「平成18年(行ウ)第478号 分限免職処分取消等請求事件」 |
東京地方裁判所民事第36部 御中
私は、オーストラリアに住む日本人ですが、メルボルンにあるモナッシュ大学日本研究所の客員研究員で、同じく客員研究員のオーストラリア人、アンドリュー・マカイ、と共同で、アジア太平洋戦争が日豪関係に及ぼした、また今なお及ぼしている影響、オーストラリア人の戦争史認識、オーストラリアの若者が受けている戦争史教育などについて、調査・研究をしてきました。その結果は、共著“Shadows
of War”(2005年刊)や共編“Echoes of War”(2009年刊)にまとめたり、数々のセミナーで発表しています。
もちろん、日本における戦争史認識や戦争史教育もなおざりにすることはできず、近年は、増田都子教諭の受けた戒告処分・研修命令処分・分限免職処分、これらの処分の是非をめぐる弁論、そして判決に、注目してきました。特に貴裁判所による去る6月11日の判決は、冒頭の主文に愕然としたものの、オーストラリア人にも正確に伝えるため、全文を注意深く読みました。しかし同判決は、オーストラリア人には恥ずかしくて隠したくなるもの、異議を申さずにはいられないものなので、ここに意見書をしたためる次第です。
そもそも貴裁判所は、増田教諭に対する戒告処分・研修命令・分限免職処分の是非を判定するに当たって、「特定の者を誹謗する記載のある本件資料を中学生の授業の教材として作成、配布した」ということを判断の根拠にしています。つまり、「特定の者を誹謗する」ということを、その信憑性を問うことなく、既成事実とし、そこから判断を進めています。しかし判断の一番の根拠は、「日本がアジアにおいて植民地支配と侵略行為をしたのは史実である」という公の歴史認識にあるべきです。
これを踏まえれば、史実を否定したり歪曲しようとする個人・法人について、「国際的に恥を晒すことでしかない歴史認識」「歴史偽造主義者」と指摘することは、正当な批判であって、決して客観性のない「誹謗」ではありません。特に「特定の者」が公人と公知の出版社なのですから、その上、公の場で史実を否定したり歪曲したのですから、なおさらのことです。
また、増田教諭は、「個人的見解」ではなく、日本が公に認識している「史実」を教えようとしたのですから、本件資料の作成・配布が「教育の中立、公正さに対する信頼を直接損ねる」と言うことはできません。貴裁判所は、中学生を「未発達の段階にあり、批判能力を十分備えていない」と見なしていますが、そうでないことは、増田教諭の授業を受けた生徒たちの言から明らかです。中学生は、事実を知りたがっているし、その事実を、面と向かうのがつらいものであっても、受け止めて、自分の意見・認識に反映させることができるほど、理解力・判断力を備えているのです。若い人たちは、特に戦争史実の暗い面を学んでこそ、世の中が平穏なときには善良な人をも残虐行為に走らせる戦争の恐ろしさにおののき、被害者の苦しみ・悲しみを感じて、同じ過ち・悲劇を繰り返すまいと誓うようになります。正しい戦争史認識は、平和を愛する日本国民、そして世界市民になる第一歩です。
従って、「史実」を中学生に理解させようとした増田教諭には、反省すべきことは何もありません。指導方法の改善、教育公務員としての資質向上を強いられる必要もありません。理不尽な研修に増田教諭が抗議の意を言動・態度で表しても、感情に駆られてのことではなく理性に従ったまでで、不適切だととがめるのは不当です。「自己の見解と対立する見解を有する者に対し、徹底的に誹謗する性向を有しており、この性向は簡単に矯正できない」として、「教育公務員としての適格性を欠く」と決め付けるのも不正です。
貴裁判所は、判決文の中で、本件戒告処分も本件分限免職処分も「授業内容を対象としたものではなく、本件資料の作成、配布行為を対象にしている」とか、本件各研修の内容は「原告の内心の世界観、歴史認識を問題にして、それらを改めるよう要求するものでない」と断言しています。しかし貴裁判所は、増田教諭にビデオ「侵略」を教材に使用したことなども問い反省・修正を促す、という都教委と区教委による研修を妥当だと是認し、さらに、期待通りの成果を上げられなかったが故の免職を適切だと判断しています。つまり、「日本が侵略行為をした」史実を教えたいという増田教諭の思想と授業内容が、処分の是非を考察するときの対象になったのは明白で、ひいては、その思想と授業内容を覆すことが判決の趣旨だったのだ、と思わせられます。初めに「特定の者を誹謗する」ということを既成事実と見なしたのも、「日本は侵略行為をしなかった」という見解を貴裁判所も元来抱いていたことを如実に示しており、その見解を貫き通すことを自らの使命としたに違いありません。
このように貴裁判所は、都教委と区教委に同調して、自説にも合致する「公の歴史認識の否定」に基づく判決を下したのです。司法権を行使して、民主主義国家であるはずの日本で、中立・公正な教育を押しつぶしたのです。私は、驚愕し、唖然とし、憤慨しています。恐怖感も募ってきます。
日本は、国際的に、アジア太平洋戦争中の侵略と加害の面に向き合うことのできない国だと見られてきました。正しい歴史認識のできない、従って、戦争責任のとれない国だというレッテルを貼られています。確かに日本の総理は、1993年以来、国の内外で、加害責任を認めて、「先の大戦において、我が国は多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。深い反省と共に、犠牲となった方々に謹んで哀悼の意を表します」と言明しています。しかし、この気持ちを、言明するに至った歴史的背景を学校で教えるなどして、日本国内で反映させなければ十分とは言えず、他国の人に恥ずべきレッテルを貼られても仕方がありません。「元従軍慰安婦」問題をめぐって、2007年以来、アメリカ、オランダ、カナダ、EUなどの議会が「慰安婦」決議を採択したり、国連諸機関が勧告を出しているのも、正しい歴史認識・戦争責任に目覚めることを日本に促す国際的な動きにほかなりません。
オーストラリアでも、戦争捕虜問題があり、表面上は非常にうまくいっている日豪関係に暗い影を投げ掛けてきました。つまり、アジア太平洋戦争中に、日本軍は、捕虜として捕らえたオーストラリア兵に言語道断な残虐行為を働いたり、無防備の負傷兵や看護婦さえも大虐殺しました。2万2千人のオーストラリア人が日本の捕虜になりましたが、戦後母国に帰れたのは1万4千人ばかりで、8千人、すなわち捕虜の3分の1以上が、熱帯病、飢え、過労、虐待などのために命を奪われています。この史実のために、また、それに対する謝罪・補償がないために、オーストラリア社会には、戦後長い間、反日感情がはびこっていました。現在でも、あからさまな反日感情は薄れたり補償問題には余り執着しなくなったものの、日本軍の非人間的な捕虜取り扱いのことを今の日本人の大半が認めなかったり知らなかったりするために、複雑な対日感情が残っています。事実、親日家さえもが、日本人、特に若い日本人に、アジア太平洋戦争中の捕虜取り扱いを含む日豪間の戦いをしっかりと学び、認識してもらいたがっています。
日本に捕らえられた戦争捕虜の姿は、日本軍による虐待の犠牲者として、さらには、苛酷な状況において発揮した忍耐、勇気、犠牲、助け合いなどの気質のため、英雄としても、オーストラリア史のページに刻まれ、オーストラリア人の脳裏に焼き付いています。今後も、若い世代にアジア太平洋戦争中の対日戦争史を受け継がせる国策や学校教育のため、また若者たちも戦争史に非常な関心を持っているため、オーストラリア人の記憶から消え失せることはないでしょう。
一方、日本の若者たちは、概して、歴史教科書から日本の侵略と加害面を言及する「暗いページ」が抹消されて、アジア太平洋戦争の全貌を学べないので、日本軍がオーストラリア人捕虜に残虐行為を働いたことなど知らないでしょう。日本がオーストラリアと戦ったことさえ知らないかもしれません。
この、日豪間に生じた若い世代の歴史教育の差は、将来、両国の関係に支障を来さすことになりかねません。既にオーストラリア人は、敵意は静めたものの、日本人はアジア太平洋戦争中の侵略と加害行為に面と向かうことができないでいるが、どうしてだろうと引っ掛かりを感じています。「つくる会」の教科書のことも知っていて眉をひそめています。来豪した日本人は、オーストラリア人が余りにもよく戦争について知っていて、話題にするのに驚き戸惑っています。この溝がこれからますます深まるのではないか、真の日豪友好関係は築かれないのではないか、と懸念されます。
日本には、自国の侵略と加害の暗い歴史を学ぶのは自虐的で、若者に日本人としての誇りを失わせる、という声があります。しかしオーストラリアに住む日本人駐在員や学生は、口々に、「ダーウィン空襲、(ニューギニアの)ココダ・トレイルでの激戦、チャンギ収容所、泰緬(タイ=ビルマ)鉄道、サンダカンの死の行進、バンカ島での看護婦虐殺などなどについて、日本で教えてもらいたかった」と言っています。この人たちにとっては、日豪間の戦いについても、日本軍の戦争捕虜取り扱いについても知らないで来豪し、オーストラリア人から教わる方が、日本で暗い歴史に向き合うよりももっと不面目なことなのです。
オーストラリアで、このような事情を調査・研究で確かめたり、目の当たりに見ていると、日本人が平和を愛する日本国民・世界市民になるのもそうですが、元加害国・被害国間あるいは元敵国間の真の和解も、戦争史実の正しい認識に始まることを痛感します。そして、若い日本人にこの認識をさせるには、増田教諭のような先生による教育が、妨げられることなく、日本全国に普及すべきだと確信します。
今回の裁判のいきさつを知ったオーストラリア人は、侵略の事実を否定したり歪曲する都議員や教科書が現存することだけにも「相変わらず日は・・・」と苦笑し、増田教諭が史実否定に反対したために戒告・研修・免職の処分を受けたことには「そこまでひどいとは・・・」と驚いていました。そして今、裁判所までもがこれら一連の処分を正当化したことに、「呆れ果てた・・・」「何とお粗末な・・・」と業を煮やしたり軽蔑の念を表しています。
共に研究をしているアンドリュー・マカイも、次のように言っています。
「日本は、好むと好まざるとにかかわらず、自国の歴史に対する認識を著しく変えざるをえない大改革を経ている。
何千年もの間、日本は、地理的孤立のため、天照大神に祝福されているという潜在的信念に根を降ろした、『ユニークである』という意識を享受した。この特異な運命観は、世界的強国としての日本の発展によって助長された。しかし、軍国主義者たちがこの運命をハイジャックし、第二次世界大戦における彼らの失敗は大日本帝国を破壊に導いた。
それでも、保守的な政治家たちは優越感にしがみつき、あらゆる日本的なもの ―文化から言語に至るまで― を他国の人に近付きやすくすることに反対した。そのため、彼らが日本の歴史を『所有』し続けることも可能だった。しかし、最早できない。
現在、日本は第二の開国 ―インターネットとそれに関連するテクノロジーの圧倒的な津波― に直面している。日本の文化と言語の壁は取り壊され、日本のものは、歴史も含めて全て、他国の人々に公開されている。英語ができる日本の若者は、ますます増える一方だが、毎日、世界の若者とインターネットで話し合っている。今や、挑戦されずにすむ『事実』はなくなった。中国に聞くがいい。イランに聞くがいい。
日本の友人として、私は、裁判所は今回大きな間違いをしたと思うし、その判決に反対する。もしも裁判所が、世界が嘘だと知っている歴史的『事実』を頑固に守り続けるなら、日本を最善の場合でも嘲笑に、最悪の場合には蔑視にさらすことになるだろう。」
以上、貴裁判所の判決は、中立・公正な教育を否認して増田教諭に不正を働いただけではなく、国際的に日本の名を汚すものであるし、海外に住む日本人にとって恥ずかしいものなので、心から抗議をいたします。
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