近現代史講座へのお誘い&感想 07/12/8

前回の授業について、受講者の方から、次回へのお誘いとすばらしい感想をいただきましたので、ちょっと長いのですけど、ご紹介します。


<増田都子先生の社会科授業第6回 『第一次世界大戦と日本』感想 (1)>

    次回は12月15日(土)14時〜我孫子栄光教会にてテーマは「民族独立運動と大正デモクラシー」

 時代の進み具合からして治安維持法も学習範囲かと思われます。現代の治安維持法共謀罪を廃案にと思われる方は、ぜひご参加ください!

1. 昔日本史の授業は死ぬほど眠かったのに(なぜか5時間目)、増田先生の授業では(自分なりに)頭と心が活き活きと回転しだして、疑問や興味がどんどん湧いてくるのが不思議です。授業の質と記憶を強制されない開放感によるのでしょうか。

 思うに受験戦争の弊害は競争の激化以上に、根源的な疑問や本質的な興味を奪うことにあるのではないでしょうか。疑問も批判もさしはさむ暇があらばこそと詰め込むうちに、不思議に思う心の泉も涸れはてるという寸法です。もっともこれは国家の支配者にとっては弊害どころか予定した効果というべきですね。いわく考えない国民の育成です。その文科省が思考力の育成というのだから、なかなか芸が細かいのですが。

 増田先生の授業を受けてみて、驚き、疑い、考え、紙上討論する楽しさを、ぜひたくさんの方に味わってほしいと思います。思い出すと、子どもって訊いていいことと悪いことを妙にわきまえていて、高学年になるほど突拍子もないことを訊く子はいなくなったような気がします(お利口さんになっちゃうのね)。「よい質問」をアンチョコで見つけて、先生を喜ばせてる子もいたなあ。でも増田先生の紙上討論では、思ったことを自由に書いていいのです。というわけで楽しさのあまりと書きながら考える癖でつい長くなってしまう私の感想は、増田先生に取捨のほどお願いします(提出も遅くてすみません)。

2.今回までの授業で、何とまあ暴力的で好戦的で侵略的なこの国の支配者であったことかと、唖然たる思いが強いです。なぜ彼らはかくまで貪欲になれるのか、私なんかの理解を超えるものがあります。ほんの少し前まで足るを知るとか武士は食わねどと言っていた清貧の思想?は、どこに掻き消えてしまったのでしょうか。江戸時代以前の民衆の暮らしもそうだと思うのですが、共生的な文化は地球上にあまた存在していたはずなので、私は、果てしない欲望の追求こそが人間の本性だとは決して思いません。けれどもいち早く近代化した国家、追いかけるように近代化を急いだ国家は、例外なく帝国主義国家となり、癌細胞のように欲望を増殖させて異なる文化を破壊してきました。授業を通してそのことをまざまざと実感しました。

明治新政府の当初から征韓論の存在。福沢諭吉の脱亜論。
1894年、朝鮮の農民反乱を奇貨として始めた日清戦争に勝利し、台湾領有と莫大な賠償金に味をしめる。
1904年、韓国(国名変更)における権益防衛のため、南下するロシアに対抗して日露戦争。ロシア艦隊を全滅させるも、賠償金は得られず。
1910年、ついに日韓併合、「念願の」韓国完全植民地化を果たす。
1914年、第1次世界大戦が始まると火事場泥棒よろしく日本も参戦して、中国(辛亥革命で成立)におけるドイツ租借地を占領。
翌1915年、中国政府を武力で威嚇し対華21か条要求を受諾させる。
大戦中、ロシア革命に干渉してシベリア出兵。他国軍引き上げ後もシベリア支配を目論み、多年にわたり出兵継続。

 以上が、台湾、韓国、中国、そしてシベリアへと至る領土的野心の経過ですが、1931年の満州事変とこれに続く日中戦争、「大東亜戦争」は真っ直ぐその延長上にあるのですね。またこれらに先立ち、明治政府が早々に琉球と北海道の先住民族に対しても、武力による処分、支配を断行したことを忘れるわけにはいきません。

3.この目まぐるしいほどの侵略と戦争の歴史を見て、私は何か違和感を覚えずにいられません。アメリカはネイティブを虐殺した建国の初めから今日までずっと侵略国家だと本多勝一さんが言うけれど、日本の場合は明治の政権交替後にまるで何かに取り憑かれたように侵略を始めている。そのことが不思議です。

 西洋に目を向けても、やはり近代国家の侵略欲には常軌を逸したものを感じてしまいます。科学技術の進歩もその一要因ではあるでしょう。現代では情報技術の飛躍的発展が、グローバリズムと名をかえた帝国主義を加速しています(侵略の主役はイギリスからアメリカにバトンタッチしましたが)。これは由々しき事態ですから、私は近代とは何かをしつこく考え続けたいと思っています。

4.西洋近代は自由の概念と近代国家(国民)を産み出しました。いち早く西洋に学んだ福沢諭吉はの「学問のすすめ」と「脱亜論」で、国民と国家における欲望追求の自由を相似形に描いています。拡大器で描いたふたつの図面が元は一つであるように、国民と国家の欲望は基本的に同質一体と伝えているかのようです。欲望追求も身分制度からの開放も、等しく自由でよいことなのだというメッセージとともに。

 この自由概念が侵略の大義名分を国家に与え、国民と国家の利益が一致するという多大な錯覚を、民衆に与えたのではないでしょうか(日清戦争の勝利に驚喜し、日露戦争の講和条件に憤慨する人々)。自由の恩恵ももちろんありました。でも国家という名の支配者が得たものと比べたらどうでしょう。もしかして自由と国民の発明は、支配のための高度トリックではなかったかと妄想をたくましくしています。

5.ところで現代ではむしろ、規制緩和(儲けの邪魔排除)を要求し、国家に戦争させることも辞さないグローバル企業の経営者が、国家支配者よりも高位の欲望追及者かもしれません。どちらもお仲間だと思いますが。

 法律上、法人格を持つ企業が刑事責任を負わないことを最近知って、私は本当に驚きました。確かに刑事罰を受けあるいは自殺して責任をとらされるのは常に企業の中の個人、それも中間管理職といったあたりです。最近はさすがに経営者責任が問われることも増えましたが、でも株主だけは相変わらず無傷ですよね。大金さえあれば経営に口を出し経営者の首をすげ替えることも会社の乗っ取り乗り捨ても好き放題で、責任は問われず。これって信じ難いほど不公平でへんてこりんな制度だと思いませんか。ですから今や最大最強の欲望追及者は、経営者ではなくて大口株主もしれません。ブッシュ政権に見るまでもなくやっぱり皆さんお仲間だとは思いますが。

6.私たちは根本的に騙されてきたのではないかという仮説を立てることで、たくさんのことが見えてくるような気がします。民衆にとって自由は自由でもあり、「自由の呪縛」でもあったということです(国民であることも同様だと思いますが)。この呪縛を脱け出すことがいかに困難か、マイナス成長を目指す小さな会社の社長のさんの実例を紹介します。
http://eco.nikkei.co.jp/column/article.aspx?id=20070925c3000c3

 かつて売上増を至上目的にしていた頃は社員が居付かず経営者も苦しく悩み続ける中で、自分さえよければという資本主義社会に生きていても本当は調和に満ちた助け合いの社会に住みたいのだと気づいた社長が、GNPではなくGNH(Gross National Happiness:国民全体の幸せ)を掲げるブータンに倣って、社員全体の幸福を目指す経営に切り替えました。おりから経営努力によって売上3億円に匹敵する経費節減を果たしていた同社は、前年比マイナス成長を目指すことにしましたが、辞める社員もなくなってゆとりある経営ができているそうです(この弱肉強食社会で倒産もせずに!)。ところでその社長(現在は会長)の向山さんという人があるMLに次のように書いていました。

 「・・・大量生産、大量廃棄をするほど限りある地球の資源を早く食いつぶし、子孫に渡す資源を無くすだけでなく、急激な経済成長が二酸化炭素の急増や廃棄物などのマイナス資産を増やしてしまう。その解決のためには、効率一辺倒、社員を壊してまでの成長拡大でなく、ほどほどの経済、社員の成長を会社の喜びとする資本主義とは一線を画する経営にしたほうが・・・略・・・理屈はそうですが、その心境に達するために私は一年半眠れない夜を過ごしました。経済は成長するものだ、会社はたくさん儲けることが良いことだ、大きくすることは良いことだなどの信仰にも似た資本主義の呪縛から逃げ出すのにかなりの時間とエネルギーを費やすことになりました・・・」

 ここまで画期的な方向転換をなしとげた人にして1年半の不眠があったというところに、私たちの思考をがんじがらめにしているものの強さ大きさがうかがわれます。欲望追求の自由、競争の自由が、上昇拡大を志向させる強制圧力として作用しているのですね。念のため学校教育の総体は圧力強化の方向に作用していると思います。あえて学校の中で学校教育を変える闘いを続けてこられた増田先生の授業を受けて、自分を縛っているものの片鱗に気づくことは、意味あることだと思います。私ちが「自由の呪縛」に捕らわれているかぎり、相似形としての国家や企業の侵略膨張を食い止めることはできないでしょから。民衆のための新しい学問は、自己変革、社会変革の学びでもあるのですね!