平成23年(行ノ)第31号
原審:東京高等裁判所平成21年(行コ)第241号
 分限免職処分取消等請求控訴事件
申立人   増  田  都  子
相手方   東 京 都 外3名

        上 告 受 理 申 立 理 由 書

                         2011年4月28日

 最高裁判所 御 中

   上記当事者の頭書事件につき、原判決には、最高裁判例と相反する判断、及び、法令の解釈に関する重要な事項を含むものと認められる法令違反が存するため、下記のとおり、上告として受理されるよう申し立てる。
 
                 申立人訴訟代理人
                   弁護士  和  久  田  修

                   同    萱  野  一  樹

                   同    萩  尾  健  太

                   同    寒  竹  里  江

                記

第1 長束小事件最高裁判所判例違反
 1 長束小学校事件最高裁判決の示した判例
   いわゆる長束小学校事件最高裁判決(1973年9月14日第2小法廷判決・民集27巻8号925頁−以下、「長束小事件判決」という。)は、「分限処分については、任命権者にある程度の裁量は認められるけれども、もとよりその純然たる自由裁量に委ねられているものではなく、分限制度の上記目的と関係ない目的や動機に基づいて分限処分をすることが許されないのはもちろん、処分事由の有無の判断についても恣意にわたることは許されず、考慮すべき事項を考慮せず、考慮すべきでない事項を考慮するとか、またその判断が合理性を持つ判断として許容される限度を超えた不当なものであるときは、裁量権の行使を誤った違法のものであることを免れない」として、分限処分に関する裁量権の範囲及び判断基準を明示している。
   また、上記長束小事件判決は、降任等免職以外の分限処分の場合には、「公務の能率の維持、その適正な運営の確保」という制度目的から裁量的判断の余地を比較的広く認めるのに対し、免職の場合は、「公務の能率の維持、その適正な運営の確保」という制度目的より、「公務員の身分保障の見地からその処分権限を発動しうる場合を限定」するというもう一方の趣旨を重視して、きわめて厳格な審査基準を用いるべきことを示している。
2 免職とその他の分限処分の相違
   これに対し、原判決は、「長束小事件判決は、小学校校長に対する降格が問題とされた事案であり、免職処分の適否が問題とされたものではない。そして、免職処分についても、任免権者に裁量権が認められるのであって・・・」として、降格・転任等の地位の移動と、「免職」という職そのものを喪失する処分との判断基準の相違を無視している。
   この点は、原判決による、明らかな判例違背と言わざるを得ない。
   この点、指導力不足教員とされ、「(教員としての)職の適格性を欠く」
として分限免職処分を受けた元教員が、同処分の取消を求めた裁判において、岡山地裁(2009年1月27日判決ー甲108)は、「そして、以上のとおりの地方公務員法及び地方教育行政法の各規定や前掲高裁判決の判示を総合して考えれば、原告のような市町村立学校の県費負担教職員は、教員たる地位と地方公務員たる地位とを併有しており、地方教育行政法7条の2第1項各号に該当する場合には、教員たる地位にふさわしくない者として、教員としての適格性を欠くこととなり、同条同項に基づく『免職』、『採用』、即ち、上記趣旨での実質上の転任をすることが許容されるが、地方公務員法28条1項3号の『その職に必要な適格性を欠く場合』に該当するとして免職することは、『公務員たる地位を失うというという重大な結果』をもたらすものであるから、教員としての適格性を欠くというだけでは足りず、教員以外の『転職可能な他の職をも含めてこれら全ての職についての適格性』を欠いているときに限ってこれを行うことができ、その判断に当たっても、『特に厳密、慎重であることが要求される』ものと解するのが相当である」と判示し、長束小事件判決における判断基準に従って、上記分限免職処分を取り消した。この事件においては、原告が指導力不足教員として認定されていることから、「その職(教職)に必要な適格性を欠く」ことは認められているものの、さらに分限免職の場合には、「転職可能な他の職をも含めてこれら全ての職についての適格性を欠いているときに限って、これ(分限免職)を行うことができ」、その判断も「特に厳密、慎重であることが要求される」としているのである。
 本件においては、申立人は「指導力不足教員」と認定されているわけではなく、「教職に必要な適格性」の有無の判断についても「特に厳密、慎重であることが要求される」ことは明らかであり、上記岡山地裁の裁判例における判示と合わせ考えれば、前述した「職の適格性の有無」に関する長束小事件判決に示された判断基準は十分な妥当性を有するものと解される。
 なお、同事件の控訴審判決が同年12月24日に言い渡され、広島高等裁判所岡山支部は、申立人岡山県の控訴を棄却している(甲113)。
 さらに、岡山県は最高裁判所へ上告受理申立てをなしたが、2010年9月21日、不受理とされ、分限免職の無効が確定した。よって、同事件判決のように分限免職処分をなすに際しては「特に厳密、慎重であることが要求される」という判示こそ長束小事件判例に合致しているといえるのであり、原判決の判例違背はますます明らかである。
 3 原判決の「職の適格性」判断に関する判例違背
 (1) 原判決の判示
    原判決は、申立人の「教職に必要な適格性」について、「昭和48年4月1日に東京都公立学校教員として採用されて以来、第1次、第2次懲戒処分及び本件戒告処分以外の懲戒処分を受けたことはなく、教育実績や勤務態度、同僚との信頼関係等に特段の問題があったことは窺えない」としながらも、第1次、第2次懲戒処分対象行為と、2年7か月にわたる研修が終わって復職した約3年3か月後に起きた本件戒告処分対象行為の同質性、原判決認定の本件各研修命令に基づく研修における控訴人の言動、及び本件原審における本人尋問の結果から、「・・・などの事実を総合すれば、控訴人は、中立、公正に教育を行うべき教育公務員としての自覚と責任感に欠け、自己の見解の正当性に固執し、それと相いれない見解を持つと自分が考える者を誹謗する傾向を有し、懲戒処分や研修を受けてもこれを改善しようとする意思を全く持たないものであって、それは、簡単に矯正することのできない控訴人の素質、性格に起因するといわざるを得ない。そうすると、紙上討論授業による教育的成果等の控訴人のこれまでの教育実績を併せ考慮しても、引用に係る原判決が判示するとおり、教育公務員として必要な適格性を欠くとした判断をもって、苛酷であって公平の原則に反する、裁量権の逸脱、濫用があるなどということはできない。」(原判決55頁)とする。
 (2) 長束小事件判決の「職の適格性」判断
    一方、長束小事件判決は、「職の適格性」に関する判示を見ると、同判決は地方公務員法28条1項3号にいう「その職に必要な適格性を欠く場合」とは,「当該職員の簡単に矯正することのできない持続性を有する素質,能力,性格等に起因してその職務の円滑な遂行に支障があり,または支障を生ずる高度の蓋然性が認められる場合をいうものと解されるが,この意味における適格性の有無は,当該職員の外部にあらわれた行動,態度に徴してこれを判断するほかない。その場合,個々の行為,態度につき,その性質,態様,背景,状況等の諸般の事情に照らして評価すべきことはもちろん,それら一連の行動,態度については相互に有機的に関連づけてこれを評価すべく,更に当該職員の経歴や性格,社会環境等の一般的要素をも考慮する必要があり,これら諸般の要素を総合的に検討したうえ,当該職に要求される一般的な適格性の要件との関連においてこれを判断しなければならないのである。」として「適格性判断の基準・判断要素」を示している。
 (3) あてはめ
  ア 「その職務の円滑な遂行に支障があり、または支障を生ずる高度の蓋然性が認められる」場合に該当しないこと
上記のとおり、原判決においても、申立人について「教育実績や勤務態度、同僚との信頼関係等に特段の問題があったとは窺えない」、「紙上討論授業による教育的成果等の控訴人のこれまでの教育実績等」としており、「その職務の円滑な遂行に支障があり、または支障を生じる高度の蓋然性が認められ」ないことを自認している。
   むしろ、申立人が教育公務員として高い教育実績を上げ、生徒、保護者、同僚及び上司たる校長から強い信頼を得ていただけでなく教育学者等からも紙上討論という教育実践について高い評価を得ていたことは、原審における「控訴理由書」、「控訴人準備書面(1)」等においても詳述しているとおりであり、これを立証する証拠も多数提出している(甲5,18,20乃至25,29,30,51,66乃至69,93乃至97,101乃至104,111,112等参照)。
   上記の事実は、長束小事件判決が指摘する「当該職に要求される一般的な適格性の要件」とも関連しており、申立人が「当該職に要求される一般的な適格性」を通常以上に備えていることを示すものでもあることは明らかである。
  原判決は、申立人の過去の懲戒処分や本件戒告処分、本件研修中の言動などを挙げ、「控訴人は、中立、公正に教育を行うべき教育公務員としての自覚と責任感に欠け、自己の見解の正当性に固執し、それと相いれない見解を持つと自分が考える者を誹謗する傾向を有し」ており、「それは、簡単に矯正することのできない控訴人の素質、性格に起因するといわざるを得ない」などとしている。しかし、そのことが、申立人について、職務の円滑な遂行に支障が生じるか否か、支障が生じる高度の蓋然性があるか否か、また「当該職に要求される一般的な適格性の要件との関連」という観点からは論証も考慮も全く行っていない。かかる観点からの検討があれば、万歩譲って、仮に申立人が原判決指摘のような素質、性格を有していたとしても、上述のとおり、申立人が教育公務員としての職務を行うについて、その円滑な遂行に支障がないこと、教育公務員として要求される一般的な適格性を十分以上に備えていることを認定せざるを得なかったのであり(原判決もそのことは言外に認めていることは前述したとおりである。)、そうであれば、本件分限免職処分は違法と判断せざるを得ないことになる。
   以上のとおり、原判決には、長束小事件判決に違背し、考慮すべき事項を考慮していない上、「当該職に要求される一般的な適格性の要件との関連」についても全く考慮していないという決定的な誤りがあることは明らかである。
 イ 「申立人の素質、性格に起因する」との点について
 (ア)長束小事件判決は、「(当該職員の簡単に矯正することのできない持続性を有する素質、能力、性格等に起因してその職務の円滑な遂行に支障があり、または支障を生じる高度の蓋然性が認められるという)意味における適格性の有無は,当該職員の外部にあらわれた行動,態度に徴してこれを判断するほかない。その場合,個々の行為,態度につき,その性質,態様,背景,状況等の諸般の事情に照らして評価すべきことはもちろん,それら一連の行動,態度については相互に有機的に関連づけてこれを評価すべく,更に当該職員の経歴や性格,社会環境等の一般的要素をも考慮する必要があ」るとしている。
(イ)一方、前述のとおり、原判決は、申立人について、「教育実績や勤務態度、同僚との信頼関係等に特段の問題があったことは窺えない」としながらも、第1,2次懲戒処分、本件戒告処分、本件研修中の言動、第1審における申立人の供述内容から、申立人について、「自己の見解の正当性に固執し、それと相いれない見解を持つと自分が考える者を誹謗する傾向を有し」ており、「それは、簡単に矯正することのできない控訴人の素質、性格に起因するといわざるを得ない」と断定している。
   かかる原判決の認定は、長束小事件判決にいう「当該職員の外部にあらわれた行動,態度に徴してこれを判断するほかない。その場合,個々の行為,態度につき,その性質,態様,背景,状況等の諸般の事情に照らして評価すべきことはもちろん,それら一連の行動,態度については相互に有機的に関連づけてこれを評価すべ」きであるという評価方法に明らかに反している。すなわち、原判決は、申立人の外部にあらわれた行動、態度の中で、申立人に不利な事実のみを過大に評価し、「その性質、態様、背景、状況等の諸般の事情に照らして評価」することなく、さらに、申立人に有利な事情と「相互に有機的に関連づけて」これを評価することも全く行っていないのである。
   例えば、原判決は、第1、2次懲戒処分の原因となった保護者に対する「批判」(原判決によれば「誹謗中傷」)は一私人に対するものであったのに対して、本件戒告処分の原因となった申立人の「批判」の対象は、都議会議員の都議会における発言や歴史教科書という公人の公的な場における発言や公的刊行物を対象にしたものであるという「態様」の相違や、本件戒告処分の対象となった行為は平和主義を基本原則とする日本国憲法の精神を忠実に教えるという申立人の教育的信念に基づくものであったという「背景」などについては、全く考慮していない。
また、原判決は、申立人に有利な事情として「教育実績や勤務態度、同僚との信頼関係等に特段の問題があったことは窺えない」としつつも、上述した不利な事情と「相互に有機的に関連づけて」評価することもしていない。前述したように、申立人は30年以上にわたる教育実践の中で、生徒や保護者、同僚、上司等から高い評価を受けており、「職務の円滑な遂行に支障が生じた」ことは、第1次懲戒処分当時を除いては皆無である(本件戒告処分時においては、授業等において生徒・保護者からは何ら問題とされていない。)。
さらに、原判決がいうように、申立人が「自己の見解の正当性に固執し、それと相いれない見解を持つと自分が考える者を誹謗する傾向を有し」ており、「それは、簡単に矯正することのできない」「素質、性格」の持ち主であるとすれば、生徒からも忌み嫌われているはずであり、卒業式における答辞において実質上名指しで感謝されたり(甲5)、生徒たち自身が紙上討論授業の効果について感謝の意を述べたり(甲51)、途中で申立人の授業を受けられなくなった生徒たちの多くが申立人の授業を受けたかったと申立人の不在を惜しんだりすること(甲20乃至24)はあり得ないことは自明である。
一つだけ例を挙げれば、申立人が年度半ばで教壇を去らねばならなかった九段中の生徒は、「・・・この前の休み明けテストも100点でした。これは本当に増田先生のおかげです。私は、社会があまり好きではなくて、歴史も興味を持てなかったのですが、増田先生の紙上討論をしている内に、みんなの意見をきいて自分もしっかりした意見が持ちたいと思うようになり、積極的に勉強するようになりました。・・・こうして考えて見ると増田先生の授業や紙上討論が、私のこれからの人生に大きな光を作り出してくれたのかも知れません。先生が九段中からいなくなってしまってから、ずっとずっと、いつ帰ってこられるのかなと、いつも待っていました。でも、結局最後まで先生のあの笑顔を見ることができないと知り、とても悲しくなりました。・・・」(甲21)「・・・紙上討論は、文章が苦手な私にとって、とても辛いものでした。戦争や原爆のビデオを見たりして、涙した事もありました。でも、その時は大変でも、今振り返ってみると。紙上討論のお陰で、自分の意見が言えるようになり、友達の考えを知る事ができました。あれらのビデオを見たお陰で、教科書では学ぶことのできない真実を知る事ができました。先生の授業で無駄になった事は一つもありません。一年半という短い期間しか授業を受けられな(か)ったのはとても残念ですが、この貴重な体験を大切にし、将来、自分の子供にも真実を教えられる先生のような人間になりたいと思います。」(甲23)と述べている。
申立人が、本当に、原判決が言うような「自己の見解の正当性に固執し、それと相いれない見解を持つと自分が考える者を誹謗する傾向を有し」ており、「それは、簡単に矯正することのできない」「素質、性格」の持ち主であれば、このような心のこもった言葉が生徒から出るはずはない。このことが何よりも雄弁に原判決の判断が誤っていることを如実に示している。
(ウ)このように、原判決は、申立人の教育公務員としての「適格性の有無」を判断するにあたり、長束小事件判決の「外部にあらわれた行動、態度」について「個々の行為、態度につき、その性質,態様,背景,状況等の諸般の事情に照らして評価す」ることをせず、また、申立人に関する有利、不利な事情を「相互に有機的に関連づけてこれを評価す」ることもしていないことは明らかである。
   原判決が、上記のような長束小事件判決の判断方法に則り、本件を判断していれば、原判決が指摘したような結論になるはずはない。
ウ 小括
 以上のとおり、原判決には、長束小事件判決に示された「職の適格性の有無」に関する判断基準に反しているという点において、判例に違背していることは明らかであり、その取消は免れない。
4 原判決は、「考慮すべき事項を考慮せず、考慮すべきでない事項を考慮する」ものである
 (1) まず、原判決は、申立人が、「昭和48年4月1日に東京都公立学校教員として採用されて以来、第1次、第2次懲戒処分及び本件戒告処分以外の懲戒処分を受けたことはなく、教育実績や勤務態度、同僚との信頼関係等に特段の問題があったとは窺えない。」旨認定・判示している。
   この点については、申立人「控訴理由書」及び「控訴審準備書面(1)」等において詳述したとおりであること、これを証する証拠も多数提出されていること、この事実は、申立人の「教育公務員としての適格性」を示す重要な事項であることは、前記3(3)において述べたとおりである。
ところが、本件分限免職処分は、約33年間の継続した勤務において「教育公務員としての適格性」を認められてきた申立人につき、3月14日に申立人の御成門中学校への異動を内示した直後(橋爪16頁)、その間に何らの申立人の非違行為等の具体的な事実も存在しないにも拘らず、いきなり発令されている。この一事をもってしても、相手方都教委が申立人につき、「考慮すべき事項」を慎重に検討・考慮していないことは明らかである。
これに対して橋爪は、御成門中学校への教員としての異動ときょういんとしての適格性は「別です」と証言したが(橋爪16頁)、何の理由付けもないものであり、およそ信用できない。
   然るに、原判決は、この事実を認定しながら、相手方都教委らが、これらの重要な事実を全く考慮することなく、申立人の「教育公務員としての適格性」を否定し、本件分限免職処分を下したことについて、「裁量権行使の適法性」を認定した。
   この原判決の判断は、上記の長束小事件判決の示した基準に反するものであることも前述したとおりである。
  (2) また、本件は、申立人に対する名誉毀損等を行い、本件以前から申立人の免職を声高に主張していた都議会議員古賀俊昭らや、本件以前から申立人を誹謗・中傷する記事を掲載していたサンケイ・グループを親会社とする扶桑社に関し、申立人が、古賀都議会議員の都議会における「日本による侵略否定」発言や、扶桑社の「日本の侵略正当化」教科書について批判する内容を記載したプリントを「ノ・ムヒョン大統領への手紙」として紙上討論授業の中で使用したことが、「教育公務員としての職の信用を傷つける」として本件戒告処分の、更には、「その職に必要な適格性を欠く」として本件分限免職処分の理由とされた事件である。
   そうである以上、本件において本件戒告処分理由となり、本件分限免職処分理由ともなった申立人の記載した事項・事実「古賀俊昭都議会議員は言っています。『日本が一体どこを侵略したのか教えてもらいたい』・・・国際的には恥を晒すことでしかない歴史認識・・・歴史偽造で有名な扶桑社・・・歴史偽造主義者達」等が、真実に反し、中学校生徒の歴史認識を歪める等の悪影響を及ぼすものであるか否かが問題とされるべきであろう。
   授業で使用したプリントの内容が真実に合致しているか、悪影響を及ぼすか否かは、「真理と平和を希求する人間の育成を期する」(旧教育基本法前文)教育に携わる教員にとって、「職の信用を傷つける」か、「その職に必要な適格性を欠く」かについての重要な判断要素とされるべきだからである。
   然るに、原判決は、分限免職処分理由にも挙げられていなかった「得々として、喜々として」云々の表現をもあげつらい、「評価の内容(記載内容の真実性)は問題ではなく、『表現』が、不必要に『誹謗し貶めるもの』であることが問題である」旨判示した。他方、例えば、申立人が同じく紙上討論で引用したところの、野中元官房長官が、小泉元総理大臣の靖国神社参拝を「歴史に汚点を残す」と批判したことは、「政治家が政治家を批判した行為」であってその行為自体も、その事実を記載する行為自体問題ではないが、本件申立人の行為は、「中学校の授業で、特定個人や団体を不必要に誹謗し貶める内容を記載したプリントを、批判能力の未熟な中学生徒に配布したことが問題である」旨の牽強付会な結論を下した。
   この点は、相手方都教委らが、本件戒告及び分限免職処分の判断を下すにあたり、「申立人の作成したプリントの記載内容が、真実に反し、中学校生徒の歴史認識を歪める等の悪影響を与える誹謗行為であって、『正当な真実に基づく批判行為』とは異なるものである」と言えるか否かという「考慮すべき事項を考慮し」たか、単に「表現がきつい・強烈である(例え、歴史学者等がその論文や著書において用いている表現であったとしても)」等の一部のみを捉え「考慮すべきでない事項を考慮する」ということがなかったか否か、慎重且つ十分に審理されるべきであった。
   然るに、原判決は、相手方都教委らの処分理由に、「余計な修辞句」まで水増しし、これらの点を慎重に考慮することなく、相手方らの判断を容認した。
   この点についても、原判決の判例違背が問われねばならない。
(3) 更に、本件戒告処分発令は、本件以前から、申立人に名誉毀損や申立人の個人情報漏洩教唆・プライバシー侵害等を行っていた3人の都議の一人である古賀都議会議員の友人で、同じく、申立人を目の敵にし、本件以前から「増田を刺す」とまで公言していた千代田区立九段中学校中藤PTA副会長が、本件プリントの中に古賀都議会議員らの名前を発見し、古賀都議会議員に注進に及んだことから、古賀都議会議員が相手方都教委の義務教育心身障害教育指導課長(本件戒告処分当時)大江近を呼び出し、調査(及び処分)を命じたことが発端である。
   然るに、本件が申立人に対する敵対政治家らによる政治的「関与」に端を発していること自体は、相手方都教委らも、原判決も事実として認定しながら(51頁)、本件戒告から本件分限免職処分に至る一連の政治家やPTA実力者らの政治的介入・政治的圧力が、本件分限免職処分における申立人の「教職員としての適格性」判断において考慮されたかどうかについては、「都教委は独自の調査をした上で本件戒告処分をしていることに照らせば」とするのみで、全く慎重に検討していない。
   この点は、「考慮すべきでない事項を考慮」したかについて慎重に判断していないものであり、本件分限免職処分の裁量権逸脱、及び、本件分限免職処分を是とした原判決の判例違背を示すものである。
 (4) のみならず、本件分限免職処分に至る直前の本件研修処分においては、申立人は、近藤精一がセンター長を務める「教職員研修センター」において、本件研修の履修を余儀なくされた。
   そして、本件研修処分を申立人が履修した「研修結果・成果」は、相手方都教委に報告され、本件分限免職処分において重要な理由に挙げられたが、その「申立人の研修結果等報告」を行ったのも、近藤精一である。
   然るに、この近藤精一は、そもそも、申立人が千代田区立九段中学校に勤務する以前に研修処分を受けた際に、古賀俊昭ら都議会議員からの要求に応じ、申立人の個人情報やプライバシーを漏洩した張本人である。この事実は、別件訴訟において、「違法な個人情報漏洩行為」として、近藤精一の漏洩行為の違法性が確定した裁判所の判断となっている(甲118)。
   そうである以上、本件分限免職処分において、重要な意味を有する「本件研修処分結果・成果等報告」は、申立人に対し、中立・公正を担保し得る職員によってなされるべきところ、一見して明らかに不当・不公正な近藤精一がかかる役割を果たしたことは、本件分限免職処分の適法性を判断する上で、「裁量権行使の重大な瑕疵」と呼ぶべきものである。
   ところが、相手方都教委らは、「教職員研修センター長であり申立人の個人情報漏洩者である近藤精一の存在と関与」自体は認めながらも、これを全く考慮することなく、本件分限免職処分を下し、原判決も、かかる事実を認定しながら(57頁)、相手方都教委の処分を是とした。
   この事実は、「考慮すべき事項を考慮しなかった」ことについての判断を欠いている点で判例違反であると共に、まさに、「申立人に対し教育公務員としての適格性―中立・公正」を問う側である相手方都教委ら、及び、原審裁判所の「中立・公正」をこそ、疑わなければならない事実と言うべきである。 

第2 東京都の職員の分限に関する条例3条3項と長塚小事件判決違反
1 原判決の誤り
    東京都の職員の分限に関する条例3条3項は、「法28条1項3号により職員を降任もしくは免職することのできる場合は、当該職員をその現に有する適格性を必要とする他の職に転任させることができない場合に限るものとする」と規定されている。
 しかし、申立人は、相手方都教委から、転任の打診すらも受けていない。
 ところが、原判決はまず、「前記認定の事実によれば、控訴人は、他の職種であれば適格性があるということは困難である」として、「同項違反の主張は失当である」などとする(59頁)。
 この原判決の判示は、上記分限免職条例のみならず、長塚小事件最高裁判例にも反するものである。
  2 最高裁判例の適格性判断についての判示
    長束小事件判決には、前述したとおり、以下の記載がある。    「等しく適格性の有無の判断であっても、分限処分が降任である場合と免職である場合とでは、前者がその職員が現に就いている特定の職についての適格性であるのに対し、後者の場合は現に就いている職に限らず、転職の可能な他の職をも含めてこれら全ての職についての適格性である点において適格性の内容要素に相違があるのみならず、その結果においても、降任の場合は単に下位の職に降るにとどまるのに対し、免職の場合には公務員としての地位を失うという重大な結果になる点において大きな差異があることを考えれば、免職の場合における適格性の有無については、特に厳密、慎重であることを要求されるものと解するのが相当である」。
 この点につき、本件分限免職処分は、約33年間の継続した勤務において「教育公務員としての適格性」を認められてきた申立人につき、3月14日に申立人の御成門中学校への異動を内示した直後(橋爪16頁)、その間に何らの申立人の非違行為等の具体的な事実も存在しないにも拘わらず、いきなり発令されている。この一事をもってしても、相手方都教委が、申立人につき、「当該職員をその現に有する適格性を必要とする他の職に転任させることができるか否か」を慎重に検討・考慮した事実はない。
 これに対して、橋爪は、御成門中学への異動と教員としての適格性は「別です」と証言したが(橋爪16頁)、何の理由付けも無いものであり、およそ信用できない。
  3 原判決は中学教員としての適格性しか検討していない
この点につき、原判決は、申立人の適格性の欠如の根拠として、申立人が「中立、公正に教育を行うべき教育公務員としての自覚と責任感に欠け、自己の見解の正当性に固執し、それと相いれない見解を持つと自分が考える者を誹謗する傾向を有し、懲戒処分や研修を受けてもこれを改善しようとする意思を全く持たない」点を挙げている(55頁)。
    その誹謗する傾向を有する、という点の根拠は、過去のたった一度の特定の保護者についてのプリントへの記載と、紙上討論プリントにわずか数行しか記載されていない古賀都議や扶桑社に対する批判である。
 原判決の上記判示がそもそも誤っていることは、原審最終準備書面で述べたとおりであるが、この点を措いて検討すると、保護者についての記載も、扶桑社や古賀都議についての記載も、授業等教育の場での配付資料への記載である。原判決は「政治家が政治家を批判した事実を生徒に伝えることと、教師自身が特定の個人及び法人を貶める記述をすることとは、中学校の生徒らが、未発達の段階にあり、批判能力をまだ十分には備えていないため、教師の影響力が大きいことにかんがみれば、質の異なるものというべきである」としており、それを生徒に伝えたことを重視しているようである。
とすれば、原判決はやはり中学校教員としての適格性しか(それも誤っているが)検討していないものと言える。
他方、知的障害児を担当する養護学校の教諭などは、そうした資料配付等を行う余地がない教育公務員としての「職」である。
 この点について、相手方都教委は「申立人の独善的性格は、そもそも公務員として不適格なものといわざるを得ない」と主張したが、公務員として不適格かどうかは、その職務との関係で判断されるべきであるし、これまではそうした判断がなされてきたことを申立人らは主張してきた。
しかるに、原判決は、この養護学校の教諭を含めた「全ての職についての適格性」を厳密、慎重かつ具体的に検討することなく、極めて大雑把に「教育公務員として必要な適格性を欠く」「他の職種であれば適格性があるということは困難である」と判断している点で、上記最高裁判例に違背する誤りを犯したものである。
4 県費負担教職員にも転任はあり得ることは明らか
    また、原判決は「控訴人のような県費負担教職員の場合には『転任』はあり得ず、また下位の職が存在しないことから『降任』もあり得ない」と判示した(59頁)。
しかし、地教行法38条2項は「県費負担教職員の転任」についての規定を設けている。それは、県費負担教職員について転任があり得るからこその規定である。
2007年10月3日の伊沢けい子都議の教育庁人事部職員課長江藤巧に対する調査によれば、指導力不足教員は、最大3年の研修が期限に達した時点で実績が上がってないと評価された場合、自主退職か事務職への転任かの希望を訊かれ、後者を希望する時は事務職試験を受け、合格すれば事務職となっている。よって、現に他の職への異動、すなわち転任が行われているのである。
 したがって、県費負担教職員には転任の余地もないとする原判決の誤りは明白である。
また、そうである以上、教育公務員ではない公務員である事務職員については申立人の転任の可能性が十分にあったと言える。
ましてや、「指導力」を十分に有していた申立人については、「指導力不足教員」に対してすらとられている手続も取られずに分限免職とすることが違法であることは明らかである。
5 事前の警告も依願退職の勧めもなかった
   さらに、法令上の規定にはないものの、できる限り分限免職を避けるという本条例3条3項の趣旨及び通常の慣習上は、分限免職処分等が適用される事案にあっては、口頭又は文書を以て、対象者に対し、事前に警告等を行い、それでも改善が見られない場合に、「依願退職するか分限免職か。」の選択肢を与えるのが通例であり、人事院には、「職員が分限事由に該当する可能性のある場合の対応措置について」(通知)の中に、「警告書」という書式も存在する(甲50)。
 しかるに、本件において、申立人に対し、かかる警告が与えられた事実もなければ、事前に、「依願退職か分限免職か」の選択の機会を与えた事実も存在しない。申立人も「一切ありません」と証言した(申立人本人38頁)。
 この点についても、本件分限免職処分は、明らかに異常であり、都条例3条3項と長束小事件判決に違反するものである。

6 地方教育行政法47条の2に関する近時の裁判例の解釈
   なお、都条例3条3項と同趣旨と解釈される法令として、2001年に改正された地方教育行政法47条の2がある。この点に関する近時の判決として、前掲した分限免職事件についての岡山地裁2009年1月27日判決がある(甲108)。
すなわち、上記事件の原告は、1981年以降理科の教員として勤務したが、2005年に「指導力不足教員」の認定を受けた。その後1年間にわたる研修を受けたが改善が見られず、県教委は同氏を06年に分限免職処分とした。これを不服として安東氏が岡山県を相手取り処分取り消しを求めていた裁判で、岡山地裁(近下秀明裁判長)は、前述したように長束小事件判決の判断基準に従って、県に処分取り消しを命じる判決を言い渡した。
同判決は、地方教育行政法47条の2第1項について以下のとおり判示した。この点は重要なので以下に引用する。
 「原告のような市町村立学校の県費負担教職員は、教員たる地位と地方公務員たる地位とを併有しており、地方教育行政法7条の2第1項各号に該当する場合には、教員たる地位にふさわしくない者として、教員としての適格性を欠くこととなり、同条同項に基づく『免職』、『採用』、即ち、上記趣旨での実質上の転任をすることが許容されるが、地方公務員法28条1項3号の『その職に必要な適格性を欠く場合』に該当するとして免職することは、『公務員たる地位を失うというという重大な結果』をもたらすものであるから、教員としての適格性を欠くというだけでは足りず、教員以外の『転職可能な他の職をも含めてこれら全ての職についての適格性』を欠いているときに限ってこれを行うことが出来、その判断に当たっても、『特に厳密、慎重であることが要求される』ものと解するのが相当である。」
上記判決は、安東氏の「教員としての不適格性」を認めた点には問題があるものの、県が処分理由は、教員としての不適格性のみに関係し、「地方公務員としての適格性を疑わせるほどのものではない」と述べ、地方教育行政法47条の2第1項の適用による検討をしておらず、「裁量権を濫用した違法がある」とした。
上記裁判例は、この地方教育行政法47条の2を、分限免職を回避するために、まず「転任」を考慮すべきことを定めたもの、と解釈したのであり、地方公務員の身分保障という点で、極めて妥当である。
 申立人の場合、「指導力不足等教員」にあたらないことから、上記地方教育行政法47条の2第1項1号の要件(児童又は生徒に対する指導が不適切であること)を欠き、仮に相手方都教委の処分理由を前提としたとしても、申立人は同条項2号の「研修等必要な措置が講じられたとしてもなお児童又は生徒に対する指導を適切に行うことが出来ない」にのみ該当するとされているにすぎず、同条項の分限免職の対象とはなり得ない。
 とすれば、指導力不足教員の場合ですら、同条項によりまず転任が検討されなければならないのだから、申立人に対しては、なおさら、都条例3条3項の転任の措置が取りうるだけである。それをせずに申立人を分限免職とした被申立人都教委の処分は、裁量権の濫用が認められ、その違法性は明らかである。
 申立人は、このように、地教行法47条の2そのものへの違反を問題としたのではなく、同条の趣旨に照らした転任の検討の必要性を論じたのである。そして、同条の趣旨は、長塚小事件判例に合致し、都条例3条3項の解釈を明確にするものとして論じているのである。それにもかかわらず、「地教行法47条の2が設けられたことにより、分限処分の要件には何ら変更が生ずるものではない」とする原判決の判示は失当である。
7 まとめ
以上により、原判決の判示は、都条例3条3項と長塚小事件判決に違反し、法令解釈に関する重要な事項を含むものである。

第3 比例原則、地方公務員法13条および長束小事件判決違反
 1 他の分限免職事案との比較
原判決は、「他の事例と比較すれば、本件分限免職処分は、比例原則に違反」するとの申立人の主張に対し、何の理由も付さないまま「控訴人指摘に係る他の分限免職事案との比較をもって、直ちに本件処分が重きに失するということはできない」とする(原判決59頁)。
   しかし、他の分限免職事例は、心身の故障や日常的な欠勤や失踪、あるいは指導力不足等でまともに教育活動を行えなくなった教員の例がほとんどである。にもかかわらず、教育活動を行うことに支障がなく、その教育実践について生徒や校長からの評価が高い申立人が、なぜまともに教育活動を行えなくなった教員と同様の分限免職という処分を受けねばならないのか、すなわち、他の分限免職事例と比較して、申立人に対する分限免職という処分が重きに失していないのかという点については、当然「特に厳密かつ慎重」(長束小事件判決)にその判断がなされるべきである。
   結局、原判決は比例原則についてまともに検討したものとは読み取れず、長束小事件判決にも違背するものと言わざるを得ない。
 2 地方公務員法13条違反
   比例原則の根拠となるのは、地方公務員法13条である。同条は、「すべて国民は、この法律の適用について、平等に取り扱わなければならず、人種、信条、性別、社会的身分もしくは門地によって、又は・・・政治的意見もしくは政治的所属関係によって差別されてはならない。」とする。
   本件分限免職処分について最終的に問題とされたのは、紙上討論授業に使用する教材プリントにおいて、先の戦争が侵略戦争であったことを否定する古賀都議の都議会の発言や扶桑社の歴史教科書に対する申立人の記述が「誹謗中傷」にあたり、「中立・公正に教育を行うべき教育公務員としての自覚と責任感に欠け」るとされた点にある。すなわち、原判決は、あくまでも、申立人の「文書中で誹謗した」という表面的な「言動」のみを問題にして、上記のような結論を導いているのである。
   しかしながら、都議会議員の発言や歴史教科書という公的刊行物の記載を「誹謗中傷」したというような教師の「言動」、「表現行為」のみを理由として(なお、第1,2次懲戒処分の原因となった申立人の言動については、これが一私人に対するものという意味では、これ以降、申立人はそのような言動を行っていない。)、分限免職処分という極めて重大な処分を受けたという例がないことは、これまで立証してきたとおりである(甲57乃至65参照)。
   しかも、申立人が、先の戦争の侵略性を否定する都議会議員や歴史教科書を「批判」する記載をしたのは、日本国憲法の基本原則である平和主義、国民主権の思想を生徒達にきちんと伝えていくという申立人の教育的信条から出たものであることは、原判決も都教委も否定していない。あえて言うならば、「特定の者を誹謗中傷するような言動」をする教師は他にも多くいる上(新聞等で、生徒を傷つける言動を行った教師の懲戒処分の事例など散見されるところである。)、東京都においては、度を超した戦争賛美や軍国主義的言動が問題にされたことは皆無である。
   これらの事情からすれば、申立人が分限免職処分という重大な処分を受けたのは、平和主義、国民主権という日本国憲法の基本原則を忠実に教えるという申立人の教育的信条が、「日の丸・君が代」に見られるような「愛国心」教育に執着する現在の都教委の意に反していたことによるところが大きいと言わざるを得ないのである。
   しかし、そのような理由をもって、疾病などの理由で教育活動を全く行えなくなった教職員同様に、極めて重い分限免職処分とするのは、まさに、地公法13条の「信条」、「政治的意見」による差別というほかなく、比例原則及び平等原則に違反することは明らかである。
3 長束小事件判決の解釈から導かれる比例原則違反
   比例原則は、処分の対象と処分の効果の軽重との比例という側面もあり、長束小事件判決は、その観点から、分限免職と降任との区別を論じたものである。
   そして、そうした処分の効果の実質的な軽重に着目するならば、懲戒と分限についても、実質的な処分の重さを比較するというのが、長束小事件判決の趣旨に合致するのである。
   この点、原判決は「停職以上の懲戒事例との比較は、懲戒処分は個々の非違行為・義務違反に対する責任を問うものであるのに対し、分限処分は、職員の職に対する適格性を問うものであって、その処分の重さを比較することに意味はない」などという全くの形式論を述べるのみである。
しかしながら、生徒に対するセクハラ行為や体罰を理由とする懲戒事例(甲64,107参照)については、その対象行為そのものが「職の適格性」を否定するものであり、分限処分と重なるものであることは明らかである。このような場合には、これらの教師が戒告、停職などの懲戒処分にとどまり、「職の適格性」を否定される分限免職処分とはなっていないことは、明らかに本件分限免職処分との比較において均衡を失しているというべきである。
以上のとおり、原判決の上記指摘は誤っており、長束小事件判決小事件判決の趣旨にも違背するものである。
 4 まとめ
   以上に述べたところから、原判決は、比例原則及びその根拠となる地方公務員法13条や比例原則に関する長束小事件判決に反し、法令解釈の重要な事項を含むものと言える。

第4 旧教育基本法10条1項違反
   旧教育基本法10条1項は、「教育への不当支配の禁止」をその趣旨とした規定である(旭川学テ最高裁大法廷判決(1976年5月21日最高裁大法廷判決刑集30巻5号615頁−以下、「旭川学テ判決」「最高裁学テ判決」ともいう。)。
   本件戒告処分及び本件分限免職処分は、「日本による侵略行為が韓国等のアジア諸国に多大な被害を及ぼした歴史的事実を認め、その反省の上に立って、日本の侵略行為の歴史を隠蔽しようとする政治家等の言動等を批判する」という、中学校社会科教師として当然の申立人の授業内容に不当に介入し、不当支配に従わなかった申立人を本件分限免職処分としたものである。
   よって、本件戒告及び分限免職処分は、旧教育基本法10条1項に違反する。
   この点に関し、申立人の主張を排斥した一審判決を追認した原判決は、法令解釈の重要な事項を含むものと言える。

第5 地教行法38条1項と最高裁昭和61年3月13日判決への違反
  1 内申が必要であるとする最高裁の指摘
    本件においては、申立人に対し、区教委が本年3月28日付で研修継続を内申している。にもかかわらず、都教委は、同月29日付で分限免職を決定している。このことは、都教委が区教委の内申を待たずに最初から本件分限免職処分を決定していたことを強く推認させるものであり、地教行法38条1項に規定された内申制度の趣旨及び必要とされる手続に反することは明らかである。
 この点について、最高裁(最判昭和61年3月13日・民集40・2・258 福岡県内申抜き懲戒処分事件)は、地教行法38条1項には市町村教育委員会の意見の反映と両者の協働関係をはかる趣旨が含まれることから、「地教行法38条1項所定の市町村教育委の内申は、県費負担教職員について都道府県教委が任命権を行使するための手続要件をなすものであり、右の教職員に対してその非違行為を理由に懲戒処分をするためには、市町村教委の処分内申が必要であり、その内申なしに処分を行うことは許されないのが原則である。」とし、「例外的に、市町村教委の内申がなくてもその任命権を行使できる」場合として、「市町村教委が、教職員の非違などに関し右内申をしないことが、服務監督者としてとるべき措置を怠るものであり、人事管理上著しく適正を欠くと認められる場合」に限定している。
 原判決も、地教行法38条1項は、「県費負担教職員が、市町村が設置する学校に勤務し、市町村の教育委員会の管理下に職務に従事することから、都道府県教育委員会の任命権行使に際し、市町村教育委員会の意見を反映させるという制度」であることを認めているが(58頁)、他方で、地教行法38条1項は「市町村教育委員会が都道府県教育委員会の任命権の行使を制限する制度ではない」としている。しかし、上記判例は、まさに「任命権の行使の制限」を認めたものであり、原判決の判示の判例違背は明らかである。
 また、2007年に地教行法38条2項は改正され「前項の規定にかかわらず、都道府県委員会は、同項の内申が県費負担教職員の転任にかかるものであるときは、当該内申に基づき、その転任を行うものとする。」と規定された。これは、上記判例の趣旨を受けて、都道府県教育委員会の任命権の行使の制限を明記したものである。
 本件においては、相手方区教委は、申立人を引き続き研修させる旨の内申を出しており、例外的に内申なしに(内申に反して)任命権を行使できる場合に該当しないことは明らかである。なお、確かに、行政組織上、区と市町村はその位置づけが異なるが、特別区も一定の独立性を有した地方自治体であり、地教行法上、特別区は市に含まれる(地教行法2条)。よって、上記最判の趣旨は、区教委の場合にも該当する。
  2 「内申をまって」に関する違法
また、「内申をまって」には、相手方都教委は、千代田区教委の「内申」に対し、申立人の処分につき、両者で一定の協議をすることも含む趣旨と解される。上記最高裁昭和61年3月13日判決も「両者の協働関係により県費負担教職員に関する人事の適正、円滑を期する趣旨に出たものと解される」と判示しているとおりである。
この趣旨からすれば、都道府県教委が市町村教委の内申と全く異なる任命権行使をなす、ということでは、市町村教委の意見が「反映」されたとは言えないし、「両者の協働関係」は破壊され、県費負担教職員に関する人事の適正、円滑が著しく阻害されると言える。市町村教委の側からすれば、どんな内申をしても、それと正反対の任命権行使がなされるのであれば、自らが軽んじられたとして嫌気がさし、人事の適正を図る気力もうせることとなろう。
さらに、教育基本法における教員身分尊重原則を合わせ考えれば、任命権の行使に実際に教員を監督してきた市町村教委からの内申を反映させることによって、教員の身分を尊重させる方向での人事の適正を期する趣旨と言える。
そして、申立人に対するそれまでの研修は半年程度であり、以前の長期研修と比べてもきわめて短いのであり、さらに研修を継続することが可能であったことは明らかであるから、事前に協議して相手方千代田区の内申を反映させることは可能であった。
ところが、本件において、相手方千代田区は、「申立人の分限免職処分の決定」について、一切事前に知らされていなかった。
  3 まとめ
以上から、本件分限免職処分は、地教行法38条1項の趣旨に反して、区教委の内申を無視して強行された点において、その違法性は強度であり、明らかに相手方都教委の裁量権の範囲を逸脱する。
そのことを認めなかった原判決は、地教行法38条1項の趣旨に違反するとともに、上記の最高裁昭和61年3月13日判決に違背する。

第3 結論
    以上、原判決には、最高裁判例と相反する判断、及び、法令の解釈に関する重要な事項を含むものと認められる法令違反が存するため、上告として受理され、原判決は破棄されなければならない。

                              以   上