第4回授業の感想 07/10/4

第4回「近現代史講座」のまとめと感想
さる9月22日(土)14〜17時、我孫子栄光教会にて行われた、あびこ平和ネット主催、増田都子先生の近現代史講座(4)「日露戦争と韓国併合」に参加しました。授業の感想と紙上討論の意見を送らせていただきます。


 まず、授業は年表を用いて、日清戦争のおさらいから、1910年の韓国併合を学びました。日本が武力で韓国の皇帝を脅迫して併合したという事実を初めて知りました。

 また、同年、1910年に日本国内で「大逆事件」が起こったことも改めて学びました。病の床で寝たきりの幸徳秋水が主犯として明治天皇を暗殺しようと企てた、として、逮捕され、死刑となった事件です。

 秋水の妻と数名が、爆弾を作って実験したことから、社会主義、無政府主義の秋水を反体制弾圧の一環として、死刑としたこの事件。共謀罪法案のことを思い出しました。もの言えぬ世の中になる前に、私はあらためて天皇制のことを議論したいです。

 また、この弾圧のねらいとして、朝鮮半島でも同じように弾圧されていた反日派と、日本国内の反体制派グループが結びつくのを、日本政府が恐れた、ということも聞きました。

 次に、日露戦争を学びましたが、特に印象に残ったのは、片山潜や内村鑑三、秋水、堺利彦、与謝野晶子など、戦争に反対した人々がいるということです。

 授業では与謝野の「君死にたもうなかれ」を交読しました。その中で印象的だったのは「すめらみことは、戦ひにおほみづからは出でまさね」という一節。天皇は自ら、戦いには出ない、という事実を指摘した文章です。

●ここで増田先生と皆さんに質問なのですが、日清戦争では戦争反対を唱えた人はいなかったのでしょうか?●

 この授業では、千葉県東葛地域の中学校で採用している歴史教科書(教育出版)を使っております。が、この教科書では日露戦争のまとめとして、次の一文があります。「日本がロシアに勝ったことは、アジアの民族に独立への希望をあたえました。」

 私は、増田先生の授業を受ける前ならば、「こういった歴史の見方もあるなぁ」というだけで、済ませてしまったでしょうが、授業を終えた今となっては、この記述では、中学校社会科学習指導要領「歴史的分野」の目標のいう「歴史的事象を多面的・多角的に考察し」にはならないと思います。

 それは、この授業で教科書以外に配られた資料に学んだからです。インドのネルー首相『父が子に語る世界歴史』(みすず書房)で、同首相は、1932年12月29日の日記で日本がロシアに勝ったことの感激を書いています。

 ここまでならば、上記教科書の記述でよいのですが、明くる日、12月30日の日記で同首相は、「侵略的帝国主義国のグループに」日本という「もう一国を付け加えたというにすぎなかった」「苦い結果」ということ、日本は朝鮮や満州を「大っぴらで漁りまわった」ことを語っています。中学校の歴史教科書は、このことを書いていません。

 松戸市の仲間たちが韓国平和ツアーで見学した、日本が建てた当時の西大門監獄。日本によるどれだけの拷問と虐殺があったかを、史実として物語るものですが、そうした加害の側面を、日本の人間は忘れてはならないと思います。

 歴史の授業だけでなく、歴史小説でも、市町村の平和事業、国のセレモニーの中でも、加害の歴史をも思い起こすことは、今後、他国の人々との平和を築く上で、特に重要です。

 他国を武力で屈伏させてきたという都合の悪いことは、書かず、教えず、教えた先生をクビにする都教委。そんなことを許してしまっていては、過ちは繰り返されるでしょう。
 イラク戦争「侵略」への協力は過ちの繰り返しであり、許しません。

 授業では、ほかに、司馬遼太郎『坂の上の雲』(文春文庫)が、「読み方注意」として紹介されました。「・・・ともかくも、この戦争は清国や朝鮮を領有しようとしておこしたものではなく、多分に受け身であった。」

 この書き方では、一面的ではないでしょうか?
私は司馬のこの小説を読んでいて、中国と朝鮮の人々のことは全くふれていないことに違和感を覚えます。確かに、旧日本軍人の視点を書いたものなので、そこに焦点を当てたのだろうとは思うのですが、やはり、加害と被害の両方の真実を丸ごと知る必要があると思います。

●では、第4回紙上討論の意見として。

 私は、日々の生活において、また、愛国心について物申すことにしろ、行政の歴史認識を正すにしろ、「反天皇制の闘い」にしろ、反パトリオットミサイル配備や反米軍基地の行動にしろ、やはり言葉の非暴力は一つの重要な原則になるのかと思っています。これは、辺野古で米軍基地建設阻止行動を続ける仲間から気付かされたことであり、
下記の本でも学んだことです。

 サティシュ・クマール『君あり、故に我あり』(講談社学術文庫)、2005年。関連した個所を抜粋させて頂きます。

「人が何かを話すとき、真実の一側面について語ることはできても、真実全体を語ることはできない。」「言葉は真実の一側面に近づくことくらいしかできない。」(51ページ)
「唯一の『真実』が存在するというより、『さまざまな真実』がある。」(52ページ)
「真実はつかみどころのないものです。私たちは自分の真実を他人に強制すべきではありません。この非強制の精神が非暴力であり、だからこそ非暴力は真実の前提条件なのです。」(53ページ)

「...すべての知識は部分的なものである...。それを悟れば、私たちは固定的な観念や意見に囚われない。原理主義から解放されるのだ。信念が複数あることを受け入れると同時に、信念から自由であることができる。」(55ページ)

 増田先生、皆さん、どう考えますか?

● 増田より
まず、「日清戦争では戦争反対を唱えた人はいなかったのでしょうか?」ですが、「いなかった」といわれています。本当はゼロではなかったかもしれませんが、歴史学者の調査でも記録上は、まったく残っていないようです。内村鑑三も「日清戦争のときは、政府が言った『朝鮮を、清への従属から断ち切り、独立させるための戦争である』という宣伝を信じて賛成したが、その後の経過を見ればそれは嘘だった。だから日露戦争には反対する」と自己批判を込めて述懐しています。

さて、サティシュ・クマール氏をインターネットで検索しますと、とても誠実な方のように思われますし、『君あり、故に我あり』(講談社学術文庫)を全文、読んでいないで、片言隻句からものを言うのは的外れになってしまうかもしれませんが、ご紹介いただいた部分は、私には、かなり、危険な感じがする主張のように思えます。こういう主張の場合、「価値相対主義」といわれるようですけど、「真実の隠蔽」のために、たいへん役立つ論理のように思えます。

私は、物事は常に具体的に考えていかなければ「真実」を見失う可能性が高くなると考えています。そこで、サティシュ・クマール氏の言葉に『具体』を当てはめて考えてみます。

A「人が何かを話すとき、真実の一側面について語ることはできても、真実全体を語ることはできない。」
@「人が何か(アメリカのイラク侵略戦争)を話すとき、真実(アメリカのイラク侵略戦争)の一側面について語ることはできても、真実(アメリカのイラク侵略戦争)全体を語ることはできない。」

A人が何か(日本のアジア侵略戦争)を話すとき、真実(日本のアジア侵略戦争)の一側面について語ることはできても、真実(日本のアジア侵略戦争)全体を語ることはできない。」

B「人が何か(日本軍慰安婦制度)を話すとき、真実(日本軍慰安婦制度)の一側面について語ることはできても、真実(日本軍慰安婦制度)全体を語ることはできない。」

C「人が何かを話すとき、真実(地動説)の一側面について語ることはできても、真実(地動説)全体を語ることはできない。」

B「唯一の『真実』が存在するというより、『さまざまな真実』がある。」
@「唯一の『真実』(アメリカのイラク侵略戦争)が存在するというより、『さまざまな真    実』(アメリカのイラク戦争は、対テロの正当な戦争だ)がある。」

A「唯一の『真実』(日本のアジア侵略戦争)が存在するというより、『さまざまな真実』(日本のアジアでの戦争は自存自衛・アジア解放の戦争だ)がある。」

B「唯一の『真実』(日本軍慰安婦制度は人道に反する性奴隷制度だ)が存在するというより、『さまざまな真実』(日本軍慰安婦は売春婦だ)がある。」

C「唯一の『真実』(地動説)が存在するというより、『さまざまな真実』(天動説も真実だ)がある。」

C「真実はつかみどころのないものです。」
@「真実(アメリカのイラク侵略戦争)はつかみどころのないものです。」
A「真実(日本のアジア侵略戦争)はつかみどころのないものです。」
B「真実(日本軍慰安婦制度)はつかみどころのないものです。」
C「真実(地動説)はつかみどころのないものです。」

◎いかがでしょうか? 「具体的」に考えていくと、この主張はおかしいのではないでしょうか? このA、B、Cの文言は、まさに「歴史偽造主義者」「歴史偽造『自由主義』史観論者」「つくる会」扶桑社歴史教科書が主張しているところなのです。現に都教委は、以下のように裁判所で主張したのですから。 

「(「日本はアジア侵略戦争をした」ということを「真実」とし、「自存自衛の戦争、アジア解放の戦争」と主張することは「真実」に反する「歴史偽造である」という)上記文言は、客観的に見れば、特定の歴史認識のみが絶対的に正しく、それと異なる 歴史認識は間違いであるとしてA都議およびB社を一方的に非難するものであって誹謗と評価できるものである」

そこで、サティシュ・クマール氏に対し恐れ多いのですが、以下のように正確に主張すべきであると、私は考えます。

「人が何かを話すとき、真実の一側面について語ることはでき、」「真実全体を語ることもでき」る。
しかし、常にそうできるとは限らない。
「唯一の『真実』が存在するという」分野があり、「『さまざまな真実』がある。」といえる分野がある。
「真実は」きちんと、つかめる分野もあり、「つかみどころのないものです。」といえる分野もあるのです。

◎つまり、さまざまな事実証拠・証言・・・「日本の戦争は侵略戦争だった」「『日本軍慰安婦』制度は人道に反する性奴隷制度だった」「沖縄集団自決は、日本軍による強制なしにはありえなかった」「地動説から考えなければ、さまざまな現象は解明できない」等々、検証・実証が可能で「唯一の『真実』が存在するという」分野は、ハッキリとある! のです。サティシュ・クマール氏は、これを認められないのでしょうか?

しかし、キリスト教の神、イスラム教の神、ジャイナ教の神、ヒンズー教の神、等々、「神」など宗教分野の問題は事実証拠・証言で検証・実証することは不可能です。その場合は、A,B,Cの文言は「適切」だと思います。

 ただ、以下の文言は常に「真実」であると私は賛意を表します!
「私たちは自分の真実を他人に強制すべきではありません。この非強制の精神が非暴力であり、だからこそ非暴力は真実の前提条件なのです。」


●AML上での意見を紹介します(貴重なご意見をありがとうございました)

●金信明と申します。高校の日本語の教員です。
与謝野晶子は、「君死にたまふことなかれ」で「反戦」「反天皇制」のように受け取られますが、後には好戦的な活動をしています。下記はWikipedia からの引用です。

この騒動のため晶子は「嫌戦の歌人」という印象が強いが、1910年(明治43年)に発生した第六潜水艇の沈没事故の際には、「海底の 水の明りにしたためし 永き別れの ますら男の文」等約十篇の歌を詠み、第一次世界大戦の折は『戦争』という詩のなかで、「いまは戦ふ時である 戦嫌ひのわたしさへ 今日此頃は気が昂る」と極めて励戦的な戦争賛美の歌を作っている。満州事変勃発以降は、戦時体制・翼賛体制が強化されたことを勘案しても、満州国成立を容認・擁護し、1942年(昭和17年)に発表した『白櫻集』で、以前の歌「君死にたまうことなかれ」とは正反対に、戦争を美化し、鼓舞する歌を作った。例えば、「強きかな 天を恐れず 地に恥ぢぬ 戦をすなる ますらたけをは」や、海軍大尉として出征する四男に対して詠んだ『君死にたまうことなかれ』とは正反対の意味となる「水軍の 大尉となりて わが四郎 み軍にゆく たけく戦へ」など。このようなことから、反戦家としての立場に一貫性がなかった、あるいは時勢により心情を変化させた転向者であると評する者もいる。

●豊田さま
 お書きになった文の一部引用
「また、同年、1910年に日本国内で「大逆事件」が起こったことも改めて学びました。 【病の床で寝たきりの】幸徳秋水が主犯として明治天皇を暗殺しようと企てた、として、逮捕され、死刑となった事件です。【秋水の妻と数名が、爆弾を作って実験したことから】……」

「 」内引用の部分は誤解されて伝えられたのか、資料の誤読かは判りませんが、事実と相違します。
 また共謀罪を想起されたとのご感想ですが、この幸徳秋水を含め24人への刑法73条<大逆罪>でのフレームアップの酷さは、消滅した天皇打倒の「計画」をテコに、その計画と無縁の20名近くにも拡大フレームアップし死刑判決としたことです。<恣意的に12名は無期懲役に減刑>。
 
 以下誤解されている点
 1 天皇を中心とした藩閥政府が「事件」をフレームアップした内容、また実際の幸徳の状況も【病の床で寝たきりの】ではありませんでした。
 1908年6月に赤旗事件<あかはたじけん>が起き、大杉栄、堺利彦、荒畑寒村が囚われた時点で幸徳は故郷の中村に病気療養のため滞在中。
 しかし弾圧の報を聞き、運動のたてなおしと、8月の裁判支援のため東京に戻ることを決意します。その途次に新宮に寄り大石誠之助らと会ったこと、さらに箱根にもより内山愚童と会ったことが「大逆」の謀議をしたとフレームアップされます。
 
 2 実際に爆弾を製造し試爆させたのは明科で機械工として働いていた宮下太吉だけです。
  別居していた【秋水の妻】は全く関与していません。
当時、千駄ヶ谷の平民社に同居していたのは管野須賀子や新村忠雄です。

 3 1910年1月1日に宮下太吉が平民社に滞在、幸徳秋水、管野須賀子、新村忠雄と空のブリキ缶容器を畳の上に投げつける行為をしたのは事実ですが、爆弾ではありません。
 <宮下は前年の11月3日に明科背後の大足山中で爆弾を試爆させますが、爆弾が製造されたのはこの件だけです。物証はなく宮下の供述だけです>

 管野須賀子、新村忠雄、宮下太吉、それに古河力作は「天皇の乗った馬車に爆弾を投げつける」という漠然とした思いはありましたが、計画化される以前にそれそぞれの抱えていた状況で計画が論議・深化されることなく、平民社も解体し「天皇打倒の意志」は中途に終わります。

 概略は下記サイトにアップしています。
http://members2.jcom.home.ne.jp/anarchism/koutoku-giken.html

 また天皇国家の恐ろしさはこじつけ家宅捜索で、「不敬」の記述を「摘発」、刑法74条の「不敬罪」で五年の実刑判決を下していることです。以下に直後の「不敬事件」をアップしています。
http://members2.jcom.home.ne.jp/anarchism/koutoku-fukeizai-dannatsu.html


●今後の日程

第5回は「日本の産業革命と近代文化」、10月20日(土)14〜17時、我孫子栄光教会にて
第6回は「第一次世界大戦と日本」、11月25日(日)14〜17時、湖北台近隣センターにて

増田都子先生の社会科授業 「近現代史の真実を知ろう」
全15回シリーズ(一ヶ月1回)

対 象:中高生〜大人まで
参加費:500円(中高生無料)
主 催:あびこ平和ネット