平成23年(行サ)第31号
 原審:平成21年(行コ)第241号 分限免職処分取消等請求控訴事件
 上告人   増田都子
 被上告人  東京都   外1名

上告理由書

                           2011年4月28日

 最高裁判所   御中

                 上告人訴訟代理人
                    弁護士  和久田 修

                    同    萱野一樹

                    同    萩尾健太

                    同    寒竹里江

第1 上告理由ー憲法第19条違反
   本件各処分、とりわけ本件分限免職処分は上告人の教育的信条による不利益  な取扱いの最たるものであって、明らかに憲法第19条に反する。
   以下、検討する。
 1 原判決の本件分限免職処分に関する判示
    原判決は、申立人の「教職に必要な適格性」について、「昭和48年4月
1日に東京都公立学校教員として採用されて以来、第1次、第2次懲戒処分及び本件戒告処分以外の懲戒処分を受けたことはなく、教育実績や勤務態度、同僚との信頼関係等に特段の問題があったことは窺えない」としながらも、第1次、第2次懲戒処分対象行為と、2年7か月にわたる研修が終わって復職した役3年3か月後に起きた本件戒告処分対象行為の同質性、原判決認定の本件各研修命令に基づく研修における控訴人の言動、及び本件原審における本人尋問の結果から、「・・・などの事実を総合すれば、控訴人は、中立、公正に教育を行うべき教育公務員としての自覚と責任感に欠け、自己の見解の正当性に固執し、それと相いれない見解を持つと自分が考える者を誹謗する傾向を有し、懲戒処分や研修を受けてもこれを改善しようとする意思を全く持たないものであって、それは、簡単に矯正することのできない控訴人の素質、性格に起因するといわざるを得ない。そうすると、紙上討論授業による教育的成果等の控訴人のこれまでの教育実績を併せ考慮しても、引用に係る原判決が判示するとおり、教育公務員として必要な適格性を欠くとした判断をもって、苛酷であって公平の原則に反する、裁量権の逸脱、濫用があるなどということはできない。」(原判決55頁)と判示した。
 2 原判決の誤謬性
   原判決は上記のように判示したが、本件各処分の直接的契機は、本件戒告処
分対象行為(本件資料において、上告人が、ノ・ムヒョン大統領への手紙という形式で、古賀都議の都議会における先の戦争の侵略性を否定する発言ー以下、「本件発言」というーや日本の侵略戦争性を認めない扶桑社の歴史教科書の記載内容に対して批判するー原判決によれば「誹謗中傷」するー文言を数行記載したというもの)である。
 原判決は、あくまでも、これは「表現」の問題であって、上告人の「古賀都議の本件発言や扶桑社の教科書に対する評価の内容を問題としているのではな」い、とする(原判決49頁)。
 しかしながら、本件が、仮に「表現」の問題だけを取り上げているとすれば、万歩譲って、戒告処分がなされることはまだ理解できるとしても、何故、分限免職処分という上告人から永久に教壇の場を奪い去るという苛酷な処分まで行わねばならなかったのか、全く理解できない。
 この点、原判決は、「(第1,2次懲戒処分の場合と本件戒告処分の対象行為とについて)両者は対象者や表現ぶりに違いがあるものの、自己と相いれない見解を持つと自分が考える者を、文書中で誹謗したという同種の非違行為であ」るとして、両事件の共通性を強調した上で、上告人が前述したような素質、性格の持ち主であることを本件分限免職処分の正当性の根拠として認定している(原判決57頁等)。しかし、原判決が認めているように、上記両事件には、対象者や表現ぶりに大きな相違がある。すなわち、第1,2次懲戒事件においては、一保護者という私人の私的発言が対象となっていたのであって、本来は、授業という教育の場で批判されるべきでない性質のものであったのであって、上告人は、これ以降、授業の場でこのような行為は全く行っていない。これに対して、本件戒告処分の対象行為においては、都議会議員という公人の都議会という公の場での発言や歴史教科書という公的刊行物の記載という本来批判に晒されることも自ずから予定されているものを批判したに過ぎないものである。
 原判決は、このような大きな相違のある両者を「同種の非違行為」と評価することによって、本件戒告処分の対象行為の本質を隠ぺいしていることに留意されねばならない。
 3 本件戒告処分の対象行為は上告人の教育的信条の核心部分から出たものであ  ること
   本件戒告処分の対象行為を上告人が行った本質的な動機は、まさに古賀都議
の本件発言や扶桑社の歴史教科書の記載内容が上告人の教育的信条の核心部分に抵触するものであったところにある。
 すなわち、上告人は、公立学校の社会科の教師として、平和主義、国民主権という日本国憲法の根本原則を正しく、かつ深く生徒自らの主体的な思考によって獲得していくということをその教育的信条の核心として持ち続けてきたのであり、そのあらわれが、紙上討論という画期的な授業方法であったのである。いうまでもなく、日本国憲法の平和主義は、日本が犯してしまった過去の侵略戦争に対する真摯な反省から生まれたものであり、この精神を生徒たちに伝えていくことこそが、上告人にとって、教師としての中核をなすことであった。
 かかる上告人にとって、都議会議員という政治的にも社会的にも大きな影響力を有する人間が都議会という公的な場において、過去の戦争においてアジアの国々を侵略してきたという歴史的事実を堂々と否定する発言をするということや教科書という生徒達に最も影響を与える刊行物に同趣旨の記載があることは、教師としての核心的な教育的信条に直接触れることであったのであり、まさに、上告人が、本件戒告処分の対象行為を行ったことは、自らの教育的信条の核心部分に基づいて行ったやむにやまれぬ行為であったのである(このことは、第1審における上告人の本人尋問の結果などから明らかである。)。
 4 本件分限免職処分及び本件戒告処分の違憲性
 (1)上記のように、本件戒告処分の対象行為は、上告人の教育的信条の核心部
分に基づく教育行為であった。
 憲法第19条は、個人の思想信条によって不利益な取扱いをすることを厳しく禁止していることは周知のとおりである。
 本件について言えば、本件戒告処分及び本件分限免職処分は、まさに、上告人の教育的信条の核心的部分に基づく行為に対して、不利益な取扱いを行ったものと評価できるのである。
 (2)また、上告人が公務員であることから、その「全体の奉仕者性」(憲法第
15条)からして、人権についても内在的な制約を受けるとするのが通説であり、本件の場合、これに該当するかが一応問題となる。
 しかしながら、本件戒告対象行為は、上告人が、日本国憲法が根本原理としている平和主義の立場から行った行為であり、日本国憲法の遵守義務を負っている教育公務員たる上告人が、自らの教育的信条の核心部分に基づいてこのような教育行為を行うことについて、何ら制約されるいわれはなく、かかる教育行為を原因としてなされた本件戒告処分及び本件分限免職処分は明らかに憲法第19条に違反するものとして違憲無効な処分である。
 (3)なお、原判決は、本件戒告処分の対象行為は、あくまでもその「表現」の
仕方が問題であり、憲法第19条の問題は生じないとする立場を取っていると思われる。
 しかしながら、単なる「表現」の問題であるのであれば、本件研修中においても、そのような「指導」があってしかるべきであるし、戒告処分をなす前に、区教委等がかかる「指導」を行い、例えば、本件資料を回収し、「表現」を修正したものを生徒たちに再配布するなどということが行われて然るべきであったはずである。しかるに、そのようなことは全く行われていないことは証拠上明らかである。また、単なる「表現」の問題だけで、上告人の「職の適格性」を否定し、分限免職という重大な不利益処分まで行ったということであれば、原因行為と処分内容との間の乖離は余りにも大きいことは誰の目にも明らかである。
 かかることからすれば、本件戒告処分の対象行為で問題とされたのは、単なる「表現」の問題ではなく、上告人が自らの教育的信条の核心部分に基づいてなした教育行為そのものが不利益な取扱いの原因であったことは明らかである。
 (4)したがって、本件戒告処分及び本件分限免職処分は、憲法第19条が禁止
する信条による不利益な取扱いに該当し、違憲無効である。

第2 上告理由ー憲法第23,26条違反
   本件各処分、とりわけ本件分限免職処分は上告人の教育の自由を侵害するも  のであって、明らかに憲法第23,26条に反する。
   以下、検討する。
 1 最高裁旭川学テ判決に見る教育の目的と「教育の自由」
   最高裁旭川学テ判決(最高裁昭和51年5月21日大法廷判決・以下、「旭
川学テ判決」という。)は、日本の最高裁判所の大法廷が、教育に関わる権利・自由を規定した憲法23条および26条の意義を、憲法13条に規定された個人の尊重原理を裏付けとして初めて本格的に論じたものとして、重要な意義を有する判決である。この中で旭川学テ判決は、旧教基法10条の「不当な支配」の審査基準を示しており、本件においてはまさに旭川学テ判決に従い、その審査基準が適用されることが求められるものである。
 旭川学テ判決は、憲法26条の解釈論において、子どもの学習する権利は、「国民各自が、一個の人間として、また、一市民として、成長、発達し、自己の人格を完成、実現するために必要な学習をする固有の権利」と定義している。そして、「特に、みずから学習することのできない子どもは、その学習要求を充足するための教育を自己に施すことを大人一般に対して要求する権利を有する」と述べ、教育という営みが、「大人一般に対して要求する権利」としての子どもの学習権保障を基軸に行われるべきものであるという基本的な姿勢を示したのである。
 そして、教育は、「教育を施す者の支配的権能」ではなく、行政の支配的権能によって、都合のよい国民を作り出すためのものであってはならないと判示して、戦前の一方的かつ画一的な国家主義的教育のありようを明確に否定している。この点は、旭川学テ判決についての最高裁判例解説において、「国家の公教育に対する関係についても、…子どもの学習権の保障を中心に考えるべきである。すなわち、国家が有する教育に関する権限は、あくまでも人格の全面的発達を目的とする子どもの学習権保障のためのものであって、国家自身の利益や何らかの国家的価値の実現のためのものではない」と指摘されているとおりである。
 2 人格的接触を通じた教育
   このように、同判決は、「教育とは、国が考えた教育上の利益を子供に当て
がうことではなく、子供が独立の人格と個性を持った学習の主体として位置づけられる」と教育の本質を指摘し、かかる「教育の本質的要請」として、「子どもの教育」は「教師と子どもとの間の直接の人格的接触を通じ、その個性に応じて行われなければならない」と判示した。
 すなわち、子どもが独立の人格と個性をもった学習の主体である以上、教師は、子どもの個性に応じて、その個性と固有の学習課題にあった対応を個別にしていかなければならない。そのように子どもの人格をはぐくみ成長させるためには、機械的な対応ではなく、子どもとの人格的なふれあいが教育の基盤となるべきである。この判決は、そうした教育の本質的な要請を的確に指摘したものである。
 3 「論争的主題」の教育=子どもの思想良心の形成のための教育
   それでは、このような人格的接触を通じた人格形成のための教育とは、教育
のどのような局面で、特に重要になるのであろうか。
 旭川学テ判決が示すとおり、教育は個人の人格形成を目的とするものであって、行政にとって都合のよい考えを注入する教育ではない。そして、それは、人格形成の中心たる部分である、子どもの思想・良心の形成に関わる教育に関して、特にあてはまることである。
 もとより、前記のとおり、教員が教育すべき事柄には、様々に意見の分かれる論争的主題も多く存在しており、このような問題においてこそ、個々人の思想良心が問われることになるのである。
 現代社会には、複雑化する国際関係の問題、戦争と国際平和の問題(本件戒告処分の対象行為に関する問題である)、経済発展と環境保護の問題、経済格差や貧困の問題など、取り組むべき問題が山積している。こうした問題は、一義的に解答が決まっている問題ではなく、それぞれが自分の思想・良心に基づいて、自分の考え方や判断力を育てながら考え選択していくべき問題なのである。
 子どもたちは、将来現実の社会の中で、こうした問題に次々に直面することになる。次世代を担う子どもたちには、このような社会の問題に取り組み、刻々と変わりゆく情勢に対応しつつ、自らの思想・良心に基づいて的確な判断をすることが要求される。したがって、子どもの人格を形成するための教育において、こうした意見の分かれる問題について、どのように思考し、思想を選択し、行動するかという、思考力、判断力の育成が必要となる。またそのような思考力、判断力の礎となる思想・良心を育てることが欠かせないのである。
 子どもたちにこのような思想・良心や思考力をはぐくむ教育をするためには、意見の分かれる主題、すなわち「論争的主題」について、子ども自身が自らの考え、思想・良心を形成することを支援する教育が行われなければならない。子どもが社会に出るまで、そのような複雑な問題に直面したことがないのでは、到底社会の中で問題に対応できない。学校教育においてこそ、様々な論争的主題に関して、人によっていろいろな考え方があることを知り、話し合いや議論を通じて、お互いの理解を深めること、相互に異なる考え方を理解しながら、自分自身の思想や考え方を選択していくこと、それに基づいて行動をしていくこと等を学ばなければならないのである。
 そのような教育が行われるためには、教員は、意見の分かれる主題について、子どもたちに問題を提示し、様々な考え方があることを紹介し、子どもたちに話し合いや討論を促し、子どもたちが自分たちの考えを作り上げていけるように支援しなければならない。
 そのためには、教員が一方的に、子どもに何らかの定まった解答を与えて、それに従わせるのではなく、教員との人格的接触や対話を通じて、子どもが自らの考えを形成する教育をすることが必要である。
 かかる観点からすれば、上告人が実践してきた紙上討論授業は、まさに子ども達が自らの考え方を形成していくための最良の方法ともいえるものであった(甲68,69参照)。
 4 憲法26条は行政の教育への介入は抑制的であるべきとする
 (1)教育権能の配分について
    このような人格的な触れ合いに基づく教育は、それ自体極めて人間的、個
別的なものであって、教員がその自主的な裁量をもって、臨機応変に対応すべきものであり、予め画一的に内容や方法を定めることのできないものである(紙上討論授業は、まさにこのようなものとして位置づけられる。)。仮に行政等がそのような教育に画一的・政治的な介入をしようとすれば、まさにその子どもが発達しようとする方向性や内容がゆがめられ、健全な発達を促すことはできない。そのことから、旭川学テ判決は、まず子どもとの人格的関係をもつ親や教員が教育権能を有し、教育に対する行政の介入は抑制的であるべきという要請を示しているのである。
 すなわち、旭川学テ判決は、憲法26条、13条等の解釈として、教育権能の分配に関して次のように示している。
 教育の目的は子どもの人格の成長発達にあることを前提に、「教育の内容及び方法を誰がいかにして決定すべきかという問題については、親の子どもの教育に対する教育の自由、教員の教授の自由が一定の範囲において認められるとし、それ以外の領域において、国が必要かつ相当と認められる範囲において教育内容においてこれを決定する権能を有する」とするのである。まず、親と教員の教育の自由が肯定され、行政はそれ以外の領域について補完的な役割を果たすものとされているのである。
 (2)行政の教育内容への介入の限界
    そしてこれに引き続いて、旭川学テ判決は、教員の教育の自由について、
次のとおり判示する。すなわち、同判決は、「普通教育の場においても、例えば、教師が公権力によって特定の意見のみを教授することを強制されないという意味において、また、子どもの教育が教師と子どもとの間の直接の人格的接触を通じ、その個性に応じて行わなければならないという本質的要請に照らし、教授の具体的内容及び方法につきある程度自由な裁量が認められなければならないという意味においては、一定の範囲における教授の自由が保障されるべき」であるとするのである。
 そしてそれに引き続き、行政の介入の限界として、次の2点を明示している。
    @ 行政の教育内容への介入は抑制的であるべき−教員の裁量の尊重
      すなわち旭川学テ判決は、行政の介入の限界の第一点目として「国
政上の意思決定は様々な政治的要因によって左右されるので、本来人間の内面的価値(人格)に関わる文化的な営みとして政治的観念や利害によって支配されるべきでない教育に政治的影響が深く入り込む危険がある」ことから、「行政が教育内容に対する必要かつ相当な介入をするとしても、行政の介入はできるだけ抑制的であることが要請される」とした。
 上述の通り、教員が子どもの人格を形成するための教育をするためには、教員に、こどもの個性に応じて子どもに対応するための一定の裁量と自由が必要である。行政の過度の介入はこうした教育を侵害する恐れがあり、ここで、教育活動の具体的展開の詳細に及ぶような干渉・介入を禁ずる意味で、「教師の教育活動における裁量」(介入の量的限界)が保障されたものというべきである。
    A 一方的な観念を植え付ける教育の強制は許されない
      さらに、最高裁確定判決は、憲法26条の解釈において、「一方的な
観念を子どもに植え付けるような内容の教育を施すことを強制するようなことは許されない。」と判示している。
 これは、「個人の基本的自由を認め、その人格の独立を国政上尊重すべきものとしている憲法のもとにおいては、こどもが自由かつ独立法人格として成長することを妨げるような国家的介入、すなわち一方的な観念または偏った観念を植え付けるような教育を強制することは許されない」という理由によるものである。
 既に述べた通り、子どもが個性に応じて人格を形成するためには、子ども自身の人格と個性に応じた教育を受けられる必要があり、国家や行政によって一方的な政治的な介入がなされることは、そのような人格を成長させる教育を阻害し、破壊的な影響をもたらすものである。その意味で、偏ったまたは政治的な国家介入に対する最低限の質的な歯止めとして、「公権力による特定の意見の教授の強制の禁止」が憲法によって保障されたものである。
 5 本件へのあてはめ
 (1)上記のような旭川学テ判決の判示内容からすれば、上告人が行ってきた紙
上討論授業は、当然、憲法23、26条が保障する教育の自由の一環として、普通教育の場にあっても、教授の自由の保障対象となることは明らかである。蓋し、いわゆる論争的主題に関する教育方法としての紙上討論授業は明らかに高い教育的効果が認められるからである(甲20乃至24,51,68,69等参照)。
 (2)次に、かかる紙上討論授業に対して、ある意味において些細な「表現」の
問題にかこつけて戒告処分や分限免職処分といった不利益処分をなすことは教育行政の過度な介入であるとともに、先の戦争が侵略戦争であることを正面から教えてはならないということを上告人を免職にすることによって教師に強制するという意味で、一方的な観念の教え込みに該当するものであって、旭川学テ判決の趣旨に反するものであり、教授の自由を侵害するものと言える。
 繰り返すが、単なる「表現」の問題であれば、都教委が上告人に対して分限免職という苛酷な処分まで行うことの合理性は全く見いだせないのである。上告人の紙上討論授業に込められた教育的意図が、扶桑社の教科書の採用を推進し、入卒業式において日の丸に正対起立し君が代の斉唱を強制するなど「愛国心」教育を強く進めている都教委の方針に反するからこそ、分限免職という苛酷な処分を強行したという本質を見据えることによって初めて、本件分限免職処分の意味が理解され得るのである(なお、原判決が認めた「上告人の矯正し難い素質、性格」によって「職の適格性」が否定されるとの論理が破綻していることは、上告受理申立理由書において指摘しているとおりである。)。かかる処分を追認することは、旭川学テ判決の判旨に照らして絶対に許されるものではなく、同処分が憲法23、26条に反することは、すでに明らかである。

「私は一年間、紙上討論授業をして良かったと思う。一番、最初は『何
?あれ?早くやめてほしいよ。』って思ってたけど、この紙上討論授業を通して、今まで、私が知らなかった、考えたこともなかった歴史上の問題や、現在の日本に起こっている問題を知ることができたし、学年のいろんな人達が、どんな風に考えているか、ということが、良く理解する事ができた。紙上討論をやらず、教科書そのままの知識を知っただけでいたら、本当のことを考えないままに、社会科を学んでいたと思う。今まで紙上討論に対する反対意見もあったけど、(私も一時、そうだった)、やっぱし紙上討論して、良かったと思う。それから、やっぱりこういうこと・・・・日本が中国、朝鮮やアジアにたいしてしたヒドいことは、子供達に教えるべきだと思う。別に、それで日本を誇りに思おうと思うまいと、その人の勝手だし、その人自身が考えること。でも過去に日本はヒドい事をしたのは事実なんだから。日本のいいところばかりを見て、誇りに思うより、どんなにいい所も、どんなに悪い所も、ちゃんと知った上で、誇りに思った方がいい。・・・」
(甲51・86枚目)
「・・・それから私は、紙上討論をするのが、初めはイヤだった。同じことを何度も繰り返しているように思えたし、他人の意見に口出しされたりするから。紙上討論にも反対の意見がいくつも出ていたし、私の反対意見も載った。でも紙上討論を繰り返しているうちに私の意見が変わった。それは、増田先生は紙上討論を通じて、私達に一つの事(テーマ)について、『いろいろな意見を出し合い、考えあうこと』を教えてくれているんだと気付いたから。私は『正しい事は正しい、間違っている事は間違っている』と堂々と生徒に教える事のできる増田先生の意志は素晴らしいものだと思う。・・・この紙上討論は、決して無駄ではなかったと私は言い切れる。」
(甲51・87枚目)
「私は日本がアジアを侵略した事については。真実をちゃんと教えた方がいいと思う。もしかしたら、今の子供達が日本のしたことを知らずに大人になったら、また戦争をしてしまうかもしれないから。日本が、どんなにひどいことをしたのか教えれば、戦争したいと言われても、大多数の人が反対すると思う。『日本を誇りに思えない』なら、これから先、いいことをいっぱいして、未来の日本を誇りに思えるようにすればいいと思う。」
(甲51・89枚目)
「私達は、この一年間に、たくさんの紙上討論をやってきた。そして、この紙上討論を通じて米軍基地のことや、日本のつらくて悲しい過去を知るなど、いろいろな事実を知ることができた。みんなの意見や、事実の知識を知った上で、自分が、また意見や考えを出す。それのくり返しをしてきた。いろいろな意見と同時に、紙上討論や増田先生に不満を持ったり、反対する人が出てきた。本当にいろいろな事があった。それでも増田先生は、私達が考えなければいけない事実を教えるため、紙上討論を続けてくれた。私は紙上討論を通じて、いろいろな意見を出せたり、社会に対する関心を高める事ができた。自分でも驚くくらい、たくさん考え、たくさん意見を出す事ができた。一番言いたいのは、紙上討論を通して『自分の意見をきちんと持ち、考えあうこと』の大切さが分かった、ということ。これは社会の授業だけでなく、大切な事だと思う。もちろん、そんなことは当たり前かもしれないけど、私は改めて分かった。一年間の紙上討論は、私にとってプラスだったし、きっと、みんなにとってもそうだと思う。」
(甲51・92枚目
第3 上告理由ー憲法第98条違反
   本件分限免職処分は、児童の権利に関する条約(以下、「子どもの権利条
約」という。)に違反しているので、条約遵守義務を定めた憲法98条2項に違反する。
 以下、検討する。
 1 子どもの権利条約13条
   同条約13条1項は、「児童は、表現の自由についての権利を有する。この
権利には、口頭、手書き若しくは印刷、芸術の形態又は自ら選択する他の方法により、国境とのかかわりなく、あらゆる種類の情報及び考えを求め、受け及び伝える自由を含む」と規定されており、児童(18歳未満のすべての者)に情報のアクセス権が保障されていることを明言している。
 2 上告人は、紙上討論を通じて、生徒達に対して、教科書だけでは得られない
様々な情報、知識を伝達し、さらにその情報、知識を自らが主体的に考えるための基礎とすることを実践してきた。
 その教育効果は、生徒たちの次のような意見に顕著に示されている。
     「私は一年間、紙上討論授業をして良かったと思う。一番、最初は『何
?あれ?早くやめてほしいよ。』って思ってたけど、この紙上討論授業を通して、今まで、私が知らなかった、考えたこともなかった歴史上の問題や、現在の日本に起こっている問題を知ることができたし、学年のいろんな人達が、どんな風に考えているか、ということが、良く理解する事ができた。紙上討論をやらず、教科書そのままの知識を知っただけでいたら、本当のことを考えないままに、社会科を学んでいたと思う。今まで紙上討論に対する反対意見もあったけど、(私も一時、そうだった)、やっぱし紙上討論して、良かったと思う。それから、やっぱりこういうこと・・・・日本が中国、朝鮮やアジアにたいしてしたヒドいことは、子供達に教えるべきだと思う。別に、それで日本を誇りに思おうと思うまいと、その人の勝手だし、その人自身が考えること。でも過去に日本はヒドい事をしたのは事実なんだから。日本のいいところばかりを見て、誇りに思うより、どんなにいい所も、どんなに悪い所も、ちゃんと知った上で、誇りに思った方がいい。・・・」
(甲51・86枚目)
「私は日本がアジアを侵略した事については。真実をちゃんと教えた方がいいと思う。もしかしたら、今の子供達が日本のしたことを知らずに大人になったら、また戦争をしてしまうかもしれないから。日本が、どんなにひどいことをしたのか教えれば、戦争したいと言われても、大多数の人が反対すると思う。『日本を誇りに思えない』なら、これから先、いいことをいっぱいして、未来の日本を誇りに思えるようにすればいいと思う。」
(甲51・89枚目)
「私達は、この一年間に、たくさんの紙上討論をやってきた。そして、この紙上討論を通じて米軍基地のことや、日本のつらくて悲しい過去を知るなど、いろいろな事実を知ることができた。みんなの意見や、事実の知識を知った上で、自分が、また意見や考えを出す。それのくり返しをしてきた。いろいろな意見と同時に、紙上討論や増田先生に不満を持ったり、反対する人が出てきた。本当にいろいろな事があった。それでも増田先生は、私達が考えなければいけない事実を教えるため、紙上討論を続けてくれた。私は紙上討論を通じて、いろいろな意見を出せたり、社会に対する関心を高める事ができた。自分でも驚くくらい、たくさん考え、たくさん意見を出す事ができた。一番言いたいのは、紙上討論を通して『自分の意見をきちんと持ち、考えあうこと』の大切さが分かった、ということ。これは社会の授業だけでなく、大切な事だと思う。もちろん、そんなことは当たり前かもしれないけど、私は改めて分かった。一年間の紙上討論は、私にとってプラスだったし、きっと、みんなにとってもそうだと思う。」
(甲51・92枚目)
 このように、生徒たちは、この社会に存在する様々な問題に関する事実を知り(情報へのアクセス)、そして、それを自らがその問題に対する主体的な意見形成のためにしっかりと生かしているのである。
 3 本件分限免職処分は、かかる生徒たちに情報アクセス権を永久に奪い去った
のであり、明らかに子どもの権利条約13条に違反する処分であることが認められる。
 さらに言えば、本件分限免職処分の直接のきっかけとなった本件戒告処分の対象行為の中で、上告人が扶桑社の教科書を批判しているが、そのことが正当であることは、2010年6月15日に公表された国連の「児童の権利委員会」による「児童の権利に関する条約」の日本における履行状況に関する最終勧告において、「委員会は、日本の歴史教科書が、歴史的事件に関して日本の解釈のみを反映しているため、地域の他国の児童との相互理解を強化していないとの情報を懸念する」「委員会は、締約国に対し、公的に検定されている教科書が、アジア太平洋地域の歴史的事件に関して、バランスのとれた支店を反映することを確保するよう勧告する」と述べたことからも明らかである(上記の勧告で指摘されている「日本の歴史教科書」が扶桑社の歴史教科書を指すことは、同教科書の作成者である「新しい歴史教科書をつくる会」の会長を務めている藤岡信勝氏が外務大臣に対して抗議声明を出したことからも優に認められる。)。
 4 以上のとおり、本件分限免職処分が、子どもの権利条約13条に反すること
は明らかであり、その結果、憲法第98条2項に違反する違憲なものであることは優に認められる。

第4 上告理由ー理由不備
 1 はじめに
   原判決は、上告人が「中立、公正に教育を行うべき教育公務員としての自
覚と責任感に欠け」ている点を、上告人の適格性欠如の主要な根拠とする(原判決55頁)。
しかし、原判決は、教育における「中立、公正」とは何か、上告人のどのような教育実践や言動が何故教育の「中立、公正」に反するのか、全く明らかにしていない。
 この点、上告人は、原審最終準備書面56頁から67頁まで11頁にわたり教職員の行う教育の「中立、公正」について主張したが、原判決はこれに何ら応えていないのである。
 原判決には明らかな理由不備が認められる。
 以下、検討する。
 2 地方公務員法、旧教育基本法の観点から
 (1)地方公務員法13条は「すべて国民は、この法律の適用について、平等
に取り扱わなければならず、人種、信条、性別、社会的身分もしくは門地によって、又は・・・政治的意見もしくは政治的所属関係によって差別されてはならない。」とする。すなわち、地方公務員は政治的意見によって差別されてはならないのであり、多様な政治的意見を表明しうることが前提とされている。
 そして、旧教育基本法は、第8条で政治教育について規定し、1項で「良識ある公民たるに必要な政治的教養は、教育上これを尊重しなければならない。」とし、2項で「法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない」と規定しており、2項のような「政治教育その他政治的活動」を学校が行うことを禁止している他は、教育における「中立、公正」については何らの規定を置いておらず、むしろ1項において「良識ある公民たるに必要な政治的教養」の育成は「教育上これを尊重」しなければならないとしているのである。
 (2)本件について言えば、「ノ・ムヒョン大統領三・一記念演説」の中で、当
時の韓国の大統領が、日本による過去の侵略の歴史に触れ、日本人の態度やメンタリティーをドイツのそれと比較し批判的(日本では侵略の歴史が十分に認識・反省されていないのではないか)に捉えつつも、日本と未来に向けて宥和を図ってゆこうと努めている姿勢を示した。その演説内容を、中学校社会科教諭である上告人が、「授業において紹介し、生徒達の討論資料とするに意義あるもの」と考えたことは、生徒達の「良識ある公民たるに必要な政治的教養」の涵養にとって、全く適切な判断と言えよう。
 その上で、上告人は、自らも、「ノ・ムヒョン大統領三・一記念演説」に対し、中学校社会科教諭として、一日本人として、日本の現状を検証・分析し、自らの立場性をも顧みつつ、「手紙」形式で意見をしたためるという行為を行ったのである。
 そして、上告人は、「ノ・ムヒョン大統領の記念演説」において韓国側から「日本は侵略の歴史を認識・反省していないのでは」との批判と疑問が向けられている事実に対し、これと正対し、「日本は日韓併合等の侵略の歴史を十分に反省しているかのか」と省みた場合に、たとえば、日本の首都東京の都議会議員という立場でありながら「日本は侵略戦争なんかしていない」と公言したり、侵略行為を殊更に美化したり、否定したりする趣旨の教科書が検定を通過している現状を、「日本の侵略の歴史を認識・反省していない政治家や出版社がある」ことを「ノ・ムヒョン大統領(韓国側)の批判のとおりだ」と考え、「恥ずかしく、情けなく思う」という心情を紙面に託し、自らの見解を明らかにしたのである。
 これは、謂わば、「生徒に考えさせっ放し」にするのではなく、上告人自らにも、「ノ・ムヒョン大統領の演説」という形で「韓国から示された問いと差し出された手」に日本人として、社会科教諭として如何に応えるかという問題を課し、自ら顧みる態度を示すことで、生徒達の考えの深化を図る一助としようとする教育的姿勢である。この点、浪本教授意見書(甲69)10頁において、アメリカ自由人権協会が発表した「”客観的”学問態度のためと称して教師の傾向が隠されようとする場合よりも、教師の判断が明瞭に述べられる場合のほうが、生徒たちは、自分に提供される他の材料やいろいろな意見に基づいて、よりよく教師の判断を評価することができ、またそれと異なった判断を下すことができやすいだろう」との見解が引用されていることに留意されるべきであり、かかる観点からすれば、上記のような上告人の教育実践は、何ら教育の「中立、公正」に反するものでないことは明らかである。
 そして、上告人は、「ノ・ムヒョン大統領の記念演説」において韓国側から「日本は侵略の歴史を認識・反省していないのでは」との批判と疑問が向けられている事実に対し、これと正対し、「日本は日韓併合等の侵略の歴史を十分に認識し反省しているのか」と顧みた場合に、例えば、日本の首都東京の都議会議員という立場の政治家でありながら「日本は侵略戦争なんかしていない」と公言したり、侵略行為を殊更に美化したり、否定したりする趣旨の教科書が検定を通過したりしている現状を、「日本の侵略の歴史を認識・反省していない政治家や出版社がある」ことを「ノ・ムヒョン大統領(韓国側)の批判のとおりだ」と考え、「恥ずかしく、情けなく思う」という心情を紙面に託し、自らの見解を明らかにしたのである。
 このように、上告人が扶桑社の教科書や古賀都議の発言を取り上げて「国際的には恥をさらすことでしかない歴史認識」と指摘したのは、まさに「良識ある公民たるに必要な政治的教養」についての教育であった。上告人のこの指摘を支持する意見が韓国を初めとした諸外国から数多く寄せられていること(甲99、111,112参照)は、上告人の指摘が「良識ある公民たるに必要な政治的教養」として正当なものであったことを如実に示している。
 かかる上告人の教育実践(本件資料の記載を含む)が、地方公務員法13条、旧教育基本法第8条1項の趣旨に沿うものであり、旧教育基本法第8条2項の禁止する政治教育に当たらないことは余りにも明らかである。
 3 原判決の見解
 (1)これに対し、原判決は、「本件発言(古賀都議の『侵略戦争云々というの
は、私は、全く当たらないと思います。じゃ、日本は一体どこを、いつ侵略したのかという、どこを、いつ、どの国を侵略したかということを具体的に一度聞いてみたいというふうに思います』との発言)は、平成16年都議会文教委員会におけるものであり、都議会ホームページにより公開された記録(乙ロ19)によれば、数点にわたってされた同都議の質問のうちの一つである国旗・国家についての質問の前提として同都議がした、国旗に対する評価に関連する意見の開陳の一部としてされたものであって、同発言について、本件記載に書かれた以上のやり取りがあったものではなかった。」(原判決47頁)と認定し、あたかも、古賀都議が、批判や非難に値する意見の開陳を行ったものではないかの如く判示する(なお、原判決においては、この部分は本件戒告処分に関する部分で触れられているが、同48頁において、「本件各研修命令及び本件分限免職処分に関するものも含め」とあるので、本件分限免職処分についても前提となっていることは明らかである。)。
 しかしながら、古賀都議の上記発言が、都議会という公の場において都議会議員という政治家の立場・地位にありながら、「日の丸=国旗」としてこれを尊重・擁護する意見や質問を述べる際に、疑問形を交えつつも、「侵略戦争云々は全く当たらない」、「日本が一体どこを、いつ侵略したのか(侵略なんかしてないだろう)」旨の発言を行い、以て、「日本の日韓併合、中国侵略等東アジア諸国に対する侵略の歴史」を真っ向から否定し、「日本の侵略の歴史を認め、謝罪する」旨の政府の正式見解をも無視するものであることは明らかである。そして、かかる古賀発言が、韓国や他のアジア諸国からすれば、「日本の政治家の中には未だそのような無知蒙昧なことを公言して憚らない者がいるのか」と呆れられるであろうことは想像に難くない。かかる古賀発言に対して、一定の批判的立場を表明したに過ぎない上告人の本件資料における記載が、旧教育基本法8条2項の政治教育に該当するとは到底言えず、教育の「中立、公正」を欠くということはあり得ないはずである。
 しかるに、原判決は、「あくまでも歴史の評価の問題ではなく、表現の問題に過ぎない」との詭弁を用いて、上告人に対して、「中立、公正に教育を行うべき教育公務員としての自覚と責任感に欠け」ていると認定する根拠の一つとしたのである。上告人が前記(2)に述べたような経緯、意図から、本件資料を作成したことは優に認められる以上、まず、このような上告人の教育的意図が教育の「中立、公正」に反するものであるか否かについて判断すべきであり、そして、かかる上告人の教育的意図が教育の「中立、公正」に反しないものであるとされれば、次に、上告人の表現が教育の「中立、公正」に反するか否か、仮に反するとすれば、それはなぜか、そして、そのような表現の問題が、何故、「教育公務員としての自覚と責任感を欠」くものとして、教師としての適格性を欠き、分限免職処分を正当化するほどのものなのか、ということについて理由を説明しなければならないはずである。
 原判決は、このような理由について何ら触れていないのである。
 (2)また、原判決は、本件資料における上告人の記載が「特定の個人及び法人
を貶める記述」であるとするが、その記載の趣旨は、前記の通りであり、旧教育基本法第8条2項の禁止する「特定の政党を支持し、又はこれに反対するため」の記載ではないから、およそ政治的中立性に反しないことは前述したとおりである。
 この点に関し、裁判官の政治集会への参加を理由とする懲戒処分の当否を争った最高裁平成10年12月1日決定は、裁判官の職責に鑑みて、「司法に対する国民の信頼」は、広く、「外見的にも中立・公正な裁判官の態度によって支えられる」ものであるとして、一般の公務員よりも「中立・公正」が強く要請されるとしつつも、裁判所法52条1号の「積極的に政治運動をすること」については「組織的、計画的又は継続的な政治上の活動を能動的に行う行為」と限定的に解釈した上で、さらにそれは、「その行為の内容、その行為の行われるに至った経緯、行われた場所等の客観的な事情」と行為者の「主観的な事情」を「総合的に考慮して決する」ことが必要としている。
 その判示からすれば、地方公務員たる上告人の「中立・公正」の判断に当たっては、求められる「中立、公正」とは何なのかを明らかにした上で、上記の裁判官の場合より一層厳格に「その行為の内容、その行為の行われるに至った経緯、行われた場所等の客観的な事情」と行為者の「主観的な事情」を「総合的に考慮して」中立、公正に反しないかを決するべきである。
 しかるに、原判決は、全くこのような理由を説明していない。
 (3)なお、以下付言するが、原判決は「古賀都議の本件発言は、前記のような
経緯の中でされたものであり、控訴人自身インターネットで調べて知ったことに照らしても、社会一般に広く明らかにされ、知れ渡った発言とは認められない」と判示している。
 しかしながら、そもそも、「料亭での密談の場での発言」であるならともかく、「都議会という公器」の委員会という公の場において、公開された議事録に記録されている都議会議員の発言を、「社会一般に広く明らかにされ、知れ渡った発言とは認められない」とは、原審の常識を疑わざるを得ない。
 いわんや、「インターネットで調べて知った」=「インターネット上で公開されている」情報であれば、「社会一般に広く明らかにされ、知れ渡った」どころか、「世界中に配信され、殆ど世界中に明らかにされた情報」であることは、現代のメディア事情の常識である。
 しかも、原判決は、上記のような理由を挙げて、本件資料の中で特に古賀都議の発言を取り上げる必要性・必然性があったものと認めることはできず」としている。
 ところが、原判決自身、扶桑社の教科書を「取り上げる必要性・必然性」については、全く否定できていない。当時、扶桑社の教科書の記述については、「社会一般に広く明らかにされ、知れ渡った」状態にあり、国際的批判に晒され、最近でも、2010年6月15日に公表された国連の「児童の権利委員会」による「児童の権利に関する条約」の日本における履行状況に関する最終勧告において、「委員会は、日本の歴史教科書が、歴史的事件に関して日本の解釈のみを反映しているため、地域の他国の児童との相互理解を強化していないとの情報を懸念する」などとされていることは前述したとおりである。
 しかし、日本国内、とりわけ東京都においては、都教委がその扶桑社の教科書を支持しているという状況にあった上、「ゴーマニズム宣言」などの漫画を通じて、それに影響される中学生も出ていた。そのような中、公人たる都議会議員が、日本が侵略をしたのか疑問だ、と言う趣旨の発言を都議会の場で行ったのである。このような状況において、上告人が、公人たる都議会議員の都議会での発言を例として取り上げたのは、「良識ある公民たるに必要な政治的教養」の教育に資するものであって、必要性・必然性があったことは明らかである。
 ただし、それは、盧武鉉大統領への手紙というかたちで、多様な意見が闘わされていた紙上討論の資料として提示されたものであるから、生徒に対する影響は大きなものではないことは明らかであった。
 しかるに、原判決は、この点について「中学校の生徒らが、未発達の段階にあり、批判能力をまだ十分には備えていないため、教師の影響力が大きいことにかんがみれば、(野中元官房長官が小泉元首相を批判した事実を生徒に伝えることとは)質の異なるものと言うべき」(原判決50頁)と判示し、紙上討論授業が「良識ある公民たるに必要な政治的教養」の育成のために極めて有効な教育であること(甲68,69の意見書参照)を否定ないし隠ぺいし、教育の「中立、公正」に反するかのような評価をしていることは極めて不当であると言わざるを得ない(この点に関し、甲68,69の意見書を参照されたい。)。
 4 小括
   以上のとおり、原判決には、「中立、公正に教育を行うべき教育公務員とし
ての自覚と責任感に欠け」とする判示部分には、理由不備の違法があることは明らかである。

第5 上告理由ー審理不尽
 1 原判決には、古賀俊昭都議を証人として採用せず、本件分限免職処分を初め
とした本件各処分に関する同都議の政治的圧力の有無について判断しなかった審理不尽が認められる。
 以下、検討する。
 2 古賀都議は、本件において証人として取り調べることが、本件の真実を明ら
かにし、本件戒告処分、研修処分の適否、そして分限免職処分について「考慮すべきことを考慮し、考慮すべきでないことを考慮していない」かどうか、本件戒告処分、分限免職処分が旧教育基本法10条の規定する「不当な支配」に当たるか否かを判断するために、必要不可欠であった。
 すなわち、本件は、上告人が、古賀俊昭都議の都議会での質問という公人としての行為を、上告人が紙上討論に用いた「ノ・ムヒョン大統領への手紙」の中で批判したことを古賀都議が、保護者の一人からの連絡によって知ったことから始まっている。
 古賀都議は、その著作「こんな偏向教師を許せるか」に関し、上告人から名誉棄損として民事訴訟に訴えられるなどしており、従来から上告人を嫌悪していた。それに加え、古賀都議の被上告人都教委課長大江近との面談、上告人への戒告処分と研修処分決定の経緯、上告人の思想転向を強いる研修の内容、区教委の内申や、上告人に対する異動の内示に反して突如、上告人の分限免職が都教委で決定されたことを総合すれば、本件各処分が、上記のとおり、古賀都議からの不当な圧力により決定されたことが強く推認される。
 すなわち、前述の「ノ・ムヒョン大統領への手紙」での自分に対する批判について、上告人に報復したいとの私怨により、都議会議員の立場を利用して、都教委に圧力をかけ、原告の戒告、研修、そして分限免職を決定させたのである。それは、旧教育基本法10条1項が禁止する「不当な支配」に他ならない。
 3 しかし、原判決は、上告人らの上記の主張を否定し、各処分は適正であると
した。
 本来、各処分の必要性と、古賀都議からの不当な圧力と、いずれが決定的動機であったのかが、原審判所において検討されなければならなかった。
 その点では、古賀都議は、前記の名誉棄損訴訟においても、上告人の処分を求めて都教委に圧力をかけたことを自己の信念に基づいて包み隠さず証言した極めて重要な証人である(甲117・5、10頁)。
 さらに、古賀都議は、既に2008年(平成20年)6月10日最高裁第三小法廷決定(甲118、なお、控訴審判決は甲26)により、違法であることが確定した都教委からの古賀都議らに対する上告人についての情報漏洩についても、何ら悪びれずに、都教委から情報提供を受けたことを証言している(甲117・5、24、25頁)。
 それらの証言からすれば、古賀都議は、自分が都教委に圧力をかけて上告人を処分させることを当然のことと考えており、本件各処分についても、そのことを包み隠さず証言することが予想された。よって、古賀都議による不当な圧力を証明する上で最適の証人と言えるから、本件の処分の違法性の解明のためにも、証人として尋問すべき高度の必要性があった。
 にもかかわらず、古賀都議を証人として採用せず、同人の圧力について「考慮事項の考慮」と「不当な支配」に関する判断を誤った原判決は、審理不尽の誤りを犯したものである。
 4 よって、原判決は破棄されて差し戻されなければならない。

以    上