2月20日「坂の上の雲」批判、我孫子近現代史講座・特別編 10/2/17

皆様
 こんばんは。犯罪都教委&1・5悪都議と断固、闘う増田です! これはBCCでお送りしています。重複ご容赦を。

 ご存知のようにNHKが大宣伝をし力を入れている「国民作家」司馬遼太郎のベストセラー小説の第一部放映が終わりました。皆様はご覧になっていかが感想を持たれましたか? このドラマはあと2年間、放映されるそうです・・・

「あびこ平和ネット」では、件名のように
 2月20日(土)14:00〜16:00、我孫子栄光教会(成田線湖北駅徒歩3分)において、この小説の徹底批判講座を準備しています。

 以下、この小説の日清・日露戦争について、それぞれ、ほんの2点づつだけ(挙ればキリがないほどあります)問題点を示しておきます。



@日清戦争についての記述
「日本は、より切実であった。切実というのは、朝鮮への想いである。朝鮮を領有しようということより、朝鮮を他の国にとられた場合、日本の防衛は成立しないということであった。」(文春文庫新装版第2巻、48P)

「韓国自身、どうにもならない。李王朝はすでに五百年もつづいており、その秩序は老化しきっているため、韓国自身の意思と力でみずからの運命をきりひらく能力は皆無といってよかった。」(同、50P)


A日露戦争についての記述
「後世という、事が冷却してしまった時点でみてなお、ロシアの態度には、弁護すべきところがまったくない。ロシアは日本を意識的に死へ追いつめていた。日本を窮鼠にした。死力をふるって猫を噛むしか手がなかったであろう。」(第3巻、178P)

「日露戦争というのは、世界史的な帝国主義時代の一現象であることにはまちがいない。が、その現象のなかで、日本側の立場は、追いつめられた者が、生きる力のぎりぎりのものをふりしぼろうとした防衛戦であったこともまぎれもない。」(第3巻、182P)



  司馬自身が「これは事実である。事実関係に誤りはない。」と以下のように書いています。

「この作品は、小説であるかどうか、じつに疑わしい。ひとつは事実に拘束されることが百パーセントにちかいからであり、いまひとつは、この作品の書き手――私のことだ――はどうにも小説にならない主題をえらんでしまっている。」(第8巻、330P)

「『坂の上の雲』という作品は、ぼう大な事実関係の累積のなかで書かねばならないため、ずいぶん疲れた。本来からいえば、事実というのは、作家にとってその真実に到着するための刺戟剤であるにすぎないのだが、しかし『坂の上の雲』にかぎってはそうではなく、事実関係に誤りがあってはどうにもならず、それだけに、ときに泥沼に足をとられてしまったような苦しみを覚えた。」(同、369P)

 さて、司馬がこの小説で書いたことは、本当に歴史「事実」でしょうか? 参加者とともに、考えていきたいと思います。ご都合のつく方は、どうぞ、ご参加ください!