「実教出版教科書裁判」高嶋陳述書 6/6

続きまして、高校教師としての体験、家永教科書裁判の体験から陳述された高嶋伸欣先生(琉球大学名誉教授)のものです。


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               冒頭陳述意見書            

                         原告  高嶋伸欣(たかしま のぶよし)

 今回の本件提訴に際して私が原告に加わることにした理由と本件の法廷における審理を通じて何をめざしているのか、それらの主要な点について与えられた時間的猶予の範囲内で、明らかにすることにいたします。

 提訴の第1の動機の根底にあるのは、私が大学院の修士課程修了後、一貫して社会科教育、特に高校の社会科、現在の地歴・公民科の授業担当及び教員養成の仕事を続けてきたことです。私には、戦後の日本社会の民主主義を支える役割の一端を果たしてきたというそれなりの自負とその結果を見守るという責任感があります。ところが、今回の東京都教育委員会による実教出版版日本史教科書の採択妨害行為は、明らかにそうした戦後日本社会の民主主義を破壊するものであると認識され、このまま看過してはならないと判断したこと、これが第1の動機です。

 さらに、高校教師としての体験を通じて生徒たちから学んだことがあります。生徒たちは時には大人以上に強烈な正義感を示すことがあるだけでなく、生徒同士の感想や意見の交換を通じて、極めて密度が濃く深みのある議論を展開し、的確な現状認識や厳しい社会批判に到達することも稀ではありません。特に生徒は自分たちの人生や高校生活に関連した話題に対しては強い関心を示します。

 たとえば、教科書検定問題が広くマスコミなどで報道された時には、日本の社会が戦前の時代に逆戻りし始めたのではないかと懸念する声が上がりました。その議論では、中学までの歴史学習を思い出しながら、1890年の教育勅語の発布以後、数十年かけて学校教育による思想統制で社会全体が軍国主義に変えられたのと同じことにならないかとの指摘もされました。

 その指摘を受けて、別の生徒は「戦前の場合は日本の歴史で初めてのことだから、数十年後に学校教育で日本中がマインド・コントロールされてしまうと、1890年当時の人々がその危険性に気づかなくても仕方がない。けれども、今度はこの前例があるのだから、僕らの子供や孫たちから『おじいさんはなぜあの時に黙っていたの?』と言われたら、言い訳ができない」と、発言しました。すると、また別の生徒が「でも僕たちは、高校生だ。今の社会については大人が責任を持つべきだ」と主張し、「その大人がこの教室には、一人しかいない。先生はやるべきことをやっていますか?」と、私に迫ってきたのです。

 私が担当した社会科教育では、主権在民の民主主義の理念を定着させることが、重要な目標となっていますから、教師自身がその目標に則した言行一致を心がけるのは当然です。加えて高校生の場合は、教師に対してこうした批判的な観点からの観察の目を向けるだけの判断力を備えていることを、私たち教師は日々の学校生活を通じて学んできています。

 こうした、実情は現在の東京都立高校においても同様のはずです。従って、今回の東京都教育委員会による教科書採択妨害行為を看過するならば、高校生たちからの批判を私たちが受けることになります。そうならないためにも、都民でもある高校教育関係者の一人として、ここで声を挙げない訳にはいかないと、判断した次第です。

 因みに、現在の学校教育法では義務教育の目標(第21条)として「公正な判断力」の育成を明示し、高校教育の目標(第51条)では「健全な批判力」の育成を掲げています。この規定は、極めて適切な設定であると思われます。

 さらに私の体験では、生徒たちの批判対象は社会の広範囲に及び、裁判も例外ではありません。三権分立の中の司法の役割を果たしていないのではないかと思われる事例については、手厳しい意見が出されています。しかも、そうした具体的な裁判の事例が最近の教科書には次々と記載されるようになってきています。今回の都教委の採択妨害問題もすでに広くマスコミによって報道されています。高校の教科書については、来年4月の検定申請に向けた改訂版の編集作業が今年夏ごろから本格化すると見込まれます。

 本件は、高校教科書に関するものであり、しかも高校生が判断力や批判力を発揮するのに好適な話題であるにもかかわらず、その話題の記述のある教科書を生徒には触れさせないように、教育委員会が権限を行使したというものです。教科書執筆者や編集者が、新たな記述内容の一つとして強い関心を示すことが予想されます。

 加えて、文部科学省は本年1月に地歴・公民の教科書検定基準として、「閣議決定その他の方法により示された政府の統一的な見解又は最高裁判所の判例が存在する場合には、それらに基づいた記述がされていること」を、新たに策定しました。この新たな基準に従えば、都教委が「日の丸・君が代」は「強制」に当たらないとしているのに対して、文科省が「権限のある者が職務命令をもって命ずるということを『強制』と表現することは誤りとはいえない」との見解を表明している(『産経新聞』2012328日)とのことですから。この見解が合わせて記述され、生徒の判断に委ねられることになります。

 このようにして、都教委による教科書採択妨害問題は、新たな教科書記述などを通じて学校教育の場でも議論されようとしています。そうした議論において、経過上の様々な事実や見解を提示できるようにすることが、開かれた法廷の場を通じて促進されると期待されます。このことも、私が本件訴訟に参加した理由の一つであり、目標の一つでもあります。

 さらに今回の都教委による実教版日本史教科書採択妨害行為が公然と行われることとなったのは、2013627日の、いわゆる「見解」議決以後のことで、2014年度用の教科書採択を対象としたものでした。しかし、問題にされた教科書記述は『高校日本史A』 に載っていて、同教科書は2013年度用の採択対象となっていたものです。その2013年度用の採択が行われていた2012年夏には、都教委の高校教育指導課長などの事務方が、上記の「見解」等の議決がないまま、個別に当該校の校長に電話などによって、同教科書以外への選定替えを働きかけていたことが、現在では判明しています。

 こうした、年度によって異なる権限の行使とその根拠となる法規についての解釈や運用の便宜的、恣意的な権限行使は、職権乱用であり違法であるとの最高裁判所の判決があります。第3次家永教科書裁判に関する1997829日の最高裁小法廷、大野裁判長による判決です。この裁判には私も証人として参加をしました。また家永氏の勝訴で終わらせた判決として、広く関係者には知られているものです。そうした、教科書行政の関係者であれば疎かにできないはずの司法の論理を全く意に介さないかのように、ふるまっている今回の都教委の行動に、同裁判に関与した者として、見過ごせない思いがあります。

 また、2012年夏の段階では電話連絡だけで、明確な証拠を残さない手法が用いられていたところ、そうした不公正な働きかけの事実を外部の知るところとなり、報道もされたことから、2013年度は早々と「見解」を議決して公然化させることに至ったものと、思われます。そうした経過において、事態を外部から把握し報道された過程に、私自身が関わっていた事実があります。その時の様子を法廷という公開の場で証言することにより、採択妨害問題の実態をより明確にすることも、目標の一つとしています。

 併せて、先の最高裁判決に違反する職権の乱用、違法行為であることの証明をめざします。

 時間的な制約がありますので、上記以外の事柄については、別途の意見書などをもって明らかにしていく所存です。                    

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◎次回、第2回口頭弁論は9月9日(火)15:30〜東京地裁419号法定で行われます。