彦坂諦さんの論考(1)「河村市長への抗議文」への返信への返信 3/6 |
皆様 こんばんは。増田です。先日の投稿「『河村市長への抗議文』への返信への返信」に対して、作家の彦坂さんから、長文の・・・増田サンなど及びもつかない(笑)・・・論考が示されました。なにしろ長いので、私もまだ斜め読みで、これからプリントアウトして読もうと思っています。 とっても長いのですけど、でも、彦坂さんも書いていらっしゃるように、私も「とってもたいせつなこと」と思いますので、2回に分けて、ご紹介させていただきます。? 増田さん、みなさん、 とってもたいせつなことですから、これは、増田さんにあてた手紙のかたちで書きますが、どうか、もしすこしでも心ひかれるところがあったら、全文を読んでください。 それにしても、このようなひとを学校教育の現場から追放できる「東京都教育委員会」とはそもなにもの? 「教育」とはなになのかがまったくわかっていないこんなひとたちに「教育」など「指導する」資格がないどころか「教育」について語る資格さえありませんね。 かなりの分量になりそうなので、2回に分けてお送りします。これはその1回めです。 文学作品を読んだり書いたりすることをしごととしているひとりの人間として、つぎの3点を、つけくわえておきたいとおもいます。 1.「両論がある」と見る姿勢では真実に近づくことはむつかしいでしょう。 1「両論がある」と見る姿勢では真実に近づくことはむつかしい。 増田さんの言いかたを借りれば、この問題に関してはもともと「一論」しかないのです。 研究者はおおぜいいました。民族的にもさまざま、国籍もいろいろでした。 この結論を認めたくないひとびとがいました。 そのひとびとは、せめて、この結論の持つ力あるいは重みを半減させようとした。 一般的であった「説」に「異議」をとなえるのではなく、これは誤りであるとまっこうから否定した。「南京大虐殺」など幻だ、そんなものは存在しないと断言したのです。 そのことによって、どういう効果がもたらされたか? 増田さんも正確に指摘しているように、 むろん、こうした「印象」を「国民」のなかに定着させていくには、この国の主要な大手出版社や大新聞の強力な援護射撃があったのですね。 ある「説」ともうひとつの「説」とがまっこうから対立しているという「事実」をつくりあげることに成功すれば、 その結果、どうなったか? 「両論がある」という状態は、現にあった「論」の価値を貶める目的で、きわめて意図的につくりあげられたものだったのです。 2.この種の戦争犯罪にはそもそも「物証」などないのがあたりまえではないか? 歴史研究においても、「文書」と「物証」と「証言」とは重要な「証拠」です。 端的な例をひとつあげておきましょう。1945年8月、アメリカ占領軍の進駐にそなえて、 「大日本帝国軍隊」の首脳部は、発見されては不利だと思われる文書(ぶんしょ)はすべて焼却するなりなんなりして処分せよ、という命令を出しています。 後日の証拠となりうるものはすべて消してしまのが「大日本帝国軍隊」の姿勢でした。 そのことを考慮しないで、書かれた証拠(軍の公文書)がないからその事実はなかったのだ、などと言うのは、根本的にまちがっている。 「書かれた物」としての史料にはおのずから限界があります。それを書いて残す者と一方的に書かれるだけの者との落差あるいは断絶です。 この反省から、近年「オーラル・ヒストリー」つまり現にそこを生きたひとたちの体験や見聞を聴きとって、それにもとづいてその当時のその場での事実やできごとを再現していくという作業、これを歴史研究の一翼として正式に認めようじゃないかという気運がたかまり、いまではもうすっかりこれが定着しています。 ところで「物証」ですがね。 ポルポトによる虐殺現場には無数の人骨が残っていた。 これらは有力な「物証」でありえたでしょう。 しかし、旧日本軍将兵が殺したひとびとに関するかぎり「遺骨の調査」など現実的に不可能なだけでなく意味はないだろう、とわたしは考えています。 これもまた、増田さんが正確に指摘しているように、 「南京事件」にかぎらず、旧日本軍がアジア各地でやりまくった殺しに関してもおなじことで、その「物証」などまずほとんど残っていないでしょう。 個人の犯罪における「物証」と、軍によっておこなわれた戦闘行為における「物証」とは、そもそも、その意味も比重もことなるのだということです。 3.軍事行動の一環として(将兵が)殺すことと個人が他の個人を殺すこととはおなじで はない。 旧日本軍による南京占領にともなってひきおこされた大量殺人は、個々の兵による「行きすぎた」行動であったのではなく、軍としての戦闘行動の一環であったのだということをきちんとおさえてから議論することが肝要なのではないか? 増田さんが紹介してくれた、南京戦当時の「第16師団」長中島今朝吾の日記からも、そのことははっきりと読みとれます。 ところが、これを一部の将兵のいきすぎたふるまいであったと考える風潮はいまでも根強く残っています。 増田さんが挙げている石川達三は雑誌の特派員として南京戦がおわってから現地に足を踏みいれているのですが、つぎに引用する火野葦兵の文章は、火野が、軍の報道部に所属する兵隊として、当時広東にあった南支派遣軍報道部発行の軍内部向けパンフレット(1939(昭和14)年8月15日日付)に掲載するために書いたものです。 《率直にいえば少しく戦火のおさまった占領地域内において、残留している支那民衆に対して、幾分不遜と思える態度を以て臨む兵隊を時々見るからである。 支那人に対してどんなに威張ってみたところで、兵隊の価値がちっとも上がるわけのものでもなく、その兵隊がえらく見えるわけのものでもない。 これが、当時、事実は事実として認めようとするきもちをきちんともっていた軍関係者(と言っても、火野は将校ではなく兵隊でした)の表現しうるぎりぎりの線でした。 もうひとつ例をあげておきましょう。 当時中国に派遣されていた日本軍の最高司令官であった松井岩根大将が、戦後、戦犯として巣鴨拘置所に収監されていたときそこで教誨師をしていた花山信勝に対して語った告白のなかからもこういった見解はうかがえます。 それだけじゃなく、この松井大将の告白からは、当時の陸軍部内にどのような空気がただよっていたかがじつによくわかります。 日本軍による南京占領の直後におこなわれた「慰霊祭」において、松井は、中国人の戦没者もあわせて慰霊しようとしたが、参謀長らの強硬な反対にあって、実行はできなかった。 「ところが、このことのあとで、みなが笑った。甚だしいのは、或る師団長の如きは『当たり前ですよ』とさえいった」(花山信勝『平和の発見』) このとき総司令官松井大将の「訓辞」をせせらわらった師団長とは、増田さんが引用している「第16師団」長中島今朝呉中将そのひとです。彼は「強姦の戦争中は已む得ざることなり」と言ったとのこと(洞富雄『決定版・南京大虐殺』)です。 増田さんの挙げているこの中島今朝呉中将の日記からくみとれるのは、当時中国に派遣されていた日本軍では、敵軍の将兵を「捕虜」にはしない「方針」であったという事実です。 しかし、なによりの理由は捕虜を収容して食わすだけの経済的余裕がなかったことです。 捕虜にしないで、では、どうするのか? もういちど言います。 個人が、個人的動機によって、個人を殺すのと、南京で旧日本軍将兵が大勢の中国人を殺したのとでは、行動の質において、決定的なちがいがあります。 補足をひとつ。 何人以上殺せば虐殺と言える、何人以下ならそうは言えない、などというギロンをおおまじめにするひとたちがいます。 なんとかして低く見つもって、死んだのはこれこれこれくらいでしかなかった、これではとても「虐殺」とまでは言えないのではないか、と言いたいのですね。 日本国以外の国々でなんと呼ばれているのかを知っておくのもわるくないでしょう。 英語以外でなんと言われているかをあげても衒学的と思われるだけでしょうから、英語表現だけにとどめます。 「Nanking Atrocities」というのがもっとも一般的な表現です。「Nanking」は「Nanjing」 と表記されることもある。中国語の発音をなぞっているのだから表記が相違してもあたりまえ。 「atrocity」とは「極悪・残虐な行為」を意味する語です。「兇行」と訳されることもある。注意していただきたいのは「Atrocities」と複数形がつかわれていることです。 「The Rape of Nanking」という表現もあります。「rape」とは、もともと「力ずくで奪う」「強奪する」ことを意味する語で「強奪」「略奪」などと訳されます。そこから女性に対する「性的暴行」という意味が派生している。この表現が定冠詞つきで用いられているのも象徴的です。 これらのどの表現をとってみても、「南京事件」といったごまかしの表現などとは縁がありません。 名指すべきことを正確に名指す。これが出発点でなければならないでしょう。 もはや言うまでもないことではありますが、 たったひとりを殺したとしても、 彦坂 諦 |