弱者の「表現の自由」と強者の「表現の自由」 1/3

檜原転石さま

増田です。

> 「現存する最高責任者の暗殺映画は表現の自由といえるのですか?」の問い

> 地球上の最強のテロ国家アメリカにいて作る弱国である北朝鮮指導者の暗殺映画

> と、増田さんが持ち出した深沢一郎の『*風流夢譚*』とは

> 比較対照になるかということです。

 あのぉ・・・私は、石垣さんが、 最初、「現存する最高責任者」に対しては、「表現の自由」を自粛するべきだ、と主張された・・・そのように書かれてはいませんでしたが、文面からはそのように思えたので・・・そこで、日本帝国、 檜原さんが言われる日本低国の「最高責任者」だった方の暗殺(首をちょんぎった)「風流夢譚」を思い出した、ということです。

 つまり、石垣さんの最初の主張に合わせて「日本の天皇の暗殺小説(映画)」についても、「北朝鮮指導者の暗殺映画」ついても、差別なく、「表現の自由」は保障しなければならない、と主張しました。相手の地位・身分によって、「表現の自由」を縮小したり、拡張したりするのは誤りだと考えるからです。

 「弱者の『表現の自由』と強者の『表現の自由』」というテーマになると、話は変わってきます。

> よって「表現の自由」によって米国で作る北朝鮮の指導者の暗殺映画を支持す る人間は、

 もしかして、違っているかもしれませんが、増田サンも「『表現の自由』によって米国で作る北朝鮮の指導者の暗殺映画を支持す る人間」と見られているのなら、私は、そんなことは全く書いていない、ということを申し上げておきます。

 私は、自分が見てもいない映画については、「支持する」とも「支持しない」とも言えません。

 私は「『表現の自由』によって米国で作る北朝鮮の指導者の暗殺映画の」上映「を支持す る人間」です。

>少なくとも日本においては、天皇に関しても

> 「表現の自由」を駆使していなければ矛盾が生じてしまいます。まあ矛盾を感じ

> たなら、私の「件名」に行き着くはずです。

 ここ、ちょっと、理解しにくい表現なんですが、「天皇に関しても『表現の自由』を駆使して」いれば、矛盾は生じず、 「弱者の『表現の自由』と強者の『表現の自由』」ということは問題にならない、ということでなのでしょうか。

 以下は他のMLの中での石垣さんに対する返信ですが、転載させていただいてもおしかりは受けないだろうと勝手に確信し、ご紹介させていただきます。

 「弱者の『表現の自由』と強者の『表現の自由』」を考えるときに、少々、参考になるかと・・・檜原さんには「ちっとも、参考にならない」と言われそうですけど(笑)。

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 この映画の場合での、「表現の自由」と権力との関係ですが、御存じのようにこの「最高責任者」が支配している国では、この人は自由に人を殺すことのできる絶対的独裁者で、一般国民には「表現の自由」は一片も与えられていません。もし万一この映画が同国内に入って、それを見た人がいれば、多分間違いなく「公開処刑」になるでしょう。

 このように北朝鮮国内ではこの「最高責任者」は絶対的権力を握っていますが、アメリカやその他の外国でのこの映画の上映は許容するというのなら、北朝鮮国外での「表現の自由」の問題は起こらないでしょう。

 しかし、アメリカでの上映に対してテロを示唆して脅迫し、実際に映画会社が一時は配給を中止したのですから、ここに生じているのは、北朝鮮の支配権力と対峙しての「表現の自由」の問題だと思います。

 「表現の自由」は国境を越えた世界的問題として捉えられなければならない問題になっています。

 この「最高責任者」は、北朝鮮では「最高尊厳」と呼ばれているようです。これは、「明治憲法」で「神聖ニシテ侵スベカラズ」とされた天皇に対して使われた「至尊」という言葉と同じ意味だろうと思います。したがってこの映画は、「至尊」に対する「不敬罪」を犯すものとして、北朝鮮権力にとっては絶対に許しがたいものとなっているようです。

 このような「最高尊厳=至尊」の呪縛から完全に解き放たれた時に、我々の運動も若い力を加えて、新たな歩みを始められるのではないかと私は密かに思っております