やまなし金子文子研究会&宮下太吉の墓 07/11/23

 毎日が飛ぶように過ぎ、気が付いたら、もう1週間前のことになってしまったのですが、ひょんなこと!? から17日(土)に甲府の金子文子研究会に参加し、その後、市内の光澤寺にある大逆事件で刑死した宮下太吉の墓に参ってきましたので、その報告です。金子文子の説明などで長いんですけど、お時間がありましたら、読んでください。

甲府・金子文子研究会の方々と 宮下太吉墓碑

「ひょんなこと」と言いますのは、前回の近現代史講座「日露戦争と韓国併合」の感想を受講者の豊田さんがAMLというMLに流してくださったあと、大逆事件や与謝野晶子について詳細を教えてくださった方がいましてメールでやり取りをしました。それで「17日に甲府で金子文子研究会がありますので来ませんか。ついでに宮下太吉の墓にご案内しますよ」というわけで「あら、そうですか。金子文子には前から関心がありましたし、宮下太吉の墓も見ておきたいです」というこw?とになったのでした。

 太吉の墓前で写した添付写真の人々がこの研究会の中心で、元高校教員の方々が多いようでした。皆さん、とても、まじめな方々で、私に対する都教委の弾圧と闘いについて報告しましたら本当に驚き、強い関心を示し、励ましてくださいました。金子文子について、ちょっと説明しますね。

 彼女は、両親(特に父親)が無責任な人たちで戸籍も作ってもらえないという不幸な生い立ちの女性でしたが、一時期母親の実家のあった現在の山梨市牧丘というところで育ちました。そして朝鮮にいた父方の祖母のところに養女として引き取られたのですが虐待を受け山梨に帰されます。この朝鮮にいた時に1919年の3・1独立運動と日本官憲の弾圧を目の当たりにし、後に「私にすら権力への叛逆気分が起こり他人事と思えぬほどの感激が胸に湧く」と予審で述べたように、侵略された朝鮮人の立場をみずからの境遇と重ねました。

 1920年17歳で単独上京し、1922年、在日の朴烈(パク・ヨル)と暮らし始め、アナキズム運動に参加し、二人は運動紙『太い鮮人』(不逞鮮人をもじったのでしょう)を発行。そして関東大震災の9月3日、「保護検束」という名目で文子は朴烈と共に警察に連行されます。警察は「保護」から治安警察法違反に切り替え取り調べを続け、使用目的が具体化していなかった爆弾入手の意図を拡大解釈され、文子は刑法73< /FONT>条(大逆罪)で朴烈とともに起訴、予審にまわされる。「天皇は病人ですから……それで坊ちやんを狙つたのです」と文子は予審で当時の皇太子を攻撃目標と考えていたと供述しているが、実行に至る具体的計画は無かったのです。つまり、これも、幸徳秋水らと同じ、全くのでっち上げの「大逆罪」です。

 1926年3月25日、朴烈とともに大審院により死刑判決。4月5日恩赦による減刑で無期懲役。文子は宇都宮刑務所栃木支所で服役中獄死。23歳でした。刑務所の発表は縊死。死因に疑問をもった布施辰治弁護士や同志は文子の母親とともに刑務所の墓地に向かい遺体を発掘しますが、死に至る経緯は不明。遺骨は朴烈の兄が故郷、ムンギョンの山奥に遺骨を埋葬。1970年代に当時の朝鮮の同志たちが募金を集め、19w?73年7月、大きな碑を建立。日本人でありながら朝鮮の人々と連帯し、生涯を賭けて革命家として日本帝国全体主義と闘った文子の生き方を碑文に残しているということです。そして、日本でも、1970年代から金子文子の再評価が高まり、やまなし金子文子研究会の方たちが活動しておられるのです。

 現在、母方の実家の方たちは文子の再評価を喜ばれているようですが、父方のご子孫の方たちは研究会の方が電話しても「文子は大迷惑だ」と拒絶されるそうです。「非国民」「国賊」の血縁としての迫害がどれほどひどいものであったか、ということでしょうね。

 さて、宮下太吉は幸徳秋水らと同日の1911年1月24日絞首刑となりました(死刑判決から1週間後)。執行寸前「無政府党万歳」と叫んだと伝えられています。車で連れて行っていただいた宮下家のお墓には彼の名前は刻まれていませんでした。写真の墓碑は、1972年に実行委員会が作られて立てられたものでした。石川啄木の詩の「果てしなき議論の後」からとられた「我にはいつにても起つことを得る準備あり」という言葉が刻んであります。確かに、この啄木の詩は宮下を念頭において創作された詩のような気がします。

以下、その一部ですが抜書きします。

我は知る、テロリストの

かなしき心を──

言葉とおこなひとを分ちがたき

たゞひとつの心を、

奪はれたる言葉の代りに

おこなひをもて語らんとする心を、

われとわが身体を

敵に擲げつくる心を──

しかして、そは真面目にして熱心なる人の常に有(も)つかなしみなり。

はてしなき議論の後の

冷めたるココアのひと匙を啜りて、

そのうすにがき舌触りに、

われは知る、テロリストの

かなしき、かなしき心を。   

我は常にかれを尊敬せりき、

しかして今も猶尊敬す──

かの郊外の墓地の栗の木の下に、

彼を葬りて、すでにふた月を経たれども。

実に、われらの会合の席に

彼を見えずなりて、すでに久し。

彼は議論家にてはなかりしかど、

なくてかなはぬ一人なりしが。

或る時、彼の語りけるは──

「我に思想あれども、言葉なし、

故に議論すること能はず。

されど、同志よ、我には何時にても起つことを得る準備あり。」

「かれの眼は常に論者の怯懦を叱責す。」

同志の一人はかくかれを評しき。

然り、われもまた幾度しかく感じたり。

しかして、今やその眼より再び正義の叱責をうくることなし。

かれは労働者──一個の機械職工なりき。

彼の腕は鉄の如く、その額はいと広かりき。

しかして彼はよく読書したり。

彼は実に常に真摯にして思慮ある労働者なりき。

彼は二十八歳に至るまでその童貞を保ち、

また酒も煙草も用ゐざりき。

彼は烈しき熱病に冒されつゝ、

猶その死ぬ日までの常の心を失はざりき。

「今日は五月一日なり、我等の日なり。」

これ彼の我に遺したる最後の言葉なりき。

その日の朝、われはかれの病を見舞ひ、

その日の夕、かれは遂に長き眠りに入れり。

彼の遺骸は、一個の唯物論者として

かの栗の木の下に葬られたり。

我等同志の撰びたる墓碑銘は左の如し──

「我には何時にても起つことを得る準備あり。」

 啄木がこの詩を創作したのは1911年6月で、彼はその翌年4月に26歳で病死したのでした。