特別授業の感想 08/5/10 |
こんばんは。犯罪都教委&3悪都議と断固、闘う増田です! 昨日10日は「あびこ平和ネット主催の近現代史講座の『特別授業』柏戦跡巡りフィールドワークを行いました。担当の方が多様な資料をご用意くださり、たいへん分かりやすく説明してくれました。おかげで、「軍事都市」柏(現在も!?)が、よく理解できました。本当に『百聞は一見に如かず』! ということを、改めて実感いたしました。 「秋水」という言葉・・・というか、戦争末期に慌てて作ろうとしたロケット戦闘機というものがあった、ということは、なんとなく知ってはいたんですが、それの燃料庫を当時そのまま(剥き出しになっていたりしますが)目の前に見て、触って、ということをすると、本当に「戦争」というものが、ほんのほんの一端ながら、身近に実感できました。映画・ビデオで実写映像を見ることも大切ですが、やはり、フィールドワークは、とっても大切だ、と改めて思い至りました。 以下、とても全部はお伝えできませんが、白眉!? の部分を写真など添えまして報告させていただきます。 柏の発展!? は、1937年12月に飛行第5連隊、陸軍高射砲連隊が置かれ、翌年、陸軍飛行場ができて「帝都防衛」の重責を担ったところから始まっていたのでした。37年7月7日の盧溝橋事件から始まった日中全面戦争の年から、まさに、発展が始まったのです。1945年の市域人口は約3万人で、内、約1万人が軍関係、5千人が軍需工場関係で、要するに約半数が軍事関係だったのでした。私は我孫子市民ですが、不当免職されるまで、何しろ自宅と天王台駅と保育園とスーパーぐらいしか生活範囲がなく、まして隣の柏市は、ただ通勤電車で通過するだけ、という状況を30年続けましたので、柏市が「軍都」という存在だったこと、広大な陸軍の飛行場をはじめとして柏市立病院の前身が陸軍病院だったことなど、本当に今回、初めて知りました。 そして、この柏の軍事基地のための兵器工場として日立製作所柏工場、日本光学柏工場、東京機器柏工場があったこと、後2社も日立系列ですから、本当に日立の発展も軍需=侵略戦争あってこそだったのだ、と思い至りました。 そして前記「秋水」の燃料庫には圧倒されました。民家の一角や畑の下に何の説明板もなく、現在もそのまま残っているのです。高度1万mを飛ぶB29にはゼロ戦では太刀打ちできないため、敗戦間際にロケットエンジンの戦闘機を作ることが至上課題とされ、陸海軍が共同で過酸化水素水や他の劇薬を主原料とするロケット燃料として大急ぎで開発、1945年7月7日に初飛行、しかし、8月15日に敗戦となったため、実戦には使われなかったのです。「秋水」という命名は「日本刀の美称」から出たのか「秋の澄み切った水」ということなのかはハッキリしないようです。 写真は現在、確認できる6箇所の内の、2箇所のその燃料庫です。2枚は、実際はイラストのように上を土で覆って上空からは発見できないように地下壕にしてあったものが、土がなくなって、むき出しになったものを上から撮影したものと横から撮影したものです。上から見た写真で丸いのが2つ見えますが、これは、ガス抜きの穴をコンクリートでふさいだものです。もう一箇所、筒のようなものが斜めに土から出ている写真は、今も畑の下の地下壕になっており、畑(払い下げを受けた人の私有地)の上に「秋水』燃料庫の上のコンクリートで作ったガス抜き穴が、そのまま、突き出ているものです。畑の持ち主の方が、そのままにしておいてくださっているのです。「貴重な戦跡」として、ぜひ、柏市で整備してほしいですね。 この当時、県立東葛中学校に入学したばかりだった方(現在76歳)も参加しておられ、この近辺の陸軍柏飛行場の草刈りに動員されて作業中、グラマン戦闘機の機銃掃射を受け弾丸をよけるために必死でジグザグに走り、松林に駆け込んで命拾いをした話をしてくださいました。その時、超低空で飛行するグラマンの米軍兵士がタバコをくわえてニヤニヤしながら、この方を狙っているのが見え、憎悪が体中に満ち「今に見ていろ、鬼畜米英、今に撃ち落してやるからな」と敵愾心が高まった、ということででした。 この敗戦から現在63年を経ています。そして、本田さんは現在の「自衛隊・柏高射教育訓練場」前に連れて行ってくださいました。写真は、その入り口の看板ですが、特徴は「自衛隊」のものである、という表示が何もないのです。市街地からかなり離れた全く目立たない場所に目立たないながら、しっかりと自衛隊の「高射教育訓練」がここでなされているのです。いったい、どんな「高射」訓練? ここでトマホーク・ミサイル発射訓練をしていた証拠写真がインターネット上にありました。私たちが行った時は何もありませんでしたが・・・ 日本国憲法第九条とトマホーク・ミサイル(そして米軍基地には、たぶん核兵器)が共存する日本国!? 今さらながら、この目の眩むような懸隔に暗澹たる思いがしました。市民たちは、そんな実態について何も知らず、何も考えることなく、ともかくも「平和」のうちに生活しているのですけど・・・
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