姜徳相先生講演、要旨 09/8/2 |
三鷹「慰安婦」展を妨害する右翼差別排外主義集団「在特会」の妄動には怒りが湧きますね。昨日は私の友人・・・由緒正しい!? 被差別者なのですが・・・ぜひ、参加したいと出かけたのですけど、顔を知られていないため入れてもらえそうになかったため、「在特会」のマイクを奪ってガンガンと「在特会」批判をし、警官の見ている前でボコボコに殴られたのを証拠!? に、やっと入れてもらえた、ということです。 「診断書を取って、傷害罪で警察に被害届を出しなさいよ」と唆して!? おりますが・・・私は、本日も明日も他用で行けず、残念です。 さて、遅くなりましたが、7月20日の姜徳相先生の講演の要旨をまとめ、以下のように手紙を出して先生に見ていただき、校正を指示されて訂正し、了承を得ましたので、添付しました。次回の先生のご講演が楽しみです! 姜徳相先生 こんにちは。「日韓100年ネット」の増田都子です。先日は、とても有意義な講演をしていただき、たいへん、ありがとうございました! 「目からウロコ」ということが多くありました。 それにしても、一般的に「至誠の人」「理想の教育者」「穢多身分のものにも差別をしなかった」と賛美される吉田松陰の朝鮮侵略思想との落差は「二重人格」というものでしょうか?「強い欧米には媚びへつらい(信義!?) 弱い朝鮮は切り随え、欧米に取られたものは朝鮮で取り返せ」とは、「至誠」の対極にあるものとしかいえないと思います。これも「内には優しく民権、外には強面の国権」という精神構造につながるものでしょうか? でも、実は恥ずかしながら、私は中学生の時、何気なく地図帳の戦前の日本と戦後の日本という色塗り範囲を見て「戦前の日本はこんなに広かったのかぁ・・・戦後はこんなにちっちゃくなっちゃって、残念だなぁ」と思ったものです。その広いところに住んでいる人のことなど、全く頭に浮かばなかったのです。子どもでした。それに、その広いところを占めるのにどれだけの国の人を踏みにじったか、小さくなる経緯でどれだけ日本人が死んだか、全く学校教育では教わらなかったですし・・・ 私と松陰を比べれば、松陰の崇拝者の方たちからは激怒されそうですが、松陰も「9歳にして藩校で兵学を講義する天才」だったとはいえ、30歳で処刑され死んだのですから、結局のところ精神的には子どもっぽくて、「先祖代々その国に住み、古くからの伝統文化を守りながら生きている人々」のことなど、頭に上らなかったのかな? などと考えたりします。ま、国学の「朝鮮は昔から日本の朝貢国だったのだ」という独善的信念!? が身に染み付いていたのでしょうね。処刑されずに長生きしたなら、やはり、「征韓論」を煽ったでしょうか? いつも思うのですが、欧米の反封建闘争は人類に普遍的な「自由・平等」をスローガンに掲げたのに、「日本の討幕派が持ち出したのは苔のむす天皇制だった」という歴史事実は苦々しいです。ルソーと同時期の江戸時代中期には、「天皇・将軍・武士」という不耕貪食の階級を徹底して批判した安藤昌益という平等思想の立派な日本人もいたんですのに・・・ 松陰の朝鮮侵略思想など、日本民族の恥ではないでしょうか? ただ、私の記憶では、確か、処刑前ごろに松陰は「恐れながら、天朝も幕府もいらぬ。ただ六尺の微躯が入用」と主張した、ということもあったような気が・・・この出典が定かでなく、もし、先生がご存知でしたら、教えていただけるでしょうか。 以下は、先生の講演の要旨を私なりにまとめたものです。後ろで受付をしておりまして、遅れてきた方への対応などもあり(私の能力も問題ですが)、聞き漏らしたところもあったため、先生の講演の順番通りでなく、レジュメを見ながら適宜、私の言葉でまとめたものですから、正確なものではありません。ただ、テープ起こしには時間がかかりますので、先生のご了承を得られれば、MLに、投稿したいのですが、お許しいただけるでしょうか? <7・20姜徳相(カン・ドクサン)先生、講演、要旨> 1、対韓ナショナリズム(「征韓論」) 江戸時代、二百数十年は朝鮮通信史の対等互恵の関係でしたが、幕末の尊王討幕運動のよりどころとなったのは国学でした。それは天皇の権威を高めるために、『古事記・日本書紀』の史料批判・イデオロギー批判無しに『朝鮮三国は日本の朝貢国だった』としました。尊王倒幕=『尊王討韓』だったのです。 『尊王』と『征韓』を結びつけたのは吉田松陰です。1854年の『幽囚録』に「朝鮮のごときは、古事我に臣属属せしも今は則ち、やや倨(おご)る・・・朝鮮を責めて質を納れ、貢を奉ること古の盛事の如くならしめ」とあります。 「古事我に臣属」とは「古事記・日本書紀」にある「三韓は日本に臣従していた」ということをいいます。だから「やや倨(おご)る」とは、それなのに、江戸時代は朝鮮通信使などを通じて対等関係だった、ということを「朝鮮は思い上がった」というのです。 松陰は『獄是帳』では『魯(ロシア)墨(アメリカ)講和一定、我より是を破り信を夷狄に失うべからず。ただ章程を厳にし信義を厚うし、其間を以て国力を養い、取り易き朝鮮満州支那を切り随え、交易にて魯墨に失う所は、また土地にて鮮満に償うべし』と言っています。 松陰は明治の元勲たちの師匠だったので、その高弟の木戸孝允など、1868年(慶応4年)の鳥羽伏見の戦いの最中の閏6月、16歳の明治天皇に、徳川の政敵だった豊臣復活の「300年祭」をするよう御沙汰書を出させました。それまでの江戸時代は歌舞伎の太閤記など江戸では上演できず、大阪・名古屋までは上演できても、「佐藤正清のトラ退治」とか「真柴久吉」というように、本名は出せなかったんですが、明治以後は本名の加藤清正、豊臣秀吉、「朝鮮征伐」と出てきます。 「征伐」とは「桃太郎の鬼征伐」というように、いい者が悪い者をやっつける時に言います。私は小学校のころ、国史の時間が一番イヤでした。「神功の三韓征伐」「豊臣秀吉の朝鮮征伐、加藤清正のトラ退治」「日清戦争、日本の英雄たち」・・・皇国日本にとって朝鮮は踏み台でした。国史の時間は身を縮めて「早く終わればいいな」と思っていました。これは私のトラウマになっています。 江戸時代265年のうち、210年間は・・・大阪止まりの場合もあれば日光まで行った朝鮮通信使もありましたが、医者・学者・政治家・音楽・曲芸師など総勢500人ぐらいの大文化使節が半年以上かけて往来し、日本にも朝鮮にも大きな影響を与えました。しかし、1811年(文政8年)を最後に途絶え、幕末、本居宣長・賀茂真淵が国学を起こし、史料批判なしの古事記・日本書紀を事実として、朝鮮に対する日本優位論が出てきました。 幕末の欧米の侵略に対抗して中央集権国家にするために、「徳川の上の天皇」を押し出して作っていこうとする中で、「尊王倒幕」は「尊討征韓」ともなり、それは徳川に滅ぼされた豊臣の復権となりました。錦絵に神功が登場するのは1820年ぐらいが最初で、神功や豊臣秀吉や加藤清正は1850年代、幕府瓦解の少し前ぐらいから出てきます。 だから、明治政府は、成立以来「朝鮮は日本の目下」として、「征韓論=任那日本府再興」を追求します。慶応4年の木戸孝允の日記には「使節を朝鮮に送り、その無礼を問い」とあります。「無礼」など何もなかったのに、幕府が対等関係を結んでいたことを「無礼」というわけです。徳川=大君⇔朝鮮=王の互恵平等・善隣関係を結んでいたものを、明治政府は「皇・勅・朕」という言葉を使って朝鮮に手紙を送るのです。朝鮮にとっては、これらの言葉は中国の皇帝しか使えない言葉で、これを受け取れば、日本のほうが上国で、朝鮮は目下、という関係になります。だから朝鮮は「前例にない手紙は受け取れない」といいました。それまで儒教同士の交隣の国だったのに、明治政府はこれを「対韓外交紛争」とし、「征韓論」となるのです。「征」はいい者が悪者をやっつけるのですから、上国日本=善で、朝鮮=悪ということです。 日本近代化の最初のあり方=日本の曲がり角に「征韓論」は出ています。私は、なぜ、日本の学者が、ずっと征韓論を「征韓」論と、「」さえ付けずに使うのか、納得できないでいます。 ですから明治6年の「征韓論、分裂」といったって、「征韓論に反対か、賛成か」というわけではなく、これを誰がやるか、明治政府のリーダーシップを取るのは誰か、ということだったのです。 2、江華島条約の意味 翌年結んだ江華島条約は完全な不平等条約でした。「治外法権・関税自主権なし、日本の貨幣をそのまま使わせる」という3点。特に最後については朝鮮は金本位制ではなく、銅貨の価値がとても高かった・・・当時流通していた朝鮮銅貨は重量で寛永通宝の2倍だったので、朝鮮国内で一国40銭の米は大阪市場では6円で売れました。不等価交換も極まっていて、当時日本円で100円を元手に朝鮮のものなどを日本に持ってきて商売すればすぐに1000円となるという、略奪貿易といっていいぐらいのもので、「金山を発見したも同じ」といわれました。 これは、朝鮮が日本だけに開国し、欧米と同時開国しなかったので、日本が市場を独占できる旨味があったためで、これには当時の世界情勢に疎い朝鮮王朝の役人たち・・・両班身分で占めたのですが・・・その愚かさにも責任がありますが、とにかく、日本は、それほどに儲かったのです。そのおかげで日本の資本主義は確立していったのです。朝鮮貿易での不等価交換が日本資本主義に確立にどれだけ役に立ったかについては、中塚明さんや山野辺健太郎さんなどの研究があります。 3、壬午軍人暴動(アジア最初の反日示威運動) 4、自由民権の終焉 5、甲申事変(1884年12月)の失敗 6、甲午農民戦争への介入 その中で、困った日本は清に対して「朝鮮内政の共同改革」を提案し、拒否されます。そこで、日本は「国王トリコ作戦」と称して、7月23日、朝鮮王宮を攻撃して朝鮮兵と戦い、国王を捕らえ「日韓攻守同盟」を強要して清への攻撃を依頼させます。これを私は「第一次日韓戦争」と呼びます。陸奥宗光は「蹇々録」に「なんとしても戦争に持ち込め」というようなことを書いていました。そして、7月25日、日本軍は豊島沖で清軍を攻撃し、8月1日、両国が宣戦布告して、日清戦争となりました。内乱が国際戦争となっていったのです。 これにより、壬午軍人暴動のころまでは、まだ、日本の支配層だけといえた対韓ナショナリズムが日本の大衆にまで浸透しました。色川大吉さんの「明治思想史」には、国家神道・江華島条約での旨み・皇国史観教育が大きな役割を果たしたとしています。 1906年から1911年の義兵闘争では、「朝鮮暴徒討伐誌」によると「戦死者1万7779人、戦傷者3千707人、捕虜2千139人」となっていますが、実際はこの2〜3倍になるはずです。最近、明治40年〜42年(1907〜1909)の陣中日誌14冊がオークションに出されていて、私も参加したのですが競り落とせなくて、とても残念でした。それには「民衆皆殺し」の実態が、よく出ているはずです。 来年のNHKでは、週刊朝日に連載されていた司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」をドラマにするそうですが、司馬さんはこういう歴史には全く触れていません。司馬さんには全く朝鮮が見えていないのです。いきなり「日露戦争」になるのです。ですから、私は司馬さんと何回か話をしたこともありまして、人間としては好きですが、作品には納得できません。 |