彦坂諦さんの論考(2) 3/6

増田さん、みなさん、

 以下は、2回めです。
これも増田さんあてに書くかたちではありますが、できるだけ多くのひとに読んでいただきたいと思っています。

 この問題についての歴史的記述や批判は増田さんにおまかせして、わたしは、文学をこととする者の立場から、「Nanking Atrocities」「Nanking Massacre」「The Rape ofNanking」などという名称によって世界的にしられている
旧日本軍の南京占領にともなう、その後もかなりの長きにわたってつづけられた、もろもろの暴力行為を主題として書かれた日本人作家の作品を紹介したいと思います。

 以下に転用したのは、昨年わたしがおこなった連続講座「文学をとおして戦争と人間を考える」の第8回めに語ったことの一部です。
 とりあげた作品は堀田善衛の『時間』です。

A.『時間』の構造

 構造は単純です。ある一人の人物の日記。ですから、終始一貫、この人物が一人称で自分の体験や思考を書きつけているのです。
 ただ、この作品が特異なのは、この主人公が中国人であることです。堀田善衛はまぎれもない日本人の作家です。でありながら、彼は、この作品において主人公を中国人に設定している。主人公を中国人として設定したのですから、とうぜんのことながら、ことのいっさいはこの中国人の眼をとおして観察され、この中国人の感情と思考を通して表現されていきます。

 これは、わたしたちのこの国の当時の文学状況のなかでは画期的なことであったと思います。堀田がこの手法をとったことにはきわめて重要な意味がある、とわたしは考えています。なぜか? 日本民族の軍隊が漢民族をはじめ中国の諸民族の暮していた土地にむりやり押し入って暴虐のかぎりをつくしたあの時代のあの戦争のなかでおこったようなできごとについて、文学的に作品化するにあたっては、暴虐のかぎりをつくされた側の視点に立つことが、事態の本質に肉薄していくきわめて有効な手段である、とわたしは認めているからです。

 といっても、中国人の側の視点に立たなければことの本質は描きだせないのだなどと、ことを単純化してはいけない。現に、富士正晴の一連の作品にあっては、視点はあくまで侵略軍の一兵の側におかれていながら、中国人の側におけることの真実をもよく描きだしえています。このことに触れて、かつてわたしはつぎのように書いたことがありました。

《 (前略)富士の文章に修飾語が少なく、おおむね名詞と動詞が直接むすびついているのも理由のないことではないだろう。問題は行為そのものである。ナニヲシタカ。「徴発」という即物的名辞が「緊急購買」などといったもってまわった呼称に変えられたところで、その行為の内実にいささかの変化もなく、それをドノヨウニシタカによって行為の本質が変るものでもない。家に火を放ち女を強姦する行為は端的に「性器」の「徴発」そのものである。淡々と、と先に私がのべた富士の語りくちの本領は、じつは、直接に名ざすべきものを名ざすこの即物性にあったことがわかる。この渇いた文体の奥に、老練なリアリストの眼が光っている。

 この眼は、身のまわりのできごとを細大もらさず、しずかに、適確に見てとっているが、その見ている自分自身をも対象から除外しない。と同時に、その眼は、空飛ぶ鳥のでも地を這う虫のでもない、人間の背たけ、それも東アジア人である日本人の背たけに見あった高さから見ているから、当然、おなじくらいの高さからこちらを見かえしている中国人の眼にぶつかるだろう。

(中略)たとえ一方のがわからであれ、明晰な眼で、あくまでも見ることに徹すれば、おのずから相手が見えてくる、というより、相手との関係のありようが見えてくるのではないだろうか。こちらのがわが、のぞむとのぞまないとにかかわらず、相手とのあいだにぬきさしならない関係をもってしまっているかぎり。(彦坂諦『ひとはどのようにして兵となるのか・上』、柘植書房新社)》

 田村泰次郎や伊藤桂一などの作品にはこのような視点は見られません。そこにも、富士の諸作品をわたしが高く評価するゆえんがあります。むろん、堀田にしても、たとえば『歴史』にあっては、日本人のわかい知識人滝田を主人公としています。その彼の眼から、戦後の、具体的には1946(昭和21)年の上海におけできごとをきわめてリアルに描きだしているのです。ですから、この『時間』という作品における主人公の設定は、1937(昭和12)年の11月から翌38(13)年の10月までという特定の時期における、日本軍による南京占領によってひきおこされた「南京大虐殺(「Nanjing Atrocities」あるいは「Mssacre」と呼ばれている)」という具体的な事実を描きだすためにとられた手段であったのだ、とわたしは考えます。

B.『時間』にはなにが描かれているか?

 この作品の主人公は、終始「わたし」という一人称代名詞で登場するのですが、陳英諦という名を持っている知識人で、中国の文化についてはもとより欧米文化にも造詣の深い人物です。いくどかヨーロッパを訪れたこともあり、ヨーロッパの諸言語にも通じています。年のころは37歳、国民党政府の「海軍部」日本流に言えば「海軍省」に文官としてつとめて8年になります。1920年の蒋介石による労働者学生の大弾圧殺戮事件のときには、学生として弾圧された側にいた、という経歴を持っています。兄の陳英昌は日本に留学したことのある(東大法学部出身)司法官で、「司法部」(日本流では「司法省」)の役人です。

 国民政府の幹部職員の例にもれず、陳家も富裕な階級に属していて、兄英昌が政府の幹部たちとともに南京を逃げだすにあたって南京に留まる弟英諦に厳命したのは、なんと、予想される日本軍の占領下という条件のもとでも家と財産を守れ、いや、殖やせといったことでした。この彼が住んでいた家は、3階建で19室もある洋館です。

 彼の妻の本名は清雪ですが、結婚前にしばしば散歩にいった莫愁湖のほとりにかつて住んでいた六朝時代の女流詩人莫愁の名を借りて莫愁と呼ぶようになっていました。この彼女については生いたちや性格や暮しぶりなどといったことについての具体的な描写はありません。ただ、彼女が、英諦にとってかえがえのない愛の対象であったことだけははっきりわかります。この彼女とのあいだに英武という幼い男の子がいます。

 この作品は、明確な章別編成はとっていませんが、およそ4部に分つことができます。第1部は、1937年11月30日から12月11日までです。つまり、日本軍の南京攻撃を予期しての政府機関が漢口に疎開してから日本軍が城内に入ってくる寸前までの南京のようすを描いています。

 ここであざやかに描きだされているのは、この先どうなるのかわからない市民たちの不安に満ちた毎日のようすです。国民政府の漢口疎開が象徴していたのは、南京を脱出できる地位と身分と金を持つひとびとと南京に置きざりにされて身動きできないでいる庶民たちとの絶対的な落差でした。とりわけ、蒋介石主席そのひとが夫人や腹心たちとともに飛行機で脱出したあと、南京防衛軍の幹部将校たちのなかでも気の利いた連中はさっさと脱出してしまい、指揮官を失って烏合の衆と化してしまった兵たちだけが城内にとりのこされたありさまが詳細に描かれています。

 とりわけ、南京の「咽喉」である蘇州からいのちからがら脱出してきた従妹の楊嬢の口から語られる日本軍将兵の暴虐ぶりは迫真的です。

 第2部は1938(昭和13)年5月10日から6月2日までとなっていますから、第1部の最後からほぼ半年の空白がある。このあいだに、しかし、前年12月13日つまり日本軍が南京城内に入って占領した日から約3週間にわってくりひろげられた、南京市民に対する日本軍将兵のかずかずの暴行陵辱がおこっていた。これこそ「南京大虐殺(Nanjing Atrocities)」として歴史にとどめられることになったことがら以外のなにものでもありません。そうした暴虐の実相を、陳英諦自身の体験にもとづいて記した部分が、回想として、この第2部には挿入されています。この暴虐は、作中では、「殺、掠、姦」と簡潔に表現されています。

 日本軍が南京を占領した初日13日の夜に、早くも、陳英諦は妻子と楊嬢ともども針金で後ろ手に縛られ数珠繋ぎにされて、近くの小学校に連行されます。ここにはすでに地域住民が収容されていて、校庭には屍が積みあげられてた。丸裸で胴体にはまったく傷がなく手足も完全なのに首だけがない、という屍体もあった。その日の朝早く四時ごろから順番に殺されたひとたちの屍体でした。額や掌に軍帽をかぶったり銃を持ったりした跡がないか見るといったいいかげんな検査法で、毎日麺棒で粉をこねるために指にたこのできている男だの鞄をかける職業のため肩に跡がついていたバスの車掌だのまでが兵隊と見なされて殺されたのだという。校外からも断末魔の叫びが聞えてきていた。午後になって殺戮が一段落すると、その屍体を校外のクリークに運び水中に投げこむ作業に、陳英諦を含む男たちは駈りだされました。

 翌14日の夜、いよいよ、酩酊した日本兵によるレイプがはじまった。陳たちは、あらかじめダブルスパイから手引きされていたので、鍵のかかってない門を探しあてて逃げだし、雪の降りしきるなか、野ざらしになった柩のあいだにかくれ一夜をすごしたのち、金城大学に設置されていた安全地帯にたどりついた。けれども、ほんの数時間後には、そこにもまた日本兵が「俘虜を捜索するという名目で乱入してきた」のです。

 陳は、最初に日本兵が家に侵入してきたとき左腕に傷を負っていたために、俘虜と認定され、他の男たちといっしょに後ろ手を数珠繋ぎにしばられて、トラックに押しあげられ、これが莫愁たちとの今生の別れになってしまいます。その後、クリークのほとりで、機関銃を掃射され、クリークに転落します。けれども、九死に一生を得て、10日間そこらの空き家にかくれ、高熱にうなされているところをだれかにたすけられて、病みあがりのからだで金城大学の方向へ歩いている途中で日本兵につかまって、軍夫にされ、荷担ぎ人足生活4ヶ月ののち、脱走して、わが家にたどりつき、そこを接収して暮していた日本軍の情報将校桐野中尉に、その家の下僕であると身分をいつわって申告し、中尉の「下僕兼門番兼料理人」として暮していくのです。

 ただ、この彼は、一方で、だれにも知られていない、いや、知られてはならない秘密の任務を、奥地に疎開した政府から負わされてもいます。日本軍の動向その他南京で入手しうる情報を、この家の地下に秘密に設置してある無電機によって打電するという任務です。同時に、5人の諜報員を指導し統率する立場にもおかれています。

 そのうち、陳英諦は、刃物を研いだり売ったりする行商人「刃物屋」に出会います。この彼の正体はこの段階ではまだわかっていないのですが、陳が日本軍の軍夫にされているときいっしょにこきつかわれていた青年でともに脱走したなかまであること、彼がどうやら地下にもぐっている共産党員であるらしいことはわかります。

 もうひとり、ここではじめてではなく、じつは以前から登場してはいたのですが、陳英諦の「伯父」なる人物が、英諦の予測にたがわず、日本軍への協力者として英諦の前にあらわれもします。

 第3部は1938(昭和13)年6月30日から8月22日までです。この期間に、英諦は、以前この屋敷の使用人の一人であった洪嫗に出会い、彼女の口から息子英武が日本兵に殺された顛末をくわしく聴きとります。また、ついにほんとうの身分を桐野中尉に知られ、知識人にふさわしい仕事をするようにと懇切に勧められます。このような好意を辞退することは日本軍への敵意をあらわすことになりかなり危険なことではあったのですが、陳は、あえて辞退して下僕にとどまります。

 この桐野は、しかし、それ以来、なにかにつけ英諦ととかく知識人同士の話をしたがるようになります。会話は英語でおこなわれます。桐野はどうやら召集される以前は大学教授であったらしい。この桐野に対する陳の観察には、日本人知識人のありようについての痛烈な皮肉も感じられ、興味ぶかいものですが、ここでは割愛します。

 ここで、生死もわからなかった従妹楊嬢の消息が「刃物屋」からもたらされます。楊は生きていたのです。ただ、黴毒にかかっていた。それだけじゃなく、苦痛をやわらげるために麻薬を使ったのが原因でヘロイン中毒になっていた。彼女もまた、錦綾大学に設置された国際難民委員会の安全地帯にいたのに、そこでか、そこからひきだされてか、日本兵に強姦されていたのでした。

 この楊は、陳の家族とともに日本兵に拉致されたおり、いちはやく、日本語のできる者をさがして「接敵班」を、医者をさがして「衛生班」を、老人と幼児の世話をする「女子青年班」をといったふうに、収容されていた500名ほどの市民を組織し、無用の犠牲者を出さないようするために動きだすなどして、「新しい時代は血ぬられた枯草の下から爽かに芽生えてきている」と陳英諦をうならせたような娘です。この彼女にしても、あの時期のあの暴虐の犠牲となることをまぬかれえなかったのです。

 彼女は、また、英諦の妻莫愁とさいごまでともにいた人物なのですが、その彼女にしても、ついに、莫愁の最期を見届けることはできなかったという。殺されたことだけは、しかし、確実だった。

 もうひとつ、この第3部の末尾近くに、ダブルスパイとなっていたKとの対決のシーンが出てきます。ここではじめて、このことがあの「上海事件」のときともにたたかった画学生であり、英諦の友人であったことがあかされます。この対決そのものが、ですから、諜報員の指揮監督者と忠誠を疑われた諜報員とのありきたりの対決のレベルを超えて、まさに生の根の部分にかかわってくる深い対決になっています。

 さいごの第4部は1938(昭和139年9月12日、13日、18日に10月3日の4日だけであり、従妹楊嬢の蘇りの苦闘を描くことだけに集中しています。

C.どう描かれているか?

 この作品になにが描かれているかをこれまで説明してきました。できるだけ「あらすじ」の解説になることを避けてきたつもりですが、考えてみれば、この作品では「あらすじ」を紹介することが無意味なだけでなく、もともとそんなものはなかったのです。

 お読みになって、これが小説なんだろうかといった疑念をいだかれたかたはおられなかったでしょうか? たしかに、この作品は、この国のひとびとがふつう小説という言葉によって想起する概念には合致していません。どこがちがうのか?

 まず言えるのは、物語であることを拒否しているということです。ふつう小説のなかに含まれているような作中人物の恋物語も感情のもつれやいきちがいも手に汗にぎる事件も、この作品のなかにはありません。

 あるのは、徹頭徹尾、主人公の思索だけです。もちろん、その思索の背景あるいは根底には、この世のものとは思えないおぞましいできごとの数々が存在しているのですが、それらのできごとは、すべて、それ自体として描きだされるのではなく、主人公の思索を触発するものとして、あるいは思索を深めていく一契機として、必要なかぎりにおいて想起され語られるのです。

 観念小説とこれを名づけるひとたちもいます。それも、たぶんに否定的な意味をこめて。しかし、すくなくともこのわたしにとっては、これほど興味と関心を惹く、これほどスリルに富む作品はないと言ってもいい。

 この作品が主人公陳英諦の日記という形式をとっていることは先に指摘しましたが、全体のいわば導入部と言ってもいい12月9日の項で、陳英諦は、つぎのように書きつけています。

《わたしはすでにある種の確信をもっている(しかし期待では断じてない)――日軍はこの沈黙の、人に満ちてしかも人気のない都市に入ってきてどんなことを惹き起すか、について……いつまでこんな日記を書いていられるか、わからぬ。明日はもう書けなくなるかもしれない。しかし、それができるあいだは、地下室の、この無電機を前にした机に向って書きつづけるつもりである。(……)

 これ書くについて、わたしの心がけていることは、ただ一つである。それは、ことを戦争の話術、文学小説の話術で語らぬことだ。(『時間』p.46)》

 戦争の話術で語らないというのは、言いかえれば、けっして、国家と国家とのあるいは民族と民族との争闘といった鳥瞰的視点では語らない、ということです。戦争という大状況のなかでおこっている個々のものごとについて、あくまで、その状況にまきこまれ悲惨な目におちいっているひとりひとりの人間の眼でことを見すえ、それを、あくまでひとりひとりの独自の悲惨として語ろうとする姿勢です。

 しかもこれを「文学小説の話法」で語るまいとする決意には、この現実の個別の悲惨について、どのような意図によるどのような潤色をも拒否して、ただひたすら、現にあったことを現にあったこととして語り、名指すべきことを直接に名指そうとする姿勢が表明されています。

 こまかいことですが、この作中では「日本軍」ではなく「日軍」という呼称が用いられていることにお気づきになりましたか? これは中国人側からの呼称です。これにかぎらず、この「日記」における読み名や語法あるいは中国古典についての深い教養を背後に感じさせる表現そのものによって、この筆者がまぎれもない中国人であることを読者に印象づけれるように、堀田は細心の注意をはらっています。

 8月17日、つまり日本軍の占領後身のまわりにひきおこされた悲惨についてほぼ全貌を知りえた時期にも、「わたしが、眼を蔽いたくなるほどの悲惨事や、どぎつい事柄ばかりこの日記にしるしているのは、人間が極悪な経験にどのくらい堪えうるか、人間はどんなものかということを、痛苦の去らぬうちに確認してみたいがためにほかならない」と、陳英諦は記しています。

 ここにもまた、この主人公の姿勢が明確に表現されています。おなじ姿勢が、38年5月10日夜半という日付をもつ項のなかでの、前年の12月13日の夜にはじまる陳一家の悲惨について回想している記述のうちにも見られます。つぎの部分です。

《――いまわたしは鬼子という言葉をつかった。が、もう使うまい、どんなに使いたくなっても、たとえこれを使いでもしなければ到底気のすまぬときでも、使うまい。この逆立ちした擬人法は、長い時期のあいだには、必ずや人々の判断を誤り、眼を曇らせるであろう。彼らは鬼ではない、人間である。(『時間』pp.82-83)》

 彼らは鬼だ、まさにこれは鬼畜のふるまいなのだ、と考えてしまうと、ことのほんとうのおぞましさ悲惨さが見えなくなってしまう。そうではなく、かれらは人間なのだ、このわたしとおなじ人間でありながら、およそ人間のふるまいとは言いえない非道の行為をおこなっているのだ、と考えるからこそ、そのことのおそろしさおぞましさがほんとうに深いところから見えてくる。

 この姿勢のうちには、あの「南京アトロシティーズ」をすらあくまで人間のおかしたふるまいとして見すえる眼が、言いかえれば、敵と味方、加害者と被害者といったわかりやすい構図を拒否して、ことを人間のありようとして、個人としての、そしてまた集団となったときの人間のありようとして、人間とはどういった存在なのか、人間はいったいどこまでどのように極悪の行為に堪えうるのか、などなどといった根底的な問いとして、見つめようとする眼が、明確に見てとれます。

 しかも、カンジンナのは、この眼が、そういったふうに見ている自分自身をもけっしてその対象から除外していないことです。この文のすぐあとに「時間がたったならば、わたしとてけろりと忘れてしまわぬとは限らないのだ」と、さりげなく記されていることが端的にこの姿勢を開示しています。

D.堀田善衛の中国体験

 あらためて言うまでもないことなのですが、こんかいはとくにおことわりしておきます。ほかでもありません、堀田善衛のこの『時間』という作品をとりあげたのは、あくまで、これをとおして堀田善衛そのひとの中国体験とはどういうものであったのかを考えたい、ひいては、この一人の作家の中国体験をとおして、日本人の中国体験のありようを、とりわけ知識人における体験のありようを考えたいと思ったからです。

 ここでもうひとつおことわりしておきますが、きょう冒頭で指摘したように、わたしたちの兄や父や祖父や曾祖父の世代の日本人の男たちは、とりわけ民衆と呼ばれるひとびとは、現実には、相手の国土に侵略しそこに暮していたひとたちとのあいだに加害者と被害者という立場でぬきさしならない関係を持ってしまっているにもかかわらず、あたかもそういった体験などまったくなかったのではないかとさえ思われるほどに、中国を知らず、中国人を知らないでいつづけたのでした。

 だからこそ、そういったなかで、中国という国とその文化に、それをになってきた中国人たちに、意識的にかかわって生きた一時期を持つ知識人たちの、とりわけ作家たちの体験がどういったものであり、その体験が、彼らのその後の生涯にどのような影響をもたらしているかを、わたしは知りたいと思ったし、また、いまのわたしたちにとって、それを知ることはたいせつなのだと考えるのです。

 堀田善衛は1918(大正7)年の生れです。同世代あるいは年長の世代にどういうひとたちがいるかを御参考までに。加藤周一は1歳年下の1919(大正)8年生れ。ともにロシア革命の直後に生れています。堀田が上海で出会っている石上玄一郎は1910(明治43)年生、おなじく上海で知りあった武田泰淳は1912(明治45)年、草野心平はさらに年長で1903(明治36)年の生れです。

 堀田は1932(昭和7)年つまり「満州事変」の翌年、「満州国」を関東軍がでっちあげたその年に慶応大学のフランス文学科を出て、雑誌『批評』に詩や批評を発表するなど文学活動をはじめていましたが、1944(昭和19)年、26歳で召集され、胸部疾患のために解除されたのち「国際文化振興会」の上海事務所につとめていて、敗戦後は「国民党宣伝部」に徴用され、帰国できたのは3年後の1948(昭和23)年になってからでした。武田泰淳が1937(昭和12)年に召集されてほぼ2年間華中の戦線に送られていたのとはちがい、堀田の中国体験は、政府の御用期機関に勤務していたとはいえ、あくまで民間人としてのものでした。

 このことと、敗戦後ほぼ3年にわたって中国「国民党」の「宣伝部」に徴用されていたという事実とが、じつは、堀田の中国体験に、ほかのだれもが持っていない独特の陰影をあたえていること、これはほぼ確実であるとわたしは考えます。その独自性とはどういうものであったか?

 なによりもまず指摘しておかなければならないのは、中国と日本とにおける近代的知識人のありようがどれほどことなっているかについての自覚でしょう。欧米列強の軍事力をバックとした強引な「干渉」によって「開国」と「近代化」を余儀なくさせられた点においては、日中両国は、多少の差異はあってもほぼ共通の歴史的経緯を有しています。

 いわゆる「阿片戦争」に敗北した清国が開国を余儀なくされたのが1840(天保7)年、その13年後の1853(嘉永6)年にはペリーが日本にやってきて、その5年後の1858(安政5)年には日本も開国に追いこまれています。

 ただ、その後ほぼ100年のあいだに日中両国がたどった歴史的過程は対照的でした。日本がいわゆる脱亜入欧の近代化路線を一目散につっぱしって挫折したのに対して、中国では、欧米的近代化の道を歩もうとする動きもなくはなかったけれど、おおむね中国独自の近代化への道を模索しつづけ、ついに、自力更生によって新しいアジア的形態による近代国家をつくりあげること成功しています。

 こういった歴史的経緯のちがいは、日中の知識人のありように微妙な影をおとしていて、それがやがては決定的なな差異となってあらわれるようになっていく。

 この事実には、竹内好をその典型とする民族主義的知識人たちがつとに注目してきたところですが、堀田善衛のうちにもこれは強く印象づけられていた。きょうとりあげた『時間』とおなじ時期に執筆されている『歴史』を読むと、堀田のこの問題意識がいっそう鮮明に浮びあがってきます。

 こうした日中の知識人のありようの差異は、戦争という事態にそれぞれがどのように対処しえたのかという点にはっきりあらわれてくる。このことが、堀田善衛をして『広場の孤独』『時間』『歴史』『記念碑』『奇妙な青春』などといった一連の作品をわずか5年といった短いあいだにつぎつぎと世に送りださしめた根底的なモチーフ(動機)だったのではないかと、わたしは考えています。

 とりわけ、『時間』という作品の主人公をほかならぬ中国の知識人として設定したことは、この作品の創作にあたってその基底に堀田のこうした思いが存在したことを強く印象づけます。
 主人公の陳英諦は、先にも指摘したように、中国の伝統手文化はもとより、欧米の言語および文化にも通暁していている知識人です。しかも、1927(昭和2)年に蒋介石が上海で反共クーデタをおこし労働者・学生を弾圧したさいには弾圧される側の学生の一人でもありました。

 この一知識人の眼をとおして日本軍占領下の南京の状況を描くことによって、日本人側の視点からでは描くことのむつかしいことがらをも微細にあらわにしていくことができたのであることは、先に指摘したとおりです。しかし、この作品における陳英諦の役割はそこにとどまるものではない。これについても先に指摘しておきましたが、陳は、これらすべてを、たんに、被害者の立場からのみ批判しているのではない。被害・加害という図式をはるかに越えて、人間存在のありよう、人間の生きかたそのものに迫る、まさに根源的な視線をもってひたすら見ることに専念しているのです。そして、その視線の対象から、そう見ている自分自身をも除外してはいないのです。

 なぜ、このようなことをなしうるのか? そういった陳の行為の基底に、中国の一知識人としての、言葉の真の意味において自立した精神がひそんでいるからです。その事実に讃嘆の念をいだいていることを堀田はかくしません。

 日本の知識人たちのいわゆるヨーロッパ的教養とは所詮借り物の衣装にすぎないものであって、日本の風土と文化そのもに根ざし自分自身の生の根底から生みだされたものではなかった。そのことは、「大日本帝国」という名の国家が現実に戦争というかたちで中国への侵略を開始してからのち、この国知識人のほとんどすべてが、この国家の強大な権力に抗しうるだけの力をついに持ちえず、もろくも自己崩壊し、あるいは偽伝統文化意識に回帰してしまった事実に、端的にあわられています。

 これにひきかえ、中国の知識人たちのかなりの部分が、どのような逆境にも耐えて自己の精神的独立を現実に守りおおせていること、いや、まだ蛹の状態でしかない学生やわかい労働者たちですら、日本の学生や労働者とは決定的にちがった志を堅持しえていることを、堀田は、『歴史』のなかで、自分自身の、ひいては日本の知識人たちのあいまいさにひきくらべながら、羨望をこめて讃嘆していると言ってもいいくらいです。

 この作品の重要な登場人物の一人である周雪章のつぎの感慨は、作者である堀田そのひとが彼女に仮託して言わせているのだと考えてもいいでしょう。

《(……)けれども、彼女にはどうしても解せないことが一つあった。左翼の文献で日本語訳のないものはほとんどないらしい。それも、中国のそれのように不完全な訳ではなく、たとえ○○や××が入っていたにしても、みな立派な訳であるらしい。それなのに、いったいなぜ日本には革命がなかったのか? 竜田の姿がちらと思い出た。日本の知識階級とは、本当に知識だけの階級なのだろうか?(『歴史』p.291)》 

 竜田とはこの作中で唯一の日本人の知識人。堀田が自分自身をモデルに造形したと言ってもいい人物のことです。この彼が自分自身の生きかたについて自省しているつぎの部分にも、作者自身の感慨がよくわらわれています。

《(……)彼はつねにその目的、名目に照して自己の行動を正当化しないではいられない。それは、自分が、自分だけが主人公でありヒーローであると思い込んでいい気になり、物語を、また舞台を破ってしまう小説や芝居中のつまらぬ副人物に似ている。観客だけが彼の存在を証す。観客がいなくなれば、彼はない。けれども、自己の行動を正当化したりするよりも先に、自己の踏み歩いている道程そのものが歴史を、小説を、芝居をつくるのだ、と深く自覚した人間にとっては、目的は既に生活化されているわけであろう、いかなる敗北、苦難が訪れても彼は黙々として生活し、押しかえしてゆけばいい、他の人々とともに。目的が深く生活化されていない人々のばあい、その目的にたとえ一時であろうとも翳がさしたとすると、自己救済と自己正当化、孤独からの逃亡だけを念じた行為は、その翳りの濃さに正比例して動揺する。(『歴史』p.125)》

 ところで、『時間』のなかでは、とりわけ、主人公陳英諦の苦悩が最高に達する瞬間に、中国の自然と風物がその悠久の風貌をあらわします。いや、自然だけではなく、そのなかで人間の手によってつくられた人工物がまさに自然全体にも匹敵する重みをもって登場してきます。彼が瓦礫のなかに発見した鼎はその象徴です。それは「瓦礫の只中に三本足で揺ぎなく力に満ちて存在し、あらゆるエネルギーを一点に凝縮して沸々と湧き立たせている」のです。この「黒い鼎一箇は、紫金山と優に相対しうる」。

 その重みに打たれて、陳英諦は決意します。先に彼は、戦争の語法、小説の語法で語ってはならぬと言ったが、今後はこの鼎の語法で語ろう。この鼎のようなものを「たてにとらないと」これからのちのことはとうてい「筆にも口にもできない」だろうから、と。
 そして、この鼎が「無電を打つ」と考えたら、「はじめて笑いだしたく」なるのです。「アスファルトのように凝り固った憎悪を溶かすものは笑いだけ」だった。

以上で引用はおわり。
 もし時間が割けたら、おいそがしい毎日ではあるでしょうが、堀田のこの『時間』と『歴史』だけでもお読みいただけないかと思います。

堀田はもはや現代の作家とは言えません。
むろんこの世にはもういない。

 いまさかんに作品を発表しているわかい作家や批評家たちからも、おそらく、かえりみられることはないでしょう。
しかし、わたしたちのこの国がこの先東アジアのなかでどのように生きていけばいいのかを考えるとき、避けては通れないなにかを示唆してくれてはいないでしょうか?

彦坂 諦
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