731部隊国際セミナーに参加して 08/9/23

 9月17日から、中国のハルビン社会科学院(国立の社会科学研究機関)主催の「第4次731部隊罪行国際学術研究セミナー」に参加し、昨日、21日に帰国しました。実際の会議は18、19日なのですが、新潟ハルビン直行の中国南方航空は土曜日は飛ばないため21日の日曜日でないと帰れなかったわけです。おかげで、20日はゆっくりハルビン見物や大好きな!? 買い物ができました。

到着した17日の夜、ロビーでハルビン社会科学院の院長であるバオ(日本語の漢字なし)海春氏にお会いしました。50代後半の感じの方でとても温厚な紳士です。通訳をしてくださった彼の部下である社会科学院付属731部隊研究所所長である金成民氏が私のことをお話してくださいましたら、直ぐに! ご理解いただき硬く握手をして「あなたの勇気にとても感動しました」と言ってくださいました。

そして翌日の全体会議の議長をしてくださった時に、わざわざ私のことに触れてくださいました。「午後には日本の増田さんが発表してくれますが、彼女は日本軍の侵略の実態を生徒に教えたために不当に解雇されました。彼女の発表に注目しましょう」。


<18日の全体会議>
この全体会は、柳条湖事件つまり満州事変77周年「大日本帝国皇軍による中国侵略の第一歩の日」に設定してあるのでした。巨大な横幕の一番上に書いてある文字は「抗日戦争勝利&(という意味の漢字)世界反ファシズム戦争勝利63周年」でした。帰国して朝日新聞を見ましたが、夕刊のコラム欄にチョコッ!? と触れてありましたけど・・・日本人の99.9(99,999!?)%は、この日について意識がない、というのが実態でしょうね。

最初のハルビン市長さん(だったと思うんですが)のご挨拶の中の「77年前の、この日の屈辱を忘れないために私たちはサイレンを鳴らしています。」という言葉が印象に残りました。「しかし、侵略された歴史、731部隊、という人類文明に違反した犯罪の辛い記憶はありますが、平和な現在があります。過去は忘れずに美しい未来を気づきましょう」と。

次に金成民氏の発表。つい最近、731部隊の細菌戦について分厚い研究書(厚さ5センチ以上!?)を出版されました。実は細菌戦を世界で初めて大規模に実行したのも日本軍第731部隊だったんですね・・・無知でした。なんとなく、ナチス・ドイツが最初に細菌銭をやったんだとばかり思い込んでいたのです。「毒ガス戦の世界最初の栄誉!?」はドイツで、細菌戦の、その栄誉!? を担ったのは我が皇軍・・・

いろいろな方の挨拶の後、映画「語られなかった戦争」シリーズを作成された森正孝さんから、何十年にわたって訪中(訪朝も)し、200人にのぼる南京虐殺や細菌戦・毒ガス戦の被害者の中国人の方にインタビューした映像記録、収集した新聞等膨大な資料の市社会科学院への贈呈があり、大きな拍手と感謝が贈られました。この映像に記録された人々はもうなくなられた方が多く、本当に貴重な今後の研究の資料になるでしょう。

森さんの返礼のご挨拶は情熱のこもったもので大変、感動的でした。「右翼になども脅迫を受けました。しかし、私に『この記録を残さなければならない』という努力を続けさせたものは被害者の『なんとしても、この事実を日本人に伝えてくれ』という血の叫びでした」

午後の日本人の発表の一番最初に私が指名されたので、以下のように話しました。
「私は33年間、東京都内の公立中学校で社会科教員として、森正孝氏が制作した映画『侵略』を教材に日本の侵略戦争と植民地支配の真実を教えてきました。しかし、2年前に東京都知事・石原慎太郎が支配する東京都教育委員会によって免職されました。

免職弾圧の理由は、@東京都議会で「日本はどこの国も侵略したことがない」と公言した議員を糾弾したこと。A「新しい歴史教科書をつくる会」が編集発行した扶桑社の歴史教科書の誤りを指摘したこと。B歴史の真実を生徒に教えてきたこと、などでした。まさに、歴史の真実を教える歴史教師を学校現場から追放したのです。私は、それにひるむことなく、現在、復職をめざし東京地裁に提訴し闘っています。

免職される一年前から、私は学校現場から引き離され教員研修センターに配属されました。この経過は、添付した『人民日報』(日本特派記者・曹鵬程2005年9月5日号)で報道されたので、見てください。教員研修センターでは、東京都は私に対して、授業で映画『侵略』を生徒たちに観せたこと、そして、中国への侵略戦争の事実を教えたことを「反省せよ」と迫りました。私は、教師として真実を教える立場から、こうした歴史歪曲・歴史偽造に抗議し、この命令を拒否しました。そこで東京都は、「改善の見込みがない」と免職を強行したのである。

私の教師としての任務は、誤った歴史認識を広めようとする日本の右翼勢力との闘いであるとともに、次代の子どもたちに正しい歴史認識を持たせることで、未来のアジアの平和を担う子弟を育てることであると確信しています。すでに、韓国メディアは「日本の良心的女教師『扶桑社教科書批判』で免職」と報道してくれました。しかし日本のメディアは、リベラルを看板とする新聞でさえ私の闘いの報道を拒否して右翼勢力を助けているのが現状です。

ここにお集まりの皆さんは日本の裁判官が政府の代理人か右翼の代理人であるかのような判決を出すことを良くご存知だと思います。日本の裁判官に、侵略を否定する妄言都議や扶桑社歴史教科書は『国際的には恥を晒す歴史偽造である』という評価に値することを理解させるために、本日配っていただきました日本の裁判所に提出する署名をぜひ、お願いします!」
 
全体会議は、日本語、ハングル、ロシア語、モンゴル語の同時通訳です。話し終わりますと、本当に大きな拍手をいただき、休憩時間にはたくさんの方が私の席に駆け寄ってきて、握手と励ましをいただきました。そして「記念写真に一緒に写ってくれ」といわれ、ものすごくたくさん写真を撮りました。中には私のカメラで写して「写真ができたら、中国の私の住所に送ってください」といわれる方もあり・・・ムムムム、ま、いいでしょう。がんばります。

 もちろん、署名も皆さんがしてくださいました。中国の方、モンゴルの方、韓国の方、そして参加していた日本人の方から・・・それだけでなく、あとで増し刷りして日本の私の住所に郵送してくださるという方も、大勢いらっしゃいました!

 その他、日本からはお医者様の方が、「日本の医学会で『人の命を守るべき医者が731部隊のように人の命をこの上ない残酷さで奪うことに使ったことへの反省の決議』をあげるよう努力しているが、まだ、成功していない」ということを発表されました。こういうお医者様がいらっしゃるなんて、これも私の闘い同様、全くマスメディアが報道していないので知らなかったことでした。

 日本人の発表者は他に二人、一人は若手の軍事考古学研究者です。お父さんは敗戦間際のソ連軍2万に対する日本軍2500名の中の闘いで奇跡的に生き残った50数名の中のお一人で、戦後、貴重な証言者となった方だそうです。彼は、これは差日新聞にも大きく載り間したが、虎頭要塞の衛星写真を使った研究でまだ見つかっていない地下要塞などの発見の努力をしているそうです。

もうお一人は日本で731部隊展を16年間も主催していらっしゃるABC企画委員会(Aはアトミックつまり核兵器、Bはバイオつまり細菌兵器、Cはケミストリーつまり化学兵器のことだそうです)という市民組織の事務局長の三島静雄さんです。

「猛威振るう『悪魔の霧』旧日本軍の毒ガス、中国遺棄化学兵器の完全処理は急務」というテーマの発表は戦後63年経っても私たちの国の軍隊が捨ててきた毒ガス弾が、中国の子どもたちにまで取り返しの付かない被害を与えていることを、よくまとめていらっしゃいました。今後とも「731部隊展」&「遺棄毒ガス展」を基礎に展示会活動を続けながら並行して「中国・遺棄化学兵器の完全処理」を目指して日本の各政党にも働きかけていかれるそうです。

 それにしても、日本政府は化学兵器禁止条約に調印し、中国に日本軍が遺棄した毒ガス弾の処理に何十億円も税金を使ってきたはずですが、「実は、まだ、ただの一発も処理は終わっていない」という事実を三島さんから聞いて驚きました。ただ、中国国内を移動させているだけ!? らしいです・・・

中国人の発表者の中では、731部隊の「特別移送」=マルタとして処理された方のお子さん(もう95歳のおじいさんですが)のお話が、やっぱり一番印象に残りました。お孫さんにやさしく介助されて壇上に上がられましたが記憶は鮮明でした。

「抗日戦争、すなわち反ファシズム戦争の闘志だった父は、1941年8月17日、密告で逮捕されました。そして二度と帰ってきませんでした。捕まったとき母に言ったそうです。『私は裏切り行為はしない。屈服しない。日本軍はどんなにしても私の口を開けることはできないから、私は帰って来れない。だから、おまえは子どもの教育をしっかりやってくれ』と。今にいたるも日本からは何の賠償も出ず、怒りが続いている。父のお墓参りをしても父に申し訳が立たないのが悲しい。」

聞いていて、「え? お墓?」と思いましたが、翌日、意味が分かりました。


<19日午前、731部隊史跡見学>
2台のバスでハルビン市平房区にある(バスで30分ぐらいでしたか)旧731部隊本部跡に行きました。やはり、見ていて日本人としては心がとってもとっても痛みます。

前日の夜は、すごい雷雨でした。といって歩けないほどではないので、夕食後の夜の散歩にセミナー会場のホテルのすぐ近くにある松花江のほとりのスターリン公園に行きました。稲光がここかと思うと、またあちら、あちらと思うとまた、こちらという感じで、これは中国でなければ見られない光景かも!? と思いました。そして、この日は雨も上がりスカッと晴れて本当に広い広い空ですが、どこを探しても全く雲ひとつない好天でした。

こんな美しく爽やかな日差しの中で、日本軍731部隊の悪行が苦もなく行われていたんですね。本部の建物の正面はそのまま残り、今は展示館になっています。生体解剖したマルタの内臓をかけておく大きな釣り針を互い違いにつなげた金具など見ていると吐き気がしてきそうで・・・マルタを収容した地下独房は、もう跡だけですが、一部屋が3畳ぐらいであることは仕切石が並んでいるので、よく分かりました。

そして、この建物の一角に犠牲者で名前の分かっている人の生年月日や名前、殺された年齢(不明の方も)を明記した金属プレートが壁一面に張られていたのでした。そして、策や発表されたおじいさんとお孫さんが花束をささげていらっしゃいました。つまり、ここが彼のお父さんのお墓だったのです。泣いておられました。何十年経とうと癒えることのない傷・・・プレートの「26歳、30歳、41歳、21歳」という数字を見ていたら、なんとも表現できない気持ちで本当に胸が痛かったです。なんという取り返しの付かないことを「わが国」は為してしまったのでしょうか・・・


<19日午後「慰安婦=日本軍性奴隷」分科会>
他には細菌戦分科会、中日連携・戦後賠償問題分科会などがありましたが、私は、この分科会に出ました。国立忠州大学校、老人保健福祉学科教授の韓キューリャンさんは発表者でしたが、九州大学大学院に留学して博士号をとった方で日本語通訳をしてくださいました。この方の日本語能力未満の日本人が、いっぱいそうな・・・

韓さんのアパートには日本軍性奴隷にされた二人の姉妹がいらっしゃるそうです。道を歩いている時に、いきなり大きな袋をかぶせられて拉致されたのだそうです。そして今、二人とも高齢になり、妹さんのほうは癌を病み、お姉さんのほうは認知症が進んで普通のコミュニケーションはできなくなっているそうです。でも、次の言葉には胸を突かれました。「何にも覚えていなくてコミュニケーションは取れないのですが、それなのに、時々『日本人を殺しに行くーっ』と大きな声で言いながら外に飛び出していくんです」・・・

私は発言を求められて言いました。「午前中の731部隊も心が痛かったですが、韓さんのお話もとても胸が痛いです。どんなに言っても取り返しの付かないことをしてしまって、しかも、依然として完全な謝罪もしていないことに申し訳ない思いでいっぱいです。

日本政府の犯罪行為は4つあります。取り返しのつかない犯罪行為をしたこと。それなのに、その責任をきちんと認めないこと。その結果、教育の中で日本の子どもたちに日本の侵略の真実を教えさせないこと。そして、真実をきちんと教えた教員である私をクビにしたこと、です

『侵略』の映画を中学生に見せたことで私は、私を弾圧する都教委の役人から責められました。『こんな残酷なものを子どもに見せるんじゃない、だから教員にしておけない』と」

この時、会場の参加者から一斉に悲鳴とも嘆声とも言えるような声が上がりました。
「そうです。日本人の右翼勢力は『子どもに見せられないような残酷なこと』をしでかしておきながら、そんな『残酷なこと』をしてしまったことに対する反省が全く欠落しています。良心が欠落しているのです。だから、その事実を子どもに教えさせたくないのです」

韓さんは言われました。「真実の歴史を子どもたちに提示しなければ、隣国との本当の平和は築けません。確かに、こうした事実は辛いですけど、それは未来の平和な関係を築くためには必要なことです」

私は言いました。「そうです。私の教え子の15歳の女の子は日本軍性奴隷の学習の後、こう書きました。『このおばあさんたちに言ってあげたい。あなたたちは、穢れてなんかいません。穢れているのは日本軍の人たちなのです』・・・きちんと事実を教えれば、日本の子どもたちは理解します。これからも、私は教壇に復帰の闘いをし、真実を伝える努力していくつもりです」

私の後に、あびこ平和ネットから一緒に参加してくださった本田幸子さんが発言されました。「私は今、64歳になります。子どものころ、町の映画館で日本軍が中国や朝鮮半島で行った残虐行為の映画を見て、それからずっと50数年、なんとか中国や朝鮮半島の人々に謝りたいと思ってきました。こういう機会が与えられて本当に嬉しいです。私は一市民ですが、今まで平和活動をやってきました。これからも、できる限りの活動と努力をしていきたいと思います。」

私と本田さんの発言を聞いたあとに韓国の男性が発言されました。「戦争が悪いのに、直接の加害者ではない日本人が謝罪してくれて、本当に嬉しかったし感動しました。そういうあなたたちの行為、努力があるので、日本は健在であることが分かりました。あなたたちのような良心的な日本人がいなかったら、私は日本には天罰が落ちるだろうと思っています」

分科会が終わって、ここでも握手と記念写真とをたくさんの方から求められました。


<20日、ハルビン見学>
 私と本田さんはABC企画の三島静夫さんに引率され!?(彼は市川在住で、中国に30回くらい来ている大ベテランです)、731部隊研究所所長の金成民氏の姪御さん(静岡の大学に留学中で日本語ペラペラ)に通訳をしてもらい、ハルビンの町を見学しました。

 まず、訪問したのは「東北革命烈士記念館」です。有名な女性抗日運動家で1936年31歳で日本軍に処刑された趙一曼をはじめ、たくさんの烈士の写真と活動内容が展示されていました。中に12歳で処刑された少年兵士!? の写真もあり、ため息が出ました・・・こんな子どもでさえ見逃してやることもできなかった日本皇軍・・・

この建物は旧(偽)満州国の警察署だったそうですが、正面の白い大理石の柱は、なぜだかギリシャ神殿建築風でした。
車で移動する時にハルビン駅前を通りました。伊藤博文の終焉の地です。しかし、駅は新しくなって、安重根に暗殺されたホームの場所については現在、全く痕跡もないそうです。残念。以前、ソウルの安重根記念館で見た古い写真には確か、その場所にプレートがあったような気がしていたので、この目で見てみたい、と思っていたのですが・・・

次は聖ソフィア寺院。ハルビンの都市建設は東清鉄道建設のときにロシア人が行ったとかで、立派なロシア正教の建物です。現在、中は博物館のようです。それから中央大街というところに行きました。「ハルビン銀座」!? という感じで、土曜日のせいもあるのでしょうか、新宿か渋谷のようにたくさんの人で混雑していました。

当時のロシア風の石造りの建物が今も並んでいます。舗装は石畳で磨耗しているところが歴史を感じさせました。馬車でロシア人が行き来しているところなんかのイメージが・・・ここのロシア商店(という感じのお店)でスエード(中側は毛皮)の手袋を買いました。なんと、日本円で600円ぐらい。「えっ? そんな値段でいいのですか?」という気がしてしまい、妹や友達のお土産用にも買ってしまいました。


<21日、帰国>
 朝は6時にホテルを出て、ハルビン国際空港へ。飛行機は9:50に出るのですが、余裕を見て。ここのチェックはやたら厳しくて、何度も何度も体の上から下まで前後左右に検査道具を当てられて閉口しました。

本田さんは手荷物に入れていて、私のハンカチがバッグのチャックに絡まった時に切ってもらって大変役立ち、新潟空港では大丈夫だった裁縫ハサミ(15センチ以下)を没収されてしまいました。三島さんはリュックの中身を出されられて改められました。

何とか飛行機の待合室までたどり着けた時はホッとしました。ここの免税店で残りの元を使いきろうと60元(日本円で960円)の「黒竜江文化名酒」というのを買いました。アルコール度数は38度。コ−リャンが原料のようです。空港にあるのだから、まぁ、有名で美味しいのだろうと・・・しかし、帰宅して味を見たら、なんとも強烈なニオイで・・・ま、冬の組合の合宿参加者にふるまいましょう!(美味しかったら、自分で全部飲んだかも!?)

飛行機の窓から見ると見渡すばかりのトウモロコシ畑(こうりゃん畑もあるかも)。美しく大きな区画で、まるでアメリカの農地の航空写真を見るようでした。中国の東北地方の農業も発展しているようです。町はマンション建築ラッシュで、日本の高度成長期のようでした。オリンピックが終わると中国経済はパニックになるみたいに週刊誌が書いていたような気がしますが、中国は、まだまだこれからも発展を続けていきそうに見えました。

そして、午後1時、無事に新潟空港に到着。実際に飛行機に乗っている時間は2時間ですが時差が1時間あるので、こういう時間になるわけです。

飛行機代が高くって(滞在費は安いのですが)財布はかなり痛みましたけど、それ以上の成果があったハルビン訪問でした!