平成18年(行ウ)第478号 分限免職処分取消等請求事件
原 告  増  田  都  子
被 告  東 京 都  外1名

準 備 書 面 (10)

原告訴訟代理人            
弁護士  和久田 修

同  萱野一樹

同  萩尾健太

同  寒竹里江

2008年5月 日

東京地方裁判所民事第36部合議係  御 中

                               記

第1 被告都教委準備書面(4)「第1 本件分限処分について」に対する反論
 1 同第1,1及び2に対する反論
(1)被告都教委は、「すでに述べたとおり、特定の歴史認識のみが絶対に正しく、それと異なる歴史認識は間違いであると生徒に押し付けてはならない」のであり、原告の主張は失当である、とする。
(2)しかしながら、被告都教委が指摘する古賀都議及び扶桑社の歴史教科書に対する原告の批判が、「歴史認識の押し付け」などではないことは、原告準備書面(8)第1、2(4乃至19頁)に詳細に述べたとおりである。原告が上記批判を行った際の教え子である九段中の生徒たちは、「中でも一番印象に残っていることは、それは『紙上討論』です。私はずっと自分の意見を言うことが苦手だったので、始めはあの白い紙に書くことにとまどっていました。・・・しかし、回を重ねるごとにたくさんの人のいろいろな考え方が出ている意見を読むのが楽しくなりました。とても参考になる意見や共感できる意見、自分と正反対な意見など、いろいろな人の意見を読むことで学んだことはたくさんあったし、だんだんと自分自身の意見を持つこともできるようになりました。紙上討論をきっかけにして社会に興味を持つようになったりしました。」という意見に代表されるように、原告から「特定の歴史認識」を押し付けられたことなど全くなく、「自分自身の意見を持つ」ことや社会に関心を持つことの大事さを教えられたことを心から感謝していることが優に認められるのである。
(3)また、原告が批判した古賀都議の議会発言や扶桑社の歴史教科書の内容は、客観的にも間違いであり、また政府の公式見解にも反するものであって、かかる「歴史認識」の誤りを正すことは、むしろ社会科の教師としての責務であるとも言えるのである。
すなわち、第二次大戦における日本の戦争行為は侵略戦争であったとする「歴史認識」は、日本国憲法の理念の前提であり、内外の歴史学の常識であるばかりでなく、日本国首相および国会が内外に表明し認めているものであって、かかる「歴史認識」を生徒に教えることは何の問題もないことは異論がないところであると思われる。これに対して、上記のような「歴史認識」を否定して、第二次大戦における日本の侵略行為を「自存自衛の戦争」「アジア解放の戦争」とする「特定の歴史認識」は、右翼に偏向した独善的なイデオロギーの所産ともいうべきものであり、日本国憲法の根本理念である平和主義を否定しかねないものであって、日本国憲法の趣旨からすれば「間違いである」と言わざるを得ない(原告は、このことをわずか数行の表現で指摘したに過ぎず、これを『誹謗』などと捉えること自体、被告都教委自身が右翼の独善的イデオロギーに与しているものと評価されても仕方ないところである。)。
正しい「歴史認識」を教えることは、1998年に改定された中学校学習指導要領の社会科の「国際社会に生きる民主的、平和的な国家・社会の形成者として必要な公民的資質の基礎を養う」ことに資するものであることは明らかであり、誤った『特定の歴史認識』をおかしいと教えることは、日本国憲法下の社会科教員の責務であって、何ら非難される謂れはない。
なお、日本の侵略戦争を否定し、『自存自衛の戦争である』『アジア解放の戦争であった』とする『特定の歴史認識』が誤っていることについては、ほかならぬこの教科書の発行会社である扶桑社自身が、2007年5月、『各地の教育委員会の評価は低く、内容が右寄り過ぎて』いた、と認め、既にこの教科書をもう発行しない、絶版にすると決定したことを社会的に公表していることからも、明らかである。にもかかわらず、被告・都教委は『各地の教育委員会』とは異なり、この扶桑社歴史教科書をさらに2007年7月26日に2008年度開校の都立中高一貫校に採択しているのである。
これは被告・都教委が『各地の教育委員会』とは異なり、どこまでも日本の侵略戦争を否定し『自存自衛の戦争である』とする『右より過ぎ』の独善的イデオロギーに立つ『特定の歴史認識』を『絶対に正し』いと『生徒に押し付け』ようとしていることを証明するものであることを指摘しておきたい。
 2 同4に対する反論
(1)被告都教委は、「中学生を対象とする公教育(普通教育)の場においては、教師は、授業の対象者(生徒)が未熟な者であり、生徒の保護者の世界観、人生観(及び歴史認識)が様々であることを踏まえて職務(授業)に当たらなければならない」のであり、「原告の自己の歴史認識が正しいものであり、自己の歴史認識と異なると原告が判断した他者(A都議及びB社)を『歴史偽造』した者等であるとして生徒の面前で批難(誹謗)する行為は許されない」と主張する
(2)しかしながら、中学生の発達段階を「未熟」として決めつけることの誤りは、原告準備書面(8)第1、3(2)(20乃至23頁)において、詳細に述べているところであり、被告都教委は、この点に関する反論を全くせず、ただ、何の根拠もなく、中学生を「未熟な者」と決めつけていることは許し難い。
また、生徒の保護者の「世界観、人生観(及び歴史認識)」が様々であったとしても、憲法尊重擁護義務が課されている教育公務員たる教師は、日本国憲法の根本原理に沿った教育を行うことは当然の責務であることは再三述べているところであり、原告が古賀都議の議会発言、扶桑社の歴史教科書を批判したわずか数行の表現が「誹謗」などと評価されるものでないことは、前述したとおりである。
(3) 同時代社から出版されつつある徹底検証「新しい教科書」シリーズ(全5巻の予定で現在第3巻まで刊行されている)は、扶桑社の「つくる会」教科書を徹底的に批判しようとする試みである。その第1巻古代編(甲52号証)のあとがきにつぎのような記載がある。

「また一つ疑問なのは、なぜ「つくる会」教科書の全面的な批判が、研究者の総力をあげてなされないのかということである。「つくる会」教科書の記述は論ずるほどの価値もないほど、むちゃくちゃなものだというのだろうか。たしかにこの教科書の記述はひどい。雑と言っても良い。だがこの教科書がなした意図的な歴史改変を多くの人が受け入れてしまう危険が、今の日本には存在する。一つには、グローバリゼーションの進展の中で閉塞してしまった日本の状況。ここからの出口を求めて、日本ナショナリズムに走ろうという傾向が強く存在する。そしてこれは日本の歴史を美化しようという衝動を伴う。そしてもう一つは、日本における歴史教育の貧困により、「つくる会」のような意図的な歴史改変を見抜けない、国民レベルでの歴史の知識不足。このような状況を背景にして「つくる会」教科書市販本がかなり売れ、この教科書が実際に教育現場で使用されていく。
 この状況を座視するわけには行かないと思う。間違ったものはきちんと科学的に批判されるべきである。」

この著者の指摘はまさに正鵠を射ている。上記の記述にある「意図的な歴史改変」という表現と原告の「歴史偽造」という表現は同趣旨である。原告のように、「つくる会」教科書の「意図的な歴史改変」「歴史偽造」に対し警鐘を鳴らす者がいなければ、多くの人が受け入れてしまう危険があるのである。
上記著作のほかにも「つくる会」教科書を批判するものは多数ある。
そのうち、「歴史家が読む「つくる会」教科書」(甲53号証)、「こんな教科書子どもにわたせますか」(甲54号証)、「あぶない教科書」(甲55号証)、「ここが問題「つくる会」教科書」(甲56号証)を書証として提出する。これらを通読すれば、原告が扶桑社や「つくる会」を歴史偽造主義として批判したことが正当であり、かつ、必要なことであることがよく理解できる。

第2 同準備書面(5)第2に対する反論
 1 同第2,1(1)に対する反論
(1)都教委は、「原告の行為が非違行為を構成するとして本件戒告処分をなしているものであるし、原告の外部に現れた行動、態度を相互に有機的に関連付けて原告の教育公務員としての適格性の有無を判断している」と従来の抽象的な主張を繰り返すのみであり、何ら具体的な反論を行っていない。
(2)原告が主張していることは、これまで、原告は、生徒に対して、「歴史事実は、たとえ自国に都合の悪いことでも、隠蔽することなく、生徒たちに教えるべきである」という思想・信条(社会科教師としての教育的信念)に基づき、授業を行ってきたものであり、その教育的信念の現れが原告の授業そのものであって、原告の上記思想・信条(教育的信念)と密接不可分の関係にあること、そして、被告都教委は、かかる原告の思想・信条(教育的信念)と密接不可分の関係にある外部的行為(授業内容)を本件分限免職処分及び本件戒告処分の理由としているのであって原告の思想・信条(教育的信念)によって不利益処分を課していることが憲法19条に反するという点にある。
これらの点について、被告都教委は何ら反論らしい反論をなしていないのである。なお、後述するが、原告に対する本件研修において、原告の授業内容について反省を迫るような課題が出されていること(「侵略」「予言」のビデオを見せたことについて反省を迫っていることなど)自体、本件分限免職処分の本質が原告の教師としての教育的信念自体を問題にしてなされていることを如実に示していることを付言する。
2 同(2)に対する反論
(1)被告都教委は、原告の「原告がこれまで行ってきた紙上討論授業の内容、その教育的効果などからすれば、原告は教育公務員としての適格性を十分に備えている」との主張に対して、「原告の行った『紙上討論』授業自体が不当なものであると主張しているわけではない」とし、「本件プリント(乙ロ3)を生徒に配布し、その中でA都議及びB社を不適切な表現(歴史偽造主義者等)を用いて誹謗したことを問題としている」との主張を繰り返している。
(2)しかしながら、本件は分限免職処分という教師にとって死刑に等しい重大な処分をめぐる問題であり、地方公務員法28条所定の分限制度が「公務員の身分保障の見地からその処分権限を発動し得る場合を限定したもの」であり、とりわけ「処分が免職処分である場合には特別に厳密、慎重な考慮が払われなければならない」との判例(最判昭和48・9・14)の立場からすれば、原告の教師としての適格性の判断をするにあたり、原告の授業の実態、教育的効果の有無等も含めて考慮されなければならないことは当然である。
   この点、原告は、準備書面(8)第1,2(4〜19頁)及び同(9)第1、1乃至4(1〜15頁)において、原告の紙上討論授業の実態とその教育的効果の高さを詳細に論証しているが、被告都教委は全くこれらの点を考慮せず、22枚にも及ぶプリントの中のわずか数行の表現だけを問題にして、原告が教師として「不適格」であるとの判断を下しているのであって、「特に厳密、慎重な考慮」がなされた形跡は全くない。
   被告都教委は、原告を免職にせざるを得ないほど、原告が「教師としての適格性を欠く」と主張しているのであるから、教師の職責の中核である「授業」そのものについていかなる判断、考慮をなしたのか、具体的に明らかにすべきであるにもかかわらず、かかる点について何ら具体的な主張をなしていないこと自体、本件分限免職処分が違法かつ不当なものであることを自認しているに等しいのである。
 3 同(3)に対する反論
(1)被告都教委は、準備書面(5)5頁で、旭川学テ事件最高裁判決が「普通教育における教師に完全な自由を認めることは、到底許されないところといわなければならない」と判示していることから、「原告の『教授の自由』は『高度に保障されるべき』であるとの主張の失当たることは明らかである」と主張する。
(2)しかしながら、上記旭川学テ判決は、普通教育における教師に「完全な教授の自由」を認めることはできない、としているのみであって、どの程度まで、普通学校の教師に「教授の自由」を認めるべきであるか、ということについては言及していないことは明らかである。したがって、上記学テ判決の上記部分を根拠として、原告の主張を失当である、とする被告都教委の主張こそ、完全に的外れなものであって、失当であることは論を待たない。
 (3)なお、上記旭川学テ判決において、普通教育における教師に「教授の具体的内容及び方法について」一定の教授の自由を認めている根拠は、「教師が公権力によって特定の意見のみを教授することを強制されないという意味において、また、子どもの教育が教師と子どもとの直接の人格的接触を通じ、その個性に応じて行われなければならないという本質的要請」という2点に求められていることは原告準備書面(8)27頁において指摘したとおりである。
    一方、同判決が、教授の完全な自由までは認められないとしている根拠は、「普通教育においては、児童生徒にこのような能力(=教授内容を批判する能力―代理人註)がなく、教師が児童生徒に対して強い影響力、支配力を有すること」「普通教育においては、子どもの側に学校や教師を選択する余地が乏しく、教育の機会均等をはかる上からも全国的に一定の水準を確保すべき強い要請がある」という2点にある。
以上の旭川学テ判決の判示部分を総合すれば、普通教育の教師は、児童生徒に対する強い影響力や支配力を利用して特定の意見(価値観)の強制を行ったり、教育の機会均等の要請に反して全国的に一定の水準が確保できないような教授の仕方は許されないが、公権力による特定の意見の押しつけを拒否して教育活動を行うことや児童生徒の個性に応じて教授内容を工夫することは保障される、ということになる。
    これに加えて、原告準備書面(8)26、27頁に指摘したように、戦後初期に文部大臣を務めた田中耕太郎の「教員は『官僚的支配に服しない』自由を持ち、自己に『不羈独立の態度』が要求される司法と教育のプロフェッションとしての類似性から『これらの職業に従事する者は良心に従い独立であり、自由でなければならぬ点において一致している』」との指摘を合わせ考えれば、普通教育における教師の具体的教授内容や方法については、上記旭川学テ判決が指摘するような教授内容や方法でない限り、「高度な」教授の自由が保障されていると解されることは明らかである。とりわけ、上記田中の指摘が、明らかに、戦前の公教育が、官僚的支配の下で画一化したイデオロギー教育(天皇の神格化や軍国主義教育)の強制であり、これによってあの侵略戦争が推進されたこと、そして、その真摯な反省に基づいて、日本国憲法及び(旧)教育基本法が制定されたことを受けてなされていることからすれば、日本国憲法及び(旧)教育基本法の趣旨に沿った教育活動については、極めて高度な裁量権が教師に保障されるべきであることが優に認められるのである(この意味で、教師の教授の自由は、日本国憲法や教育基本法に拘束されることになる。)。
(4)以上を前提とすれば、本件戒告処分及び分限免職処分で問題とされている原告の紙上討論授業及びその際に配布された22枚にわたるプリントの中におけるわずか数行の古賀都議及び扶桑社の歴史教科書に対する批判文言の記載が、上記学テ判決に示された普通教育の教師の「教授の自由」の範囲内であることが明らかとなる。
まず、原告は、「教育の機会均等の要請に反して全国的に一定の水準が確保できない」授業は行っていないことは明らかである(被告都教委もこの点は全く争っていない。)。むしろ、学力という点においては、原告が教えた生徒は高い学力を保持している。
また、紙上討論授業における教授内容が特定の意見(価値観)の強制となっていないことは、「紙上討論授業を通して、一つのものに対し、さまざまな意見があるということがわかり、その一つのことから、さらに意見をふくらますことができた」「2つの相反する意見から、自分なりの意見を出すのが大事だ」「毎日、この新聞の内容を読み、気になる記事や変な記事があったら、それに対して、自分なりの意見を考えたい」といった九段中の生徒の紙上討論授業に対する感想からも明らかである(詳細は、原告準備書面(8)第1.2=4乃至19頁参照)。     加えて、かかる紙上討論授業が、改定された中学校指導要領の社会科の目標である「広い視野に立って、社会に対する関心を高め、諸資料に基づいて多面的・多角的に考察し」「国際社会に生きる民主的、平和的な国家・社会の形成者として必要な公民的資質の基礎を養う」ものであることもまた明らかである。
被告都教委が問題としている古賀都議の議会発言及び扶桑社の歴史教科書に対する批判文言についても、このような文脈の中で判断されなければならず、これが「教授の自由」の範囲内であることについては、原告準備書面(9)第1、3(4)・5〜7頁に詳細に述べているとおりである。
あえて、再論すれば、第二次世界大戦における日本(軍)のアジア諸国に対する侵略行為を「自存自衛の戦争」「アジア解放の戦争」とする歴史認識は、客観的な歴史事実及び日本の政府見解に反する誤った認識であることは多言を要しない。かかる歴史認識を有していることを明らかにした古賀都議の議会発言や扶桑社の歴史教科書について、「歴史偽造」であると批判し、古賀都議の発言について「国際的に恥をさらすこと」であると指摘することは、今日の社会において、国際的に活動する可能性を持つ生徒が、将来恥をかくことがないようにするためにも(仮に、アジア諸国において、大人になった生徒が「(第二次大戦について)アジア解放の戦争であった」などと公的な場で発言した場合、「恥」だけでなく、国際問題になりかねない。)、社会科教育として要請されるべきものであり、何ら問題視されることではないのである。
    以上から、原告の紙上討論授業という具体的教育内容や方法は、旭川学テ判決の趣旨からしても、教授の自由の範囲内のものであることは明白であって、分限免職処分という重大な処分の理由となるものではないこともまた、明らかである。
(5)また、被告都教委は、「原告は、自己の見解と対立する見解を有する者に対しては、自己の見解と対立する者が・・・都議会議員ないし会社であれ(または研修担当者であれ)、これを誹謗するという性向(独善的な性格)を有しており、・・・原告が行った授業の形式(紙上討論という形式)自体を不適格性の徴表事実としているわけではない」とする。
しかし、上記主張は、2重の意味で誤りである。
まず、誹謗とは「そしること、悪口を言うこと」(広辞苑第4版2180頁)を意味するが、原告の「歴史偽造主義者」等の表現は真実に基づく教育の要請に基づく正当な批判であるから、「そしること、悪口を言うこと」に当たらない。
また、原告も、被告都教委が紙上討論という「形式」を問題にしたとは主張していないのであって、あえて「形式」を取り上げている点は、明らかに誤りである。
原告は、紙上討論の中身、すなわち「教育の内容」を問題として本件戒告処分及び分限免職処分がなされたことの違法性を(旧)教育基本法10条等の観点から主張しているのである。
(6)さらに、被告都教委は、原告の「研修受講後の課題」に対する〈回答〉を引用して「まさに研修受講生としてあるまじき記述をなして東京都教職員研修施センター担当者を誹謗している」と主張するが、原告の「研修受講後の課題」に対する〈回答〉は、まさに被告都教委が「教育の内容」を問題としたことを告発したものである。
すなわち、原告は、「『本研修・違法』裁判において、同教委は、『研修』は『昨年度』の『増田教諭の授業内容=紙上討論とは関係ない』!?と言い張っていることをご存じないのか?・・・何故、いきなり、『千代田区立九段中学校で、昨年度、2年生にビデオ『侵略』『予言』を見せて、授業を行った理由」が出てくるのだろうか?笑うべし!?やっぱり、これが本・人権侵害懲罰研修の『真の目的』であった!?」と述べているが、これは、「侵略」「予言」という第二次大戦において日本(軍)が行った侵略行為及び原爆被害という歴史的事実を描いたビデオを教材として使用したことを問題にしてきた研修の実態が「教育に対する不当な支配」であるとして批判しているのであって、「誹謗」などというものでないことは明らかである。
なお、南京大虐殺等のビデオ(「侵略」)については、元中学校教師の森正孝氏が、中学生に見せることも想定して作成したものであり、生徒の「発達段階」を十分に考慮して作成されたものであることを付言する。
(4)同(4)について
 創立以来のILOの最も重要な機能の1つは、国際的労働基準を設定するため条約及び勧告を、三者構成(政・労・使)のILO総会において、3分の2の多数で採択することである。条約は、加盟国の批准によって、その規定の実施を義務づける拘束力を生じる。他方、勧告は、政策、立法、慣行などの国内措置の指針となる。そこには、当然国内法の解釈の指針となることも含まれている。
  すなわち、ILO憲章19条6項には以下のように記載されている。
  (a) 勧告は、国内立法又はその他によって実施されるようにすべての加盟国に審議のために送付する。
  (b) 各加盟国は、立法又は他の措置のために、総会の会期の終了後遅くとも1年以内に、又は例外的な事情のために1年以内に不可能であるときはその後なるべく速やかに、且つ、いかなる場合にも総会の会期の終了後18箇月以内に、勧告を当該事項について権限のある機関に提出することを約束する。
  (c) 加盟国は、勧告を前記の権限ある機関に提出するためにこの条に従って執った措置、権限があると認められる機関に関する細目及びこの機関が執った措置を国際労働事務局長に通知しなければならない。

    こうした条約や勧告による国際労働基準の実施状況の監視のために、ILOは、監視手続きを設けているが、これはこの種の国際手続きの中で最も進んだものである。この手続きは、常設の独立した国際法の専門家20名による義務履行状況の客観的評価(条約勧告適用専門家委員会)と、ILOの三者構成機関による個別案件審査(基準適用委員会)を基礎としているのである。
以上のようなILO勧告の法的性質・機能からすれば、ILO・ユネスコ「教員の地位に関する勧告」を前提に法律解釈を行うべきであるとの原告の主張の正当性は明らかである。
(5)同(5)について
 ア 地教行法38条1項について
被告都教委は、地教行法38条1項の「内申をまって」について、「内申の内容には必ずしも拘束されない」と主張する。しかし、わざわざ「内申をまって」と規定する以上は、内申の内容を尊重しなくてはならないことは当然である。
そこで、原告は、被告都教委に対し、次の点に関する釈明を求める。
●被告都教委は、千代田区教委の内申を受けて、いつ、どのような議論の下にそれをどのような理由で斥けて原告の分限免職処分を決定したのか、明らかにされたい。
かかる点を全く明らかにせず、単に「内申の内容には拘束されない」と主張するだけでは、被告都教委は、「特に厳密、慎重な考慮」(前掲最判)を要する分限免職処分を行うための手続的要請を遵守していないと言わざるを得ない。
  イ 分限条例3条3項について
原告は、分限条例3条3項に基づき、原告の司書教諭への転任が可能である旨主張した。
この司書教諭について、学校図書館法(昭和28年法律第185号)の第5条の第1項には「学校には、学校図書館の専門的職務を掌らせるため、司書教諭を置かなければならない。」と定められている。
このように、専門的職務を掌るものであるから、授業を担当することはその職務に含まれない。
したがって、司書教諭は「授業を担当するもの」だとする被告都教委の主張は、明らかに誤りである。
さらに、被告都教委は「原告の独善的性格は、そもそも公務員として不適格なものといわざるを得ない」とする。しかし、公務員として不適格かどうかは、その職務との関係で判断されるべきであるし、これまではそうした判断がなされてきている。「独善的である」という極めて一般的・抽象的な理由のみで公務員としての適格性を欠くとして分限免職となった例がないことは、後述するとおりである。
 6 同(6)について
(1)都における過去の分限免職処分等の事例について
 ア 都における過去の分限免職処分の事例の概観については、原告準備書面(8)第1,6(1)イにおいて述べたとおりであるが、このうち、地方公務員法第28条1項3号「前二号に規定する場合の外、その職に必要な適格性を欠く場合」(不適格)だけを理由として分限免職処分を受けたのは、原告を含め6件(2003年度3件、2004年度2件、2005年度1件)である。
そのうち3件は、指導力不足教員として認定された者である。これは、教師の職責の中核である「授業」そのものに問題があり、数年(通常3年)の長期研修をもってしても、「指導力」が向上しなかった、と判定されているものであって、「指導力」については何ら問題視されていない原告とは全くレベルが異なると言わざるを得ず、原告の場合をこれと同視することはできない。
また、他の1件は、体罰・暴行、職務命令違反を繰り返したと認められる者である。墨塗りの処分説明書から推測されるところだけでも、少なくとも15回にわたって職務命令違反を繰り返し、その内の1部は、無届けの自動車通勤を長期にわたって繰り返していたことが認められる。さらに、これに加えて、厳に禁じられている体罰・暴行事件が加わっているのであって、教員として不適格であることが明白な事例である。
   さらに、他の1件は、学校事務員が不適切な会計処理を行ったというものであって、教員の場合と比較できるものではないが、横領的な行為が推測される事例であって、これまた職の不適格性が明白なものであることに変わりはない。
これらの他の5件に比較して、原告の場合、教師の職責の中核である「授業」そのものについては何らの問題もなく、むしろ学力保障という面でも優秀であり、「紙上討論授業」についても多くの生徒や保護者から高い評価を受けていることはこれまで述べてきたとおりである。さらに、「度重なる不適切な言動」なるものも、問題とされているのは、結局の所、1997年度(平成9年度)の足立十六中時代の事件とそれから8年もの時を隔てた2005年度(平成17年度)の九段中における古賀都議及び扶桑社に対する批判を行ったことだけである(処分説明書に記載されている事項は、上記2つの事件に派生したものである。)。
つまり、他の5件は、明らかにほとんどの保護者や生徒との間において教師としての信頼関係を長期間にわたって喪失していたり、刑法上の問題ともなりかねない事例であることが容易に推認されるのに対して、原告の場合は、都教委という公権力にとって都合の悪い言動(九段中での古賀都議及び扶桑社に対する批判)だけを理由として分限免職処分としたものであって、被告都教委の裁量権の逸脱濫用の程度は著しく、不当かつ違法な処分であることは、余りにも明白である。
  イ さらに、小学校の副校長が、一般教員時代の2002年6月頃から2003年10月頃までの間、繰り返し女子児童の身体を自己の身体に引き寄せるというセクハラ行為を行っていた上、副校長になった2007年6月から同年9月までの間、複数の女子児童に対して腰付近をさわるという行為を繰り返し行っていた、という事例があった。本来、これは痴漢行為というべき犯罪行為である。にもかかわらず、これについては、被告都教委は、本年(2008年)4月30日付けで停職6ヶ月という処分を発令している。
    被害に遭った女子児童らの精神的被害を考えた場合、かかる行為を何度も繰り返し行っていた副校長に停職6ヶ月という処分にとどめたこととも比較しても、原告の分限免職処分がいかに重きに失したものであるかは、優に認められるところである。
(2)原告に対する研修処分の「思想改造」性について
  ア 被告都教委は、「本件研修は、・・『学習指導法の改善に関すること』等を目的としているのであり、本件研修を『思想改造教育』であると主張すること自体、原告の教育公務員としての不適格性(独善的性格)を徴表するものである」と主張する。
  イ しかしながら、いやしくも、「研修命令処分」に基づく「研修」の目的は、本来、「教師としての指導力や資質・スキル・適格性の向上のための研鑽」であるべきものであり、研修内容も、例えば、「より高度の指導力・資質・スキル・適格性を有する教育に関する有資格者による指導や講義の受講」等、当然、かかる研修目的に即したものであるべきである。
   しかしながら、原告に対し課せられた「研修課題」の内容は、いずれも、原告の思想・信条、信念・良心の変更・改造を迫るものであり、到底「研修」の名に値するものではなかったことは、これまでも再三にわたり主張立証しているところであり、ここでは、最低限のことについて反論することとする。
    例えば、2005(平成17)年12月6日の「研修受講後の課題」としては、「千代田区立九段中学校で、昨年度、2年生にビデオ『侵略』『予言』を見せて、授業を行った理由は何か。また、本日の研修を踏まえ、こうした教材の使用についてどう考えるか。」というものであり、あたかも、原告が、授業の教材として「予言」、「侵略」といった教材を使用したことが責められるべきことであるかの如く、指摘されていることが優に認められる。
また、同月7日には、「『教材等の作成及び使用に当たっての配慮事項』の研修における事前課題」と称して、「1 千代田区立九段中学校において、平成17年6月末頃から7月初め頃までに、あなたの個人的見解で特定個人や団体等を誹謗中傷した箇所がある資料を生徒に配布して授業を行った理由及び教育公務員としてのあなたの考え方について述べなさい。2 ノ・ムヒョン大統領の演説の全文を載せた教材プリントを生徒に配布し、ノ・ムヒョン大統領に手紙を出す、といった授業を行った理由及び教育公務員としてのあなたの考えについて述べなさい。」という設問が出されている。そもそも、上記のような「課題」を「研修」の場で原告に課すること自体、原告の授業内容、思想・信条を否定的なものとして捉え、これに対する「反省」「改悛」を求めていることは明らかである。したがって、その「研修」目的は、専ら、原告の教育現場における授業内容、思想・信条を問題視し、原告に「思想改造」を迫ることにあったことは優に認められる。
    そして、こうした研修内容に対し、原告が「イヤガラセ研修」と批判・抗議したことについては、同年11月30日、「昨日の研修内容を踏まえ、以下についての考えを記述して下さい。」として、「3 あなたが、所長に対する「要求書」の中で、たびたび都研修センターにおける研修を「イヤガラセ研修」と記述していることについて、(1)書いた理由は何か。(2)このことを教育公務員としてどのように認識しているか。」という内容の「研修受講後の課題(2)」が出されている。かかる課題の内容からしても、本件研修命令処分の目的が、都教育委員会による原告攻撃・バッシングと「思想改造」にあったことは明らかである。

以   上