7月15日増田さんの授業 上智大学にて 08/7/20

 先日、ご案内しました件名授業に参加した社会人の方から、感想をいただきましたので、長文ですが、そのまま、ご紹介します。学生さんたちのリアクションペーパーが楽しみです。


●増田都子。上智にあらわる!
  2008年7月15日(火)午後3時15分。天気:曇り
 東京四ッ谷、上智大学3号館248教室。

 増田都子さんの抗議ではなく、講義が始まった。実は、私は、この大学の卒業生でもある。滅多に無い平日の休みの日。前から受けたいと思っていた増田さんの授業に加えて、30年ぶりのこの大学での授業とあいまり、前日の夜は、あたかも遠足の前の日の小学生のように、わくわくして、あまり眠れなかった。

 ほとんどが新築されてしまっている中、3号館は数少ない、在学中からあった建物。それも、私をなつかしがらせた。100人ぐらい入る教室。続々と学生が入り始めた。かなりの混み様(増田さんレポートでは80人となっていた。)始業ブザーが鳴り、教授が増田さんのことを紹介。

 「真っ正直に自分の信念を曲げずに、行動する人。言わば、女坊ちゃん。」
・・・うーん。おもしろい、このフレーズ。

前の席から、授業の資料のプリントが回って来る。全部でA4表裏プリントで6枚。(内1枚は、『週刊金曜日』の鎌田慧さんが書かれた増田さんの人物紹介)1時間半の授業でこんなに出来るのか? ということを、若干心配しつつ授業は始まった。

資料のコピーに目をやると、至る所に空欄。もしかすると、これを当てながら授業をするんではないだろうな、と思っていると不安が的中。前の現役学生から当てて行く。(ちなみに、この日の授業には、外見から絶対、現役学生ではないなという人が、私を含めて5・6人いた。)

最初は、日本国憲法の天皇条項。一通り、説明した後、増田さんの質問、「天皇と内閣のどちらが上だと思います?」前に座っていた現役学生二人とも、「天皇」と答える。おーい。若者よ。しっかりしろよ。日本国憲法だぞ! 大日本帝国憲法じゃないぞ! 主権在民だぞ! あ〜あ。なげかわしい、とここでは思った私だったが、そのレベルは、全く変わりがないことを後の質問で思い知らされることになる。

「第99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う」増田さんの質問、「どうして、ここに国民が入っていないんですか?」
 う〜ん。はたまたーーーー。わ、わからない。なんで、わからないんだ。なんでーーー?答え。主権在民。国民主権だから。天皇は、国民に対して、この憲法を尊重し擁護する義務を負っているのだから。ここに国民が入ったら、国民が国民に対して、になってしまい、もっと、単純に言えば、自分が自分に対して責任を負うことになってしまい、なにがなんだかわからなくなってしまうから。

いっぱちのことを、今まで言って来たのに、憲法の基礎もわかってないじゃないか。あ〜あ。自責の念。目から鱗(うろこ)というのは、まさに、このこと。いや、目から鱗(うろこ)では甘い。造語ではあるが、目から飛び魚、とここでは、言うことにする。意味は、今まであり得ないと思っていたことが、出て来たという風に解釈されたい。

 この授業の目的は、この間の戦争のヒロヒト前天皇の責任を、実際に起ったことと、その発言を時系列に並べて、明らかにすることだとみた。そこで、最初に、現憲法での天皇の位置の確認を導入にしたのであろう。

う〜ん。都教委は、増田さんを「指導力不足教師」としてはクビにできなかった・・・「指導力あり過ぎ教師」じゃないか。増田さんは「公務員不適格でクビ」ということらしい・・・

 次に、日本近現代史年表に入って行く。ここから、増田さんのマシンガントークは冴えわたる。戦争の推移を、その時の「杉山メモ」「木戸日記」などから実際のヒロヒト前天皇の発言にそって、軽快に説明して授業はすすんで行く。

 ヒロヒト前天皇の発言 (1)1941年2月南部仏印・タイ施策要綱上奏時「自分としては相手の弱りたるに乗じ、要求を成すがごとき、いわゆる火事場泥棒式のことは好まないのであるが、宋じょうの仁(情けのかけすぎ)を為すがごときの結果になってもおもしろくないので、あの案は認めておいたが、実行については慎重を期する」・・・ちょっと、ためらってるんだな。

(2)1941年11月30日日米開戦前夜「海軍大臣、総長に先程の件を尋ねたるに、いづれも相当の確信を持って奉答するゆえ、予定通りすすむるよう首相に伝えよ」・・・やれ! って言ってるんじゃん。

(3)1942年2月シンガポール占領時「陛下には天機(機嫌)ことのほか麗しく次々に赫々たる戦火の上がるについても全く最初に十分研究したからだとつくづく思うとの仰せあり。」・・・勝ってるから有頂天になってるんだな。

(4)1944年6月マリアナ沖海戦日本海軍大敗北(連合艦隊事実上消滅)時
「(東久邇宮が語る)悪くなったら、みな東条が悪いのだ。すべての責任を東条にしょっかぶせるのがよいと思うのだ。内閣が変わったら責任の帰趨がぼんやりして最後には皇室に責任が来る恐れがある。」・・・ヒロヒト前天皇の気持もこんなところだろう。自己保身・責任転嫁だな。サイテー。

(5)1945年2月ヤルタ会談後
近衛「敗戦は遺憾ながら必至なりと存じ候。国体(天皇制)のたてまえより憂うべきは、敗戦よりも敗戦に伴って起るかもしれない共産革命にござ候。・・・よって国体護持の立場よりすれば1日も速やかに戦争終結の方途を講ずべきと確信つかまつり候」
天皇「もう一度戦果を上げてからでないと中々話は難しい」・・・勝った時の感覚が忘れられないんだな。ここで、止めときゃよかったものを

(6)1945年7月終戦前夜
「大本営が捕虜になるというが如きことも必ずしも架空の輪とは云えず。ここに真剣に考えざるべからざるは三種の神器(鏡・勾玉・剣)の護持にして、これを全うしえざらんか、皇統二千六百年の象徴を失うこととなり、結局、皇室も国体も護持し得ざることとなるべし」・・・なんだ。結局は国民など目になく、三種の神器や自分達のことが大事なんじゃない。

 この後に、当日初公開の今まで増田さんを取り上げた海外のテレビフィルム(韓国、イギリス)のダイジェスト版の上映も約23分あった! 当授業では、時間切れで扱われなかったが、資料プリントにあった戦後のヒロヒト前天皇の発言を一つだけ、あげることにする。

(7)1969年9月宮内記者会見時
「開戦の時から、(戦争を)いつやめるか、いつやめるかと、やめる時期を考えていました」・・・うそっぱち! 人間性を疑ってしまう。未だ人間びとにあらず。人間天皇と宣言したのだったら、その時、人間性も持つべきだった。

 以上のもことから、戦争前から戦後にかけてのヒロヒト前天皇のこころ内を、推測しその人ととなりを定義する。

『戦争直前は、開戦にためらっていた時もあったが(1)、結局はやれ!と言い(2)、初戦の勝利で有頂天になる(3)。負けて来ると、他人のせいにし(4)、やめたらどうかという勧めにも、勝った時の感覚が忘れられずに拒否(5)。いよいよ敗戦必至になると、国民のことより、自分達皇族のこと・鏡や勾玉や剣のことが大事だった(6)。恣意的な占領政策により、戦犯となる恐れがなくなると、事実を隠蔽し、都合のいいように言う。』

  最後に、自分の感想を書き、まとめとしたい。
◎目から飛び魚の授業
 前述したように、この年齢になって始めて、憲法における国民主権の意味がわかった。この授業は、私にとって、目から鱗(うろこ)を遥かに超えた、目から飛び魚の授業であった。今まで、何をやっていたか、という自責の念が。

学校の授業では、天皇の戦争責任はもちろんのこと、憲法のことも、まともに教えられていないことを、身をもって知った。あ〜あ。身になる授業って、今まで、ただの一度も受けていなかった、ということを痛切に感じた。増田さんの授業は本当に初めて受けた、身になる授業だった。中学校で増田さんの授業を受けた生徒は幸せ者だった。

 少し、話はそれるが、私の中学校の時の社会科の教科書は、いまのものより、更に都合の悪いことは触れていなかったような気がする。従軍慰安婦はもちろんなく、沖縄戦も特にそれ独自での記入はなく、原爆も、広島・長崎に投下されたという記述のみ。反論はあるかと思うが、今の方がまし、というよりか、前のものが更にひどすぎるというべきか! でも、その教科書で育った私ですが、こんなに立派な大人になりました。
 増田さん、素晴らしい授業を本当にありがとう。