「沖縄平和行進、普天間包囲行動」報告10/5/18

ヘリ基地建設反対協テントで安次富さんの説明
<2010年、東京全労協「沖縄平和行進、普天間包囲行動」に参加して>
                         
 5月14日(金)から17日(月)まで、「復帰38年 第33回 沖縄平和行進」に東京全労協22名の一人として参加してきました! 東京全労協では毎年、参加者を募集していることを知ってはいましたが、なにしろ「超!? 炎天下で何十キロと歩く」と聞いていたのでオジケづいてしまい、遠慮していました。しかし、今年はなんといっても普天間基地問題が大きく動くか、というところであり、「今年は、そんなに歩かない」と耳寄りな情報!? もあり、また、友人が沖縄在住の沖縄戦研究者と結婚して沖縄に移住しているので、彼女と再会できるという、少々不純な動機もありで、ガンバロー! と・・・

 羽田に集合した参加者を見ると、5歳の可愛い坊やから75歳の方まで幅広く「うん、これなら、何とかなりそーかな」と思いましたが、さて・・・


沖国大に墜落したヘリを防護服を着て調査する米軍関係者
●5月14日(木)、11:20那覇空港着、辺野古海上行動

 なんと・・・東京はカラリとした晴天だったのですが、那覇空港は雨。沖縄の入梅は知っていましたが「天気予報では『那覇は曇り』のハズだったのになぁ」と思いつつ、バスへ。那覇空港は軍民共同使用・・・元々は1933年8月に旧日本海軍が建設した小禄飛行場が前身ではありますが・・・自衛隊の戦闘機が目立つように飾ってありました。かなり自衛隊が占有している面積は広そうです。

 バスの中で昼食のお弁当を食べ、辺野古到着は午後1時くらいでしたか、雨は降りしきっています。さっそく、ヘリ基地建設反対協議会の座り込みテントへ。写真のように、海上基地建設阻止のための座り込みは2217日め! 雨の日も風の日も嵐の日も一日も休まず・・・

 ヘリ基地建設反対協の安次富浩・共同代表から説明を聞きました。全く初耳だったのは、沖縄国際大学に普天間基地のヘリコプターが墜落した時、写真のように「黄色の完全防護服を着た米軍関係者が調査していた」ということです。このことについては全く報道がなかったように思います。普天間基地の米軍ヘリは放射性物質を積み込んでいるんでしょうか? 部品!? に放射性物質を使っているのでしょうか?

 次に若い方の操縦でグラスボートに乗って海上に出ての説明もしていただきました。「あそこが、鳩山さんが来て立ったところです」と海から崖の上のその場所を示してくれました。そこから美しいサンゴ礁の海を見て「埋め立ては環境破壊だが、くい打ちは環境を破壊しない」なんて、いったい、どうしたら、そんな荒唐無稽な考えが浮かぶんだか・・・説明では、もう、海から見えるキャンプシュワブの中では新基地関連隊舎が工事中で海に続く斜面の「あそこの白いコンクリートのところがちょうど10メートルで、あそこの高さまで埋め立てる、というのです」・・・そんなことになったら、海は完全に死ぬことはド素人にも一目瞭然。

 突然、一緒に乗っていた5歳の坊や「あっ! 海の色が変わったよ」と船の真ん中の海の中が見えるガラスを覗いて言いました。それまで、辺野古沿岸は浅くてサンゴ礁や海草(ジュゴンの食べ物!)がずっと見えていたのですが、そこは、ただ淡いコバルトブルーが見えるだけでした。「そうです。大浦湾に入りました。ここは急に30メートルの深さになっています。だから、新基地を建設すれば、ここには大型揚陸艦も入れるんで、米軍はそれを狙っているんですよ」・・・

 海上での説明は40分くらい(たぶん)で船は汀間(ていま)漁港に着きました。強い風の中の小さな船は、進むたびに波しぶきをザッパンザッパンと浴び続け、唇をなめると塩味が!? バスに乗り、乾いた顔を触るとザラザラと辺野古の海の天然塩が・・・着ていたビニールカッパも塩味になっていました。
夜は美味しい沖縄料理で交流会。
辺野古座り込みが2217日になった!


東京全労協の仲間
北中城村役場

●5月15日(土)、平和行進東コースに合流、県民大会参加
 朝から雨・・・「来る前の天気予報では『曇り時々、雨』のはずだったのになぁ」・・・バスで東コース出発地の北中城(なかぐすく)村役場に集合。写真のように庁舎の外壁に「政府は日米地位協定を抜本的に見直せ  北中城村(写真では「村」の字が切れています)」と立派な横幕が・・・本土のお役所では考えられない・・・保守の政治家さんたちが大好きな『愛国心』があれば、本来、日本全国の役所の外壁に張り出されてあってもいいのに、と思うのですけど・・・

 本当は平和行進は14日の朝から始まっており、沖縄本島を東コース、西コース、南コースと3つのコース(このほかに宮古島、八重山でも)に分かれて2日間歩き、15日午後の宜野湾海浜公園屋外劇場の県民大会に全員集合することになっています。1日めは20キロ行進し、2日めが10キロということなので、私たちは2日めに東コースに合流したわけです。旗を見ると、大阪・京都・三重・熊本等、全国からの参加者で約800人くらいでしょうか。

 雨の降りしきる中、スニーカーは、もう水でズブズブですが、「基地の県内移設を許さない」「米軍は沖縄から出ていけ、日本から出て行け」「米軍と自衛隊の共同訓練反対」「日米地位協定を改正せよ」等、シュプレヒコールを繰り返しながら、ゆっくり歩きます。大きな道路の両脇がずーーーっと鉄条網で仕切られ、どこまでも手入れの行き届いた芝生の中にたくさんの米軍住宅、ゴルフ場、大きなスーパー(みたいな建物)、何十台とあるスクールバスが見えました。これらにかかる費用はみんな日本の税金から出ているのでしょう。

 どこまでも続く米軍基地の鉄条網を両側に見ながら歩いていくと本当に「基地の中に沖縄がある」ということが実感できました! 米軍の占領状態は継続しています。ここは沖縄海兵隊のキャンブ・バトラー(瑞慶覧ずけらん)司令部になっていて、その司令官は全在沖米軍の4軍調整官を兼ねているとか。

 米軍基地が途切れ、ハンビー・タウンの繁華街を抜けて、昼食場所のアラハ・ビ−チ(安良波公園)・・・とても綺麗なビーチ・・・に着いたら、あな嬉し! 雨がやみましたゆっくりと海を見ながら配られたお弁当を食べ、出発前の簡単な集会では北谷(ちゃたん)町の町長さんのご挨拶がありました。「このハンビー・タウンは、米軍ハンビー基地の返還後の跡地再開発で作られました。基地の従業員よりもたくさんの雇用が実現できたんです」といわれたことが印象に残りました。

 しっかし、しかし、なんと、このご挨拶のころから、また雨がポツポツと・・・いやな予感がしたのですが、進むごとに大雨に・・・でも、この雨中の行進にわざわざ家の中から出てきて手を振ってくださる方、車の中から手を振ってくださる方がいらっしゃって、とても励まされました。どこでも、おばあさんが多かったような・・・

 県民大会の宜野湾海浜公園屋外劇場に到着予定は3時半でしたが、着いたのは4時半くらいでしたか・・・もう、横殴りの土砂降り・・・座っているビニールガッパの膝にたまった雨水がボタンの間からズボンにしみてきて泣けそう状態。でも、実行委員長の崎山嗣幸沖縄平和運動センター議長が「38年前のこの日も、こんなすごい雨でした。38年間、沖縄は何も変わっていません」と切り出され、なんのこれしき!? 「沖縄がこれ以上踏みにじられれば、怒りは頂点に達するでしょう。この大会を、県内移設は断固として認めないという意思表示をする大会にしましょう」とも。

 宜野湾市の伊波洋一市長は言われました。「復帰後、沖縄の基地はさらに強化されました。本土の米軍基地は65%(だったと思う)減っているのに、沖縄米軍基地は18%しか減っていません。それは、なぜでしょうか? 本土で減った部隊が沖縄に移ってきているのです。元々、海兵隊は沖縄にいませんでした。山梨と岐阜(間違っているかも)から沖縄に移ってきたのですよ。復帰後も県内の基地が強化されてきたのは政府が歯止めをかけなかったからです。明日の普天間包囲行動をなんとしても成功させ、日本政府に対して県内に新たな基地を作らせない、という意思を示しましょう」

 グアムや韓国、フィリピンからも反基地運動の方たちが参加され、連帯の挨拶をされました。「フィリピンではクラーク米軍基地など全部がなくなったが、18年たっても外国から侵略されていない。『米軍は抑止力』などというのは最大の神話だ。返還された土地に企業が進出し、教育や娯楽のための施設ができた。米軍の植民地主義は大きくて手ごわいが、市民の力はそれ以上に強い。戦い続けよう」「米軍基地はどこにもいらない」「基地を米国へ持ち返らせる闘いを全国で展開しよう」等々・・・全く、同感。心から「そうだー!」「そうだー!」と、声が出ました。

 豪雨の中の大会参加者は3800人とか・・・終了後、バスに戻りました。私は足がびしょ濡れで、帽子のひさしから髪が濡れてそこからブラウスの襟が濡れたため首周りが少々濡れましたが、頭から全身びしょ濡れの人から見ればマシなほうでした。全身びしょ濡れの人は「寒い、寒い、暖房をつけて」とバス(観光バス)に運転手さんに頼みました。しかし「すみません。このバス、暖房ないんです」といわれ、お気の毒でした。沖縄の観光バスは暖房ないんですね・・・

 ホテルに帰り、フロントでたくさん新聞紙をもらって、ドライヤーも使って必死で靴を乾かし、濡れたズボンは乾燥機にかけました。夕食は豪華バイキングで、なんとスィーツも食べ放題! そこで、しっかり夕食をとった後、ブルーシールのアイスクリームをデザートに5個食べてしまいました! 美味しかったです! 一個一個はとっても、小さいカップなんですが、同席の方々に驚かれてしまいました。


●5月16日(日)
 朝、目が覚め、部屋の広いガラス窓から見ると風と土砂降り!? 天気予報では大雨洪水警報・・・でも「この中を行くのですかぁ?」なんて、言ってはいられません。「えいっ! こうなったら、なんとでもなれっ!」です。本日は、宜野湾市の中心部にある米軍普天間飛行場の無条件返還を求める「普天間基地包囲行動」。この実行委員会では中部7市町村(宜野湾、沖縄、北谷、西原、読谷、中城、北中城の各市町村)の首長が共同代表を務めていらっしゃるそうで、こんなことは沖縄でも初めてだそうです。それだけ、沖縄米軍基地と日本政府への怒りが渦巻いている、ということですね。

 バスで昨日と同じ宜野湾海浜公園屋外劇場に集合、出発集会。ここで昼食のお弁当の予定が、な、な、なんと、「手違いで、お弁当はありません」!? とか・・・「いいよ、いいよ、朝のバイキングで食べ過ぎるほど食べているし、ダイエットになるし、第一、この土砂降り雨水でシャブシャブ弁当じゃあねぇ」・・・と、負け惜しみ!? を言いましたが、やはり、お昼を過ぎると・・・

 そこへ、昭和シェル石油労組のOBの男性が「コンビニで自分のパン買ったついでに女性にだけだけど買ってきたから、食べてください」と揚げパンを女性陣にくださったのです! 彼のご尊顔から!? 後光が射して見えました。もちろん、女性陣は後で彼に大賛辞を送りました。「おかげさまで飢え死にせずにすみました!」
 
 さて、包囲行動での東京全労協の割り当て地区は、確か「真志喜」という町でした。あんまり普天間米軍飛行場のフェンスぎりぎりのところだと人通りが少ないので「広く市民に呼びかけるため」ということだと思いますが、道路沿いに並びました。でも、私たちがいたところからは基地は全く見えず、全体の様子は分かりませんでした。でも、ラジオ沖縄の実況中継が街頭宣伝車から入り、普天間基地を包囲する周囲13キロメートルに人間の鎖がつながったようです。

 私たちが並んでいる輪の中へ、沖縄の人たちが「ここに入って良いですか?」「どうぞ、どうぞ!」ということで何人も入って来られ、話をしながら、午後2時、2時30分、3時の3回手をつなぎ、最後は何回もウェーブ! 参加者1万7千人ということで、私は1万7千分の1に入れて満足でした!

 そして、地元宜野湾の伊波洋一市長と辺野古のある名護市の稲嶺進市長が、普天間飛行場の県内移設に反対する共同声明を発表されたようです。この両氏の首長さんが連帯して頑張ってくだされば、米軍=日本政府の思い通りにはいかないのではないか、と思いますが・・・でも、なんと言っても日本政府に対して、「普天間基地を撤去せよ」と、アメリカ政府と強い態度で交渉させるようにする義務が日本国民全員にあると思います。

 本日は帽子もすっぽりとビニール袋で覆ったし、包囲行動の時以外は傘もさせたので、膝から下はずぶ濡れで、靴も絞れば水がジャーっと出てくる状況ですが、それ以外は濡れなかったので良かったです。

 それにしても、1997年、中2地理で「沖縄県」を教えるのに、NHK福岡のドキュメンメタリー「普天間基地と普天間第二小」(元々の題名は違っていたと思いますが)を見せて紙上討論授業を行い、保守の政治家(屋?)と違って愛国心ある中学生たちの多くが沖縄の人たちに同情し米軍基地批判をしたために「反米偏向教師」と攻撃されたことが、私の平和教育への弾圧の始まりだったことを思うと、感無量でもありました。

 私は日本国憲法下の教員の当然の責務を果たしたまでですと自信を持って言いますが、あのころ14歳だった生徒たちも今は27歳・・・彼らが私の授業を覚えていれば、私が教えたことは「偏向」でもなんでもなく、全くもって事実だけであったこと、そして、あれから13年経っても「普天間基地問題は解決していない」ということを、ニュースを聞きながら、思い出してくれるのではないかと期待しています。

 ちなみに、13年前の「反米偏向教育」と右翼保護者右翼3悪都議&産経新聞に攻撃されることになった中学2年生の意見を少々、ご紹介。

1、私が想像していた「美しい沖縄」とずいぶん違った。
2、でもあの小学校と十六中を喜んで変えてあげられるぐらいに、あの子達に思いやりがもてるか?

3、日本政府が沖縄の人に相談もなく全部、勝手に決めちゃって、きっと日本に裏切られたとしか思えないと思う。沖縄は独立することはできないだろうか?
4、本当に日本はアメリカに好き放題されているのがよく分かった。
5、東京も地震が心配だけど(こないと思うけど)沖縄の人もかわいそう。
先生から
 地震は天災ですが米軍基地被害は人災です。

7、力でゆうことを聞かせるなんて暴力団と同じだと思った。
8、日本は沖縄に関してアメリカの植民地みたいだと思った。アメリカは広いのだから、そこで軍事練習をしてほしい。
先生から
 アメリカは財政赤字と環境問題のためアメリカ国内の軍事基地は閉鎖ないし縮小しています。

9、アメリカ軍は日本を守ってくれると言っても今まで本当に日本のために何かしてくれたのか?アメリカは発展した国ですごいなーと思っていたけど、いまではその反対。
10、この原因は戦争なので、やっぱり戦争はよくないと思った。
11、もしも足立区にアメリカ軍基地ができたらすごい被害を受けてとても迷惑だと思う。
12、あんな軍事基地があっても戦争があるわけでもないのに何のためにあるんだろう。

ホテル前のナツメヤシ
巨大ストレッチア
1853年のペリーの挨拶
ペリーの上陸記念碑
沖縄でレイプ事件を起こし
追われて水死した米兵の墓

●5月17日(月)、自由行動!
 本日は、なんと雨が上がり、曇り! 昨日までの沖縄の雨量は5月としては記録的だったとか・・・那覇空港に午後1時30分集合までは自由時間。旧友が夫君の沖縄戦研究者の山口栄さんとともに、ホテルに9時半に迎えにきてくれました。そして、彼がホテルの前の椰子の木(写真)は「ナツメヤシですよ」と教えてくれました。本当に亜熱帯の島なんですね。赤いハイビスカスや黄色いユーナの花やブーゲンビリアや、いろいろな花が、本当に温室でなくとも育つんですね。でも、ナツメヤシまで、ちゃんと大きくなって実までつけるとは思っていませんでしたが・・・

 そういえば歩いていく中で写真のような、とても大きな白いスチトレッチアの木と花も見ました。芭蕉かと思いましたが、違っていました。芭蕉布で作った着物を売っている店を見つけて値段を見たら「127000円」とあったので、目が飛び出そうになりました。

 実はホテル(泊港のまん前)のすぐ近くに、なんと写真の「ペルリ提督上陸の碑」があったんです。1853年久里浜に来る前に沖縄(当時、琉球)に立ち寄り、1854年に琉米修好通商条約を結んでいたのです。山口さんに促されて碑に彫ってある言葉(写真)を読むと「琉球人の繁栄を祈り、且つ琉球人とアメリカ人とが常に友人たらんことを望む」と・・・同じようなことを確か現在の米軍司令官も言ってたよーな・・・ この記念碑は泊外人墓地の一角にあるので、山口さんが写真の1854年に水死した米兵の墓にも案内してくれました。村に押し入ってレイプ事件を起こしたために村人に追われた結果だそうです・・・なんともはや・・・軍隊と女性への暴力は切っても切れないものなのか・・・この記念碑のすぐ隣は県立泊高校になっていますが、山口さんによれば「敗戦までは日本軍の病院で周りに軍隊慰安所がありました」ということでした。沖縄県内に130箇所の慰安所があったと・・・

 その後は国際通りに案内してもらい、美味しいランチ。沖縄でないとなかなか食べられないもの、ということで「ナープラー(へちま)の味噌煮」「パパイヤの炒め物」「アオサのお好み焼きのようなもの(名前を忘れてしまいました)」を食べ、オリオンビールで乾杯。帰ったら体重が増えているんじゃないかと・・・

 あとは、お土産をいろいろと買い込んで(友人からもお土産をもらい)、那覇空港へ。出発前の体験者のアドバイス「とにかく、日焼け止めを持っていって塗りたくること。水分は十分にとり、暑さ対策を万全に」というのは、全く役に立ちませんでしたが、たいへん、たいへん、充実した体験でした!