第15回授業アンケート 08/8/31

08.8.31 第15回近現代史講座


「戦争責任を考える」

昭和天皇
東条英機など軍部
近衛文麿ら政治家
財閥企業
新聞などのマスコミ
学校(教員)
米・中などの外国
国民
誰にも責任はない
etc.
(新聞の投書などと同様、理解しやすいように文意を変えない範囲で、増田が文言を補足したりしています)


@
 「戦争責任は誰にあるのか」を考える時、戦争に反対し戦争を回避するために命がけで闘った人以外は「全員」に、大なり小なりの責任はあると思う。ただ、「戦争責任」としては、その地位により責任の重さの質に違いがあるため、「全員に責任がある」と一律にいうことは危険だと思うけれど・・・しかし、各々が反省することによって戦争を回避する方向を模索する必要があると思う。
 特に「国民の責任」としては歴史を学び、真実をしっかり受け止めることだと思う。教師は子どもたちに真実を伝え、考えていく力を育てなければならない。時の政府の言いなりに過去の歴史に目をつぶることがあれば、大いに戦争責任を問われることになる。
 しかし、「戦争に反対した人以外は全員に責任」といっても、「一億、総懺悔」という形で最大の責任者である昭和天皇や政治を動かしてきた人や軍部を免罪することは、してはならないと思う。「政治家も悪いけれど、無知だった国民も悪いのだから同罪で責任はチャラにする」という考えに陥ることが一番、危険だと思う。
 何より、主権のなかった国民が主権者天皇に異議を唱えられただろうか? 全てのシステムが天皇中心に組み立てられた社会の中で、侵略戦争へと突き進んでいき、たくさんの命を奪っても「国体護持」のために戦争をやめることを遅らせ続けた天皇や政治家・軍部の責任は大きい。
 敗戦間際の沖縄戦は別としても、戦争を推進した政治家、軍部指導者たちにとって、日本本土が戦場になっていたわけではなく、他国を侵略した多くの人の命を犠牲にした。特に中国・朝鮮をはじめとしたアジア諸国民に対する差別・蔑視意識は、日本の侵略戦争を正当化し、日本兵を残虐行為に走らせた。戦争を始める権限、戦争を続ける権限、戦争をやめる権限を持っていた昭和天皇、政府指導者たちに一番の責任があると思う。侵略する側とされる側、軍上層部と兵士など、自分の死が差し迫った形で感じられるまでにタイムラグがあることは、自分は大丈夫だという幻想を生むのかもしれない。
 また、マスコミも時の動きを客観的に見つめ、事実をしっかり伝えることが大切になってくる。現在においてもNHKが一部の政治家の圧力で「従軍慰安婦=日本軍性奴隷」についてのドキュメンタリー番組を改ざんした例は、今も戦争中の大本営発表しか流さなかった戦争時代の残滓を引きずっているようにも見える。
追伸
 皆様、赤木智弘さんの「三十一歳フリーター。希望は戦争」をどう、考えますか?


A
 私は「戦争責任は国民と教師にある」と思います。明治維新によって立憲君主制が樹立しましたが、1938年、一通の勅令によって国民総動員法がしかれ、専制絶対君主制へと体制の内実は変化したのですから、天皇の戦争責任は明白なことです。
 また、「大東亜戦争」と太平洋戦争での、とりわけ開戦時の優柔不断な昭和天皇の態度、終戦での自己保身のみの、ペテン師ともういうべき昭和天皇・・・この時期の天皇については増田先生の授業のように白日に曝されるべきです。
 しかし、私は、国民と教師を許すことができません。愛するわが子を「天皇の赤子」として戦場に送り出した母親・父親。また、天皇を神として奉ることを生徒に強制し、戦場に駆り立てた教師たち。「天皇は神ではない」と言わなかった人々。
 封建遺制は根強く、家父長制度の下に女性は隷属し、子どもは「家」の庇護があって養育され、「家」が戦争遂行のための最小単位の機関と化したこの時代の母たちではあったとしても、彼女たちの「愛」の弱さを私は許せません。教育が戦争のための思想洗脳機関と化した時代であったとしても、子どもの命を粗末にした教師たちを、私は許せません。
 「天皇は神ではない」と子どもでも知っています。そのことを口に出さなかった庶民を許せません。他国に軍を侵入させて土地を奪うことは良くないことだと、子どもでも知っていることに思い至らなかった日本の島国根性がしみこんだ国民が許せません。
 「戦争は、きっと日本が負けるだろう。この戦争は良くない」と考えても、羊のように戦場へ牽かれていってしまった人々・・・命がけで戦争に反対した人々もいたけれど、大方の国民は戦争を「聖戦」と考え、「殺し合いを正しいこと」としました。私は、そのことが許せません。
 大正デモクラシーなど近代的自我の発揚される時期もありましたが、日本の近代史においては「近代的自我」は萌芽に終わり、やがて流産してしまいました。
 自己の生命を見つめ正しく育て力を持たせて、より良く正しく感じ考え、その「おのれ」に依拠して生き得る個人が育たねばならないと思います。そのような個人が戦後民主主義の「国民」として育つように1947年、教育基本法が制定され、そのような個人の生き方を保障するべく日本国憲法が制定されました。今や、その教育基本法が改悪され、日本国憲法も危うい状態ですが、私たちは「個人」の力を強めていきましょう。「生命」を育て続けましょう。自分の命も他人の命も大切にしましょう。
 そうでなければ、「天皇制」が廃止され歴史の歯車が正しく回り始めた時、立ち上がってくるのは、同じような「官僚制度」であるように思えてなりません。

増田より
 歴史事実や用語について、いくつか事実誤認があるようです。
(1)「明治維新によって立憲君主制が樹立」という歴史事実はありません。明治維新後、成立した藩閥専制政府と自由民権運動との戦いの中で、後者が敗北し制定された大日本帝国憲法(明治憲法)は「見せ掛けの立憲君主制(外見的立憲君主制)」でした。明治憲法は、憲法によって王権=統治権者を制限する、本来の「立憲君主制」ではありません。大正デモクラシーの中で、普通選挙権(男子のみですが)による多数党派から首相を出すということができ始め、帝国憲法下でも議員内閣制度になる可能性も出ました。しかし、この、「天皇は国民代表(男子のみですが)の議会の決定に同意する」という本来の「立憲君主制」(国会が王の上位にある)になる可能性も、本田さんが書いていらっしゃるように「萌芽」の内に、十数年で1932年の5・15事件の銃弾によって撃ち殺され、潰されました。
(2)「1938年、一通の勅令によって国民総動員法」ですが、これは「国家総動員法」です。また、これは近衛内閣が提案したもので「一通の勅令によって」のものではありません。この法律成立後、「勅令」により、政府は国民を意のままに動員できる(職業選択の自由も奪う)ことになったので、この法の成立を以って天皇制ファシズムの完成と言われます。
   ただ、この法の成立を以って「専制絶対君主制になった」とは普通、言いません。これは「立憲君主制」の対立概念ですから。つまり日本は「見せ掛けの立憲君主制(外見的立憲制)」の明治憲法のまま、ファシズム体制に入っていったわけです。
(3)「『大東亜戦争』と太平洋戦争」と、並列されて書かれていますが、これは、同一の「戦争」の異なる呼称です。「大東亜戦争」は、1941年12月8日の真珠湾攻撃後、12月12日の閣議決定により、名称と定義が定められたものです。「情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戦争」を「支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称」するとなっていました。「太平洋戦争」とは、戦後GHQが「大東亜戦争という呼称」を公文書で使用することを禁止してからの呼称です。
ただ、これだけですと、中国・東南アジアへの侵略戦争が含まれない感じになるので、まじめな歴史学者の間で「アジア・太平洋戦争」の呼称が使われ始め、かなり一般的になっています。私もこの呼称を使います。
(4)「そのような個人が戦後民主主義の『国民』として育つように1947年、教育基本法が制定され、そのような個人の生き方を保障するべく日本国憲法が制定されました。」ですが、これは順番が逆です。
   「基本的人権の尊重=個人の尊厳、国民主権、平和主義」を原則とする日本国憲法は1946年11月3日に公布され、憲法の「この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。」とする教育基本法の制定は1947年3月31日なのです。
   そして、この経過こそ、日本の「戦後」民主主義の特徴です。本来、国民主権の民主主義憲法は痛苦に満ちた何十年にわたる市民革命の結果としてもたらされたものでした。市民革命の結果、「そのような個人の生き方を保障するべく」市民が「憲法」を「制定」し、権力者に「これを守って国民の人権を保障するんだよ」と与えたのです。 
しかし、日本国憲法は違いました。マッカーサーは「日本軍国主義が二度と復活しないように天皇制を廃止せよ」という国際反ファシズム=国際民主主義の圧力をかわし、昭和天皇を忠実な占領協力者にするために「象徴天皇制と第九条」をセットにして、昭和天皇を元首とする日本の支配層に「押し付けた」のです。この憲法の内容としては自由民権運動や鈴木安蔵などの憲法研究会の案が生かされてはいますが、事実として日本国民が主体となって民主主義革命を起こした結果、生み出したものではありません。
ですから、この憲法を支える「自立した個人」を「教育の力」によって育成するべく教育基本法の制定が必要とされたのです。でも、もちろん昭和天皇はじめ日本の支配層(戦争を遂行した戦前の支配層から軍部を排除したもの)は日本国憲法だってイヤでしょうがないのを、天皇制護持のためにイヤイヤ受け入れたのですから、日本が独立を回復し占領軍がいなくなってしまえば、そんな「個人」を育成するつもりはサラサラなかったので、1947年教育基本法の「理想の実現」など図るわけはなく、それでも目覚めた国民の抵抗の中で「すぐに」とはいきませんでした。
やっと59年後の06年12月15日、あのあまりにも無責任な「不適格首相」だった安倍晋三首相(満州官僚として辣腕をふるい、太平洋戦争開戦時の商工大臣だったA級戦犯容疑者・岸信介の孫)によって国会で強行採決されました。そして、この「自立したかけがえのない個人」を育てることを目的とし、民主教育・平和教育をすること、そのために「教育行政は教育内容にかかわってはならず、教育条件の整備のみを行え」とした教育基本法は抹殺されたのでした。できた新教育基本法は国家主義を基本として、子どもたちに「愛国心」を育成することを目標とするものとなりました。

 それから「国民の戦争責任」についてですが、○○さんは、もし、あの時代に生きていたとして、映画『武器なき斗い』にチラッと出てきた、また『はだしのゲン』に描写されているような特高警察の拷問に耐え得たと思いますか? 戦争に反対することは刑務所、拷問に直結していました・・・これは本人だけでなく、愛する子どもにも親にも累が及ぶものです。一度「非国民」のレッテルが貼られたなら本人だけでなく、その人の家族たちの安全も脅かされるわけです。
 俳優の三國連太郎さんの実母が息子の連太郎さんを憲兵に売った話は有名です。Wikipediaには以下のように出ています。『徴兵忌避をしようと逃亡し、母に「ぼくは逃げる。どうしても生きなきゃならんから」と手紙を書き、親や弟、妹に迷惑がかかることを詫びた。(中略)しかし、数日後、憲兵に捕まって連れ戻された。(中略)中国へ出征する前、最後の面会にやってきた母が「きついかもしれんが一家が生きていくためだ。涙をのんで、戦争に行ってもらわなきゃいかん」と言ったとき、彼は母親が“家のために”黙って戦争に行くことを息子に強要し、逃亡先からの手紙を憲兵隊に差し出したことを知ったのである。(中略)
後年、母親が危篤となったとき、連太郎は仕事もあって帰郷できなかったが、その後母親の死の報せを受け取ったとき、自分が未だに母親を許していないことに気がついて慄然としたと語っている。』
 実は、私の母のことを書きますと、1970年代初めに大学生であった私が、ベトナム反戦デモ(べ平連の穏やかなデモです)に行こうとしたとき「やめてくれ。就職できなくなったらどうする? それに、あんただけじゃない。世間から『アカだ』といわれたら、あんたの妹や弟も就職できなくなったり、結婚できなくなったりするから」なんぞと言われたものです。母は戦時中は高等女学校の年代でした。今で言えば高校生ですか・・・「女学校には芋掘りに行っていたようなものだ」とは言ってましたけど・・・
私は「時代が違うよ。世間、世間って言うけど、『世間』があんたを養ってくれるわけぇ?」と母の懇願を一蹴してデモに出かけました。母ときたら、この今の私の平和教育の実践の結果の10年前からの弾圧に対しても「謝って許してもらえるなら、そうせー。あんたの子どもの就職にも差し支えたらどうする?」なんぞと、私の足を引っ張ったものですが「私には謝る理由がないから。それどころか伸太郎のほうが私に謝らなきゃならないんだよ」と、これも一蹴して現在に至っております。
それだけ、「戦時中の国民弾圧」の記憶、「アカ攻撃」の記憶は強烈なんですね。ま、これは、これから学習していく「戦後のレッドパージ」の記憶もあるために増幅されているのでしょうけど・・・たぶん、戦争中に私が生まれていて反戦活動などしたら、たちどころに母は私を売っただろうという自信!? があります。本当は妹や弟のことは口実で、それは実は自身の安全のためではなかろうかと、私はずっと疑いのマナコでおります。
 こういうことも「国民の戦争責任」を考える場合には考慮に入れることが必要ではないでしょうか。


B
 私は「国民としての戦争責任」を考えます。
「自分たちが他者に対して犯した犯罪の犯罪性(※日本のアジア侵略)とそれに対する自己の責任を明確かつ徹底的に認識しないからこそ、他者が自分たちに対して犯した同種の犯罪(※アメリカの原爆投下)がもつ重要性も認識できない。他者が自分たちに対して犯した犯罪の犯罪性とその責任を徹底的に追及しないからこそ、自分たちが犯した犯罪の被害者の痛みも、それに対する責任の重大性にも想いが及ばない、という悪循環を彼ら(※政治家)は繰り返している」
この文章は、田中利幸氏(広島市立大学、平和研究所教授)が月刊誌『戦争と性』の「原爆投下を裁く国際民衆法廷・広島」の中で書かれていたもので、今の、責任意識を全く欠いた政治家たちを批判したものです。でも、これはそのまま私たち国民にも向けられるものだと私は思います。
 「過去のことは水に流す」「済んでしまったことはしかたがない」とあきらめる、ある意味では長所ともいえる国民性ですが、被害者にとっては決して忘れることのできない、許すことのできないこともあります。きちんと罪を認め、謝罪をする、それをせずに一生を終えることは加害者にとっても不幸なことです。
 そもそも私たちは歴史上の事実を正しく学んできていません。しかし、幸いなことに今は知ろうと思えばいくらでも学べる環境にあります。一人一人が侵略戦争の事実を知り、罪を認め、謝罪をしていく姿勢が大切だと思います。
 これも前記月刊誌の中で小寺隆幸氏が「核への想像力―――原爆の図とチェルノブイリ」の中で紹介されていた教育学者の大田尭氏の言葉ですが、戦前の教育について「政府は読書算(よみかきざん)については高い水準を要求しながら、自然や社会についての学力水準、科学的な知識や態度の要求は、直ちに権力に抵抗する学力を大衆に与えることにもなるとして拒否した」と分析していました。今日の教育にも当てはまると思います。
 私たちは、疑う、批判する、不公平や不公正に気づいたらそのままにしない、という芽を小さいころから少しずつ、自分でも気づかぬくらい少しずつ潰されてきたように思います。でも、今からでも遅くはない、それに気づいた時から自分は同じ轍は踏むまいと、一人一人が芽を育てていくことから、同じ過ちを犯さない責任を果たすことが始まると思います。


C
いきなり極論かもしれませんが、私は「全ての関係者」に責任があると考えます。そして「全ての関係者」とは、今を生きる私も含みます。とても抽象的な考えですが、そう考える理由は全てのものが繋がっていると思うからです。
しかし、私がこう考えているからといって、決して昭和天皇や軍部、財閥、政治家、他国で戦争を遂行した人々などの責任から目をそらすつもりはありません。また、抵抗の甲斐なく戦争遂行の加害責任を負わされた朝鮮の強制連行=拉致被害者、アジアの人々、日本の人々がいたということも聞いています。
 自分が知ったことをみつめる。知ることを恐れず深く学ぶ。伝える。「昭和天皇に戦争責任があった」と発信するのは、権力が隠そうとする史実を知り、主権者である私たちが、これ以上だまされずに生きていくために象徴的で必要な気づきだと思うからです。
 「誰が悪い、彼が悪い」と言ってしまうことは、いくら事実であっても、その情報自体に嫌悪感を覚える人がいるとも思うのですが・・・皆様、いろいろ教えて下さいませ。


D(メール参加者)
Cさんは「私は『全ての関係者』に責任があると考えます。」と書かれていますが、「関係者」が定義されないと意味不明です。また、「責任」の内容もはっきりさせるべきです。

●帰責事由に基づく分類
  開戦責任:戦争を開始したことに関わる責任
  戦争遂行責任:戦争を遂行した過程に関わる責任
  終戦責任:戦争を終結したことに関わる責任
  敗戦責任:戦争に敗北したことに対する責任

●責任の相手方に基づく分類
国際責任:他国家、他国民に対する責任
国内責任:自国家、自国民に対する責任

●責任の内容に基づく分類
法律的責任:不法行為をなした場合に科せられる法律的制裁
政治的責任:権力の行使によって生み出された結果に対する政治行為者の責任
道義的責任:上述の責任を免れたとしても自己の 良心において負担する内的な責任

など、「責任」も多様です。


E(メール参加者)
第一に昭和天皇に責任があると思います。今の象徴天皇ではなく、最も権限のある存在(国家権力)としての、立憲君主政治下の天皇の存在では、責任があった事は到底否めません。東条らに煽られ慎重な決断を期せずして、最後の最後には往生際が悪かったです。東条に唆され、その気にさせられた挙句に悲惨な死を遂げた国民達の命を失わせ、早い英断で終結させる努力もしなかった天皇の戦争責任は、権限の巨大さに正比例して大きいと言わざるを得ません。
 また、東条は天皇に忠誠を尽くしたばかりに、気に入られたいからこそ、戦いで英雄的名誉を独占したいという名誉欲に支配され、天皇を唆したと考察出来ますので、2人もしくはそれ以上の複数の相互作用で、重き犯罪を犯したと言えるのではないでしょうか。
近衛文麿らの政治家については、軍部の独走状態があった事は歴史資料で知っているつもりですので、やはり東条英機ら旧日本軍司令部の、実権を握った輩の暴走こそは、国家的な犯罪と糾弾すべき重罪でしょう。
 また新聞など当時のマスコミが扇動を導き、今の「あるある大事件」(「発掘 あるある大辞典」でのオーバーな報道から起きた事を私はこう呼んでいます)のような洗脳行為を一貫して行った罪は大変重いです。
 「学校・国民」については…この中には、非国民と言われても抗した方もいらっしゃいます。しかしその一方で自分の息子さえ「行ってらっしゃい」と背中を押した罪深い親達がいて、十把一絡げには出来ないと思います。しかし隣組ですとか、あの当時の密告が非常に仲間割れを起こしたり、スパイ的な行為が特高にはすぐれた情報源となり、声高に「死なないで帰って来るんだよ。」という言葉さえ言えなかったと言います。そういう雰囲気を醸していた世論をいうと「国民に戦争責任あり」となります。
 大勢で特高に対しても「息子を連れて行かないで」と口を揃えていったら、大勢を全て縛り上げて連れて行ったのでしょうか。みんなでかかれば良かったのに、この時に仲間割れというか、みんなの力を合わせられなかった点が、非常に大きな痛手だったと思います。
 ですから、これは余談ではありますが、戦時下になって手を繋ごうとしても関係性がなければ出来ません。ある意味,今も取締りが厳しくなって戦時下と同様ですが、今からでも遅くはない筈です。手を繋ぎ、市民がいつでも結束を固く、「NO!」と言える勇気を皆すべて100%の人々が持つ事が肝要です。
 話を戻しまとめますと、責任の重い順に、@昭和天皇、A東条英機など軍部、D新聞などのマスコミ、とE学校(教員)G国民の一部、といったところでしょうか。

増田より
 前記しましたように、明治憲法は「見せ掛けの立憲君主制(外見的立憲制)」であって、明治憲法下の昭和天皇は憲法によって権力の行使を制限される本来の「立憲君主」ではありませんでした。もともと軍隊の統帥権は輔弼者を介在しない天皇の大権でしたし・・・「立憲君主政治下の天皇の存在」を歴史事実として肯定しますと、それ「『では、責任が』ない」、ということになります。
だからこそ、戦後、昭和天皇は常に「自分は立憲君主制を守ったから、内閣が一致して決めた開戦に心の中では反対だったけれども心ならずも同意せざるをえなかったのだ」と「憲法」についても事実に反することを主張し続け、責任逃れをしました。実際には、昭和天皇は明治憲法下では権力を制限される「立憲君主政治下の存在」ではなかったので、だからこそ、その戦争責任を問われるのですから「立憲君主・昭和天皇」という「歴史偽造」にはご注意ください。 
また、「B近衛文麿ら政治家」については日中戦争開戦時(1937年)においては、ソ連に備えて戦争を拡大せず停戦にしたかった陸軍に対して、戦争拡大積極派だった事実をどう見ますか? 実際に本当に軍部の暴走を止めようと思えば、政治家はそれをできる権限を持っていました。なぜなら、軍部が行動するための金、武器を買うための金の支出は帝国議会の決定(税金ですので)に基づかなければならなかったからです。


F
●天皇の戦争責任について
 史料をして語らせる増田先生の授業を通して、昭和天皇が戦争に関する決定に終始積極的に関与しており、形式的な裁可を与えるだけの立憲君主ではなかったこと、終戦に際しては何をおいてもおのれの保身工作に余念がなかったことを知りました。
 また映画「日本鬼子(リーベンクイズ)」(松井稔監督)を再見したのですが、日中戦争の軌跡に重ねるように元皇軍兵士が自らの加害行為を告白していて、「おかみ」の決定が、庶民の命を左右し人生を翻弄する「因果関係」を、まざまざと実感させられました。上流に降った雨が必ず下流に達するごとくに、彼らが決めたからこそ、下々に殺し殺されるあまたの人々が出現したのだと・・・無残に殺された人々はもちろんですが、殺した側も人生を捻じ曲げられてしまったことに変わりはありません。自らの罪を語り続けることこそ贖罪と思い定めて、強姦の事実までもあえて語る老人の姿を見ながら、決して自らの手を汚さぬ人々の大罪を強く感じました。
 よって戦争責任は何よりも先ず決定権者、権力者に帰すべきだと思います。軍部と内閣首脳部、そして国家元首にして統帥権保持者でかつ統治権総覧者たる天皇こそ最大の戦争責任者でしょう。軍部に仕切られていた政治家も無能の責任をとっていただきたい。日本人としてアジア諸民族に対しては等しく加害者であっても、させた者とさせられた者の責任を同列に論じられる筈がありません。「一億総懺悔=日本人みんなに責任がある」だなんて盗人猛々しいにもほどがあると言わざるを得ないのです。

●天皇免罪が残した禍根
 それにつけても占領政策のご都合で天皇の罪が不問に付されたことが、返す返すも残念です。もしも天皇が断罪されていたら人々のショックも大きかったと思いますが、その分覚醒のチャンスがあったのではないでしょうか。逆に「現人神から平和を愛する人間天皇へ」と新たなフィクションの中に天皇制が生き延びたことで、今日に続く禍根が残ったような気がします。
そもそも「国の象徴であり国民統合の象徴」と言われたって、何のことかさっぱりわからない。象徴ってなに? 統合の象徴って? なぜひとりの人間が象徴になれるの? わからないくせにわかったふりをしたそのときから、私たちの思想的退廃が始まっているような気がしてなりません。脳みその底に澱のようにひっそりと淀んで、何かにつけて「議論なんて今さら野暮」と私たちに囁きかけるもの、それが象徴天皇制ではないかという気がするのです。国体明徴論がばっこした時代よりましだけどそれも程度問題で、天皇制の議論がタブーのこの社会って、やっぱりどこか変・・・人は死に国は焦土と化したのに、妙なものが生き延びてしまったと思います。

●庶民が知るべき支配層の戦争理由
 ところで史料をして語らせる増田先生の授業で、まだよくわからなかったことがふたつ。ひとつは権力者はなぜこんなにも戦争をしたがるのかという事で、ひとつは庶民の本音。いずれもいわゆる史料としては残りにくく、歴史の範疇からはみ出すことかもしれませんが、生き残りをかけて過去を学ぶものとしてはぜひとも知りたいところです。
 その意味で、戦争で一番儲けてきた天皇家や財閥たちの欲望のために戦争が続けられてきたというメイリングリストの投稿にはとても興味をそそられました。「戦争案内」という本をぜひ読んでみたいです。そうとなれば財閥や資本家こそが隠れた戦争責任者かもしれませんね。
明治維新もそうだけど、戦争、クーデター、革命、テロ、内紛等々の膨大な資金源はとかく歴史の空白域になっているような気がします(少なくとも私が読んだ数少ない歴史書では明確な言及がなかったです)。しかし金のために政治が動き金が政治を動かすのなら、裏金も含めてその金がどこの誰から出て誰がどうやって儲けたか、誰が国債を買いどこの金庫に流れたていったか等々は、極めて重要な歴史的事実のではないでしょうか。いえ歴史云々はさておき庶民が知るべき重要情報であることだけは確か。大義名分で飾られた戦争の真の理由がわかれば、そんなことで死ぬのも殺すのも真っ平と誰もが大声で言えるのだから。
 さらにまた広瀬隆さん流に公開資料から丹念に姻戚関係を辿れば天皇家、政治家、軍部、財閥という区分けすら意味がない渾然たる支配層の姿が、戦前戦後を貫いて浮上してくるのかもしれません。広瀬さんの仕事は歴史として公認されていないようですし、緻密すぎて読むのもしんどいですが、世界を読み解く重要な鍵を提供しているように思います。
9・11事件にも至極もっともなあまたの疑惑があるけれど、その真実を明かす史料が(あったとして)日の目を見る日がくるのかどうか。小説より奇なる魑魅魍魎の世界をリアルタイムに見せてもらっているのだと、とりあえずおもしろがってみるほかないのでしょうか。学んでもなお幾重にもわからないこの世界。この落ち着きの悪さに耐えつつ、これからも真実を捜し求めていきたいと思います。

●国民、そして私の戦争責任
 さて、しかし私は当時の国民にも騙された責任、嫌と言わなかった責任、命令を拒まなかった責任、時流に乗った責任、戦争指導者を自分たちの手で糾弾しなかった責任、「一億総懺悔」をしてしまった責任、戦争犯罪を黙して語らなかった責任、戦争を忘れようと努めてきた責任、アメリカに文句を言わなかった責任等々があると考えます。しかしこれは彼らを責めてすむことではなく、ふたたび同じ轍を踏まないためにはどうすればよいのか、社会制度や人間心理の洞察も含めた詳細な検討が必要だと思います。その責任が私たちにかかっています。時代に翻弄される受動的従属的存在から抜け出すために、及ばずながら責任は重大だぞ、と感じています。
 社会制度の面でいえば、当時の治安維持法や治安警察法、新聞紙条例や新聞紙法による思想言論弾圧と、教育勅語に基づく教育統制の実体をよく知り、危機感を研ぎ澄ますことが大事だと思います・・・公職選挙法、ビラ配布への弾圧、デモへの威嚇、増田先生の例に見るとおり、書くべきを決して書かないマスコミ、治安維持法に比すべき共謀罪もいまだ廃案されず進行する監視社会、憲法違反の自白強要と少なからぬ冤罪事件、教育基本法の改悪等々が進行する現状をかんがみれば・・・
ちなみにマスコミ、教師、いわゆる言論文化人等々の戦争責任も当然問われるべきだと思いますが、組織的制度的な締め付けの中で個々の抵抗がとても困難だったことは事実でしょう。それにつけても明治憲法の前から新聞紙条例を公布していた明治「新」政府の用意周到さに舌をまく思い。権力者って権力と金への執着度が庶民の想像を絶してて、そのための本気度も断然桁違いなんだなと思います(だからかなわないんだよね、こっちは生活しつつやってるのだから)。
 心理面からいえば、私たちは思っている以上に命令に逆らえないものだ、ということを自覚しておきたいと思うのです。先日のテレビ番組で俳優の小沢昭一さんが(『山宣』の映画にも出ていましたね)、「どうも、命令されるとつい従ってしまう性癖で、『話をしろ』との命令に逆らえず」…と枕をふっていたので、思わず笑いつつ「本当にそうだよなあ」と思ってしまいました。 
はっきりいって社会の縮図のようなPTAでは「考えるのが面倒だから決めてほしい、決まったらやる」という命令待望派が圧倒的多数ですし、「子どもにびしびし命令してくれ」と望んでいる親御さんも意外なほど多いです。そしてまた有名な心理実験も、被験者は正しい自分の答えを曲げても多数に合わせてしまうとか、被験者は命じられるままに危険な電流スイッチを押してしまうとかの結果を報告しており、受け入れ難いけどこれは事実として受け止めざるを得ないのでしょう。それだけに増田先生や「日の君、強制」職務命令違反者の行動が光るわけですが、それは同時に多数にとっては、どんな理不尽な命令であれ逆らうことの困難を証明してもいるわけですし。
 けれどもそのような人間認識にたつと、先の映画に出てきた14人の加害証言者の多くもまた、日本の軍隊という特殊社会の中で殺し犯し奪うことが最も称揚される出世の近道であり、その社会で馬鹿にされ排斥されることを何より恐れたからこそ、率先して役目を担ったことが見えてきます。彼らが違う時代に生きていれば、私たちと全く同じ平凡かつ善良な社会人であったことは、画面を見ていて疑いもなく納得できてしまう。私たちが家庭で学校で職場で期待される役割を果たすことと、彼らの行動原理とに質的な断絶があるとはとても思えないのです。従順とか周囲への同調とか出世欲とかの極めて日常的な感覚に支えられて、狂気の苛虐行為があったことに気づいたとき、底知れぬ人間の淵を覗いたような恐しさを覚えました。
 しかし、殺し犯し奪うことを拒んだことで仲間はずれにされ出世の道を閉ざされたとして、直ちに命に関わるわけではないはずですから、彼らの行動は、やはり過剰適応と非難されてしかるべきかもしれません(上官に嫌われて危険任務に回される心配なしとはしませんが)。でもそれなら全く同様に、国内の言論界において沈黙を守るどころか戦争翼賛に転じて過剰適応した人々も非難されるべきですね。そのような著作をものした著名人を調べていくとこれまた、どどんと落胆せざるを得ないのですが・・・「白樺派でついに戦争賛美を書かなかったのは柳宗悦と里見_」だけと鶴見俊輔さんがいい、「でも反対したわけじゃないのになあ」と思っていたけど、それだけで十分稀有なことだったのだな、と今にして思います。
 というわけで、誰しも我が身がかわいいけれど、そのために一線を踏み越えてしまう人と一歩手前で踏みとどまれる人と、その差はどこから生まれてくるのだろうか? あるいはまた概して人間は、なぜ、かくも従順であるのだろうか? 国民ひとりひとりの戦争責任を問うていけば、再びこんな難問に突き当たってしまう私です。でもこれからもやっぱりしつこく諦めずに考え続けていきたいなあ(文化的、社会的、歴史的な要因があるのだろうと睨んではいるのですが)。そして「人をあやめろ」と言われても、どうしてもできずに臆病者の汚名に甘んじてしまう人、すなわち内側に密かな憎しみや暴力性を蓄えない人々が世の中に増えていったら、そのとき世界が変わり始めるのではないかと希望を抱いています。 
でも、武器を握らされてぎりぎりのどん詰まりで決断するよりは、そんな状況に追い込まれないよう努力する方がずっとずっと楽なのだから、どんどん声を出していかないといけないですね。他人を狂気の淵に追いやることで利を産む者たちをしっかりと見据えながら。

●戦争犯罪を黙して語らなかった責任、戦争を忘れようと努めてきた責任に関する補足
 韓国民主化を経てソ連崩壊の年に初めて韓国「従軍慰安婦」補償問題が浮上し、これを皮切りにアジア各地の補償要求が続くわけですが、これは戦後のアジア各国が抱えた国家事情や国際情勢のために、時至らなければそれどころじゃなかったということでしょう。 
そしてこれを私たちの側からすれば、補償要求という形で事実を突きつけられて、初めて知ることになったわけです。およそ聞きたくもない不愉快な事実だからこそ否認や非難も噴き出すのですが、よ〜く落ち着いて考えてみたら、彼らが泣き寝入りをされなかったことに感謝すべきではないでしょうか。
 映画「日本鬼子」の証言者は中国帰還者連盟の方たちですが、中国の戦犯管理所において認罪の境地に達するまでに、実に数年に亘る苦しみの歳月を要したそうです。そのひとり元軍医の湯浅謙さんは「生体解剖をした軍医なんて本当にたくさんいるのに、帰ってきた者の誰一人としてそのことを語らない」と映画の中で語っています。また西野瑠美子さんが聞き書きをした元兵士の証言集に、「『元日本軍兵士で、従軍慰安婦を知らぬ者はいませんよ』、いくたび、この言葉を耳にしたことであろうか」と書いていますが、もちろん黙して語らぬ人こそ大多数であるわけです。同様に松代を初め国内各所に(例えばお隣柏市にも)朝鮮人慰安婦がいた形跡が濃厚であっても、周辺の人々が固く口を閉ざしているから事実がなかなか明るみに出せないでいます。
 このように見ていくと私たちの社会には、天皇の戦争責任以下語られないタブーがまだまだ潜んでいることになりそうです。それはまた自浄能力の低い社会ということにもつながるのではないでしょうか。もっともドイツでもナチスの子ども世代は親世代に対して語るも聞くも許されない分厚いタブーに包まれていたそうですし、そもそも戦争というものが、人を殺し国土を破壊しあまたの障害者と遺族を生むだけではまだ足りず、このような災厄まで残さずにおかないのだと思いますが・・・だからこそアジア民衆の告発がようやく私たちのタブーを破って、本当の意味での救済に私たちを導いてくれるのではないかと感じるものです。個であれ集団であれ、己が罪に頬かむりをしたまま、真に心の平安を得られるはずがないのですから。

●戦争指導者を自分たちの手で糾弾しなかった責任、一億総懺悔をしてしまった責任、アメリカに文句を言わなかった責任に関する補足
 そして他国の人に限らず自国民もまた国家の戦争の犠牲者なのだから、責任者を糾弾して遠慮なく補償要求をすればよかったのに、と私的には思います。たいへん非国民な発想ですが、戦費以上に戦後処理に異常な大金がかかれば、それが戦争抑止力にもなると思うので。まあたぶん国家にとってそんな都合の悪いことはできない国際規約なんかがあるのかもしれませんが、そういう意味でも被爆者認定訴訟はとても大事なことなのですね。
 それに対米英戦争に限っていえば侵略戦争というより帝国主義同士の覇権争いなのだし、あまりに非道な原爆投下や都市爆撃に対して「もっと文句を言えばよかったのにな」とも思います。これまた属国日本に不可能な話とはわかっているけど、だから未だにアメリカの反省が足りないのではないかと…。
そして現実に起きたことといえば一億総懺悔と国民国家一丸の経済復興、再びアジアへの経済侵略だったのだから、やっぱり根本的な反省がなさすぎたのではないでしょうか。物分りと物忘れの良すぎる国民って、少なからず問題なのかもしれませんね。

●時流に乗った責任に関する補足
 戦争で塗炭の苦しみをなめた人もいれば、一方で時流にのって甘い汁を吸った大物小物がいたことも事実(だから一億総懺悔はおかしいというのですが)。以下は戦争責任というにはあまりに些細だが、とげのように心にかかっているお話ですが、昨夏放映された「はだしのゲン」というテレビドラマで(今年もオリンピックの谷間に戦争特集が組まれたかちょっと心配)、町会長が小権力を笠に着てゲンの父親に嫌がらせのし放題をするので、つくづくこんなことを思ってしまいました。
こういうのって戦時下のこの国にそれこそ掃いて捨てるほどあった話だけど、戦時中威張りくさっていた輩が戦後のどさくさに石を投げられた、なんてことは決してなくて(ゲン兄弟は投げてたけれど!)、配給や闇市で相変わらず上手いことやったんだろうなあ。私たちは敗戦という未曾有の体験をしながら、ただこの程度のことさえきっちり清算することができなかった。それは大変残念というか勿体ないことだし、今も確実に尾を引いているよなあと。
 まあ目の前のことに精一杯で、それどころじゃなかったのはこの国もまたアジア諸国と同様だから、戦争責任を本気で考えるのはこれからが本番なのかもしれませんが。ええ、今さらじゃなくて、これからが…。私も日本人の美徳に反して嫌味なことをねちねちと書き連ねましたが、全ては今日に通じる私自身の問題だと感じていますし、このような課題を与えてくれた増田先生に心から感謝したいと思っています。
 なお「日本鬼子」の映画を二度目に見たのは千葉大学の構内で、教育学部の学生さんたちが行った「中国侵略反省旅行報告会」との同時上映でした。私は報告会には出られなかったのですが、上映後に急遽懇談会が開催されて参加者の真摯な話を聞くことができました。そのときにある学生さんが「国家賠償問題とは別に自分たち自身の責任をどう考えればよいのか」という発言をして、指導教授がすかさず「そのことを考えてみようよ」と問題提起されました。このときの体験が、私のささやかな思考の出発点になったことを付記したいと思います。
 戦争を知らない世代が被害証言や加害証言に耳を傾け、戦争の現場をこの目で見ながら、自らの責任を問う試みがすでに始まっているのですね。

増田より
 戦争の経済的側面については、どうしても時間がなくて説明が足りずに申し訳ありません。
ただ、私は「対米英戦争に限っていえば侵略戦争というより帝国主義同士の覇権争い」という見方をすることは、「アジア・太平洋戦争の性格」を見誤ることになると思います。これは俗に「日本、英米同罪論」と、いわれています。故橋本龍太郎氏は首相在任中、国会で「日中戦争は侵略戦争だったが、対米英戦争に限っていえば侵略戦争というより帝国主義同士の覇権争い」だったと言明したものです。
 しかし、帝国日本が中国への侵略戦争を貫徹するために、中国への支援連携を行っていた米軍太平洋艦隊の集結地だった真珠湾への攻撃と同時に、英米の植民地である東南アジアへの侵略を行ったところから対英米戦争が開始された、というのが歴史事実です。この事実を直視すれば、「対米英戦争に限っていえば」ということはいえないわけです。日本の対中侵略戦争と対英米戦争は切り離すことができないものです。これを勝手に切り離し「限っていえば」歴史事実に反する結果を招くことになってしまいます。
 もちろん、英米帝国主義国が「アジアにおける覇権」を失うことは容認できないことでしたが、1941年12月9日(前日が真珠湾攻撃)に蒋介石が国内各戦区指揮官に出した訓辞(江口圭一『日本人の戦争と日本人の戦争観』岩波ブックレットから)は、こういう同罪論が成り立たないことを如実に示しています。
「これよりわが国はまぎれなく世界共同の反侵略の戦争に参加するのであり、わが対日抗戦はすでに世界戦争と一体となり、全中国は今後、英、米、ソ連などの友邦と肩を並べて戦い、共同して侵略の暴力を打ち砕き、全文明を防衛する責任を負う」
 日独伊枢軸のファシズム同盟に対して、英米中ソは「世界共同の反侵略の戦争」である反ファッショ連合を形成し、カイロ宣言、ポツダム宣言と繋がって帝国日本を敗北させ、「日本の非軍事化、民主化」を日本の支配層に「押し付けて」きたたわけです。
 「東京大空襲」についても「原爆投下」についても、これは、帝国主義同士の戦争か否かにかかわりなく「非戦闘員の大量虐殺」という、当時にあっても明らかな戦時国際法違反でした。ですから、後者については敗戦前の帝国政府は痛烈な抗議をアメリカ政府に対して投げかけていました・・・「国体護持=天皇制護持」のために、「非道な東京大空襲、原爆投下」までに至るほどの「ポツダム宣言受諾=聖断の遅れ」があったことには頬被りして・・・
そうして、敗戦とともに「国体護持=天皇制護持」のために、昭和天皇以下、アメリカに擦り寄っていったのですから、アメリカの嫌がること=「非道な原爆投下や都市爆撃に対してもっと文句を言えば」ということは昭和天皇にも日本政府にも絶対に思い浮かばなかったことだったのです。
それどことろか、昭和天皇は「(原爆投下は)戦争中だったんだもの、しょうがないよ」と公言しました。自分が原爆投下に至らしめるほどに三種の神器の護持=天皇制護持に拘泥したために、ポツダム宣言受諾が遅延した結果なのに・・・また、東京大空襲で10万人もの、非道な日本国民大虐殺を指揮したカーチス・ルメイ少将に対して、日本政府は1964年「航空自衛隊の育成に貢献した」として勲一等旭日大綬章(当時は勲八等まで・・・つまり、最高の勲章)を与えています。
それから、新聞紙条例(しんぶんしじょうれい)は明治時代の日本において新聞を取り締まるためのものでしたが、1909年(明治42年)新聞紙法の成立により失効し、この新聞紙法が廃止になったのは戦後4年を経た1949年でした。