成15.5.8)
  盲・ろう・養護学校係長が、自家用車の酒気帯運転で反対車線の歩道に乗り上げ、積石に衝突して破損させ、さらに横断歩道の安全標識 や像の囲いの石柱を破損させた。
 (5)職務命令違反の場合
    職務命令違反の事例との比較については、本件戒告処分の章で論じたが、本件分限免職処分が、繰り返し染み付いた性向によるもの、とされている点との比較で、7回の職務命令違反で減給10分の1 6月という事案も、注目すべきである(平成16.2.25付処分説明書、甲397号証)。
 この職務命令は、「授業中の指導方法の改善及び教職員と連携した教育活動の推進」を命じたものであったという。教育内容に関するものであるから、7回も違反があっても、減給処分にとどまっているものと思われる。そして、7回もの職務命令違反は、本件のように、「染み付いた性向」と考えられなくもないが、分限免職とは判断されていないのである。
 (6)小括
    以上からすれば、被告都教委は、原告について、他の処分事例とは明らかに異なる取り扱いをし、ことさら重い処分量定を行っているのであって、本件処分の比例原則違反は、明らかである。

第4 分限免職処分への政治的圧力の存在ー裁量権濫用を基礎付ける事実
 1 本件分限免職処分への古賀都議による政治的圧力
 (1)懲戒減給処分時の古賀都議による圧力
    古賀都議らは、1998年以来、一貫して議会内外において、原告に対する攻撃を繰り返してきた。その内容は、訴状、準備書面(4)の第1、第2の3においても述べてきたところである。
 本件分限免職処分の処分説明書において、原告は、懲戒処分や研修処分を受けたにもかかわらず不適切な独善的行為等を繰り返したとして、公務員の「職に必要な適格性に欠く」とされている。
 しかし、その分限処分の前提とされた第一次及び第二次懲戒減給処分が出される直前には、古賀都議が、必ず、都議会で原告に関する質問を行うとともに、原告の懲戒免職を求める要望書を提出するなどの行動に及んでいた。これを受ける形で、原告に対する処分が行われていることは客観的事実である。
 さらに、第二次懲戒減給処分及びこれに続く長期研修において、古賀都議らは、都教委に対し、原告個人ですら開示されないような原告に関する個人情報の開示を指示し、都教委はこれに従って、原告の個人情報を違法に漏洩したことが明らかとなっているのである(甲26,41)。
 (2)本件戒告処分時の古賀都議による圧力
    本件戒告処分の前には、前述のとおり、古賀都議会議員が裁判の相手方である原告を目の敵にして私怨を晴らそうとし、原告の九段中学校における授業状況を調べるため、情報公開請求を行い(甲42)、考えを同じくする○○氏をも使って都教委に圧力をかけ、これがうまくいかないとみるや、都教委を通じて千代田区教委を動かし、原告の授業内容に関する資料を収集していると推認される(甲14、43等)。そして、教員に対する服務監督権がないはずの都教委がさらに区教委や校長に圧力をかけるなかで、およそ懲戒に当たらない原告の教育実践に対して戒告したものであり、露骨な政治的介入であった。
 さらに、その後の研修処分も、古賀議員の実名を挙げた紙上討論プリントの授業での使用について反省を迫ることを専らの目的としたものであった。
 古賀都議は、原告の教材資料を使用して、本件研修処分中である2005年10月20日に、都議会文教委員会において、「・・・今回また処分の対象となって、戒告処分を受けているわけです。しかし改善されていない。改善されることなく、こういう授業を今でも繰り返している。私はこの人について教員として重大な欠損があるというふうに思うんですけれども・・・」と、まさに今回の分限免職処分を念頭に置いた質問を行っているのである。加えて、本件研修中に「改善されていない」と断言していた。
 そして、前述のように、本件分限免職処分は、3月14日に原告について御成門中学校への異動の内示がなされた後、2週間もたたないうちに急遽決定されたものであった。その判断に際して、古賀都議の友人である○○氏について言及されたビラが考慮されたことは、本件処分理由書(甲1の2)からも明らかである。このことからも、この方針の急変の背後には、古賀都議らの介入があることは容易に推認できるのである。
 また、古賀都議は、毎年2月期の都議会で、必ず原告を批判する質問を行っていたが(2005年においては3月16日の質問)、2006年2月期の都議会においては、原告について一切触れなかった。この変更は不自然であり、古賀都議は、原告に対する免職処分の確証を得ていたものと思われるのである。
 2 本件だけにとどまらない古賀都議による教育への政治介入
   古賀都議による教育内容への介入は、本件に限られない。
 (1)野牧雅子のホームページにおける古賀都議についての記載
    原告を敵視する教員野牧雅子のホームページには、古賀都議とその議会質問が以下のとおり紹介されている。 
「平成の新撰組組長 古賀俊昭都議  性教育を斬る!偏向教育を斬る! 君は彼を見たか」
   12月8日(木)古賀俊昭都議が都議会本会議で質問!
   左上の写真は、文教委員会で質問をしている古賀俊昭都議
   左下の写真は、平成15年7月、七生養護学校の性教育グッズ展   覧会の会場
   左から田代ひろし都議、明星大学教授高橋史朗先生、そして、古   賀都議。
古賀俊昭都議の質問と知事の答弁 平成16年06月08日
古賀俊昭都議の質問と知事の答弁 平成14年06月18日
古賀都議の質問 文教委員会 平成16年10月26日
古賀都議の質問 文教委員会 平成16年11月11日
古賀都議の質問 文教委員会 平成17年02月18日
古賀都議の質問 文教委員会 平成17年03月16日(1)
古賀都議の質問 文教委員会 平成17年03月16日(2)
古賀質問に先立つ福士敬子都議の質問 平成17年03月16日
古賀都議の質問 文教委員会 平成17年09月29日
古賀都議の質問 予算特別委員会 平成18年03月16日
東京都 ジェンダーフリー全廃・混合名簿廃止通知  
時事評論に古賀都議が登場!! 都教委が改正に本腰
古賀先生 藍綬褒章受賞!! 格調高い議会質問で東京から日本を守る自治をめざす古賀都議の質問報告 とち狂った行政の闇をつく DV防止法施行の批判 H.17.10.02
  足立16中人権侵害事件を斬る!チャンネル櫻に土屋都議・古賀都議が  登場 H18.03.17
月刊日本 18.04号 教育正常化を阻む東京都教育庁のサヨク幹部   H18.05.13
上記の各質問は、いずれも、日の丸君が代問題、性教育問題、そして本件原告を取り上げて、露骨に教育内容への介入を主張するものである。
 なお「足立16中人権侵害事件」というのは、古賀都議らが原告について足立16中で生徒の人権侵害をした、との内容の本を出版したことについて、原告が古賀都議らを名誉毀損で訴えているものである。
 (2)七生養護学校の性教育への介入と金崎事件判決
    注目すべきは、「七生養護学校の性教育グッズ展覧会の会場」を訪れた古賀都議の写真が掲載されており、現在裁判にもなっている東京都立七生養護学校の性教育バッシングに古賀都議が深く係っていることである。
 七生養護学校へのバッシングは、2003年7月2日の土屋たかゆき(民主党)都議の都議会での同校の「こころとからだの学習(性教育)」への攻撃に端を発しているが、土屋都議と古賀都議は盟友であり、上記のとおり、古賀都議の関与も認められるのである。
 同校では、校長の○○氏が,平成11,13,14年度の学級編制において,仮決定を受けた重度・重複学級の一部を編制しないで虚偽の報告を行い,不正に教員の加配を受けた、などとして、2003年9月11日,地方公務員法32条,33条違反により,都教委から停職1か月の懲戒処分と,同法28条1項3号に該当するとして,東京都公立学校長を解く旨の分限処分を受けた。それに対して,○○氏が各処分の取消を求めて東京都(処分庁都教委)を被告として裁判を提起した。
 同事件は、2008年2月25日、東京地方裁判所民事第36部合議B係で判決が言い渡された。その要旨は、以下のとおりである。
「本件学校では,重度・重複学級につき,被告教育庁の通知によって学級の設置に必要とされる条件(特別な教育課程の編成と担当教員,教室の明確化等)を形式的には充たしていた。原告は,かねてから,極度の情緒不安定と暴力,授業妨害等の問題行動があり,個別の指導をすることが必要な情緒障害児について,当該生徒や他の生徒の安全確保や情緒の安定化を図るための対応を検討していたが,被告の都教委とも協議の上,重度・重複学級の制度を活用して,個別指導,小集団指導を中心に,必要に応じて普通学級との合同の学習時間を設定する等,生徒の状態に即した流動性のある学級運営をする『情緒障害児学級』を立案し,それに対して被告の都教委から本件の重度・重複学級の設置が認められたという経緯に照らせば,被告が本件各処分で問題視する柔軟な学級運営について,原告が重度・重複学級を仮決定どおりに編成していなかったとか,学級を減じていたと評価するのは適切ではなく,上記の事実を認めることはできない。」
「本件各処分は,いずれも重きに失し,被告の裁量権を濫用ないし誤って行使して発せられたものといわざるを得ない。」
「以上から,その余の点を判断するまでもなく,本件各処分は取り消されるべきものである。」
 当然の判断ではあるが、障害児教育の現場における学級運営の努力を正当に評価し、都教委による違法な処分を断罪した優れた判決であり、多くの識者から高く評価されているものである。
 (3)本件との比較
    上記判決の事例における裁量権濫用がなされたのは、古賀都議らによる介入・政治的圧力があったためと推認される。本件も、その点では、上記○○事件と同様であるが、本件においては、古賀都議は、原告が訴訟の相手方であることからの私怨によって原告に対する処分への圧力をかけたのである。これは都議として必要な活動とはおよそかけ離れたものであり、言い繕うことのできないものである。その点で、古賀都議による介入の違法性は一層大きいといわねばならない。
 3 小括
   以上のとおり、本件分限免職処分は、古賀都議の不当な政治的圧力により急
遽なされたものであり、教基法10条1項が禁ずる「不当な支配」に該当するものであるとともに、かかる状況下でなされた本件分限免職処分には著しい裁量権の濫用が認められることは明らかである。

第5 本件分限免職処分の手続的違法性
 1 手続的違法性の総論
 (1)原告が主張する手続的違法性
    以上は、実体審査の基準であるが、本件訴状で述べた手続審査の基準、すなわち、
@区教委の処分内申が必要であるという地教行法38条1項の趣旨への違反
A他職転任を優先すべきという「東京都の職員の分限に関する条例」(以下「本件分限条例」と言う)3条 3項違反
B告知・聴聞・弁明の機会の付与が必要であるという適正手続き違反があるので、実体審査に入る以前に本件分限免職手続が違法・無効であることは明らかである。
 (2)教育に関する法令及び原則の解釈のあり方
    これらの法令及び原則は、以下の通り、兼子仁東京都立大学名誉教授の論稿に拠れば、教育基本法の規定する原則に則って解釈されなければならない。
 すなわち、前述した教育基本法の目的に基づき、教員については、教育基本法6条2項により、「法律に定める学校の教員は、全体の奉仕者であって、自己の使命を自覚し、その職責の遂行に努めなければならない。このためには、教員の身分は、尊重され、その待遇の適正が、期せられなければならない」とされていた。
 ここに言う「全体の奉仕者」性は、憲法15条2項に基づく公務員の「全体の奉仕者」性とは異なり、国公私立を問わず幼稚園から大学までの「法律に定める学校」の教員に共通するものであって、その趣旨は、子どもの「教育を受ける権利」の保障に任ずることに関わる学校教育の社会的公共性を意味するもの、と解されている。そうした「全体の奉仕者」である学校教員には、特別に身分が尊重されなければならないことを、教育法制上の原理として公定したのが教育基本法6条2項なのである。
 特に、公立学校教職員人事に対しては、「教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行わなければならない」(教育基本法10条2項)とされていたことと関わって、一段と強い拘束をもたらすものと解される。
 公立の小・中・高等学校の教職員人事に当たっては、教育公務員特例法が国公立大学教員について明記しているような人事上の身分保障制度の規定が存しないだけに、この教育基本法における教員身分尊重原則の定めがとりわけ肝要なのである。
 最高裁大法廷は、旭川学力テスト判決(1976年5月21日)において「教育基本法10条の解釈」に関連し、次のように判示している。
  「教基法は、憲法において教育のあり方の基本を定めることに代えて、わが国の教育及び教育制度全体を通じる基本理念と基本原理を宣明することを目的として制定されたものであつて、戦後のわが国の政治、社会、文化の各方面における諸改革中最も重要な問題の一つとされていた教育の根本的改革を目途として制定された諸立法の中で中心的地位を占める法律であり、このことは、同法の前文の文言及び各規定の内容に徴しても、明らかである。それ故、同法における定めは、形式的には通常の法律規定として、これと矛盾する他の法律規定を無効にする効力をもつものではないけれども、一般に教育関係法令の解釈及び運用については、法律自体に別段の規定がない限り、できるだけ教基法の規定及び同法の趣旨、目的に沿うように考慮が払われなければならないというべきである。
 ところで、教基法は、その前文の示すように、憲法の精神にのつとり、民主的で文化的な国家を建設して世界の平和と人類の福祉に貢献するためには、教育が根本的重要性を有するとの認識の下に、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的で、しかも個性豊かな文化の創造をめざす教育が今後におけるわが国の教育の基本理念であるとしている。これは、戦前のわが国の教育が、国家による強い支配の下で形式的、画一的に流れ、時に軍国主義的又は極端な国家主義的傾向を帯びる面があつたことに対する反省によるものであり、右の理念は、これを更に具体化した同法の各規定を解釈するにあたっても、強く念頭に置かれるべきものであることは、いうまでもない。」
 すなわち、教育基本法上の「基本原理」規定は、全ての現行教育法令の解釈運用を拘束するものとされているのであって、公立学校教員の分限免職に関しても、前述の教員身分尊重の原理は適用されなければならないのである。
 以下に、それぞれについて、詳論する。
 2 手続的違法性の具体的検討
 (1)地教行法38条1項違反
ア 内申が必要であるとする最高裁の指摘
    本件においては、原告に対し、区教委が本年3月28日付で研修継続を内申している。にもかかわらず、都教委は、同月29日付で分限免職を決定している。このことは、地教行法38条1項に規定された内申制度の趣旨及び必要とされる手続に反することは明らかである。
 この点について、最高裁(最判昭和61年3月13日・民集40・2・258)は、「地教行法38条1項所定の市町村教育委の内申は、県費負担教職員について都道府県教委が任命権を行使するための手続要件をなすものであり、右の教職員に対してその非違行為を理由に懲戒処分をするためには、市町村教委の処分内申が必要であり、その内申なしに処分を行うことは許されないのが原則である。」とし、「例外的に、市町村教委の内申がなくてもその任命権を行使できる」場合として、「市町村教委が、教職員の非違などに関し右内申をしないことが、服務監督者としてとるべき措置を怠るものであり、人事管理上著しく適正を欠くと認められる場合」に限定している。
 本件においては、区教委は、原告を引き続き研修させる旨の内申を出しており、例外的に内申なしに(内申に反して)任命権を行使できる場合に該当しないことは明らかである。なお、確かに、行政組織上、区と市町村はその位置づけが異なるが、特別区も一定の独立性を有した地方自治体であり、最判の趣旨は、区教委の場合にも該当すると解すべきである。
 以上から、本件分限免職処分は、地教行法38条1項の趣旨に反して、区教委の内申を無視して強行された点において、その違法性は強度であり、取消を免れない。
  イ 被告らの主張
標記の点について、被告都教委は、準備書面(3)11頁以下で、「市町村委員会の内申が『手続要件』となること、それゆえ、市町村委員会の内申がない場合の都道府県委員会の任命権の行使は、原則として違法との評価を受けるものであるが、内申が存在する以上、都道府県委員会は、市町村教委の内申の内容には必ずしも拘束されないのであり、自己の責任と判断において任命権を行使できるのである」と主張する。
また、被告東京都は、被告千代田区教委からの「千代田区立九段中学校教諭増田都子(原告)について、東京都教職員研修センターの研修状況報告を踏まえ、継続した研修の実施などの適切な処置を取られるよう願います。」との「平成18年3月28日付内申」(乙ロ20)を「まって」、本件分限免職処分を行った旨主張する。
  ウ 「内申をまって」の趣旨
しかしながら、当該「内申」の内容は、あくまでも、「継続した研修の実施などの適切な処置」であって(乙ロ20)、被告千代田区が、「分限免職処分」を内申した事実は存在しない。
この点、被告東京都は、「上記『内申をまって』の意味については、必ずしも内申の内容には拘束されない、とされているのであり」(同準備書面14頁)と主張するが、そもそも、地教行法38条1項が「内申をまって」とする趣旨は、より教育現場に近く、原告ら教育公務員の適格性等について豊富な知識を有する、市区町村区教育委員会の方が、より当該教育公務員の「適格性」判断に適するとする趣旨に出ていると解されるところ、千代田区教育委員会が「継続した研修の実施などの適切な処置」としか「内申」していないものを、いきなり、分限免職処分とすることは、明らかに被告東京都の裁量権の範囲を逸脱するものであり、地教行法38条1項の趣旨に違反するものである。
また、「内申をまって」の趣旨として、被告東京都教育委員会は、千代田区教委の「内申」に対し、原告の処分につき、両者において、一定の協議をすることも含む趣旨と解されるが、本件において、被告千代田区は、「原告の分限免職処分の決定」について、一切事前に知らされていなかったとのことであり、その点についても、本件分限免職処分は、地教行法38条1項の趣旨を逸脱している。
  エ 最高裁判決についての理解の誤り
 被告都教委が引用する最高裁昭和61年3月13日判決(民集40巻2号258ページ。福岡県内申抜き懲戒処分事件)は、地教行法38条1項について、
「これらの教職員は、市町村が設置する学校に勤務し市町村教委の監督の下にその勤務に服する(43条1項)者であることから、都道府県教委がその任命権を行使するに当たっては、服務監督者である市町村教委の意見をこれに反映させることとして、両者の協働関係により県費負担教職員に関する人事の適正、円滑を期する趣旨に出たものと解される」と判示しているのである。
 この趣旨からすれば、単に市町村教委からの内申が存在していれば、都道府県教委は、その内申と全く異なる任命権行使をなしてよい、と言うものではない。そんなことでは、市町村教委の意見が「反映」されたとは言えないし、「両者の協働関係」は破壊され、県費負担教職員に関する人事の適正、円滑が著しく阻害されると言える。市町村教委の側からすれば、どんな内申をしてもそれと正反対の任命権行使がなされるのであれば、自らが軽んじられたとして嫌気が差し、人事の適正を図る気力もうせることとなろう。
 上記の教育基本法における教員身分尊重原則を合わせ考えれば、任命権の行使に実際に教員を監督してきた市町村教委からの内申を反映させることによって、教員の身分を尊重させる方向での人事の適正を期する趣旨と言える。
上記記載高裁判決は、内申がなかった事例についてのものであるから、内申が「手続要件」として必要である旨述べたものであり、内申は存在すればよく都道府県教委はそれに拘束されないなどとは一言も判断していない。
従って、被告都教委の主張は、そうした最高裁判決の事案の特徴を無視するとともに、同判決が示す地教行法38条1項の趣旨について教育基本法に則った理解をしない誤った主張である。
  オ 地教行法の改正の趣旨
 1998年の改正以前は、地教行法59条1項は、東京都に関する特例をもうけ、東京都の特別区の教育委員会の所管に属する学校の教育職員の任用その他の身分取扱に関する事務については、都教委がこれを処理する旨定めていた。これは、区教委の所管に属する学校の教育職員の任用その他の人事に関する事項が、統一的・一体的かつ広範囲な処理を必要とするものであることから、同法23条の特例として、都教委がその事務を処理することとされたものと解される。
 それが、1998年の改正によって、この特例が排除されたのである。それは、特別区について、市町村と同等の地位を付与するという地方分権の流れの基づき、教員の人事について特別区教委の内申による意見反映を期する趣旨であった。単に内申が存在すればよいのであれば、法改正以前から教員の人事について区教委の内申はなされていたのであるから、法改正までする意味がないはずである。
  カ 小括
被告都教委は、千代田区教委の内申を受けて、いつ、どのような議論の下にそれをどのような理由で斥けて原告の分限免職処分を決定したのか、を全く明らかにせず、単に「内申の内容には拘束されない」と主張するだけでは、「特に厳密、慎重な考慮」(前掲最判)を要する分限免職処分を行うための手続的要請を遵守していないと言わざるを得ない。
    従って、教育基本法の教員身分尊重原則に照らしても、最高裁判決に基づいても、地教行法の改正の趣旨からしても、「研修の継続」との区教委の内申と教員の身分尊重という点で大きく異なる本件分限免職は、地教行法38条1項に反して違法であることは明らかである。
 (2)東京都の職員の分限に関する条例3条3項違反
ア 原告の主張
  東京都の職員の分限に関する条例3条3項は、「法28条1項3号により職員を降任もしくは免職することのできる場合は、当該職員をその現に有する適格性を必要とする他の職に転任させることができない場合に限るものとする」と規定されている。
 しかしながら、原告は、都教委から、降任ないしは転職の打診すらも受けておらず、明らかに上記規定に違反する。
 この点からも、本件分限免職処分は理由がなく違法なものであることは明白である。
  イ 原告は転任が可能だった
被告都教委は、本件分限条例3条3項が規定する「転任」とは「横滑りの異動を意味するもの」であるところ、原告は「県費負担教員であり、他の職への異動はそもそも不可能」だとする。
しかし、被告都教委が原告の適格性欠如として挙げているのは、「自己の見解が正しく、自己の見解と異なる見解を有する者は、保護者であれ、都議会議員であれ、これを授業中においてさえ誹謗するという素質、性格」である。
もちろん、原告は、被告都教委が指摘する上記「素質、性格」を認めるものではないが、万歩譲って、上記「素質、性格」を原告が有していたとしても、授業を受け持たなければ、授業中に保護者や都議会議員を誹謗することはないが、県費負担教員であっても、図書館の司書教諭のように、授業を受け持たずに勤務する教員もいるのである。なお、司書教諭については、司書の免許がない一般の教諭にも、今日まで60年間担務が認められてきた。
この司書教諭について、学校図書館法(昭和28年法律第185号)の第5条の第1項には「学校には、学校図書館の専門的職務を掌らせるため、司書教諭を置かなければならない。」と定められている。
このように、専門的職務を掌るものであるから、授業を担当することはその職務に含まれない。
したがって、司書教諭は「授業を担当するもの」だとする被告都教委の主張は、明らかに誤りである。
その他、養護学校の教諭や、不登校の子どもの家庭訪問を専門とする教諭、病院の中の学校に務める教諭など、被告都教委の言う「歴史認識についての押し付け」をなすことなく勤務できる教諭の任務はいくつもある。
さらに、2007年10月3日の伊沢けい子都議の教育庁人事部職員課長江藤巧に対する調査によれば、指導力不足教員は、最大2年の研修が期限に達した時点で、実績が上がってないと評価された場合には、自主退職するか、事務職への転職を希望するかを教員に聞くのである。事務職への転職を希望する場合は、事務職試験を受け、合格すれば事務職となる。
これも被告都教委の言う「歴史認識についての押し付け」をなすことなく勤務できる職種である。
ましてや、「指導力」は十分に有していた原告については、そのような手続も取られずに分限免職とすることが違法であることは明らかである。
ウ 公務員不適格論の誤り
さらに、被告都教委は「原告の独善的性格は、そもそも公務員として不適格なものといわざるを得ない」とする。しかし、公務員として不適格かどうかは、その職務との関係で判断されるべきであるし、これまではそうした判断がなされてきている。「独善的である」という極めて一般的・抽象的な理由のみで公務員としての適格性を欠くとして分限免職となった例はない。
また、被告東京都は、本件分限条例3条3項は、「同一任命権者における他の職種への水平異動を意味している。他の職に転任させる前提として、当該職員が地方公務員としての適格性を有している必要があることはいうまでもない。」、「原告については、研修中の対応からして、そもそも公務員としての適格性が欠如しているのであ」る(同準備書面14、15頁)などと反論する。
しかし、本件分限免職処分は、約33年間の継続した勤務において「教育公務員としての適格性」を認められてきた原告につき、3月14日に原告の御成門中学校への異動を内示した直後に(橋爪16頁)、その間に何らの原告の非違行為等の具体的な事実も存在しないにも拘わらず、いきなり発令されている。この一事をもっても、被告東京都が、原告につき、「当該職員をその現に有する適格性を必要とする他の職に転任させることができるか否か」を慎重に検討・考慮した事実はないのであり、原告に「公務員としての適格性が欠如している」などと、後付の理由に過ぎない。
これに対して、橋爪は、御成門中学への異動と教員としての適格性は「別です」と証言したが(橋爪16頁)、何の理由付けも無いものであり、およそ信用できない。
勝部純明は、原告について「懲戒処分を受けて、その研修を受けたにもかかわらず、自らの問題行動に対する反省、そういうものが残念ながら見られませんでしたので、公務員としても不適格だというふうに判断せざるを得ませんでした」と証言した(勝部14頁)。しかし、前述のように原告は反省すべき行為をしたわけでもなく、「反省がないと公務員として不適格」というのは、原告の内心を問題にすることであって、このような理由で分限免職という極刑を課すことは凡そ認められるべきではない。
  エ 事前の警告も依願退職の勧めもなかった
更に、法令上の規定にはないものの、できる限り分限免職を避けるという本条例3条3項の趣旨及び通常の慣習上は、分限免職処分等が適用される事案にあっては、口頭又は文書を以て、対象者に対し、事前に警告等を行い、それでも改善が見られない場合に、「依願退職するか分限免職か。」の選択肢を与えるのが通例であり、人事院には、「職員が分限事由に該当する可能性のある場合の対応措置について」(通知)の中に、「警告書」という書式も存在する(甲50)。
然るに、本件において、原告に対し、かかる警告が与えられた事実もなければ、事前に、「依願退職か分限免職か」の選択の機会を与えた事実も存在しない。原告も「一切ありません」と証言した(原告本人38頁)。
この点についても、本件分限免職処分は、明らかに異常である。
  オ 地方教育行政法47条の2に関する近時の裁判例の解釈
    なお、都条例3条3項と同趣旨と解釈される法令として、2001年に改正された地方教育行政法47条の2がある。この点に関する近時の判決として、○○○○氏(以下、「○○氏」という。)の分限免職事件の判決がある。
 すなわち、指導力不足を理由に分限免職処分を受けたのを不服として、岡山市内の元中学教諭安東氏が岡山県を相手取り、処分取り消しを求めていた裁判で、2009年1月27日、岡山地裁(近下秀明裁判長)は27日、県に処分取り消しを命じる判決を言い渡した。○○氏は、1981年以降理科の教員として勤務したが、2005年に「指導力不足教員」の認定を受けた。その後1年間にわたる研修を受けたが改善が見られず、県教委は同氏を06年に分限免職処分とした。
 上記判決は、○○氏の「教員としての不適格性」を認めた点には問題があるものの、「地方公務員として免職する場合は、学校以外の勤務先を検討するなど、特に厳密、慎重であるべき」と指摘した。その上で「県が処分理由とした『人間性や資質の欠如』『対人関係能力の不足』は、教員としての不適格性のみに関係し、地方公務員としての適格性を疑わせるものではない」と述べ、地方教育行政法47条の2に基づいて○○氏を教職から外し、他の教育機関への「転職など考慮すべき事柄を検討しておらず、裁量権の濫用で違法である」とした。
 この地方教育行政法47条の2第1項は、「都道府県教育委員会は、・・・・県費負担教職員(略)で次の各号のいずれにも該当する者(略)を免職し、引き続いて都道府県の常時勤務を要する職に採用することができる。」とし、免職対象者の要件として、「@児童又は生徒に対する指導が不適切であること」、「A研修等必要な措置が講じられたとしてもなお児童又は生徒に対する指導を適切に行うことが出来ないと認められること」を挙げている。 上記判例は、この地方教育行政法47条の2を、分限免職を回避するために、まず転職を考慮すべきことを定めたもの、と解釈したのであり、地方公務員の身分保障という点で、極めて妥当である。
 原告の場合、都教委により「長期」の研修を命じられたことはあるものの、原告を「指導力不足等教員」とすることができなかったことからしても、上記地方教育行政法47条の2第1項1号の要件(児童又は生徒に対する指導が不適切であること)を欠くことは明らかであり、万歩譲って、被告都教委の処分理由を前提としても、原告は同条項2号の「研修等必要な措置が講じられたとしてもなお児童又は生徒に対する指導を適切に行うことが出来ない」にのみ該当するというものであって、分限免職の対象とはなり得ないのである。
 したがって、仮に被告都教委の処分理由を前提としても、原告に対しては、せいぜい、上記事件の○○氏同様、地方教育行政法47条の2の措置が取りうるだけであり、それをせずに分限免職とした被告都教委の処分は、裁量権の濫用が認められ、その違法性は明らかである。
  カ 小括
したがって、原告の適格性についての被告都教委、被告東京都の主張を前提としても、原告については、本件分限条例3条3項が規定する「転任」の余地はいくつもの任務についてあったのであり、被告東京都の本件分限免職処分は、「東京都の職員の分限に関する条例」3条3項違反であることは、明らかである。これに反する被告都教委、被告東京都の主張の誤りは明らかである。
 (3)適正手続(憲法31条)違反
ア 適正手続原則の内容と分限免職処分への適用
 日本国憲法の母法たるアメリカ合衆国憲法では、修正5条・14条に「適正手続」条項が定められている。アメリカの司法審査では、行政の処分が公正手続きを経ているかが重視され、法律に規定がなくても、個人の権利法益に対する不利益処分に際しては当然に告知・聴聞の手続きが必要であることが、「適正手続条項」の適用として判示されてきた(行政法総論51頁 兼子仁)。
 こうした理由から、行政過程における人権保障のため、行政手続にも憲法31条を適用ないし準用するというのが学説の一致するところである(行政法総論74頁 兼子仁)。
  この憲法31条の趣旨を行政手続において具体化したのが行政手続法である。同法13条には、行政が不利益処分をしようとする場合には、当該不利益処分の名宛人となるべきものについて、聴聞や弁明の機会の付与をしなければならないと定められており、その際にはいずれも「予定される不利益処分の内容および根拠となる法令の条項」を書面により通知しなければならない、とされている(同15条、30条)。
本件のような公務員の身分上の処分については、行政手続法は直接には適用されないが、名宛人がその職を剥奪されるという極めて重大な処分については、行政手続法15条、30条、ひいてはその根拠である憲法31条の趣旨が重視されるべきであり、やはり「予定される不利益処分の内容および根拠となる法令の条項」が通知されるべきである。学説でも「我が国では不服申立および訴えの提起に執行停止効果が無く、執行停止要件も厳格な法制をとっていることからすると、免職処分の侵害度が強いこともあるので、現行法のような事後手続の形式的適用で適正手続の要請を満たしているとみることはできない。処分事由説明書に加えて聴聞(必ずしも行政手続法の聴聞の形式をとる必要はないにせよ)の機会を事前に与えることが憲法上要請されていると解される(明治憲法のもとでも、官吏分限令、管理懲戒例における免職処分については、懲戒委員会の議決を経た後に処分をする、つまり、事前手続がとられていた。)」と述べられている(塩野宏・行政法。(第2版)(有斐閣)241頁)。
  イ 本件における告知・聴聞の欠如
この点に関し、勝部は、2月以降、原告を分限免職にすることについて検討を開始したと証言した(勝部調書29頁)が、それは真実とは思われない。橋爪は、都教委が港区に対して3月14日に原告の港区立御成門中学校への異動を内示したことを認めた(橋爪調書16頁)。その「内示」から僅か2週間後の3月29日には、懲戒分限審査委員会が開催され、原告は同月31日付で分限免職処分とされている。
    このような急遽の分限免職処分決定のためか、原告、及び九段中学校の○○校長は、全く都教委からの事情聴取すらも受けていない。
 これは、明らかに告知・聴聞の機会を奪われたことを意味しており、適正手続に違反するものである。
 原告も、分限免職処分になるという予告は「全くありませんでした」と証言した(原告調書38頁)。
 橋爪は、人事部長レク、懲戒分限審査会の答申、教育委員会での議論、教育長の決定と、慎重な手続を経たかのように証言したが(橋爪調書14頁)、懲戒分限審査会で使用した自ら作成した提案書の添付資料については憶えていないと述べるのみで(橋爪調書18頁)、極めて不自然である。その上、「分限で事情聴取というのはないと思いましたので、考えませんでした」「もう千代田区から事故報告書が上がっていますから」と述べて(橋爪調書26頁)、原告に対する告知・聴聞の機会を付与しなかったことを自白した。
 さらに、○○以外の九段中の他の3年生の保護者からの聞き取りも一切行っていないことを認めた(橋爪調書27頁)。
 したがって、この点からも、本件分限免職処分の取消は免れない。

第6 本件各処分の「二重処分性」について
 被告らは、あくまでも、本件分限免職処分は、「不利益処分」ではあるけれども、「懲戒免職」ほど重い不利益処分ではなく、「懲戒」の性格は持たないものであり、「二重処分」ではない旨主張する。
 しかし、「二重処分の禁止」という概念は、懲戒処分か、分限処分かを問わず、適正手続の理念から派生する手続の一回性の原則(憲法31条)および「2重の危険の回避」(憲法39条)との見地から、ひとつの事象について二重に処分することを禁じたものである。
 たとえば、JR東日本の採用差別に対する神奈川地労委命令は、分限処分どころかJR不採用という事態について、国鉄当局による労働処分がなされているのだから,これに加えて不採用という重大な不利益を与えることは,事実上の二重処分であると判断している。
 それに対し、勝部は、「分限処分というのは、例えば、適格性の欠如と言うことに関しては、職員の性格、あるいは性向等の染み付いたものに着目してなされる処分です。」と証言した(勝部13頁)。被告らは、このように、以前の処分に現われた性向に着目した分限処分だから二重処分ではない、と主張するようである。
 この点を検討すると、本件分限免職処分の「発令通知書」(甲1の1)には、1997年の足立16中に於ける事象に対する1998年の減給処分、1999年の長期研修から記載されている。
 そして、勝部は、この点に関する原告代理人の「この2年7ヶ月の研修は、一定の成果があったというふうに教育委員会のほうも評価していたわけでしょう」との質問に対して、「成果は見られたという報告であったと記憶しています。」と証言した(勝部32頁)。
 また、橋爪は、原告が保護者を批判の対象にしたプリントを配布したのは上記の足立16中に於ける事象の場合だけであり、2005年のプリントは公人についてのものであるから性質が異なることを認めた(橋爪23,24頁)。
 したがって、足立16中時代からの染み付いた性向として、原告が保護者や私人を批判の対象にしてプリントを配布する行為をなしていたとは認められないのである。
 また、勝部は、2005年12月12日付の研修状況報告書を、「ざっとではありますが、目は通していあります」というだけで(勝部33頁)、研修の成果が上がっていないと判断したという極めて杜撰なものであった。
 その理由としては、勝部は「研修を受ける増田教諭の態度であるとか、それから、研修中の研修担当者に対する言葉遣いであったとか、それから、課題研修の内容について、指導助言を行ったにもかかわらず、そこでの理解が得られなかったというようなことを総合的に判断しました」と述べた。
 原告が、研修の課題をきちんと提出しており、中学校学習指導要領(社会)の分析など、優れた報告をしていることは(乙ロ39資料1)、なんら考慮されていないのである。
 また、原告が、研修の内容についての「指導助言」とされるものを理解しなかったのは、前述のように、この研修が、原告がその思想・良心に基づき古賀都議や扶桑社の教科書を批判したことについてなんら反省すべき点がないのに、その反省を迫るものであったこと、しかも、古賀都議や扶桑社の教科書が批判の対象とならないことを示すような原告に対する学問的説得が何らなされなかったことによるのであり、原告が反省しなかったことは何ら責められる余地がない。
 そして、被告らも認めるとおり、原告の教育公務員としての「指導力」には何らの問題もなかった。橋爪は、原告が日常業務に支障をきたさず、公務分掌をきちんとやっていたことについて、「話には聞いたことはありますけれども、きちんとやっていたんじゃないですか」と証言した(橋爪30頁)。
 また、原告がビラを集会で配って保護者を誹謗したとされる点については、前述のように、原告が執行委員長の地位にある団体が発行したものではあるが、原告が執筆したビラではないし、その保護者を批判しようと考えてビラを発行したのではない(原告本人64頁)。
 とすれば、本件分限免職処分は、原告に教育公務員として不適格な「染み付いた性向」があったからではなく、単に以前の減給処分、研修処分、戒告処分があったことを理由として原告を処分したものに過ぎない。
 従って、本件分限免職処分は二重処分であって、憲法31条、38条の趣旨に照らして違法・無効である。

第7 本件分限免職処分の違憲性及び教基法10条1項の不当支配にあたること
 1 憲法19条違反について
   これまで詳細に述べてきたことから明らかなように、本件分限免職処分は、原告が有する教育的信念に基づいて、古賀都議の発言及び扶桑社の歴史教科書を批判したことに端を発してなされたものである。
 本件分限免職処分に先立つ本件各研修の内容の多くが、原告が行ってきた紙上討論授業において「侵略パート1」や「予言」を使用することに対する「反省」=「思想改造」を要求するものであったことを考えれば、本件分限免職処分は、原告の教育的信念に基づく教授方法に対して、免職という究極の不利益処分をなしたものであることは明らかであって、これは、思想信条を理由とする不利益処分の禁止という憲法19条の保障内容に違反するものであることは明らかである。
 2 憲法23、26条違反及び教基法10条1項違反
 (1)これまで述べてきたように、旭川学テ判決は、普通教育の教師に対しても、憲法23,26条の趣旨を及ぼし、一定の教授の自由を認めているが、本件分限免職処分は、原告の当然に許される範囲の教育実践(甲68・森正孝氏意見書,甲69浪本教授意見書参照)を教壇から追放するという形で完全に否定するものであり、憲法23条に明らかに違反する処分である。
 (2)また、上記のように原告の教授の自由を完全に否定する性格を有する本件
分限免職処分は、旭川学テ判決が教基法10条1項の「不当支配」の定義の一内容としている「教師の一定の裁量が保障されない場合」に該当するから、教基法10条1項の「不当支配」に該当する。
 また、本件分限免職処分が、本章第4で述べた古賀都議らの政治的圧力の下でなされたものであることをも合わせ考えれば、同処分が「不当支配」にあたることはなお一層明らかである。
 3 小括
   以上から、本件分限免職処分は、地公法第28条1項3号に該当しないのになされた違法処分であるにとどまらず、その本質において憲法及び教基法に違反する違憲違法なものであって、取消は免れない。

第8 結論
   以上のとおり、本件分限免職処分は、地公法28条1項3号に該当しない違法処分であることに加え、違憲違法であり、さらに裁量権の濫用、手続的違法も認められるきわめて違法性の強い処分であることもまた明らかであり、同処分により被った原告の精神的損害も計り知れない。
   したがって、原告の請求は、速やかに認容されなくてはならない。

<まとめに代えて>
  本件処分がなされてから、すでに三年の月日が流れた。原告は、来年1月に定 年である60歳を迎える年齢となってしまった。
  原告にとって失われたこの三年間は余りにも大きいものがある。
  原告は、法廷において、「紙上討論2を、甲第29号証でしたか。お読みになったらお分かりになると思いますが、生徒たちは本当に心から真摯に意見を書いていました。特に在日の人が、日本国籍を選ぼうか、韓国籍を選ぼうか、私は今悩んでいます、そういう声もありました。私はその子の声を中心に、どう思いますか? と2学期から授業を進め、本当に共に生きていく社会を作る。それを目指していました。それを被告らの、教育破壊活動としか言えませんが。によって、幻になってしまい、その生徒の魂の声を生かせなかったことは断腸の思いです。本当に公正に裁判していただき、教壇に帰していただき、こういった生徒たちの真摯な思考、本当にアジアの平和のために、どうしていったらこの国をよくできるか、そういうふうに考える子供たちと接して、私の平和教育を続けさせていただきたいと思います。」と述べた。
 まさに、原告の心情はこの言葉に表れている。
 原告が残された日々を1日でも多く教壇に立てるようにすることこそ、正義であり公平である。                         

以上


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