増田 都子 様
あの日持ってかえった本(『たたかう! 社会科教師』)は、ちょうど翌々日に定期診療のため通っている病院の待ち時間を利用して読みはじめたところ、途中でやめることができなくなってしまい、そのままずうっと読みつづけ、読みおえてしまいました。なにしろ、おもしろかった!
あれを芝居にしたら抱腹絶倒の諷刺劇になる。これがわたしの第一印象です。それこそ、ブレヒトもゴーゴリもぶっとばすほどの芝居ができる。それくらいおもしろかった! おもしろかったなんて言うと、不謹慎だっておこるひともいるかもしれないけれど、しかし、あの、おこがましくも「研修」などという名を冠した夜郎自大の儀式と、その滑稽さに気づくことさえできぬまま後生大事にわが身の安全・安逸を守ることに汲々たる小人物の一人一人が織りなす茶番劇は、もしひとを得て上演することができたなら、抱腹絶倒、その笑いが中空で凍りつく凄惨な悲喜劇になることうけあいです。いまのわたしにこれを劇化するだけの精神的・肉体的余裕のないことが残念です。
それにしても、あのように正確な記録を残してくれたあなたの気力と力量に感謝するほかありません。その記録が正確であったからこそ、いまのべたことがら、つまり東京都教育委員会という名の組織があなたにあたえたまぎれもない迫害全体のどうしようもない滑稽さがくっきりと浮びあがってくるのです。
ぜひ言いたかったことの一つはこれ。もう一つは、教師としてのあなたのなみなみならぬ力量についてです。この力量を、わたしは、たった一度あなたの授業に出ただけでただちに感得することができました。
このような授業にじかに接することができた生徒たちはどんなにしあわせであっったことか! そのあなたの真価を見ぬくことなどどのようにしてもなしえなかった小官僚どものなんとなさけない凡庸さよ!
歴史は教えるものではない。歴史を語りつたえるといういとなみは、語りつたえられる側のひとたちのうちに、語りつたえてほしいという熾烈な欲求がきざさなければ、ほんとうには、なしえない。その欲求を、あなたは、あなた独自の手法で、聴き手を挑発しつつ、潜在的な次元からひきだしひきあげ顕在化させていった。感嘆しましたね。
この手法は、事実をもって語らせるドキュメンタリの手法に近い。あなたの授業ではそれがみごとに駆使されていた。それも、そこ紹介される諸事実が、その紹介の深度についての考えぬかれたはてにしか到達しえない適切さをもって、自然に選ばれ並べられていた。
こういった授業に出るひとたちは、歴史を教わるのではなく、自分自身が歴史の主体となって考え判断するというスリリングな体験を得ることができるでしょう。言いたいことはまだまだいくらでもありますが、ひとまずこれくらいにしておきましょう。
あなたに、ぜひ、わたしたちのこの地方(印西・白い・鎌ヶ谷)でこのような授業をしてほしいと、わたしは、ひそかにねがっています。そのためには、まず、ここに住んでいるひとちにあなたの授業を体験させる必要があります。百万言をついやしてそのすばらしさを力説するよりも、一度体験してもらうのが早道でしょうから。
とりあえず、このたよりはここで閉じます。あなたから要請のあって「紙上討論」については、とりわけあなたが提出しておられる二つの問題については、こののち、ぜひ、わたしにも意見をのべさせてください。
そうそう、言い忘れたわけではないけれど言わなかったことの一つがこの「紙上討論」についてです。授業を終えたあとから、じつは、生徒(受講生)とのあいだでの真の対話がはじまるのですよね。その対話こそが、教師と生徒(受講生)とを人間としてかかわりあわせ、そこにこそ真の学びが生れるのだと、わたしも、考えかつ実践してきたものでした。
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