ある「『日の君』強制不服従」者の思考停止の奇妙さ・・・ある映画をめぐって 5/12 |
皆様 以下は、あるMLにおいての○さんの投稿と私が返信した○さんへの質問です。私のものは「たぶん、○さんからの返信は無いだろうな」と思いながら、4月30日に投稿したものです。やはり、返信はありませんので、「疑問」を最後に開陳します。 <○さんから>(必要部分のみ) 「小生が映画上映等に、ささやかながら協力しています、全国各地で上映されている映画、『”私”を生きる』の名古屋での上映のお知らせです。」 「大阪府教委・東京都教委などの不当な『君が代』処分攻撃に抗議・抵抗するという一点で、それぞれの個人・立場の違いを大切にしながら、お互いに『寛容』の精神を大事に、共通の『相手』を囲い込むための、ゆるやかで、多彩な、そして、広範な『抵抗戦線』、『全国的なネットワーク』を形成していきましょう。 小生も、ささやかながら、小学校現場での30数年の『日の丸・君が代』強制不服従のまま」 「ドキュメンタリー映画 『“私”を生きる』〜上映のご案内〜・ <増田から○さんへ> こんばんは。犯罪都教委&1・5悪都議と、断固、闘う増田です! ご多忙のところ恐縮ですが、○さんには、以下の4つの質問にお答えいただけないでしょうか? 1、○さんは、この、「ドキュメンタリー」と称する、『”私”を生きる』という映画の1/3である土肥元校長部分について、重要な真実が隠蔽されていることをご存じの上で、それには口を拭って、この「映画上映等に、ささやかながら協力してい」らっしゃるのでしょうか? 以下は、このML等でも私が投降したものですが、これまで、お読みになっていないのでしょうね? 最後の東本さんの投稿の場合は、○さんが入っていらっしゃるML等では見る機会が無かったかもしれませんので、紹介しておきます。 <1土肥元校長が勝訴されたら? 2『私を生きる』のフィクション部分!?> <映画『私を生きる』私見 その2(田畑和子さんの意見)> <大分の東本高志さん(ML上でしか知らない方ですけど)のブログ> 2、以上をお読みになれば、○さんにも、この、「ドキュメンタリー」と称する、『”私”を生きる』という映画の1/3である土肥元校長部分については、「ドキュメンタリー」ではなく、重大な真実を隠蔽し、虚構=フィクション=ウソを交えて創作されていることがご理解いただけることと思います。 超簡単(笑)に言えば、以下の@Aの2点において、土肥元校長は、この映画のキャッチ・コピーにいう「日本社会の ”右傾化” や ”戦前への回帰” に抵抗し、自分が自分であり続けるために教育現場で凛として闘う、教師」では無かった、という事実が有るのです。 @ 「都立三鷹高校校長として、私は、都教委の命令はどのようなものでも法令に準じるものと考え、法令遵守が私のポリシーだから従った。」だから「私は都立三鷹高校校長として、10・23通達に従い、職務命令を出し、私の命令に従わず不起立をした教員を処分するよう事故報告書を書いて都教委に処分させた。」という事実・・・ このような土肥元校長について、あなたは、「日本社会の ”右傾化” や ”戦前への回帰” に抵抗し、自分が自分であり続けるために教育現場で凛として闘う、教師」と、評価なさいますか? A 「都立三鷹高校校長として、私は、都教委の命令はどのようなものでも法令に準じるものだから、法令遵守法令遵守が私のポリシーだから従った。」だから「私は都立三鷹高校校長として、『職員会議の採決禁止通知』に従い、都立三鷹高校においても、職員会議で挙手採決をさせなかった」という事実・・・ このような土肥元校長について、あなたは、「日本社会の ”右傾化” や ”戦前への回帰” に抵抗し、自分が自分であり続けるために教育現場で凛として闘う、教師」と、評価なさいますか? B 以下は、仮定のお話で、実際には有り得ませんけれど、この「ドキュメンタリー」と称する『”私”を生きる』という映画の」土肥校長問題を分かり易くするために、敢えて、書いておきます。 あの、アイヒマンが、もし、「私は、ヒトラー(上官=上司)の指示命令に従って、ユダヤ人虐殺をした。しかし、私は心の中ではこれは民主主義に反すると思い、反対だったのだ。しかし、上官・上司の指示命令に従うことは法令遵守をポリシーとする者であれば当然だと考えるから、そうしたのだ。 しかし、これは民主主義に反するから、『ヒトラーさん、公開討論しましょう! 公開討論しましょう!』」と言った、としましょう。そして、テレビ・新聞等マスコミで大々的に報道され、世間で大いに喝さいを受けた、としましょう。 そしたら、アイヒマンは、ドイツ「社会の ”右傾化” や ”戦前への回帰” に抵抗し、自分が自分であり続けるために」「現場で凛として闘う」ヒトとして描く「ドキュメンタリー」映画の主役の一人と成り得ると、あなたは考えられますか? もちろん、アイヒマンの場合、そんなことを口にした途端、土肥校長と違って、命は無くなりますから、1000%、いえ、2万%(笑)有り得ませんけども・・・ま、それは、最初から仮定の話なので、無視してくださいね(笑)。 > 大阪府教委・東京都教委などの不当な「君が代」処分攻撃に抗議・抵抗するという一点で、それぞれの個人・立場の違いを大切にしながら、お互いに「寛容」の精神を大事に 4、私には、奇妙に思えてならないことがあります。○さんをはじめ、『日の君、不起立』者の方々には、生徒たちに「上からの命令だからといっても、何も考えずに従うのではなく、従うべきか否か、自ら考え判断する力を育てなければならない」という主張が中心にあると思うのです・・・たぶん・・・。 ところで、上記2-@Aに明らかなように、土肥元校長は、根津さん・佐藤さんとは正反対に、「教育現場で」都教委の通達・通知(指示命令)に従って、民主主義・人権保障と正反対の実践をなさり、それを現在でも「都教委の指示命令は法令に準じるから、法令遵守をポリシーとする者は従って当然」と何の反省もない人物です。 神戸で当該映画の上映を積極的になさったらしい方によれば、最近、土肥元校長は、不起立教員を処分させたくなくて「『不起立してない』とウソをついてくれれば、事故報告書を書かなくて済むのに」とかを一例として、いろいろと葛藤なさった、と打ち明けられたそうですけど・・・その人物の内心に葛藤が有ったところで、「教育現場で」反民主主義を校長として実践した、という事実を消すことはできないことは、アイヒマンを思えば誰にでも容易に理解できるでしょう。 しかし、○さんは、根津さん・佐藤さんと同等に「日本社会の ”右傾化” や ”戦前への回帰” に抵抗し、自分が自分であり続けるために教育現場で凛として闘う、教師」として土肥元校長を描きだす、この『”私”を生きる』という「映画上映等に、ささやかながら協力してい」ると、何らの留保も付けずに、平然と書いていらっしゃいます。本当にすっごく奇妙です。 「自ら考え判断する力を」使って、当該映画における、この事実に反する土肥元校長部分については、「判断停止」し、沈黙して、この「映画上映等にささやかながら協力してい」らっしゃるわけなのでしょうか? 上記2-@Aに明らかなように、土肥元校長は「日本社会の ”右傾化” や ”戦前への回帰” に抵抗し、自分が自分であり続けるために教育現場で凛として闘う、教師」では無かった事実が有ります。「教育現場で」は、土肥校長は口ではハッキリと批判される都教委による「日本社会の ”右傾化” や ”戦前への回帰”」に対して「抵抗」するどころか、「抗う」どころか、校長としてそれを実践された「教師」だったという事実が有ります。 そして「教育現場」外!? で、大いに活躍されました。土肥元校長は「教育現場で」は、都教委に従って民主主義を求める教員を弾圧したけれども、「教育現場」外の新聞テレビ雑誌等マスコミでは、その都教委の民主主義弾圧を批判され、大いに活躍されました。都教委は困ったでしょう・・・私は、その事実は評価しますよ、とっても、おもしろかったです・・・ただ、私は、その事実は、彼の「教育現場で」の反民主主義の実践を相殺しない、と考えるだけです。 ○さん、あなたが「ささやかながら協力してい」らっしゃる、この、『”私”を生きる』という映画の1/3、土肥元校長部分については「ドキュメンタリー」ではなく、上記2−@Aの重大な真実を隠蔽した上で、虚構=フィクション=ウソを交えて創作されている、という事実を、あなたは、見に来る方々に説明すべきではないでしょうか? もし、本当に生徒たちに「自ら考え判断することが大切」と教えていらっしゃるのであれば「土肥元校長部分については、この映画は『ドキュメンタリー』とは、とうてい言えないことを見に来る人たちに伝えなければならない」と「自ら考え判断」されるのではないしょうか? この映画は、根津さん・佐藤さん部分については、何らの留保も付ける必要はない立派なドキュメンタリー映画です、もちろん! でも、土肥元校長部分について、何らの留保も付けず、沈黙し、当該「映画上映等に、ささやかながら協力してい」かれるなら、あなたは監督の土井敏那さんに加担した「ウソの保証人」の一人となるでしょう。それでいいのでしょうか? (返信、終わり) <疑問> 「小学校現場での30数年の『日の丸・君が代』強制不服従」者であるといわれる○さんが、当該映画の1/3である土肥元校長の「似非」ドキュメンタリー部分について、見に来る方々に対して何らの説明もなく・・・つまりは、土肥校長が「教育現場」で何を実践なさっていたかの真実を明らかにすることなく、「ささやかながら」も「上映協力」し「ウソの保証人」となって平気なのはなぜでしょうか? 何度でも書きますが、土肥校長は「教育現場で」『日の君』強制不服従者に対し都教委の手先となって職務命令を出し、処分弾圧を実践なさった方です、他の校長たちと同様に・・・それに対し「法令遵守は当然」と何らの反省もないのにもかかわらず、根津さんを代表とする『日の君』強制不服従者と同等に、「日本社会の ”右傾化” や ”戦前への回帰” に抵抗し、自分が自分であり続けるために教育現場で凛として闘う、教師」と描きだすことは事実に反し、根津さんを代表とする『日の君』強制不服従者に対する侮辱となっているのではないでしょうか? 『日の君』強制への不服従者は、生徒たちに「自分の頭で考え、判断することの大切さを教える」と主張する人でもあると私は理解しています。そういう人が、どうして、当該映画の事実に反する完全な矛盾には判断を停止し沈黙しながら、「上映協力」して恥ずかしくないのか、私には理解できません。 「根津さん、佐藤さん部分はドキュメタリー映画として素晴らしいですけど、土肥元校長部分には、増田さんのように、かくかくしかじか(笑)の・・・2−@Aを説明されればいいかと・・・異論があるようです」と、「上映協力」者として、見に来られた方々に説明責任を果たされたら、何か都合が悪いことが出来するのでしょうか? 私は、それだからといって、別に上映妨害になり、観客が減ることになるとも思えませんけど・・・ どなたか、私に理解できるように教えていただけませんか? |