RE: [heiwa0][08788] 南京大虐殺記念館、北京抗日記念館 9/4 |
○○様 Wiki記事をそのままMLで広めることは、客観的には、アイリス・チャンの言う「故意に系統的に歴史を歪めようとする少なからぬ日本人の存在」の一員に組み込まれてしまう可能性がありますから、どうぞ、慎重になさってください。 領海問題では、中国系の人々の反日感情も同時期に強まっています。Wikipediaなどで経緯について、どこまで触れられているか検索してみましたので、ご参考までに送ります。ちなみに、韓国・独立記念館、南京および北京の記念館には数年前に個人的に行ってきました。更に言えば、シンガポール、フィリピンにもこの種の大日本帝国の戦禍を問う記念館があるので行ってみたが、韓国、中国の比ではありませんでした。 「韓国・独立記念館、南京および北京の記念館」において「これは事実誤認なのではないか?」と思われるような展示はありましたか? 日中国交樹立直前の1971年(昭和46年)、8月末より朝日新聞紙上に掲載された本多勝一記者の『中国の旅』という連載記事が掲載された。内容は、南京を含む中国各地での日本軍の残虐行為が精細に描写された記事で、南京事件についての一般的日本人の認識はこれ以降大きく広まり、このことが契機になり日本人による南京事件目撃証言がさまざまな雑誌や本に掲載されるようになった。さらに国内論争となった、この記事で当時「百人斬り競争」が大々的に報道されていたことが取り上げられた時、山本七平と鈴木明の“百人斬りには多くの関心が集まった。 実は、Wikipediaで「南京事件」と「南京大虐殺論争」を見てみましたが、○○さんがコピーされているページが見つかりませんでした。こういう場合、URLを表示していただくと助かるのですけど・・・ というのは、「山本七平と鈴木明の“百人斬りには多くの関心が集まった。」という部分ですが、「山本七平と鈴木明の“百人斬り(※否定論、orねつ造論)には多くの関心が集まった。」と※部分がないと文意が通りません。コピー省略部分がありますね? ところで、○○さんは、この山本七平&鈴木明と「思想傾向」を同じくする方々(笑)が、「百人斬りは無かった」と主張して本多勝一氏を提訴し、逆にみじめな完全敗訴をした、という事実は御存じですか? 2006年12月22日、最高裁で確定した東京地裁判決(05年8月23日)の該当部分のほんの一部を提示しますね。 「エ 「百人斬り競争」及び「捕虜や非武装者の殺害」については,以下のとおり真実である。 (ア) 本件日日記事の「百人斬り競争」が存在していたことは,以下のとおり明らかである。 そして,浅海,鈴木両記者は,極東軍事裁判における検事の尋問に対する供述やその後の種々の記事で,両少尉からの聞き取りによる取材であることを明らかにしている。 また,佐藤記者も,両少尉が「百人斬り競争」を行っているという話を直接聞いて,「取材の中で『斬った,斬ったと言うが,誰がそれを勘定するのか』と両少尉に聞いたところ,『それぞれに当番兵がついている。その当番兵をとりかえっこして,当番兵が数えているんだ」という話だった。」と述べている。両少尉が浅海記者らに虚偽の事実を告げることはあり得ず,これらから両少尉の「百人斬り競争」の事実が裏付けられる。 (イ) 両少尉が行った「百人斬り競争」が戦闘行為の中だけでなく,投降兵,捕虜,農民等に対する殺害でもあったことは,以下のとおり明らかである。 洞富雄元早稲田大学教授は,詳細な資料批判を行った上,「百人斬り競争」が捕虜の虐殺競争であると考えているし,田中正俊元東京大学教授も,客観的資料に基づく実証的見解として,「百人斬り競争」の対象者のほとんどすべての人々が非武装者であったのではないかと述べており,「南京大虐殺のまぼろし」を執筆した鈴木明も捕虜の殺害であれば「百人斬り」の可能性があることを認め,秦郁彦拓殖大学教授も「百人斬り」が「戦ってやっつけた話じゃなさそうだ」と判断している。 そして,昭和12年の南京攻略戦当時,日本軍による略奪,強姦,放火,捕虜や一般民衆の殺害などはごくありふれた現象であり,多数の資料も存在するのであり,鵜野晋太郎が「日本刀怨,恨譜」で記しているように,多くの捕虜や農民の殺害が行われていたものである。」 なお、当該1937年東京日日新聞記事は以下にしっかりと出ています。
つまり、本多勝一さんは「真実でないことを書かれて名誉棄損」として裁判に訴えられたのですが、本多さんの方が地裁・高裁・最高裁で完璧に勝訴することによって、山本七平&鈴木明グループ=歴史偽造主義ウヨクさんたちが、「百人斬り」否定=南京大虐殺否定に持っていこうとしたモクロミは、完全に裏目に出たのです。 この訴訟によって、かえって「百人斬り」=捕虜・非武装者である中国人の大虐殺=南京大虐殺が事実であることが日本の司法機関によっても、認定されてしまったわけです。 付言すれば、ハーグ陸戦条約によって「捕虜や非武装者の殺害」は禁じられた違法なものでした。そして、Wikiによりますと日本においては「1911年11月6日批准、1912年1月13日に陸戰ノ法規慣例ニ關スル條約として公布された」ものです。 再び、大きく取り上げられるようになったのは、1982年(昭和57年)の教科書問題の時だった。「検定で侵略を進出と書きなおさせた」という誤報(教科書誤報事件)をきっかけとして、日本の教科書における事件の記述が政治問題化した。日本政府は首相の訪中により政治決着させることを選んだが、ナショナリストの反発を招き、否定派が支持を拡大した。 ○○さんは、この「『検定で侵略を進出と書きなおさせた』という誤報(教科書誤報事件)」という「歴史偽造主義」ウヨクさんたちが大好きなフレーズが、実は「誤報である」=ウソである、という事実を御存じですか? wiki「教科書誤報事件」には以下のようにあります。 「発端となった実教出版の『世界史』の『華北へ侵略』を『華北に進出』と書き換えた記述は存在せず誤報であった。これは6月16日の教科書検定の集団取材において日本テレビ記者が担当した世界史教科書の取材において実教出版の教科書の『華北へ侵略』記述に対し、直さなくてもよい改善意見(B意見)が付記されたことと、 帝国書院の『世界史』にあった『東南アジアを侵略』が『東南アジアへ進出』や『日本の中国侵略』が『日本の満州占領』、『特に東三省に駐屯する関東軍は…満州国をつくった。この侵略にたいして』が『特に東三省に駐屯する関東軍は…満州国をつくった。これらの軍事行動にたいして』などの検定書き換えがあったことを混同した結果であった。」 お分かりでしょうか? つまり、「誤報」は「教科書会社の名前」を間違えて報道した、ということだけなのです。「実教出版」の教科書については「改善しろよ」=「侵略なんて教えるのは不適切だよ」という圧力・・・ソフトな圧力(笑)のB意見だったので、実教出版の著者は屈服せず、「書き換え」をしませんでした。 しかし、「帝国書院の『世界史』」教科書は、・ソフトな圧力(笑)のB意見だったにもかかわらず、屈服して「侵略→進出」、「中国侵略→満州占領」、「この侵略」→「これらの軍事行動」と書き換えた、という事実が存在するわけです。 つまり文部省は、「帝国書院」という教科書会社に『検定で侵略を進出と書きなおさせた』という紛れもない明白な事実が存在するわけです。でも、「歴史偽造主義」ウヨクさんたちは、この「紛れもない明白な事実」を、絶対に知らせようとはせず、「朝日新聞がウソを書いたから、中国や韓国がモンクを言ってきたのだ。でも、朝日新聞のウソがきっかけなんだから、近隣諸国条項は廃止すべきだ」と主張するのです。 この手法は、前メールで説明しましたように「慰安婦問題は、朝日新聞が吉田ウソ証言で告発したから起こった。だから、慰安婦=性奴隷なんてウソだ。彼女らは売春婦だ」というのと同様の、彼らの常とう手段です。 つまり、ほんの一部の「事実誤認=間違い」あるいは不正確な部分を、大々的に拡大し、言い立てることによって「性奴隷としての慰安婦問題なんか無かったんだ」「日本は侵略なんかしていないんだ」「南京大虐殺など無かったんだ」と一般民衆に刷り込もうとしているわけです。かなり成功していることは確かですよね・・・ でも、「侵略→進出」と「書きなおさせた」張本人の文科省は、その事実をよく知っているわけですから、どんなに歴史偽造主義ウヨクさんたちには、たいそう都合が悪くても、近隣諸国条項を廃止することはできないのです。 もっとも、廃止はできないので、育鵬社の教科書など、完全にこの「近隣諸国条項」違反である「歴史偽造主義」教科書は、本来なら検定不合格になるはずですが、合格させ、子ども達に偽造された日本史を押しつけようとしているわけです。 1997年11月、南京大虐殺について書いた『ザ・レイプ・オブ・南京・・・しかし、その後にかなりの資料誤用が指摘され、国際的な議論に発展した。それら公私の精神的な切迫感にさいなまれて、2004年に36歳で自殺。 あのぉ〜、○○さん、wikiの「アイリス・チャン」も、見られたどうでしょうか? 以下のようにあります。 「チャンは『ザ・チャイニーズ・イン・アメリカ』の販売促進活動を行うと同時に、4作目として第二次世界大戦中のフィリピンで日本軍と戦い捕虜になった米軍兵士の過酷な運命(バターン死の行進)に関する作品に取り組んでいた。しかしながらうつ病を患い、入退院を繰り返していた。 鬱の要因については諸説あり、現在そのどれもが推測の域を出ていない。彼女はカリフォルニア州サンノゼのサニーベールで夫と2歳の息子と暮らしていたが、2004 サンタクララ郡警察は、状況証拠からチャンが銃で自分の頭を撃ったものと断定した。後に3通の遺書が見つかっている。遺書の中には、自分がCIAのような米国の政府組織からつけ狙われていて逃げ場所がないゆえの自殺だと断定した記述もあった。」 ○○さんがコピーされたwikiでは、まるで、アイリス・チャンの自殺は1997年の『ザ・レイプ・オブ・南京』の「資料誤用が指摘され」たため、誤りを犯したというような「精神的な切迫感にさいなまれて、2004年に36歳で自殺。」したかのように記述してありますけど、「鬱の要因については諸説あり、現在そのどれもが推測の域を出ていない。」のです。 また、「3通の遺書・・・の中には「自分がCIAのような米国の政府組織からつけ狙われていて逃げ場所がないゆえの自殺だと断定した記述もあった。」わけですから、2004年の彼女の自殺を、まるで1997年の著作『ザ・レイプ・オブ・南京』の「資料誤用が』原因であるかのように印象付ける、○○さんがコピーされたwikiの記述は不正確という以上に『ザ・レイプ・オブ・南京』否定の意図を持っての、「中立・公正」に反する記述と言えるでしょう。 彼女の『ザ・レイプ・オブ・南京』日本語版は、2007年に同時代社から出版されています(¥2100)。誤認写真も事実誤認に基づく少々の記述も、確かに収録されていますが、ぜひ、お読みなってみてはいかがでしょうか? 一部の「資料誤用」をもって、この本の価値は相殺されないと、私は読んで思いました。以下の彼女の「執筆の動機」に基づく本書は、私は真面目に「南京大虐殺」を考える人には必読文献の一つだと思います。 「本書の執筆時に、私を当惑させ悲しい気持ちにさせたのは、日本人が自分たちの過去に正面から向き合うことを一貫して拒絶していることである。たとえば、日本が支払った戦後補償金は、ドイツが彼らの被害者に対して支払った金額の1パーセントにも満たない。たとえば、ほとんどのナチ党員は、彼らの犯罪のために投獄されない場合でも、公的な生活からは遠ざけられているのに対し、多くの日本の戦争犯罪人は、戦後も政財界で支配的な地位に居座り続けている。 さらに、たとえばドイツがホロコーストの被害者に対して繰り返し謝罪しているのに対し、日本は東京で戦争犯罪人を祀っている。日本の戦争犯罪の被害者である、有るアメリカ人はこれを、政治的には『ベルリンのど真ん中にヒトラーを祀る大聖堂を建設する』ことと同等だと分析する。 本書を執筆するという長く困難な労働において、私を強く奮い立たせてきたのは、日本の多くの著名な政治家、学者、あるいは経済界の指導者が、圧倒的な証拠の存在にもかかわらず、南京大虐殺の存在を認めることすらも執拗に拒否していることである。 ドイツでは自国の歴史教育からホロコーストを削除することが法的に禁止されているのとは対照的にこの数十年間、日本人は教科書から南京大虐殺の記述を組織的・系統的に除去してきた。博物館から南京大虐殺の写真を取り除き、関連する一次史料に手を入れ、人々の生活から虐殺事件を連想させたり関係したりするものはなんでも、抹消してきた。 日本では、南京大虐殺を歴史的事実として否定することが国民の義務であると信じている少なからぬ人々がいる。そして、尊敬されるべき歴史学の教授の中にさえも、右翼的な運動に参加してその国民の義務を遂行しようとする人々がいる。記録映画In the Name of the Emperor(天皇の名において)では、ある日本の歴史家が『二、三0人の人間が殺されたとしても、日本にとっては非常に衝撃的なことです。その時まで、日本軍の兵士は模範的でした。」などと述べて、南京大虐殺を全否定している。 このような、故意に系統的に歴史を歪めようとする少なからぬ日本人の存在こそが、私に本書の必要性を非常に強く確信させるのである」 2008年1月16日、上海の日本総領事館総領事が、新たに増築部分も設けた南京大虐殺紀念館に対し、これまでにも巨大石碑を建立して30万人という犠牲者数を多数表記するなど旧日本軍の「非人道性」を強調しているとして、日本政府の「問題意識」として「事実関係に疑義がある展示がある」と南京市幹部らに見直しを求める申し入れを行った。 ○○さんは、「30万人」という数字のほかに「日本政府」が「『事実関係に疑義がある展示がある』と南京市幹部らに見直しを求める申し入れを行った。」ものに、どういう「展示」があるか、御存じですか? それこそ、日本政府の外務省のHPに、その「申し入れ」を公開してほしいですね! 以下の当時のリアルタイムの日本軍将兵の陣中日誌・・・これは、ほんのほんの一部です・・・を南京大虐殺紀念館に展示すると、「旧日本軍の『非人道性』を強調しているとして」日本政府は「見直しを求める申し入れを行」うでしょうか? 南京大虐殺は1937年12月13日の日本軍南京入城から始まるのではありません。この陣中日誌に記録されているように第二次上海事変から、撤退する中国軍を追撃して南京に向かう途上から始まっていたわけです。 小野賢二、藤原彰、本多勝一編『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち―第十三師団山田支隊の下級将校・兵士の陣中日記−』(大月書店、1996年)より 10月 5日 10月 6日 11月16日 11月17日 雨天 11月20日 12月13日 (中略) ××君より早く追いつき銃剣を以て肩先に力にまかせて一剣あびせる。てごたえあり其の場に昏倒してしまう。ようやく追いついた友軍の人達が集まり先の将校が脳天を真二つに割る。(二等兵斎藤次郎陣中日記、p.36) 12月16日 12月16日 12月16日 月は十四日、山の端にかかり皎々として青き影の処、断末魔の苦しみの声は全く惨しさこの上なし。戦場ならざれば見るを得ざるところなり。九時半頃帰る。一生を忘るゝ事の出来ざる光景であった。 (伍長近藤栄四郎出征日記 p.326) 12月16日 山となって居る死人の上を上がって突刺す気持ちは鬼をもひしがん勇気がでて力一ぱい突刺したり。うーんうーんとうめく支那兵の声。年よりも居れば子供も居る。一人残らず殺す。刀を借りて首も切って見た。こんな事は今まで中にない珍しい出来事であった。(上等兵黒須忠信陣中日記、p.350〜351) 12月16日 晴天 南京城外 12月17日 晴天 南京城外 12月17日 12月22日 |