1土肥元校長が勝訴されたら? 2『私を生きる』のフィクション部分!?1/4 |
1、土肥校長が勝訴されたら 土肥元校長は、2008年、「都教委に、ただ一人、反旗を翻した校長」というキャッチコピーによって、たいへん、もてはやされました。「都教委による職員会議挙手採決禁止に反対して、都教委に公開討論を申し入れたり、都教委の横暴を内部告発した」ということが、その根拠となっていました。私は、しかし、彼の『行動・実践』に大きな疑問を抱きました。 そこで、土肥元校長がマスメディアに華々しくデビューなさった時に、「『日の丸・君が代』不当処分撤回を求める被処分者の会」事務局長の近藤徹さんがMLに投稿されたもの(「パワー・トゥ・ザ・ピープル」というHPhttp://wind.ap.teacup.com/applet/people/linkに載っています)に対し、2008年8月半ば、以下の疑問を呈した投稿をしました。 <土肥校長への疑問> 近藤徹様、皆様 こんばんは。犯罪都教委&3悪都議と断固、闘う増田です! 近藤さんが書かれた「処分撤回を求めて(85)」を読み、件名、土肥信雄都立三鷹高校校長の言動に対して疑問を2点もちました。近藤さんや皆様で、お答えいただければ、と思います。 ☆疑問その1 しかし、「自由の風」HPによると、土肥校長は『「私の学校では挙手・採決の禁止通知はきちんと守っている。個人的には通知に反対ではあっても法に準ずるものである以上、守るのは当然。」とおっしゃった』と明記されています。 つまり、土肥校長はご自分が「校務をつかさどる」(改悪「教基法」、改悪「学校教育法」でも変わっていません)三鷹高校において、都教委による「職員会議の挙手採決禁止」に対して従順に服従してらっしゃるのではないでしょうか? この行動は、都教委通知に対して「公然と反旗を翻し」と評価できるものでしょうか?
都教委によって 「注意処分を受ける」という事実があったところで、「法」の上では、「校務をつかさどる校長の権限」を実行したことでの処分など本来、都教委は校長に出す権限はありませんし、「注意処分など、事実上『処分』ではない」のですから、何度受けたところで「校長の権限に介入する都教委の越権行為である」と、それこそ、公然と抗議していればいいでしょう。 もちろん、数ある都立高の校長の中で「職員会議の挙手採決禁止は間違っている。都教委は、この通知を撤回すべきだ」と「言葉で言うこと」、「公開討論を求めること」をする勇気を持つ校長が「ただ一人」という事実の中では、勇気ある校長さんであることを私は認めます。でも、私は「言葉で言う」勇気があるなら、自分が「校務をつかさどる」学校において、それを実践する勇気がないのはなぜだろうか? と疑問を持つものです。 ☆疑問その2 そして、土肥校長は自分の校長としての職務命令に反して不起立をした教員に「厳正な処分を求める事故報告書」を書いて都教委に処分させましたよね? 土肥信雄都立三鷹高校校長は、この自分の行為を「民主主義に反するもの」とお考えにはならないのでしょうか? 都教委に対して、10・23通達の「撤回を求める公開討論」については要求なさらないのは、なぜだろうか? と疑問を持つものです。 <反論・・・らしきもの!?> @ 増田さんは、自分だけが正しいと思っているようだ。自分の考え方や方法だけが正義だというのは、他人を一切認めないファッショ的な感性だ。 @ に対して A に対して 『反民主主義』を実行・実践し、『都教委との共犯者』となり、しかも、それを恥ずるどころか「都教委の通知(通達)は『法律に準ずるものである以上』、校長たるもの、都教委の通知(通達)が、たとえ『反民主主義』であっても、それを『きちんと守ることは当然』、つまり『反民主主義』を実行・実践することは当然だ」と正当化し誇っている人物を支援することは、「民主主義を守る」ことでしょうか? B に対して 土肥校長が、口では「職員会議挙手採決禁止は民主主義に反する、「日の君、不起立教員」を処分することは民主主義に反すると「思っていて」、しかもそれを大声で「言葉にして周りに発信」しながら、その反民主主義を実行・実践していたことを誇る土肥校長については、全く怒りを感じず、その事実を指摘する私に対して「怒りを感じる」のはなぜ? C に対して 要するに、土肥元校長の称賛者の誰一人、「土肥信雄・都立三鷹高校校長は、都教委による『言論・表現の自由』弾圧の通知・通達に抗うことなく忠実に従って・・・それを土肥さん自身『法に準ずるものとして、きちんと守っている』『法令遵守は私のポリシー』と大いに正当化し誇っています!?・・・職員会議の挙手採決はしない、ということを実行・実践し、『日の君、強制』職務命令を出して不起立教員を処分させるという実行・実践をし『都教委との共犯者』となっていた」、つまりは『反民主主義』を実行・実践した人物である、という事実を否定することはできませんでした。 それは日本が侵略戦争をした、という歴史事実と同じくらいの歴史事実になっているのですから・・・でも、「日の丸・君が代」強制反対、「学校に自由を!」と主張する人たち(もちろん、全部ではありません)は、この真実を何が何でも認めたくない、という意志が強烈なようなのです。なぜでしょうか? <結論> 土肥元校長の主張の中心点は、都教委によるオールC評価(勤務成績不良)は事実に反する、というものです。なぜなら、「(※都教委からの指示命令に対して)法令遵守は私のポリシー(※なので、全て、きちんと守った)。『職員会議に於いて教職員の意向を聞く挙手・採決の禁止どおり、三鷹高校では意向を聞く挙手・採決はやっていない』『卒業式では(※「日の君、立て・歌え! そうしないと処分だ!」という)職務命令は通達どおり出した。(※そして、不起立教員は処分するよう報告を書き、都教委に処分させた)』」(2009年11月5日の口頭弁論における土肥元校長の意見陳述 「土肥元校長の裁判を支援する会」ブログhttp://dohisaibansien.blogspot.com/2009/11/blog-post_07.html ※は増田の補注) 自分は、都教委の言うとおりに都教委の指示命令に抗うことなく「法に準ずるものとして遵守」して学校運営をしてきたので「勤務成績」は優良となるはずであり、「勤務成績不良」という事実は存在しない・・・ これは、悪名高い「君が代」伴奏拒否処分を正当とした最高裁判決、そして、「日の丸・君が代」不起立処分を正当化した(1月16日に「停職処分」は裁量権の乱用として取り消されるようですが)最高裁判決の論理そのものではないでしょうか? その根拠は「内心ではいくらでも『反対だ、そういう行為をしてはならない』と思っていてもよいのだから、内心・思想・信条の自由は守られている。したがって、公務員は全体の奉仕者として、心では『日の丸・君が代』に『反対だ』と思い、口でそれを表明していても、上司の職務命令に忠実に従ってその反対の行為(※起立・斉唱、ピアノ伴奏などの行動・実践)をなすべきなのだ」ということでした。 私は、この最高裁判決を目にした時、「そんな無茶苦茶な・・・『民主主義に反し、間違っているから反対だ』と内心で思い、口で表明しながら、その反対の行為(反民主主義の行動・実践)を為すことなど、できるはずがない。内心と外形的行為とは切り離すことはできない。」と、呆れました。 しかし、土肥元校長の言動を目にした時、「そうかっ!? いらっしゃったのだ・・・内心と正反対の行為を、誇りをもって、できる人がっ!? 都教委による職員会議挙手採決禁止や10・23通達は『民主主義に反し、間違っている、反対』と内心で思い、それを内心で思うだけでなく、声高に唱えながら、行為(行動・実践)においては、その『民主主義に反し、間違っている、反対だ』ということと正反対に、職員会議挙手採決禁止通知や『日の丸・君が代』強制10・23通達に抗うことなく従って、職員会議では挙手採決をせず、『日の丸・君が代』は強制し、不起立をした教員の思想・信条の自由を弾圧し、しかも、その行為(行動・実践)を『法令遵守している』と声高に誇らしく語れる人が・・・」と、呆気に取られました。 つまり、土肥元校長が勝訴されるとすると、それは、彼が口では職員会議挙手採決禁止や10・23通達は「民主主義に反し、間違っているから反対だ」と声高に唱えても、その「反民主主義だ、間違っている、反対だ」という内心・思想・信条の表明とは正反対の反民主主義の行為(行動・実践)を、都教委の指示命令どおりに為したことが、裁判官(司法)によって評価された・・・「成績優秀」と・・・ということになるでしょう。 これは裁判所(司法)が、「口では声高に反対を唱えても、外形的行為(行動・実践)においては抗うことなく、行政上位者の指示命令どおりに口と正反対のことを為す」ということを評価し、「土肥元校長を見習って、口で反対を唱えても、都教委(行政)=上の地位の者の指示命令は全て忠実に実行・実践すれば、不利益がないようにしてあげるからね!」と推奨する、ということになるのではないでしょうか? もしも、こういう勝訴判決が出されたとしたら、私は「日の丸・君が代」強制に反対し、「学校に自由を!」という主張の助けになるどころか、むしろ有害だろうと思うのです。 付言しますと、敗訴なされば「反民主主義で間違っているから反対だと、声高に表明した場合は、行為(行動・実践)においては口での反対表明とは正反対に、抗うことなく行政上位者の指示命令に従ったとしても、『成績不良』に値する」ということになり、口まで封じられますから、これはまた、もっと困ることになりますねぇ・・・ ********************************* 2、「ドキュメンタリー」映画『私を生きる』(土井敏那監督)のフィクション部分 しかし、上記した土肥元校長の『教育現場での』行動・実践、主張は、このキャッチコピーに反しているのではないでしょうか? 他のお二人、根津公子さん・佐藤美和子さんを描いた部分と違い、土肥元校長の部分はフィクション・ストーリーになっていませんか? 都教委の指示命令に抗うことなく従い「都教委との共犯者であったこと」を誇り、「都教委の指示命令を法令として遵守することは私のポリシー」と正当化している人物を「『教育の統制』の巨大な流れに独り毅然と抗い、“教育現場での自由と民主主義”を守るため、弾圧と闘いながら、“私”を貫く教師」、都教委と「凛として闘う教師」として映し出すのは、ブラック・ジョークではないでしょうか? 私は、この「ドキュメンタリー」映画の「完成前の最後の編集のために率直な意見を聞きたい」という土井敏那さんの意向を受けて開かれた明大での会議に出ました。そして、土肥元校長についての上記真実を伝え、「こういう描き方をすることは間違っているから、土肥部分はカットすべきだ」と率直に意見を述べました。 その時、土井さんは、かなり、感情的に言われました。 「私は、確認しているから、もう確認の必要はないんですよ。確認するのは、あなたの仕事でしょう? 土肥さんに、私が言ったことが事実かどうか、確認するのは、あなたの責任です。 根津さん・佐藤さんは『民主主義に反し、間違っているから反対だ』と思うことは『できない』と表明し、その反対の心を真っ直ぐに実行・実践(行為)している人たちです。 でも、土肥さんは、彼女らとは正反対ですよ。『民主主義に反し、間違っているから反対だ』と言ってることとは正反対に、『民主主義に反し、間違っている』と言っていることを実行・実践しているんです。しかも、『法を守るのは当然』と正当化し、それを誇っています。どうして、根津さん・佐藤さんと同列に描けるんですか?」 しかし、土井敏那監督は聞く耳を持ちませんでした。なぜでしょうか? <最後に> 都教委の指示命令に対して、心の中では「民主主義に反し、間違っているから反対だ」と思っていても、 都教委の圧力によって、自己の地位・安全を守るためにやむを得ず、「民主主義に反し、間違っているから反対だ」と思い、口で表明したことと正反対のことを実行・実践してしまうことも、大いに有り得ることだと思っています。 でも、「普通の良心」の持ち主の場合は、「あの時は、自己の地位・安全を守るために、やむを得ず、都教委の指示命令どおりに『民主主義に反し、間違っているから反対だ』と自分では思っていたことを実行・実践してしまったが、今は、それを、とても恥ずかしいと思っている」というような、自己批判や反省の弁を表明なさるのではないでしょうか? 「普通の良心」の持ち主の場合は、自分が「民主主義に反しているから間違っている、反対だ、と声高に表明したこと」と反対のことを実行・実践しておいて、都教委の指示命令は「法に準ずるものとして、きちんと守っている」、都教委の指示命令に対して抗うことなく従うことは「法令遵守は私のポリシー」だから当然、などと、誇りを持って正当化表明をなさることは有り得ないと思うのです。 したがって、口では声高に反対表明しながら、行動においては、都教委の指示命令に抗うことなく従い実行・実践したことを誇り正当化する、こういう土肥元校長を「都教委による『教育の統制』の巨大な流れに独り毅然と抗い、“教育現場での自由と民主主義”を守るため、弾圧と闘いながら、“私”を貫く教師」、都教委と「凛として闘う教師」として描きだすことは大間違いだ、と私は思います。 私は「言葉」は、とても大切だと思います。何を言うか、それはとても大切だと思います。でも、行動・実践=何をしてきたかは、さらに大切だと思うのです。 <蛇足ながら・・・> 生徒たちは、土肥さんが都立三鷹高校で校長として、『都教委との共犯者』となって、都教委の指示命令どおりに教職員「弾圧」を実行・実践していた事実情報を全く知らないので、こういう『卒業証書』を書いて渡した、つまり、土肥さんの言葉を信じ切って、客観的には土肥さんの言葉に騙されて、こういう『卒業証書』を書いて渡したのだろうと思います。 「普通の良心を持っている人物」には、言葉で公然と声高に「民主主義に反し、間違っているから反対だ」と表明していることとは正反対に、その「間違っていること」に抗うどころか、誇りをもって実行・実践することは不可能なので、生徒たちには、土肥さんが校長として、都教委の指示命令どおりに三鷹高校の教職員「弾圧」を実行・実践したことなど夢にも想像できないでしょう。この事実情報を知っていたとしたら、生徒は、こんな『卒業証書』を書いて渡したでしょうか? 土肥さんは、自分が校長として、言論・表現の自由、思想・信条の自由を弾圧する『都教委との共犯者』となり、都教委の指示命令どおりに教職員「弾圧」を実行・実践したことを誰よりもよく知っています・・・それでいながら、その事実を全く知らず、自分を信じ切っている生徒たちから、こういう称賛の卒業証書をもらった、と新聞記者に報道するよう見せたり、講演などでもよく喋っていらっしゃるようなのです。 土肥さんは「生徒を騙すつもりなんかなかった。ただ、事実の全ては知らせなかっただけだ。」といわれるかもしれませんけれども、その神経は、私には不気味です。 成人した大人の場合は、土肥元校長の反民主主義の行動・実践には目を堅く閉じて、「口で公然と職員会議挙手採決禁止に反対した。声高に都教委の横暴を暴きたてた。」という一面のみを持ち上げ、「都教委に公然と反旗を翻した勇気ある校長」「『教育の統制』の巨大な流れに独り毅然と抗い、“教育現場での自由と民主主義”を守るため、弾圧と闘いながら、“私”を貫く教師」、都教委と「凛として闘う教師」と描きだすことも・・・私は間違っているとは思いますけれど・・・それはそれで、その人の「自由」ですから、いいとしましょう。 でも、事実を知らない教え子から手に入れた、自分に対する称賛の文書を「これを見てください! 私は、こういう『卒業証書』を教え子から贈られるほどの教師なんですよ」と他人に公開するなんていうことは「普通の良心」を持つ人物には、できることではないと思います。 この、客観的には生徒を騙して手に入れた「卒業証書」を何のてらいもなく公開していらっしゃるのを見ると、私は土肥元校長という方は、相当の長期間にわたって他人を欺くような生活をしていらっしゃった方なのではないか、という印象を持ちます。 *その2 三鷹高校校長として、それを許可したわけですね・・・でも、これって、土肥さんが校長としての権限を「私」用に使ったことを意味するのではないでしょうか? 根津さんや佐藤さんが勤める都(公)立学校の校長に、彼女らを「『教育の統制』の巨大な流れに独り毅然と抗い、“教育現場での自由と民主主義”を守るため、弾圧と闘いながら、“私”を貫く教師」、都教委と「凛として闘う教師」として描く映画を撮るために、彼女らが「学校内の下駄箱の所で生徒に声を懸けているところや部活指導しているところなどを撮らせてください」と土井監督が許可を求めた場合、校長は絶対に許可など出さない、と私は思うのです。 確かに、土肥元校長は「『私』を生きる」ことを実践していらっしゃる!?(笑) |