小田原・近現代史講座第2回授業の感想 08/12/11

08.11.2 小田原近現代史講座第2回

以下、第2回小田原近現代史講座の感想・意見を少々、ご紹介します。



●日本には、世界史でいう、いわゆる市民革命がなかったと言われるが、秩父困民党事件のような「革命軍」という自覚を持った秩父の農民の運動が、このようにつぶされたのは残念だったと思う。また、明治時代初期、開国して間もない時期なのに、フランス革命など世界の情報が、ずいぶん日本国内に入っていることに改めて驚いた。

 しかし、現代は情報過多のような状況で、社会状況が悪くなっても、なかなか市民運動=変革を求める運動が大きくならないのは残念だ。だが、それを抑える政府側の力が、見えない形で働いているのは、見える形で働いていた明治時代と同じなのだと思う。

●明治の岩倉欧米使節団が民主主義のフランスやアメリカではなく、軍国主義のドイツに注目したことは残念です。やはり武士の時代に生きた薩長の武士・公家の人たちは、ドイツとの共通点も多かったのでは!? このような人たちが新政府を作り、自由民権運動を暴力で潰すなど、平民の声を聞く気がなく、平民の目線で政策が作られたのではないことが、よく理解できました。

 今の日本政府も自分では何の苦労もしていない2・3代目が多い。私たち国民も目を覚ます時ではないかと思う。私たちは自由民権運動を今の時代に起こせるだろうか?

●秩父事件の終結場所の音楽寺に行ったことがあります。小高い丘の上のお寺で、当時の人々は、どんな気持ちでいたんだろうと考えたことがあります。歴史の中で、脈々と人々の働きがあって、今、この私たちの生活があるんだという視点を子どもたちに持ってもらいたいな、と思います。しかし、学生たちにはこんな余裕を持って学習していられない現実があるのが残念ですね。先生が、こういう授業をすれば、きっと歴史好きになってくれると思います。

 でも、教育委員会や石原慎太郎都知事や行政は、子どもたちが歴史を知り賢くなる、こういう動きがイヤなんだろうと思います。増田先生、がんばってください。

増田より
 ありがとうございます。音楽寺には、秩父事件の顕彰碑が建てられています。そこには「われら 暴徒と呼ばれ 暴徒と呼ばれることを拒否しない」と刻まれています。「恐れながら天朝様に敵対するから加勢しろ」と明確に天皇制政府に対する世直し革命であることを自覚していた秩父の人々に浴びせられた汚名は「暴徒」でした。

 そして、ご子孫の方たちは「暴徒・逆徒の一族」として長い間、迫害に耐えねばならなかったのです。「それを思えば私に対する迫害なんぞ!?」と私は、がんばれました。

●久しぶりに中学校の授業を、懐かしく思いながら受講させていただいた。江戸・明治の劇的変化の中の人々の様子をもっと知りたくなった。岡野知荘、琴田岩松などの若者たちは、その中でも案外よく、海外の状況をよく知っていたように思う。それはなぜなのか等も知りたくなった。

 とにかく、お忙しい中で、いろいろ資料等を用意していただき、ご熱心に講義していただき、ありがとうございました。

増田より
 こちらこそ、熱心に聴いていただき、授業をする甲斐があります! 本当に、現在のインターネット時代ならいざ知らず、明治初期の当時、テレビはもちろんラジオもない中で「岡野知荘、琴田岩松などの若者たちは、その中でも案外よく、海外の状況をよく知っていた」ことに驚かされますね。その知識も一夜漬けの付け焼刃のものでないことは、彼らの堂にいった演説から、よく分かります。

 それも、特に彼らだけではないのです。多摩の五日市の豪農の蔵から色川大吉先生が「五日市憲法案」を発見されたように、日本全国で欧米の市民革命の情報、歴史知識、「自由・平等・人権」についての情報を正確に手に入れていたのです。そして、私たちのように、それぞれが商売や農作業や寺子屋の先生などの仕事を済ませたあと、どこかに集まって学習会をしたのでしょうね! 当時の神奈川県の民権結社地図を右に紹介します。

 そして、その場合、元武士たちの漢文を基礎とした素養の深さ、思考の鍛錬、元武士たちだけでなく、寺子屋や生活の中で勤勉に学んでいた農民・商人たちの基礎的な知的訓練が、入ってきた欧米の新知識を砂が水を吸い込むように、どんどん吸収していったのでしょう。多摩の豪農民権運動家、細野喜代四郎が読んだ本の数々が中央公論の「日本の歴史 第21巻」(『近代国家の出発』色川大吉著)に以下のように載っていました。この細野は後に困民党を弾圧する側になってしまうんですけど・・・

 しかし、若者たち、やむにやまれず立ち上がった民衆を「暴徒・賊徒」として処刑したり、迫害していった明治政府の度量の無さが残念ですね。加波山事件で処刑された若者の最後を紹介しておきます。「保多駒吉はまだ27歳であった。彼は富松安松につづいてしずかに絞首台に登ってゆき、刑吏がまさに手をはなそうとしたとき、『しばらく待て』と制し

 時ならぬ時にさきにし桜花 散りてぞ花のいさおなるらん

と口吟しつつ、悠然と死んでいった」(「日本の歴史」第21巻)