「韓日青少年平和交流団」韓国光州市の高校生の感想

皆さま
 こんにちは。増田です。長文、ご容赦を!

 以前、8月5日〜9日の件名交流についてお知らせしました(記事へのリンクはこちら)が、参加した高校生の感想文集が日本側主催者「第2次不二越強制連行・強制労働訴訟を支援する北陸連絡会」に送られてきたそうです。12人のうち2人だけですが、日本語に翻訳されました。少し長いですがご紹介します。

 「意思(疎通)は言葉でするのでなく、心でする」…いい言葉です…日本の高校生も韓国に行って交流活動をしている話も聞きますが、もっともっと盛んになるといいですね!

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  富山で見た一筋の明るい光         大光女子高等学校 2年  
 
   韓日のサッカー試合を見る時に、両国の人は非常に鋭敏になり、自国が勝つことに全力を挙げ応援する。韓日問題と関連するニュースを見ると、人々はすぐ悪口を言う。果たして日本の朝鮮統治時期に、我国の人々にどんな恨みがあったのだろう? 漠々(果てしなく)と見える韓日関係に平和が再び訪れる方法はあるのだろうか? この2つの問いが、日本に行く時に私が答えを探してみようと決心したことだったし、(韓日)青少年平和交流活動は、この2問以上に大切な事を私に分からせてくれた。真実を教えようとする増田先生の感動的な講演で始まった交流活動は、尹奉吉義士の密葬地訪問と三菱、不二越の両地下軍需工場トンネルの訪問、そして不二越富山工場の門前行動を参観することで構成されていた。他人の視線を気にかけない強靭な信念の人たちの姿に尊敬の念が起きたし、会話は言葉ではなく、真心でするということも分かった。
   
   学生たちに真実を知らしめようとしていた増田先生は、2005年、盧武鉉大統領の韓日関係の和解に関する3・1節演説を見て感銘を受け、中学生たちと一緒に大統領に手紙を送る活動をされた。しかし、侵略戦争を歪曲したという先生の手紙内容に対し、日本は不満の反応を示した。教職員研修センターでは、トイレに行く時間すら記録して徹底的に監視し、結局解雇されてしまった。しかし闘いを放棄せず、訴訟を準備したと話された先生の眼から、強い意志と情熱を感じた。『私は敗訴するだろうことは分かっていたが、せねばいけないことはしなければ』という貴重な言葉を聞いて、私はこの言葉を忘れたくなくて、直ちにノートに書き留めると共に、心の奥深くにしまっておいた。
   
   尹奉吉義士の死刑執行地に到着すると、少し水の流れる山中だった。尹奉吉義士の密葬地が、幼い時の遊び場だった金秉権先生は、そこがそうとも知らずに友達と踏みながら遊んだことが生涯の後悔だった。そして日本人4人がいろんな風説をたどり調べていって、草木ばかりの遠い山中が尹奉吉義士の死刑地だったことを探し当てた。また今回の私たち平和交流団の為に、高齢にもかかわらず死刑地に行く道の雑草を抜いて下さったその話に、またまた感動したのだった。
   
   三菱と不二越の地下軍需工場のトンネルに行く道には、熊の出没を防ぐためのとげとげの電気線があり、我々を喜ばせた(?)しかし、私の記憶に残ったのは、とげとげの電線でも、暑い天気でも、坂の道でもなかった。こんな深い山中に深く掘られたトンネルで、ここが果たしてどこかも分からずに、命ぜられるまま仕事をせねばならなかった過去の朝鮮人の悲しみと恨みが、真っ暗なトンネルの中にちらついた。故郷と家族への懐かしさをじっとこらえねばならなかった人たち。金を得るため、トンネルでのつらい労働しか選べなかった人たちの為に黙祷をした時に、私は心の中で「今からでも、皆さんの苦痛と鬱憤の涙と汗を私たちは忘れません。韓国に帰ってからも多くの人に話して、二度とこんなひどいことが起きない様にしますから、どうぞ安らかにお休み下さい」と語ったのだ。
   
   4日目に参観した不二越富山工場の門前行動は、一緒に行った交流団一行が最も強い印象を受けた活動だったと異口同音に話す、貴重な時間であった。不二越は戦犯企業として、かつて、勉強をさせてあげる、お金を稼がせてあげる等の甘い言葉で誘い、当時学究熱に燃えていた幼い少女たちを富山の不二越軍需工場で仕事の機械代わりにしてしまった。少しのご飯と、ちっともくれない無賃金も深刻な問題だったが、今になって見ると、灰色の歴史と しでかした大きな誤りをきちんと認定していないことが最も大きな問題だと思う。幼かった勤労挺身隊ハルモニたちの踏みにじられた人権を回復して、当時叫べなかった恨みの叫びを代わりに叫んでくれる毎月の門前行動をきっちりやって下さる日本の人たち。その方々の白い頭髪や曲がった腰でも堂々とした口ぶりに、なぜか青春の熱い情熱が感じられた。
   
  日章旗と拡声器が満載の車に乗った日本の右翼勢力の粗暴な妨害に、心から湧き起こる怒りと憤怒。これまで、この堂々とした叫びを聞けなかった事に対する恥ずかしさと有り難さ、そして尊敬の念とが入れ替わり、拍手と涙が自然に出てきた。勤労挺身隊ハルモニたちのために一生懸命闘って下さるこの人たちに感謝を申し上げると、「私たちは韓国のためにやっているんじゃないよ。より良い自分、より良い日本、そして堂々とした国の為にやっているので、感謝の表現は適切ではないよ」との言葉に再び驚かざるを得なかった。皆が良心のまま、より良い自分、良い堂々たる国にする為に努めるのなら、やりきれない思いをする人もいないだろうし、世界は平和になるだろう。
   
   今回の青少年交流活動の中で、省くことのできない貴重な経験がホームステイだ。日本語がだめな私は、一生懸命日本語のあいさつを覚えながら会話の心配をしたのだが、ホームステイを通して、意思は言葉でするのでなく、心でするのだと心から理解した。私が会った○さんと○○○○さん、○○○ちゃん、○○○ちゃんは、皆顔も心も美しい人たちだった。最初の晩に○さんの家で一緒にパーティを楽しんだ“7ヶ国語で話そう”会の方々と“369”と“009パンゲーム”をした。ゲーム説明は英語だったが、369ゲームでは数字が韓国語・日本語を混ぜながら楽しく進むのを見て、韓国と日本の未来もこんな風に互いに憎まず、仲良くなれることを願った。ホームステイの2日目には、日本の伝統衣装の“ゆかた”を着る体験をした。日本の家で日本の食事をし、日本の服を着てみた事は、新鮮で幸せな体験だった。たとえ使う言葉は違っても、もう心からホームステイ家族の人と話すことができた。韓国に帰って来て、Eメールと写真を送受信したけれど、実際に会えないことが大変悲しく、残念であった。
   
   第7期 韓日青少年平和交流活動を通して、日本に行く前に何回か事前教育をして富山に行ったが、勤労挺身隊ハルモニたちの足跡をたどり学んだことは、新しく貴重なことだった。私が学び感じたことも重要だが、まだ勤労挺身隊ハルモニの涙についてよく知らずにいる周辺の友達や大人たちに、私が感じた感動と分かった事をそのまま新鮮に知らせなくちゃと、心から思えるようになった。韓国に着いた翌日、学校で私は皆の前で話す時間を持った。短時間ではあったが、私は韓国人がよく誤解している勤労挺身隊と「慰安婦」の違いに対し、明確に説明した。そして門前行動に直接参観する前までは良く分からなかった、北陸連絡会の人たちを始め正しい信念の為に熱心に闘っている方々の汗と努力について話した時に、自然と涙が落ちるのを止めることができなかった。
   
   私の夢は韓国や全ての国が争わず、本当に平和な地球村を成す事に飛び回る外交官になることだ。今回の活動を通じて、私はこの夢がとても切実な問題だと思えた。また、勤労挺身隊ハルモニの痛さを察し、この真実を皆が知るようにと、私がもっと努力せねばと固い誓いを持つようになった。
   
  今日も韓国のスポーツ競技に神経を鋭敏にする人たちに対し、私が経験した希望の光で照らし、その光が満ちる明るい世界になることを希望する。



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続いて二人目の感想をご紹介します。

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 炎天下よりも、熱い信念で        東新女子高等学校 2年   富山に着いて、最初に私たちを喜ばせてくれたのは、日本の のどかな天気でも乗務員でもなく、北陸連絡会会員の方々だった。ぎこちなく もじもじしている私たちの緊張を、微笑で解いてくれたのだ。明るく笑いながら、先ず車に乗れとおっしゃった北陸連絡会の中川さんの顔は今でも忘れない。  そして、初めて着いた韓国会館では、増田都子先生が“日本の歴史偽造勢力との闘い”に関するテーマで講演をされた。増田先生は盧武鉉大統領に手紙を書き、議論する活動を進められた。私は日頃から、日本の学生は何故自国の蛮行についてよく知らず、否認するのか不思議に思っていた。 それが先生の講演を聞いて、その訳が初めて分かった。その訳とは、日本の学生はろくに歴史教育を受けたことがないからであった。日本の学生はこの活動を通して、知らなかった隠された歴史を知り得たし、自分たちが韓国人に謝罪し、今後はこんな事が二度と繰り返されないように努力すると手紙に書いた。ところがこの活動の中で、増田先生が特定の都議員と教科書を“歴史偽造者”、“歴史偽造教科書”だと発言したことで、右翼たちにより弾圧され、無念にも免職処分を受けてしまった。その為、数年が過ぎた今でも講演や本の出版、そして裁判を通して闘っているとおっしゃった。 私は質問した。「約11年間もの長い間に、闘いを止めたかったことは無かったですか?」。返ってきた先生の言葉は、とてもすてきだった。「勝てないだろうとは思いましたが、せねばならぬ事はせねばなりません。それで私はこの闘いを止める積もりはありません」。自分のやったことが間違いでなかったのに不当な処分を受けてしまったが、決して後悔していないという増田先生の信念は、富山の天気よりも熱かった。そして、この事を通して私は、自分が考え行動した事が正しく、正義の道ならば、どんな弾圧にも自分の信念を曲げないぞという意志が持てるようになった。そして、日本の学生たちが正しい歴史教育を受けられない事実が大変 気の毒だったし、右翼の息が学生教育に大きく関与している、その具体的内容を知って身震いしたのだった。  増田先生の講演を通して右翼の弾圧について耳で聞いたばかりでなく、不二越門前行動を通して、直接見て経験することとなった。旭日旗と日章旗を付けた右翼の拡声器車3台がゆっくりと道路を回って、北陸連絡会と私たちに向かって「朝鮮人は帰れ!」と、やたらに暴言を吐いた。その言葉を背に、北陸連絡会の人たちは不二越に向かってデモンストレーションをした。私は太陽に向き合う、身体が燃えそうな暑さの中で起きている出来事を見て、右翼の殺気立った横暴に驚かずにはいられなかった。 また、こんな極度の状況の中で不二越に訴えている良心的な日本人の姿を見て、涙がこぼれずにはいられなかった。本来なら被害者側の国と多くの国民がすべき事を、この人たちが汗を滝のように流しながら継続して闘い、行動してこられたというその事実に驚いたし、感謝するばかりであった。そこで私が助けになることは何もないことが、心が裂ける程痛かった。右翼の拡声器車4台の声のせいで、シュプレヒコールや訴える内容はほとんど聞こえなかった。すぐに、うるさく騒ぐ右翼車を無くしてしまいたかった。その間は、不二越門前にいた我々全員が同じ気持ちだったと確信する。門前行動を通して、増田先生が受けた右翼の横暴と、それでも放棄しない北陸連絡会員たちの熱い心が伝わった。“百聞は一見にしかず”ということを、身にしみて感じた瞬間であった。  韓国にいる私たちの代わりに戦犯企業:不二越と闘う北陸連絡会員たちは、暑い天気でも門前行動や多くの活動をされているその理由が“より良い日本をつくるため”だと言われた。こんな良心的日本人の思い・信念に反し、韓国人であるにもかかわらず、強制労働問題に関し、椅子に腰掛けて聞くばかりで何も行動していなかった自分自身が恥ずかしく思えた。自分が学生という制限された枠にいる為に、する事に限界はあったとしても、学生である事で出来る事も多いはずだ。学生として、勤労挺身隊ハルモニたちが一日も早く謝罪されるべく援助するのにどんな事があろうかと、深く考える契機となった。その間、座視してハルモニたちが謝罪されなければと思っていたが、門前行動を通して、これからは立ち上がって直接叫んで闘わなければと、心から理解する事ができた。  不二越正門前の次に、私たちは横にある後門に行き、赤い煉瓦壁に向き合った。煉瓦の塀は、ハルモニたちが強制動員されていた当時からあった物で、現在残っている唯一の真実の物であった。150cm程の身長の少女たちが脱出できない様、3m60cm程に高く築かれた障壁を見ながら、あまりにも残忍な彼らの考えに、くやしくて身震いした。何も知らず日本に連行された少女たちは、その高い塀を見てどう思っただろうか? 乗り越えられる希望も持てず、赤い塀で囲われたその中で、ろくに食べることも出来ず、重労働するしかなかった10代の少女の人生。私より幼くかわいらしい年の少女が、つらい労働で憔悴しゆがんでいく顔。その少女が今も赤い塀の向こうにつっ立っている様に思われ、心が締め付けられる程痛かった。ハルモニになってしまった少女たちに対し、今もろくに謝罪しようとしない戦犯企業に対し、こみ上げる憤怒の情。  私たちが他に行った処は、尹奉吉義士の密葬地だった。誰にも分からぬ様に密葬された土地だったが、解放後に尹奉吉義士の死体を探すのが大変困難だったと言われた。それが尹奉吉義士を踏み倒し、殺して埋め、夢見が悪かった日本の軍人たちは、近所の寺の女僧に仏教の儀式を依頼したのだが、後日この女僧が密葬地を教えてくれ、やっと分かったとのことだった。私たちにこの話を説明してくれた老人が幼かった頃、密葬地近くの学校に通っていたが、国の高貴な方が埋葬されているとも知らず、そこを踏んで遊んでいたことに罪責感を感じて、現在までここを管理されているとおっしゃった。そんな老人の堅固な心がとてもすてきに思われたし、有り難かったし、国のために命を投げ打ち犠牲となった尹奉吉義士に感謝した。尹奉吉義士やこの老人の様な方がいらっしゃるおかげで、今まで国が存在できたのだと思った。私も大韓民国の国民として、国のため、国民のために闘う愛国の志士になろうと決心した。  4泊5日間の富山での韓日交流は、最高の思い出になった。私たちに不便が無い様にと親切にしてくれたホームステイ家族の人たちと、団体宿泊のため宿を貸してくれた「まめのま」の方々に、また星槎高校の学生たち、そして私たちのために苦労された先生方のことは忘れません。無くなった国を取り戻すため、生命まで差し出した愛国志士と、強制動員で連行され、死ぬ程の労働に苦しめられた朝鮮人のことは骨の髄まで憶えておきます。 何より、私が永遠に頭に留めおくことは、歪曲された歴史の裏に隠された真実のために、日本で大きな勢力と闘っている北陸連絡会の方々の汗であり、涙です。旅程が遠くても、不二越が誤りを認定する時まで、また日本がきちんと謝罪をハルモニたちにする時まで闘うぞという人たちの情熱は本当に熱かった。私も韓国で、日本の人たちより苦労は少ないけど、真実を知らしめる為に立ち上がり、動く学生になるように努めるつもりです。