山田昭次先生の素晴らしい意見書!10/5/14 |
皆様 「意見書――歴史教育や歴史研究における公正とは何か――」 *はじめに ――本意見書は歴史教育や歴史学における公正とは何かという問題を検討の主要な課題とする―― 平成21年6月11日付の東京地方裁判所民事第36部判決書は、控訴人東京都千代田区立九段中学校の社会科担当教員増田都子氏が平成17(2005)年6月下旬〜同年7月上旬に東京都千代田区立九段中学校3学年生徒に対する社会科歴史教育に際して生徒に配布した資料の内容に関して、「公正、中立に行なわれるべき公教育への信頼を直接損なう」ものという判定を下し(判決書、21頁)、東京都教育委員会がこの資料の内容を問題視して行った「本件戒告処分の取消請求に理由がない」と判定した(判決書、22頁)。 しかし、この判決は歴史教育に関して安易に「公正、中立」という基準を持ち出していると私には思われるので、本意見書は歴史教育や歴史学における公正とは何か、という問題を検討の主要な課題とする。 裁判所が教育問題に関する判決を下すに当ってまず念頭に置くべき基準は、日本国憲法の前文と第9条に掲げられた平和主義であるべきはずである。 しかしそれだけでは足らない。ここで問題となった授業は歴史教育の授業であるから、歴史教育、さらにはそれを支える歴史学研究が守るべき基準は何かということが明確にされなければならない。しかし判決書はこの点に関して言及していない。 そこで歴史研究者であり、歴史教育者でもある私の見解を述べれば、歴史教育や歴史研究はナショナリズムに陥って、他国ないしは他民族の歴史を視野から排除して独善的になってはならないということが第一の基準と考える。これは天皇制国家を賛美し、アジア諸国を蔑視した皇国史観が日本のアジア侵略と植民地支配を思想的に支えたことへの反省から導き出された基準である。これも日本国憲法の前文に言う「いづれの国家も、自国のことのみに専念して、他国を無視してはならない」という理念に一致するものである。控訴人のノ・ムヒョン大統領宛の手紙は、日本が朝鮮に対して行った侵略と植民地支配によって韓国民衆が負った被害の傷は今も癒されていない歴史的現実を視野にいれて欲しいという日本人に対するノ・ムヒョン大統領の要望に応えようとしたものであり、この第一の基準に合致するものである。 第二の基準は、身分的差別を受ける被差別部落民や民族的差別を受ける在日朝鮮人、病気に対する偏見から差別を受けるハンセン病患者などのマイノリティや性的差別を受ける女性の歴史にも眼を配ることである。1948年12月10日に国連総会で採択された「人権に関する世界宣言」第2条第1項にも「人はすべて(中略)いかなる種類の差別なしに、この宣言に掲げられているすべての権利と自由を享有する権利を有する」と述べられている。中立という美名に隠れて差別を無視することは許されない。中立という観念は人間として判断すべきことを避ける名目として往々使われるので、私はこれを基準として採用しない。 さまざまな差別に目配りするのは容易なことではない。なぜならば、差別は重層的に存在するからである。例えば、被差別部落民が在日朝鮮人を民族差別する、民族差別を受ける在日朝鮮人男性が在日朝鮮人女性に性的差別をする、性的差別を受ける日本人女性が在日朝鮮人に民族差別をする、といったことが歴史の中でしばしば存在してきた。人は大概重層的差別の中にいるのだが、差別されることには敏感であっても、他面では自己が差別する側にいることにはなかなか気づかない。歴史研究や歴史教育は自己が差別する側にいることに気づく困難さを深く自覚して、この困難を乗り越えなければならない。 第3の基準は客観的に史実を確定することである。歴史学が史実を確定する材料は史料である。しかし史料に書かれたことも国家的利害や階級的な利害やマイノリティに対する偏見によって史実が歪められていることが往々にしてある。したがって厳密な史料批判をしなければ、史実を確定できない。 このように考えるならば、歴史研究や歴史教育は容易なことではない。しかし上記の三つの基準が歴史研究や歴史教育の公正を保障するものであると思われる 本意見書は扶桑社、後には出版社が替わって自由社から刊行された中学校『新しい歴史教科書』に対する控訴人の批判が妥当であるか、どうかを検証するために、この教科書の内容が上記の基準に照らして妥当か、否かを検討する。先に結論を述べれば、この教科書は日本の朝鮮や中国に対する加害行為の記載を極力避けようとしており、性的差別や民族差別に無関心である。この点が明らかになれば、古賀都議会議員の日本の侵略否定論も歴史の現実を無視した考えであることがおのずから判明するから、本意見書は古賀都議会議員の発言をとくに取り上げることはしない。 |