平成19年(ネ)第2856号 損害賠償請求控訴事件
控訴人(一審原告) 増  田  都  子
被控訴人(一審被告)土  屋  敬  之  外3名

準 備 書 面(1)
2007年10月11日

東京高等裁判所第7民事部  御 中

控訴人(一審原告)訴訟代理人
                    弁護士   和久田 修

第1 一審被告ら控訴理由書に対する反論
 1 一審被告ら「控訴理由書」第1「原判決の根本問題」に対する反論
(1) 一審被告ら(以下、単に「被告ら」という。)は、その控訴理由書第1において、「原判決の根本問題」として、@原判決が、本件書籍が教育を憂える弾劾告発の書であることを見落としていること、A原判決は、「公正な論評」の法理に関する適用解釈を誤り、論評内容の正当性や合理性を審査し、免責を否定していること、B論評の対象となった一審原告(以下、「原告」という。)の紙上討論の異常さ、そしてそこで使われていた煽情的ともいえる激越さと侮辱的表現を見落としていること、すなわち、原判決は、そのような原告の取った表現とのバランスを全く無視していることを主張している。
 上記のうちAの点は、次項2に譲るとして、@Bの点は、それこそ、被告らの「唯我独尊」性、「偏向」性、「攻撃」性を示すものであるとしか言いようのないものである。
 以下、検討する。
(2)  上記@の点について
被告らは、「本件書籍は、『足立十六中事件』と呼ばれる教育現場で発生したある異様な事件(略)をきっかけに明らかになった『紙上討論授業』という生徒達を原告が立つ政治的立場に誘導する原告による教育手法の実態・・を広く国民に告発する書であった」とし、いわゆる「足立十六中事件」は、「きっかけ」であり、原告の「紙上討論授業」を攻撃することが主たる目的であったことを自ら認めた上で、本件書籍の正当性を強調している(なお、被告らのいう「足立十六中事件」については、被告らが言うように、アメリカ国籍を持つ女生徒の母親を批判するプリントー乙1の1枚目・以下、「本件プリント」というーを配布したことで当該女生徒を登校拒否、転校にまで追い込んだ、ということができないことについては、原告控訴理由書第3において述べたとおりである。)。
 そして、被告らは、本件書籍において、一貫して、原告の紙上討論授業を「洗脳教育」「マインドコントロール」「偏向教育」という「論評」(の域を逸脱した誹謗中傷)を行っているが、原告の紙上討論授業が、いかに教育的効果が高く、教育基本法、学校教育法第8条の趣旨に則ったものであるかということについては、原告控訴理由書第1,同第2において詳論したところである。これを改めて敷衍するならば、次のとおりである。
 すなわち、「原告は、あくまでも日本国憲法の根本原理である平和主義、国民主権、基本的人権の尊重、とりわけ世界でも類を見ない戦争のための軍備を全て放棄する、という憲法第9条の平和主義の戦争否定の思想に基づいて、授業―とりわけ紙上討論授業―を進めてきたのである。言うまでもなく、日本は立憲民主主義の立場を取っており、戦争の否定という一定の立場(ないしは価値観)に立った憲法の下で民主政治を行っているものであって、憲法の立場に立った教育を進めることは、「政治的対立」のレベルで「特定」の立場に立って教育を行うことと決定的に異なる」(原告控訴理由書4頁)ということである。かかる立場に立って、生徒達に「良識ある公民たるに必要な政治的教養」(教育基本法第8条1項)を涵養することを目的として授業を行うことが否定されるのならば、日本国憲法下における「教育」自体が成立しないことになってしまうのである。
 そして、原告の紙上討論授業が、いかに上記のような目的に沿ったものであるかを立証するためには、現実に、原告の紙上討論授業を受けた生徒達の感想を確認することがもっとも端的かつ的確である。これらの生徒達の感想は、原告控訴理由書第2においても多く紹介しているところであるが、ここでは、原告が足立十六中に勤務する前に勤務していた足立十二中における紙上討論授業に対する生徒達の感想(乙33)を若干紹介することとする。
 「この紙上討論で、大キライな社会(公民)が少し好きになった。私が意見を書いて出したのは数えるしかなかったケド、みんながどういうふうに思っているか、考えているかが分かって良かった」(乙33・2枚目)
 「・・・・もし十二中でなかったら社会(歴史、政治)のホントウのことを知ることができなかったと思うので、十二中で勉強できて良かった。日本がアジアやその他の国の人達と仲よくできる未来になってほしいし、私もできればそれに協力したい」(同8枚目)
 「今まで、自分は何か一つのことについて、よく考え、意見を出し、それを言葉に書き表し、他人に伝えるということをしたことがなかった。紙上討論授業は、こういったことのきっかけを作ってくれたと思う。政治に参加できる年になったら、この経験を生かして自分の意見をハッキリ言える大人になりたい。」(同8枚目)
 「こういうこと(紙上討論―代理人註)をやって、自分が今までに知らなかった意見や事実を知ったので、僕が社会に出るためにとても役に立つと思う。」(同9枚目)
 「最初、新聞みたいに都合のいい意見ばかり載るのかなと思ったけど、けっこう反対意見なども載っていて、バランスが良かった。先生の気に入る意見を書けば成績がよくなるというのでもなくて良かった。」(同9枚目)
 これらは、ごく一部のものであるが、生徒達が、紙上討論授業によって、社会科(歴史・公民)に対する意欲・興味が増し、国際性を身につけるべきことを意識し、政治的教養を身につけ将来民主社会の構成員として恥ずかしくないようにしようという意識を持つに至ったことが優に認められるのである(さらに、原告が特定の立場の意見だけを尊重しているわけではないことも認められる。)。
これを「洗脳」「マインドコントロール」「偏向教育」などと論評することは、その前提事実において一片の真実性もなく、また、「論評としての域」を著しく逸脱していることは余りにも明らかである(後述するが、前提事実と論評との間に合理的関連性も認められない。)。
 もとより、民主主義社会における論評・批判の重要性は言うまでもないことであるが、上記のような事実からすれば、「本件書籍が教育を憂える弾劾告発の書」であるとして、被告らが主張する正当性自体、到底認められないことは明らかであり、これをもって原判決を批判することは失当である。
(3)  上記Bの点について
 被告らは、さらに、論評の対象となった原告の紙上討論の異常さ、そしてそこで使われていた煽情的ともいえる激越さと侮辱的表現を見落としていることに加え、本件書籍は「被告ら三都議の主導によって漸く都教委が下した処分に対する原告からの激しい反駁に対する再批判という意味において対抗性・応酬性をもって」いるにもかかわらず、原判決は、そのような原告の取った表現とのバランスを全く無視している、と主張する。
 しかしながら、原告が紙上討論授業において、保護者や生徒に対して用いてきた表現の中で、被告らが「煽情的」「侮蔑的」と指摘しているのは、本件訴訟の中に書証として提出されている膨大な紙上討論のプリント(乙1,30乃至33)の中でも、乙1の1枚目のほか、わずか数カ所にすぎない。
 原告は、1年間の紙上討論の最終回において、生徒達に次のような言葉を書き綴っている。
 「・・・『力無きを恥ずるな 努力無きを恥じよ』・・・ではあなた達どんなところに努力できるでしょうか?『考えること!!!』です。どうぞ日本の政治について世界の政治について、考え続けてください。新聞を読んでください、いろいろな本を読んでください。そして、将来、日本の主権者である市民となったとき、日本国憲法を守るために、自分の権利と他人の権利を守るためにできる行動はしていってください。」(乙33・3枚目)
 原告が紙上討論を通じて生徒達に送ってきたことは、まさに上記のコメントに集約されているのであり、生徒達は、原告のかかる想いを受け止め、前述したような感想を書くに至っているのである。まさに、教育とは人格と人格の直接的な触れあいによって成立するものである、という旭川学テ判決の趣旨が現実に体現しているものと評価できるものである。
 また、本件プリント(乙1の1枚目)の表現は、当該女生徒の母親やPTAの対応を全く原告に知らせなかったという特殊な状況(母親らが原告を批判するPTA集会を開催したことを校長らは全く原告に知らせていなかったことなど)の中で、生徒達に分かりやすい言葉で書いたものであって、これだけを見て、紙上討論授業全体を誹謗することは、まさに「木を見て森を見ず」の類であることは明らかである。
 さらに、被告らは、本件書籍が、「対抗性」「応酬性」を有している、というが、被告らが攻撃している原告の紙上討論におけるコメントはあくまでも生徒に向けて発しているものであり、第三者である被告らに当事者性はなく、本来、「対抗」「応酬」という概念は成立しない関係にある。また、被告らのいう「都教委の下した処分に対する原告からの激しい反駁に対する再批判」という意味で、「対抗性」「応酬性」を主張している点についても、誰に対しての「原告からの激しい反駁」であるのかすら不明である上、原告からの「反駁」の内容は、本件訴訟において、何ら立証されていない、というべきである。
 加えて、原告が都教委の処分に対して反発していたとしても(これも直接は処分者である都教委に対してである。)、一教育公務員にすぎない原告がビラ等で行う言動と都議会議員という社会的地位のある者が公刊物(単行本)という形で流布する言動とは、その影響力において天地ほどの差があることは明らかであって、その意味で、影響力が格段に強い被告らが、バランス論を持ち出し、原判決を批判することは失当であると言わざるを得ない。

 2 同第2「全体的考察」に対する反論
(1) 被告らは、その第2「全体的考察」の項において、@原判決は、「公正な論評」の法理に関する適用解釈を誤り、論評内容の正当性や合理性を審査し、免責を否定していること、A原判決は、本件各表現の不法行為性を恣意的に判断していること、B論評の対象となった原告の紙上討論の異常さ、そしてそこで使われていた煽情的ともいえる激越さと侮辱的表現を見落としており、原判決は、そのような原告の取った表現と本件各表現とのバランスを全く無視していること、C原判決が本件各情報について一部プライバシー侵害に基づく不法行為を認容したのは、国民に保障された公務員罷免権の行使に関する公共言論の必要性・重要性を忘れているものであることを主張している。
しかしながら、上記主張のいずれも、被告らの敗訴部分について原判決の判断を無理矢理に否定するものであって失当であると言わざるを得ない。
以下、検討する。
(2) 上記@の点について
被告らは、「公正な論評」の法理に基づいて、原判決について、判断すべきでない論評の正当性や客観性を審査して、不法行為性を認めている、と非難している。
 しかしながら、我が国の裁判実務においては、判例上、そのようなことを踏まえた上で、ある事実を基礎としての意見ないしは論評の表明による名誉毀損の成否を判断するにあたって、@論評が公共の利害に関する事実にかかること、A論評の目的が専ら公益を図るものであること、Bその前提としている事実が主要な点において真実であることの証明があるか、または、真実と信ずるについて相当の理由があること、C人身攻撃に及ぶなど意見ないし論評としての域を逸脱したものでないことの各要件を満たせば、論評による名誉毀損は免責されるとしているのである(最判昭和62・4・24民集41・3・490、最判平成元・12・21民集43・12・21、最判平成9・9・9判時1618・52、乙2等)。
 そして、原判決も上記の判断枠組の中で本件各表現について判断していることは明らかであり、そのこと自体について非難することはできない。
 また、被告らの主張するとおり、論評の合理性(正当性、客観性)は問われないとしても、当然のことながら、「論評とその前提事実との間には合理的関連性がなければならない」と解される(乙52・259頁参照)。イギリスの判例においては、「前提とした事実は真実であるけれども、その事実が論評を裏付けるものではない場合」(論評と前提事実との間の合理的関連性を欠く場合―代理人註)には、公正さを欠く(論評としての域を逸脱しているー代理人註)とされている(乙52・261頁)。また、公人について、「暗愚」とか「無能力」などというのは許された批判であるが、「悪者」とか「誠実を欠く」、「嘘つき」などというのは人身攻撃であるというようである(乙49・628頁)。
 被告らが原判決を論難している「論評の正当性・客観性を審査している」というのは、結局のところ、上記のように、論評と前提事実との合理的関連性を欠き、その結果、論評としての域を逸脱している、と原判決が判断している部分であり、被告らの非難には理由がないことは明らかである(詳細は、本件各表現に関する各論の部分で検討する。)。
(3)上記Aの点について
 この点については、前提事実の真実性の認定判断、論評と前提事実との合理的関連性の判断に係るものであり、原告としても、本件各表現のうち、名誉毀損性自体が否定されているもの、その違法性が阻却されているものについては、控訴理由書で原判決の判断の誤りを述べているところであり、総論的に論難することに意味はないものというべきである。
(4)  上記Bの点について
 この点については、前記1、(3)において述べたとおりである。
 付言するならば、被告らは、東京地判平成8年2月28日が示した「論評としての域を逸脱するか否かを判断するに当たっては、表現方法が執拗であるか、その内容がいたずらに極端な揶揄、愚弄、嘲笑、蔑視的な表現にわたっているかなど表現行為者側の事情のほか、当該論評対象の性格や置かれた立場など被論評者側の事情をも考慮することを要するというべきである」との部分を引用し、自ら本件各表現が、「激越かつ辛辣」(原告から見れば、「極端な揶揄」「愚弄」「蔑視的」な表現である)であることを認めた上で、被論評者である原告の一部の表現を引き合いに出し、これを「被論評者側」の事情として、その免責を要求している。
 しかしながら、前記1(3)において述べたように、原告は、紙上討論授業において、莫大な労力と情熱を傾注して、大量のプリントを作成し、生徒達を指導してきたことは明らかに認められる(乙1,乙30乃至33参照)。むしろ、「このような対象を批判するに当たっては、その表現方法や表現内容についても、それなりの節度を要求してしかるべきである」との指摘が当を得ているのであって(乙52・261頁)、これらを無視した本件各表現の「極端な揶揄」「愚弄」「蔑視的」な表現が免責される範囲は厳格に解されるべきである。
(5)  上記Cの点について
 被告らは、原判決が本件各情報について一部プライバシー侵害に基づく不法行為を認容したのは、国民に保障された公務員罷免権の行使に関する公共言論の必要性・重要性を忘れている、と主張する。
 しかしながら、本来、プライバシー権の侵害と公務員罷免権の行使とは全くその性質が異なるものであり、当該公務員のプライバシーを侵害しなければ、公務員罷免権を行使できないというものではないことは明らかであって、この点のみをもってしても、被告らの主張は失当である。
 ましてや、原告の控訴理由書に述べたとおり、被告らが得た原告個人に関する本件各情報は、都教委が「東京都個人情報の保護に関する条例」に違反して違法に、被告らに開示したものであり(甲42)、かかる個人情報を当該である原告本人の意思に反して広く公衆に晒される書籍の形で公開することなど到底許されるものでないことは火を見るより明らかである。
 以上から、被告らのこの点に関する主張も全く理由がない。

 3 同第3「各表現の個別的考察」に対する反論
(1) 第2表現について
 被告らは、原判決が、第2表現について、名誉毀損の成立及び違法性を阻却しなかったことについて、@原判決は、論評の正当性・客観性を審査しており、「公正な論評」の法理に反する、A原告の紙上討論授業を「洗脳教育」とした論評は全く正当なものである、B被告らの非難・弾劾には正当性がある、C被告らの非難は、人身攻撃には当たらない、と主張している。
 しかしながら、まず、原告が控訴理由書で詳細に主張しているように、原判決が基礎事実として認定した「原告が紙上討論授業において政治的対立のあるテーマを題材として選び、これについて特定の立場に立って授業を主導していた」事実自体、誤りであると言わざるを得ない。再三、述べているように、原告は、日本国憲法の根本原則である平和主義、国民主権、基本的人権の尊重という立場に立って紙上討論授業を進めていたのであり、「特定の政治的立場」に立っていたものではなく、むしろ立憲民主主義の立場から言えば、教師としての義務を忠実に遂行していたものと評価できるのである。
 第2に、仮に、原判決が認定した基礎事実を前提にしたとしても、その基礎事実と本件第2表現との間には合理的関連性が認められないことは、原判決が指摘しているとおりであり、同判決は、その立場から、「論評の域を逸脱している」と判断したものであって、何ら誤りは認められない。すなわち、「洗脳」という言葉は、人に対して、繰り返し、ある思想を教え込んで、その人の思想を根本的に変えさせることを意味しており、そのやり方としては、その人を24時間管理して、強制的に思想を変えさせる、という意味を有すると捉えられていることが一般的である。紙上討論授業は、わずか月に1,2回、50分の授業で行われるものであり、到底、「洗脳」という言葉と合理的に関連するものではないことは明らかである。したがって、被告らの反論は、この点においても失当である。
 第3に、被告らは、公立中学校の教諭は、政治的議論に未熟な状態にある生徒に強い影響力を有することから、原判決も「教育現場もおいては政治的中立性を求められる」と認定しており、かかる非難・弾劾は、社会的に見ても相当な正当性があるとするが、紙上討論授業を受けた生徒達の文章を見ても、中学生に一定の判断力、批判力があることは明らかであるし(乙2参照)、むしろ、「今まで教えてもらえなかった事実を知って、物事を深く考えることができるようになった」「他の生徒の考えを知って、自らの考えを変えるきっかけになった」というような感想が圧倒的に多いことを見ても(乙1、33参照)、生徒達が思想改造(=洗脳)というような影響下にあったと認めることはできない。さらに、生徒達に今まで知らなかった事実を教えられることは、むしろ、生徒に対して多角的な視点を与えることであって、真の意味での「中立性」が認められることは多言を要しないところである。
 第4に、「洗脳教育」という言葉が、前述した基準から言えば、人身攻撃に当たらない、とも言うことができるが、本件書籍全体に通じる趣旨及び「洗脳」という言葉が、一般的には、オウム真理教の麻原彰晃などを連想させる効果を有することからすれば、人身攻撃に当たる、と言うことができる。
(2) 第3表現について
 これについても、(1)において述べたところが妥当するのであって、原判決が「アジテーター」との論評の基礎事実として「原告が紙上討論授業において、原告の政治的立場に沿った参考資料を多く提供し、原告の政治的思想に反対する意見を持つ生徒に対してはさらに原告の立場に沿った参考資料を提供し、生徒に自己の政治的思想に近い意見を形成するように誘導していた事実」を認定したこと自体、誤りであることは、控訴理由書で詳細に述べたところであり、前記(1)において述べたように、原告は、生徒達が今まで触れることの無かった資料を提供し、多角的な視点を与えているのであって、これを「原告の立場に沿った」ものと評価することは誤りである。
 仮に、上記基礎事実を前提としても、原判決が正しく認定しているように、「教師とアジテーターとは全く異質の表現であり、・・・・教師としての論評をするという趣旨を逸脱している」、すなわち、基礎事実と論評との間に合理的関連性が認められず、人身攻撃に渡っていることは明らかであって、被告らの主張は失当である。
(3) 第4表現について
 この点についても、原判決の判断に誤りはない。現実に、原告は、紙上討論授業において、(原告の立場に反する、というのではなく)生徒達の意見の中で、異なる立場に立つ意見を取り上げており、全く事実に反する記述であることは明らかであって、その真実性も相当性も全く認められないのである。
よって、被告らの主張には全く理由がない。
(4) 第5表現について
 この点も、上記(1)、(2)で述べたように、原判決の指摘した基礎事実自体に誤りがあることは、控訴理由書で指摘したとおりである。
 仮に、上記基礎事実を前提にしても、これと「洗脳テクニック」と論評することとの間には、全く合理的関連性が認められないことは、原判決が正しく認定しているとおりであって、被告らの主張は失当であることは明白である。
 また、上述したように、生徒達は、紙上討論授業を通して、今まで知らなかった事実に触れ、他の生徒達の考えを知ることの中で、主体的な思考を行ってきたことは紛れもない事実であって、これを「洗脳テクニック」と論評することは、教育の本質を否定するに等しく、到底、論評の域にとどまるものということはできない。
(5) 第6表現について
 この点について、原判決が基礎事実として、「原告が紙上討論授業において、天皇の戦争責任について触れた資料を用い、天皇の戦争責任を肯定する立場から授業を主導した」との基礎事実は、原告控訴理由書に述べた範囲で正しい。すなわち、原告は、控訴理由書において、「・・天皇の戦争責任の問題についても、日本国憲法自身が、日本が行った先の侵略戦争を否定したところから出発している事実(憲法前文)と憲法自らが否定している先の侵略戦争(太平洋戦争)の当時の最高責任者である天皇(ないしは天皇制)がその責任を曖昧にしたまま、現憲法においても「象徴天皇(制)」として認められていることとの関係を直視することは日本の民主主義のありようを直視することであり、この問題を生徒に考えさせる(紙上討論の題材とする)ことは、教育上尊重されるべき「良識ある公民たるに必要な政治的教養」(教育基本法第8条1項)を涵養することに大いに資することは明らかであり、これもまた、日本国憲法の平和主義の由来と深く関わる問題である。日本国憲法の根本原理である平和主義の立場から上記のような問題を紙上討論授業で取り上げ、さらに平和主義と一見矛盾する問題に対して教師として一定の批判的な立場を取ることは当然のことで」ある、と述べているが、これに加えて、現実に、日本国憲法の平和主義の立場から、天皇の戦争責任を肯定する立場は一定の影響力をもって存在しているのにもかかわらず、現状の歴史公民教育の教科書の中で、この点に触れているものは皆無であるといってよい。そのような中で、上記のような天皇責任を肯定する見解を生徒達に紹介することは、多角的なものの見方を養い、批判的精神を涵養する、という意味において、教育上有益なものであることは明らかである。
 そして、このような正当な教育活動(教師に、一定の教育の自由が認められることは旭川学テ判決が明らかにしているところである。)に対して、「反皇室思想を植え付ける」という論評は、全くの的外れであり、上記基礎事実と論評との間において合理的関連性を欠くものであることは原判決が正しく認定するとおりである。
 したがって、被告らの主張は失当である。
(6) 第8表現について
 この点についても、原判決が認定した基礎事実には、前記(2)において指摘した誤りが認められる。
 仮に、原判決が認定した基礎事実を前提にしたとしても、その基礎事実と本件第8表現との間には合理的関連性が認められないことは、原判決が指摘しているとおりであり、同判決は、その立場から、「論評の域を逸脱している」と判断したものであって、何ら誤りは認められないことも同様である。
 また、「唯我独尊」と断定することは、原告を愚弄するものであって、人身攻撃に及んでいることもまた、原判決が認定したとおりである。
 なお、被告らは、「この二人が目指す教師像」とは、「はっきり自己の政治的立場、思想を教育に持ち込む教師」であるとするが、それこそ原告らを「愚弄」するものにほかならない。被告らが引用している島袋善祐氏の言葉は、「正しいことは正しいと教えてほしい」と結ばれているのであって、このようなことを言えない教師こそ、教師の適格性を問われるものであることは明らかである。
 したがって、被告らの主張は失当である。
(7) 第9表現について
 原判決が認定した基礎事実には、原告控訴理由書及びこれまで述べてきた点から、それ自体誤りであるが、仮に、上記基礎事実を前提としても、上記基礎事実と第9表現との間には合理的関連性が認められないこと、「確信犯」という言葉が、原判決の言うように、「通常犯罪者に対して用いられる語である以上、一般人の理解からすれば、道徳的・宗教的若しくは政治的な確信うぃ決定的な動機としてなされた犯罪に対して用いる語であると認められる」ものであるから、これが人身攻撃に及んでいることは明らかである。
 被告らは、確信犯の語彙として、「ある行為がもんだいをひきおこすことをあらかじめ分かっていながら、そのようにする人」としての意味もあるから、論評の範囲内であるとも主張するが、一般人の理解及び本書籍全体の趣旨からすれば、明らかに、原判決が認定した意味に用いられているから、被告らの主張は失当である。
(8) 第10表現について
 この点については、原告控訴理由書において述べたとおり、原告が、「減点」を行うのは、全く紙上討論授業における生徒達の意見の内容とは無関係のところでのものであって、その基礎事実自体が全く異なる。
また、仮に、上記基礎事実を前提としても、上記基礎事実と第9表現との間には合理的関連性が認められないこともまた明らかである。
(9) 第15表現について
 この点については、原判決が認定するように、事実摘示自体、真実性がなく、当然違法性が阻却されないことは明らかである。
この点については、原告控訴理由書や本書面で引用した生徒達の感想(乙1、乙33)を見れば一目瞭然である。
(10) 第23表現について
 これについても、原判決が正しく認定したとおりであり、特に付加する点はない。
(11) 第27表現について
 前記(2)において述べたところと同様であり、原判決の認定した基礎事実自体、誤っているが、仮に、この基礎事実を前提としても、これを「増田教諭が行ってきたマインドコントロール授業」と論評することは、基礎事実との合理的関連性を欠いていることから、「論評の範囲を逸脱した」ことは明白である。
したがって、被告らの主張は失当である。
(12) 本件第2乃至4情報について
 この点については、前記2(5)において述べたとおりであり、仮に、被告らが、原告の罷免を求めるという論評活動の一環であったとしても、都教委から違法に入手した原告の個人情報を、原告の意に反して、公衆の面前に晒した違法性はきわめて強いことに変わりはない。
 被告らの主張には理由がない。

第2 原判決の誤り(補論)
 1 原判決は、その56頁において、「教育研究所における研修は、都教委から指導力不足等と評価された教員に対してされるものである。」、「本件第3情報は、・・・・教育研究所での研修を命ぜられる者は教師としての指導力が不足していると都教委から評価された者であることからすれば・・」と、原告に対して科された研修が、「指導力不足」と評価されてのことである、と認定している。
 この点は、判決の結論に直接影響はないものの、重大な誤りが認められるので、指摘しておくこととする。
 2 原告が命ぜられた研修は、原告が「指導力不足」と認定されたことを理由として行われたものでないことは、研修を命じた区教委、都教委が別件訴訟で明らかにしているところである(後に書証を提出する。)。
 区教委、都教委は、原告を指導力不足と認定することはさすがにできず、苦し紛れに、「その他の研修」という位置づけで、研修を命じているのである。
 ただし、一般人からすれば、「研修」と言われれば、「指導力不足教員」として認定された、と理解するであろうから、その意味においては、本件第3情報が原告の意に反して開示されたことは、きわめて重大なプライバシー侵害に当たることには変わりはない。

                  以  上