「不二越」強制労働訴訟、院内集会・本社申し入れ行動報告 10/3/12
皆様
「おはようございます。犯罪都教委&1.5悪都議と断固、闘う増田です! これはBCCでお送りしています。重複・超!? 長文、ご容赦を。

 第二次大戦中、朝鮮半島から女子挺身隊としてたくさんの少女たちを日本に連れてきて工場などで強制労働をさせながら賃金も支払わなかったため、謝罪と賠償を求めていくつかの訴訟が起きました。

 その提起された戦後補償裁判で最後となる不二越株式会社(中心は富山工場)を相手取った裁判で、3月8日名古屋高裁金沢支部は「日韓協定で解決済み」と請求棄却の不当判決が出しました。原告たちは雪の降りしきる中で工場前での抗議行動をした後、昨12日、上京され、件名行動をしました。

 以下、私のメモと脳みそ記憶で報告します(つまり、完全に正確ではありません)。


<午後12時より衆議院第2議員会館での院内集会>
 原告5名の方と支援者たち、国会議員(&秘書)で、数えたわけではありませんが、全部で40人くらいでしょうか・・・

●山田昭次・立教大学名誉教授の挨拶
 私は日韓条約反対運動をしましたが、その時を思ったら気が重いです。あの頃は強制徴用者の痛みは理解していなかったからです。70年代から、この問題の調査を始めました。一番の心の痛みは強制労働させられた上に虐待され、どこで死亡したかも分からない方々がいることです。

 川崎日本鋼管で1942年の春、労務の差別発言があり、「帰国要求」争議がありました。二人の韓国人が「独立運動の扇動」という罪で検挙されました。一人はチュンチョン、一人はカンファド出身でした。チュンチョンの人は帰国してないことが確認されました。そこで横浜検察庁に調査を要求しましたが「判決原本がない」というのです。今も行方不明のまま・・・遺族の方々の心は、どうでしょうか。

 関東大震災の時もそうでした。警察は遺体を隠して渡さない・・・こういう歴史が延々と続いてきたのです。日本政府は調べようとしません。われわれも要求してこなかったのです。今年は「韓国併合」100年に当たり、なんとか、前進させたいです。


●事務局の中川美由紀さんから
 原告たちは80歳から83歳です。当時は12、13歳でした。6人の原告が来日されましたが、富山の不二越前抗議行動などで一人、体調が悪くなり、現在、5人で上京されています。

 不二越では韓国から女性1090人、男性540人を働かせましたが、そのうち23人が原告となっています。不二越は幼い女の子を働かせ、賃金不払いの上、親からもらって持ってきた小遣いも取り上げられました。当時、殴られたために耳が聞こえなくなった人もいます。

 不二越をはじめとする「徴兵・徴用労働者の問題」は「日本人の問題」として解決していきたいと思います。


●国会議員から
* 石毛えい子・衆議院議員(民主党)
 この不二越裁判は「戦後補償」最後の裁判ですが、上告しても残念ながら結論は変わらないでしょう。三菱重工(女子挺身隊)判決でも強制労働等の実態は認めても「日韓請求権協定で解決済みだから解決策は立法府で」ということでした。

 われわれ立法府にいるものも、これは十分に受け止めているつもりです。厚生年金脱退手当金が99円という、子どものお小遣いにも満たない額には唖然とします。皆様のお気持ちは「腹わたが煮えくり返る」から、絶望的な気持ちになられるでしょう。

 われわれ立法府の民主党は政治がいろいろあり、なかなか(前進)できていませんが、志を同じくするものが集まり、一緒に歩ませていただきたいという決意でおります。私は(原告の)皆さんより、ちょっとだけ若いのですが(と声を張り上げたので笑いが起こる)敗戦の時、小学校1年生でした。皆さんと同時代人として受け止め、強制労働問題を解決したいと思います。お互いに体を大切にしてがんばりましょう。

* 神本美恵子・参議院議員(民主党)
 私は福岡出身です。麻生炭鉱の遺骨収集問題にかかわり、日本軍慰安婦問題についての法案にも取り組んできました。皆さんはご高齢になられ、だまされて連れて来られ、身体的後遺症だけでなく、心にも深い傷を負われていることと思います。この点は元慰安婦の方々も同じです。

 去年、政権交代しました。「厚労省は今までは炭鉱の遺骨収集を本気でやろうとしていないのではないか」と野党時代は国会で追及しました。今度の政権交代で「戦後処理全般について、政府として謝罪し、支払うべきものは支払う」ということをしたいと思っています。そのために、石毛さんを事務局長として「戦後補償を考える国会議員連盟(準備会)」を立ち上げようということになっています。

* 工藤仁美・衆議院議員(民主党)
 子どもの時に連れて来られて80歳を過ぎるまで問題解決をしていないことを、日本人の一人として恥ずかしく感じています。私は去年当選したばかりですが、石毛議員や神本議員と一緒にやっていき、みんなで笑いえるようになるように努力していきたいと思います。

* 郡和子・衆議院議員(民主党)
 予算委員会審議のために遅れてしまい、申し訳ありません。新政権に変わりましたから、積み残していた課題に一生懸命取り組みたいと思っています。


● 原告から
* 全玉南(チョン・オンナム)さん
 足が痛みますので、座ったままで失礼します。私は小学校6年の卒業の時、先生から(女子挺身隊として日本に)行くように言われ安喜洙(アン・ヒス)さんなど含めて50人で来ました。来る途中、一人があまりに辛くて逃げました。その友達の消息は今も分かりません。それからは、逃げられないように監視が厳しくなりました。

 (不二越の工場の)機械でケガをし、今も指が変形しています。(祖国に帰って)17歳になって安喜洙さんと看護婦になって働こうと思いました。でも、工場の機械で使う油を飲んで肺の炎症が起こり、その傷跡が原因で看護婦にはなれませんでした。

 当時のことで言いたいことは山ほどありますが、母からもらった小遣いや洋服を、日本が敗戦する時に避難するので、何も持ち出せませんでした。大村ミツコ(漢字が分からないのでカタカナに)という名前の先生が「預かっていて、帰国する時に返します」という約束でした。「一ヶ月の休暇」といって避難させられていたときに祖国が解放されました。

 今も身体が痛いですが、一番痛いのは心です。私たちをどうか、助けてください。

* 柳贊伊(ユ・チャンイ)
 私が不二越女子挺身隊に行こうと思ったのは「白い帽子で白いエプロン」をして工場で働いている写真をたくさん見せてもらったからです。「お金が稼げるし、ミシン技術も身につくし、やりたい勉強もできる」とウソばかり言われました。幼くて(疑うことを知らず)本当のことだと思って日本に来ました。実際に来て全部ウソだと分かりました。

 良い話だと思って友達も誘いました。幼かったので、家を出て日本に行く時は(期待で)ワクワクしました。下関の旅館に着いたら引率の先生が待っていました。その先生は、歌を歌ったり話をしたりして私たちの機嫌を良くして言いました。「親からもらったお金は先生に預けなさい。友達に盗られるといけないから。いつでも言えばお金をおろして渡しますし、帰る時には返します」というので、50人が全員、先生にお金を渡しました。

(働き出したら)食べ物が少なくおなかがすいてたまらないのでパンでも買いたいと「お金を下ろしてください」と頼んだら、「オマエタチ、何イッテイルカーッ? 前線ノ兵隊ノコトヲ考エテイルカノカー?」(ここだけ日本語だったので)と怒鳴られました。

 そこで考えてウソをつくことにしました。「お箸が折れたので、買いたいから」それで1回はお金をおろしてもらいましたが、2回目からは駄目でした。

 日本が敗戦していたことも教えられず、日本引き上げの時は50名が2班に分けられ、私は「北朝鮮に工場ができるから、そこに行きなさい」ということで、大きな船に詰め込まれ1週間かかってチョンジンに行きました。旅館も何もないところだったので小学校の校舎に入りました。でも「工場はまだできていないから一カ月の休暇を与えるから家に帰れ。工場ができたら、また連絡する」と言われました。

「お母さんのところに帰れる」と嬉しかったのですが、お金も何もありません。安喜洙さんが分団長だったので、「何もなくては帰れません」と先生のところに行き、何か書いた紙をもらい、それで列車に乗ってプサンに行き、そこから乗り換えてマサンの故郷に帰りました。15日後に祖国は解放されました。

 でも、私は「日本に働きに行っていた」ということは(周囲の人たちに)今でも言えないのです。(「対日協力者」と見られる、ということからでしょうね・・・)

* 金明培(キム・ヨンベ)さん
 私は妻の遺志を継ぎ、原告になっています。妻は生きている時、私に言いました。「(不二越の工場では)軍隊のようで、厳しい労働をさせられ、常におなかがすいていました。実家から持っていったものを市場で売って豆を買って食べました。」

 でも、この裁判は全て負けました。賃金は支払われていないのに・・・負けた理由は韓日基本条約です。この問題は人道的な面で考えないと解決できません。その点で国会議員の方に動いてもらって感謝しています。

 今年は韓国合併(「ごうへい」と発音)100年になります。不公平な条約により韓国は植民地となりました。植民地からの解放は人道でなく、原爆で日本が負け、無理やり解決できたんです。原爆が落ちていなかったら、今の世の中はどうなっていただろうかと考えたりします。

 韓日協定もまた、不公平でした。韓国側から10個要求したら駄目で、5個要求したら1個だけ認められたものです。それなのに裁判はいつも韓日協定が持ち出されます。不公平な条約が原因で、いつも駄目になる。

 新しい政権の国会議員は「人道的解決」を求めてくれるのではないかと期待しています。原爆より大きな力で働いてほしいです。そして、その力の源は「正義」だと思います。そこに23名の原告は希望を持ちます。

* 安喜洙(アン・ヒス)さん・・・原告団長で、最初に簡単な挨拶の後、今野東・民主党副幹事長に要請に行かれていたので、ちゃんとしたお話しは最後になりました。綺麗な色白の肌をした品のある女性で、とても80歳には見えません。さぞ、利発な少女だったことでしょう。

 13歳の時、小学校の卒業の後すぐ、校長先生と担任の先生、男の人が二人来て、(不二越工場の)活動写真を見せられました。そして「仕事をしながら生け花も習える」といわれました。父は怖かったので言えなかったから、お母さんに話したら「絶対に行くな」といわれました。

 でも、従妹と二人で母をだまし、同じ学校からは5名、全部で50名で日本に来ました。そして不二越の寮に入りました。2階まで雪が積もるのです。毛布一枚、敷き毛布が一枚しかなく、寒くて眠れず、友達と抱き合って寝ました。母の言葉を思い出し辛い思いでした。

 日本に来て(1年と1カ月の間)休んだのは2日間です。訓練や教育もなしで、いきなり旋盤の仕事をしなければなりませんでした。機械に水道のパイプのようなものが付いていて、その中の油を吸い上げる必要があり、何回飲み込んでしまったか分かりません。

 ベアリング300個のノルマがありましたが、一生懸命働いて400個作りました。班長が嬉しくて背中をたたいてくれました。お昼に出てくるのはいつも握り飯1個でした。間食もなく過酷な仕事をしました。寮に帰って夕食はご飯と味噌汁とタクアンだけです。

 部屋によって人数が違うので。ご飯のを入れた器の紙に「何室・何人分」と書いてありましたが、身体の大きい人が先にとってしまい、小さい人は少量の器しか取れません。大きい人は先生にばれないように、器を積もった雪に落としました。春になったら、それが何個も出てきました(笑いが起こる)。

 給料は一回も、もらったことがありません。先生に尋ねると「2年後に帰る時に、全額貯金したものを渡します」といわれました。
(ここで時間となり、タクシーで次の汐留住友ビルの中にある不二越本社に向かいました。タクシーを待つ間、国会前で、普天間基地撤去を求めて座り込み行動をしていらっしゃる「九条改憲阻止の会」の皆様にご挨拶!・・・つまりは「会員なのに協力できなくって、ごめんなさい。」と言い訳を!?)


<不二越本社「申し入れ」行動>
 院内集会終了後、原告を含め20名くらい(たぶん)で、汐留住友ビルに行きました。なんとも立派な豪華ビルで、大理石の床は鏡のようにピッカピカ・・・上を歩く人の姿が床にカラーで写る!? ので、感動しました。

 ということはどうでもいいので・・・ビルの10何階かにある不二越本社は事前に「申し入れにいきます」と通知してあったにもかかわらず・・・というか、あったから、というべきでしょうか・・・ビルの受付の人に「(不二越本社からは)『おことわりしてください』といわれています」と伝えさせるのです。

 ようするに、原告たちは不二越本社の人の、一人の姿はおろか、声さえ聞けません。そしてエレベーターの入り口にはガードマンが5〜6人、仁王立ちしています。不二越本社の人たちは一体、何が怖いのでしょうか? 原告の「申し入れ」書を受け取る(「受ける」のではないのです)ぐらいすることが、なぜ、できないのでしょうか?

 仕方がないので、原告も含め私たちは、ビル1階のピッカピカの床に、亡くなった原告たちの写真を掲げて、座り込みを行いました。受付の人は親切で、高齢の原告たちのために椅子を出してくれました。通りすがりの人々が、たいへん、注目してくれました。中2階からは4、5人の私服の人たちも私たちを注目していましたが・・・何のため?

 1時間くらい座り込みをしたあと、小集会をここで行い、最後にマイクを使って「不二越は出てこーい!」「不二越は謝罪しろー!」と何度もシュプレヒコール・・・ガードマンや受付の人たちが、これを静止する形(仕事上、せざるをえませんね)で何度もやってきましたが「あと、ちょっとだから」と、こちらも何度も言って、そのつど声を張り上げ、コブシを突き出し、目的を終えてから引き上げました。

 高齢の原告たちは富山に帰った後、また、不二越工場前で連日、抗議行動されるということです。どうか、体調を崩されませんように! どうか、好天でありますように!

 そして、私たち日本人は、民主党国会議員の方たちが頼もしいことを言ってくださっていますので、それぞれの場で、「大日本帝国の侵略と植民地支配」清算のために努力していきましょう! 金明培さんの素晴らしい言葉を胸に! 「力の源は正義!」