9/11-12、富山・高岡講演会の報告 09/9/14

皆様
 こんにちは。犯罪都教委&2悪都議と断固、闘う増田です! これはBCCでお送りしています。重複・長文、ご容赦を。

 以下のように富山の小久保さんが、富山・高岡で私の話を聞いて報告をしてくださいました。転送許可を得ましたので、ご紹介します。ぜひ、「不二越」の戦後補償裁判闘争にもご注目、ご協力をお願いします!




Subject:[100net][01324]富山・高岡での、増田さん講演を、ご報告します

こんにちわ! 小久保です。


「戦争の真実を教えてたたかう先生 増田都子さんのお話を聞く集い(主催 増田都子さんのお話を聞く集い実行委員会)」が富山県で開催されました。
 富山市9月11日、高岡市9月12日のの両日、総勢80名をこえる人々が集まり、戦争の真実に迫る白熱の講演・討論・交流が行われました。

 私は、これに参加して、大きな感銘を受けました。その報告をします。

 増田さんは、自身の闘いの、出発点と経過を次のようにアピールしました。

 『(昭和天皇ヒロヒトの死の直前に)生徒が日直日誌に、「昨日、皇居に記帳に行こうと思っていたが、雨が降ったのでやめた」という記事を書いていたことにショックを受けた。』

 『そして「昭和天皇には戦争責任がある」と市議会で発言(注1)した長崎市長への銃撃事件(1980年1月)により、それまで「天皇の戦争責任」を教えることを避けてきた自分の社会科教育を反省した。』

 『これを教えれば自分の身も危うくなる惧れはあるが、これを教えなければ「日本国憲法」の象徴天皇制、国民主権も、生徒たちは本当には理解できないと決意し、紙上討論授業を取り入れて、「侵略と植民地支配」の真実と憲法原則(国民主権・人権・平和主義)を、きちんと教えることにした。』

 『それ以来、「名誉毀損」事件や、研修所送りなど、数々の弾圧に屈せず、正しいと信じることをを貫き、ついに「矯正不能」として「分限免職」処分をうけるに到った。』

 『所属労働組合からも、後ろから鉄砲を撃たれるという、孤立無援、八面楚歌の苦境になったが、「正しい事を続けていれば、必ず味方が現れる」というガンディー(注2)の名言に励まされ、ここまできた。』

 『そして、今こうして、侵略企業・不二越を糾弾する原告ハルモニと共に闘う、富山のこんなにも多くの人に話を聞いていただいている。私は、少しも後悔していない。』

  「真実に向き合うことを通して、生徒に、批判的する力、主体性をもって考える力を育てることを目指す、本当の教育が、どれだけ大事か。それを実行すれば、どれだけ激しい弾圧を受けるか。その弾圧に屈せず闘えば、どれだけ大きな成果が実ってくるのか」との、増田さん訴えは、深く、大きな感銘を呼び、誰もが大きな衝撃に打たれました。

 そして、討論途中で資料が配られ、じっとそれが読み込まれ、その上でさらに深く討議するという具合に、長年、教職にあった人、平和運動に取り組んできた人、などをはじめとして、熱心で白熱した質疑と討論が交わされました。私は、講演会でこれほどまで真剣に討議が深められたことをはじめて経験しました。

 そして、100年ネットのリーフレットも配布され、増田さんから、『不二越の運動、100年ネットの運動、私の闘い、は植民地支配と侵略戦争の歴史と現実に対決する一体のものです』と強くアピールされました。

 最後に、不二越闘争(注3)連絡会代表が、「来る2010年は、韓国併合100年、抗日闘争義士・安重根(注4)死刑執行から100年にあたる。私たちは、植民地支配と侵略戦争の歴史、幕末・明治以来150年の日本のあり方を根本的に問い直さなければいけない。」と、目前に迫った10月不二越闘争を念頭に置いた激しいアピールが発せられ、参加者の胸を打ちました。

 不二越闘争(第2次訴訟)は、1審(富山地裁)では、強制連行・強制労働の事実認定を勝ち取り、2審(名古屋高裁金沢支部)では、10月5日に結審が迫っています。翌日、10月6日から、原告ハルモニを先頭にして、加害企業・不二越に対する激しい怒りの徹底糾弾を本社門前闘争として爆発させようという大闘争がアピールされています。

 皆様、重大局面を迎えた不二越闘争への熱い注目と支援をお願いします。


注1 本島等長崎市長は・・・・

1988年12月の定例市議会で、『戦後43年経って、あの戦争が何であったかという反省は十分にできたと思います・・・私が実際に軍隊生活を行い、軍隊教育に関係した面から天皇の戦争責任はあると、私は思います』と発言。

同日の記者会見でも『天皇が重臣らの上奏に応じて終戦をもっと早く決断していれば沖縄戦も広島・長崎の原爆投下も無かったのは歴史の記述から見ても明らかです』と重ねて発言しました。


注2ガンディーとは・・・・
インドの独立運動家ガンディーは、第二次世界大戦中の1942年7月26日に、「すべての日本人に」と題する公開文書を発表しました。

『私は、あなたがた日本人に悪意を持っているわけではありません。あなたがた日本人はアジア人のアジアという崇高な希望を持っていました。しかし、今では、それも帝国主義の野望にすぎません。

 そして、その野望を実現できずにアジアを解体する張本人となってしまうかも知れません。世界の列強と肩を並べたいというのが、あなたがた日本人の野望でした。しかし、中国を侵略したり、ドイツやイタリアと同盟を結ぶことによって実現するものではないはずです。あなたがたは、いかなる訴えにも耳を傾けようとはなさらない。ただ、剣にのみ耳を貸す民族と聞いています。それが大きな誤解でありますように。あなたがたの友ガンディーより』。

注3  第2次不二越訴訟とは・・・・    以下原告団声明より

 『弁護団と支援の皆さんのご尽力によって、第2次不二越強制連行訴訟原告団は2003年4月1日、富山地裁に提訴することを決定しました。私達は日本の侵略と植民地支配、不二越への強制連行によって、川に浮かぶ木の葉のように奔弄され、それぞれの苦難の人生を歩まなければなりませんでした。ここに訴訟という道筋で、不二越強制連行被害者全員の“恨”を解く道が開かれたことに、心より感謝します。

 私達は不二越に強制連行され、筆舌に尽くしがたい苦労を強いられました。10歳代前半の幼い子供達を含む1600余人が無理やり海を隔てた富山に連行され、強制労働をさせられ、必要な食事も、自由もなく、重労働を強制され、賃金は支払われず、夜となく昼となく激しい空襲で逃げ惑う生活を強いられました。

 日本による植民地支配と不二越による理不尽な強制連行さえなければ、私達の人生には、もっと安らかで、豊かな可能性が待っていたでありましょう。希望に満ちて迎えた8・15光復の後も、私達は「日本への協力者」「勤労挺身隊」という、忌まわしい「暗い影」を引きずって、生きなければなりませんでした。

 日本が力ずくで植民地化し、言葉を奪い、名前を奪い、土地や財産を奪っても、私達は誇りを忘れない民族です。かつて6000人の命が奪われ、100万人の血が流れても闘い続けた「3・1独立運動」の精神は私達の中に流れており、不二越から受けた屈辱をどうして忘れ去ることができるでしょうか。かつての強制連行と虐待の悔しさを晴らすために、不二越には頭を地につけて謝罪していただかなければなりません。

 私達はすでに70歳を超え、命がどこまで続くかわかりませんが、命あるかぎり、不二越の歴史的な犯罪を糾します。原告団は2003年4月1日から始まる第2次不二越訴訟を、「第2の独立運動」として闘い、未来を築くことを宣言します。2002年11月 第2次不二越訴訟原告団』 


注4
安重根(アン・ジュングン)(1879年〜1910年)とは・・・・
1909年10月26日、伊藤博文をハルビンにて射殺した民族主義者・独立運動家・抗日義兵闘争指導者。抗日義士・烈士、民族の英雄として語り継がれている。1910年3月26日、死刑執行。同年、大韓帝国は滅亡し、大日本帝国に飲み込まれた(日韓併合)。